本日の買物。
『なぜ国語を学ぶのか』は、先生と生徒との對話形式で展開される言語本質論。とても良い本です。
「日本と云ふ枠」を超える想像力は結構だが、日本人が「日本と云ふ枠」(便利な言葉だね)の中の事を想像もせずに、いきなり「日本と云ふ枠」を超えた世界の事を想像するのは、可能かどうか。
國際化は結構だが、その前に自分の國の事をしつかりしておかうよ、と云ふのが私の主張。
俺はクラブとかバーとかスナックとかカラオケ店とかいかがはしい店とか、その手のところが嫌ひだ。
平和主義者くらゐ、平和に少しでも疑問を抱く人間を憎む人間はゐない。或は、平和主義者は決して寛大である譯ではない。寧ろ、平和主義者は狹量である。
それでもあなたは平和主義を選びますか。それならあなたは、私の敵です。
即位前と即位後の明治天皇(睦仁親王)を比較してみましたが、誰が見ても、同一人物とは思えません、だから
ずばり言いましょう。なんと、明治天皇も「暗殺」されていたのです、と主張する竹下義朗を、「家督を繼ぐ前と繼ぐ後の織田信長を比較すれば、誰が見ても同一人物とは思へません」「ずばり言ひませう。織田信長は女だつたのです」と言つて揶揄つたところ、掲示板の副管理人(後、竹下から離反)に追出された事件。
私の敵は、こんなのばつかりだ。何とかして呉れ。
パロディは特に、この手の人々のお氣に召さないらしい。futakoto_mikoto_yokotoは殊に、Fankee_Jrを憎んだ。ひよつとして、Fankee_Jrの發案者はfmyだつたのか?
岡田先生のところの掲示板を見て苦笑。
「協会」は「退会したい」のでよろしくおねがひします>渡邊樣。
既に1年も、小説に手を着けてゐないし。
外相「これはワナね」パキスタン行きナゾの拒否 @ [Yomiuri On-Line/政治]
政府は25日、杉浦正健外務副大臣を特使としてパキスタンに派遣した。当初は、外相を特使に充てることが検討されていたが、外相は野上義二外務次官らから説明を受けると、「これは小泉、福田のワナね。私は行かない」と言い放ち、自らのパキスタン行きを拒否した。結局、杉浦氏が派遣されたが、外相がなぜ「ワナ」と思ったのかは不明だ。
外相は「闇黒日記」を讀んでゐる説。パキスタンに行けと云ふ羂。
部屋の何處かにあるものを探す時、檢索できればなあと思ひますよね。
[Ctrl] + [F]、例のあれ、[Enter]。
見つかりませんでした。。
iNTERNET magazineがリニューアル。何だか賣れなさうな感じになつてゐた。
プラナリア飼育シミュレーションゲーム JavaScript版
わかりやすい要約
。
以下,私が今日見てた関連サイト。
簡単に解説すると、園主こと蛸主アレクセイがホランド、ナイルズのHNを使い、気に入らない人物が現れると数人で(笑)次々と喧嘩をふっかけるという設定のようですというのが,アレクセイ氏関連事件のわかりやすい要約でした。
と云ふ事。
餘談だが、fankee_jrは、私(No_Z:Yahoo!掲示板現役當時)を誹謗する爲に使ひ捨てられたYahoo!掲示板の誰かのIDが由來。Yahoo!掲示板では、自發的に使ひ捨てられたIDは「空き」になるので、乘取る事が出來た。システムに削除されたIDは使用出來ない。
當初、fankee_jrは、「自分で自分を誹謗する自作自演キャラ」として設定したのだが、いつの間にか「氣に入らない人物だらうが氣に入つた人物だらうが、人の言ふ事を全て酒の效用と駄洒落で解説する」と云ふ、譯のわからない設定に變化してしまつた。何でそんな譯のわからない假想人格を設定したんだらう。我ながら意味不明。
それにしても、當時のfankee_jrの「活躍」を全て記録してゐる人はゐないかね。「傳説の一夜」を記録しておかなかつたのは、全くもつて大失敗。「日教組プラナリア説」なんてものの記録ならあるんだが。
Fankee_Jrは私の兄です。
私のPCを勝手に使つてYahoo!の掲示板に投稿してをりました。
なんて「設定」もあつたな。もつとも、これで話を終らせると「危険」な譯で。
「おとーとさん」によろしく。^^;←「かのように」の精神
と云ふ反應がちやんとあつた事も書き添へておかう。さうしないと、いいやうに曲解されるからねえ。もちろん、曲解したがる人間は、きちんと説明されてゐても曲解するものだが。
「抱○パ○」で思い出したが、あの事件直後の週刊誌報道は、運び出された遺体の写真ばかりであった。目線付きで死亡確認前とはいえ、死者の写真をこれ見よがしに並べられて、思わず閉口した記憶がある。死体を写真で公開することに対しては、私でなくても嫌悪感を抱くはずだ。なのに、何時の間に日本の報道機関は、死体写真に対して無配慮かつ無神経となったのか。あるいは、日本の報道機関は何時からネクロフィリアになったのか。
そういえば、公立学校では教育と称して、日中戦争の時のシナ人の死体の写真を児童生徒に見せるそうだ。これでは、死体に嫌悪感を抱かぬ世代が出現しても、おかしくはないのかも。しかしそれは、我々日本人が持っていた死者に対する畏敬の念が、正義の名のもとに失われていることでもある。
「左翼の理論はグロテスク趣味を正當化する爲のものに過ぎないのではないか」と屡々思ふ。
小汚ければリアルだ、と云ふ思ひ込みから、日本人は好い加減、脱却すべきだ。美しければすべて良し。
誰か、HTMLで使へる文字に關する、わかりやすくて正確な解説記事を書いて呉れないか知らん。
アメリカが報復しなければ、イスラムは今後、絶對にテロをやらない、とは言へない。そして、再びイスラムがアメリカにテロを行へば、アメリカは「やられつぱなし」と云ふ事になる。
「やられつぱなし」で平氣でゐられる人間はゐない。
テロを、「平和に對する挑戰」と見るよりは、「自由主義に對する挑戰」と言ふ方が、説得力がある。アメリカの「自由主義に對する挑戰」と云ふ大義名分は、十分説得力のあるものである。
それがわからない日本人は、「自由主義の自覺が足らない」。
非常に單純な事實だが、國際法は國家の行動を止めるだけの力を持たない。國民よりも國家の方が強いから、國家が國民の行動を制限する法律を作り、實施する事は出來る。しかし、國家を從はせられる上位の存在は存在しないから、國際法で以て國家の行動を制限する事は出來ない。
アメリカの報復を、國際法違反だと云ふ理由で批判する事は出來ても、實際に止める事は出來ない。そして、アメリカに楯突けば、日本はあの大東亞戰爭の二の舞を演ずる事になる。
國家の間に仁義は存在しない。個人の間にすら無いものを、どうして國家に求め得るのか。
と言ふか、大東亞戰爭の敗戰の際に、ソ聯もアメリカも、條約や國際法を守らなかつたぢやないか。國と國とが結んだ條約も、國際法も、いざと云ふ時には全く當てにならない事を、日本人は身をもつて知つた筈ではなかったのかね。
そもそも、個人の道徳と、國家の政治とでは、根本的に原理が異る。政治の領域で、理性の働きを期待しても、屡々無駄になる。
渡邊利道実験中の9月28日〜29日の記事を讀んで。
Nisinoさん、いつもありがたうございます。
眞面目な話、アメリカはタリバンに報復するな、と主張してゐる連中は、タリバンの主張とか教へとかを詳しく知つてゐるのだらうか。
潰れた「紳士服のなんとか」の跡の建物が、何とそのままキリスト教の教會になつた。
どうやら、「手偏に建」もNECやIBMで独自に設定した「拡張文字」だつたやうです。
unicodeの文字セットに入つてゐますから本來、問題はない筈です。單に、Mac版のInternet Explorerの實裝が、この邊りの事には弱いと云ふだけです。
追記。
MacOSX 10.1 の MacIE 5.1.2
は弱くないさうです。
URN supported w3m - Ancient library
實行力のある人はどんどん實行する。
本日の買物。
『最近日本語事情』には「日本語は乱れているか」と云ふ章があつて、例によつて「言葉は亂れない、變るだけだ」と云ふ主張がされてゐる。
かつて、田中克彦氏は次のように述べたことがある「美しいことばは辞書の中にはない」読売、51年10月2日。
ちかごろはことばが乱れて言ったり書いたりする人は、それに先だって、『自分のものさしからは』とつけ加えてみるべきであって、決して社会や『美しい』日本語の名においてことばを糾弾してはならないわたし(稲垣)はこれを支持し、さらに金田一春彦氏が、「乱れ」を言う場合は検討が必要で、その際の姿勢について述べた次のくだり(前掲『新日本語論』)に賛意を表す。
この検討の差異の姿勢に問題があると思う。人はちょうど、数学の公式や定理のような整然とした体系をもつべきものと期待して、言語を見てはいないか。あるいは、言語というものは、時代とともに変化してはいけないという気持で、日本語に対してはいないか。私に言わせると、それは生きている言語の常態ではない。金田一氏の『新日本語論』に対して、前掲『死にかけた日本語』という本に反論のくだりがある。金田一氏が、
現代のこの状況がもし『乱れている』と言うのならば、日本語はこれまでいつの時代にも乱れていたことになると言うのを批判するのだが、「乱れ」を「泥棒」にたとえて、昔も泥棒はあった、従って現代日本の泥棒は問題とするに足りぬ、というのはおかしいと言う。この比喩を借りれば、「泥棒にも三分の利」、情状酌量すべき点も少なくないのだ。
……
「決して糾弾してはならない」と云ふ言ひ方をする田中氏の姿勢
に稲垣が疑問を覺えないのは異常。或は、田中の發言にも當然自分のものさしからは
と云ふ前置きを附加へるべきだらう。
また、言語に整然とした体系
のある事を否定する金田一氏も異常。金田一氏は何を研究してゐるのだらうか。金田一氏の研究する言語學とは、一體全體、何を研究する學問なのだらうか。
とにかく、「乱れ」だの「変だ」だのをきびしく言って、自由な言語活動が弱められるのはいいことだとは思えない。気がねをしながらものを言うのでは戦時中の昔に逆戻りである。
おそらく、もともと「乱れ」を口にした人びとは、昨今の言語状況に不満だという気持を「乱れている」というふうに言いあらわしたのだと思う。そしてそのこと自体は、人びとの言語意識をたかめるうえで、おおいに役立っていると思う。「乱れ」糾弾の効用は認めるのだが、それにしても、「乱れ」とはいささかきつい言い方ではないか。
ものを書いたり、人前でしゃべったりする人は、正しいことばや美しいことばの番人であることをやめて、自由な精神活動のために、まず言語的解放の側に立つべきであろうという田中克彦氏の提言を引用したい。言語論盛んにして自由な言語活動衰えるであってはならない。
言葉を不正確に用ゐる事が自由な言語活動
であるとは思はれない。逆に、より嚴密に、正確に言葉を使はうとする事で、人はより自由な言語活動
が出來る、と私は信ずる。山本五十六は、「一年くらゐなら暴れて見せます」と曖昧な言ひ方をして、「アメリカ相手に戰つても負ける」とはつきり言はなかつた。その爲に、大東亞戰爭ははじまつてしまつた。
「乱れ」とはいささかきつい言い方ではないか
と言ふ稲垣が、正しいことばや美しいことばの番人
なる田中のきつい言い方
を引用して平然としてゐるのは怪訝である。
そもそも、自由な言語活動
と言ふ稲垣が、どうして「『乱れ』と言ふな」と主張するのだらうか。或は「乱れと云ふ自由」をどうして稲垣は否定するのだらうか。田中が自分の發言に自分のものさしからは
と云ふ文言を絶對にくつ附けないやうに、稲垣も自分の發言に自分のものさしからは
と云ふ文言を絶對にくつ附けない。
自分の發言に規制を加へられるのを嫌がる人間は、却つて他人の發言を規制したがる。
そもそも、發言する時は自分のものさしからは
と云ふ文言をくつ附けろ、とは、事實上、気がねをしながらものを言
へ、と命じてゐるのに等しい。田中・稲垣らの主張は、要するに、「自分は氣兼ねなく發言をしたい」「自分の發言を批判する人間は問答無用で默らせたい」と云ふ事なのである。色々言葉を飾つてゐるが、結局のところ、反論封じの爲の反論封じでしかないのである。だから、自分の發言を、自分で裏切つて、彼等は平氣なのである。
しかし、幾ら「三分の利」があらうと、泥棒は取締られるべき存在だが。
- 1)活動目的
- 孤立しがちなオンライン作家同士の連絡をバックアップし、活発な意見交換などが行われやすくなるための環境作りなど、インターネットでの創作環境の発展に寄与するオンライン作家自身による民主的ネットワークを創出すること。
餘りに抽象的な文章なので、何をやりたい人の集りなのか、全然わからない。「スタッフ」が悉く、自分の「仕事」に不滿を覺えてゐる現状、「協会」の目的そのものから再檢討した方が良いのではないか。
「協会」から脱會した(受理されてゐないが)人間に言へた義理ではないのかも知れないが。
と言ふか、メールで脱會屆を送らなければ駄目ですか。
ぼくはきみにひざまづいたんぢゃない。人類のすべての苦惱の前にひざまづいたんだ
退屈日記から孫引き。
このやうな事を言へるのは、ラスコーリニコフがキリスト教の世界の人間だから。日本人はこのやうな臺詞を吐けない。日本人はキリスト教を信じてゐないからだ。
ノワール最終囘。キリスト教的な思想を日本人が扱ふと、どうしても不完全燃焼に終る。
反戰思想に狂つたアルテナが、戰爭をはじめとする人類の「惡」を根絶する爲、人を殺し捲る「惡魔」であるノワールを育てようとしたが、そのノワールたるべき霧香を平和主義の國日本で成長させてしまつて大失敗、と云ふストーリーだつたやうな氣がしてならない。
「愛で人が殺せるならば、憎しみで人を救へるのではないか」なるパラドックスに衝き動かされたアルテナの悲劇と見られなくもない作品だが、さう云ふ觀點から「ノワール」を捉へるのは、劇中でアルテナが全然動いてゐないので無理がある。そもそも、このパラドックスを、制作スタッフは本氣にしてゐない。全篇を見ても、このパラドックスの印象は極めて薄い。
飽くまで「ノワール」と云ふ作品は、ミレイユ・ブーケと夕叢霧香を主人公にした日本人的な人情噺なのであり、その世界は本質的に浪花節の世界である。その意味では、良く出來てはゐるが、それだけのエンタテインメント作品でしかない。アルテナも、哀れなクロエも、「ノワール」と云ふ作品では所詮おまけの存在なのであり、その死も、單にストーリーの都合によるものに過ぎない。
「ノワール」は、映像表現の規制をしても、思想の規制までは出來ない、と云ふ事を世に知らしめるアニメとしては、確かに完成度の高い作品ではあつた。一方で、「ノワール」は、「エヴァ」や「ウテナ」のやうな、思想の皮を被つたエンタテインメントである。「エンタテインメントたるべし」と云ふアニメのテーゼの制約からは、「ノワール」も逃れられなかつた。その點が個人的に殘念である。
報復しないのが真の勇気 - 音楽家・坂本龍一。同感です。
同様のテロ攻撃が日本にも及ぶ可能性が増すことになった……こう言っている人の中には、ひょっとしたら「日本はアメリカに協力しないで、アメリカに勝手にやらせるべきだ」と考えている人もいるのかもしれません。しかしほとんどの人はそうではなく、「アメリカの報復に協力した全ての国とアメリカ自身がテロを受ける可能性が増す」と考えていて、「だから報復自体するべきでない」と考えているのです。日本だけ助かれば良いと考えているのではありません。これが理解できない人がいるようです。山本弘の言葉を借りれば、想像力が「日本」という枠を超えることが出来ないからなのでしょう。自分が「日本」という視点でしか考えていないから、他人もその視点で考えているのだろうと思い込むのではないでしょうか。
「人間」という視点で物を考え、日本人もアフガンの人も同じ「人間」であるという考え方に根ざした発言は、その視点を理解できていない人には「矛盾」しているように見えてしまう。そういうことはあると思います。「日本」ではない「人間」という視点は多くの人には理解できるでしょうし、理解して欲しいところです。
いかなる思想であっても押し付ける気はないので、共感して欲しいとまでは言いませんが、理解はして欲しいし、理解せずに批判することは避けて欲しい。そう思いました。
「日本」という枠を超えた想像力が必要だ、と主張するのですか。自分の發言を
文字通りの意味で受取れ、と言つた人間が、なぜに
「日本」という枠を超えた想像力なるものを推奬するのでせうか。
「人間」という視点で物を考えてゐません。あなたは所詮、日本人の視點でものを見てゐます。
結局、「彼らも自分と同じ人間なのだ」と考えられるかどうかが分かれ目なのだと思います。とばけらさんは言つてゐますが、
同じ人間であつても、屬する文化が異れば、異る價値觀を持ちます。ばけらさんは、物理的な領域の想像力は御持ちのやうですが、精神的な領域の想像力は全然御持ちでないやうです。或は、他人は自分と異る考へ方をするに決つてゐます。それをばけらさんは認めようとしません。
理解出來ない事を言つておいて、私の言ふ事を理解出來ないあなたが惡いのです、と決めつけるのは、いかがなものかと思はれます。
ばけらさんは、日本人が日本の事を優先的に考へず、「日本という枠」を超えたものの考へ方をとにかくすべきである、と主張してゐますね。してゐませんか? ゐますよね? 或は、日本だけ助かれば良いと考えているのではありません
、と云ふ曖昧な言ひ方をして、ばけらさんはごまかしてゐます。もつと嚴密な言ひ方をして下さい。曖昧な言ひ方でごまかさうとしておいて、何で正しく理解しないんだ、と苦情を言ふのは、身勝手です。そして、曖昧な言ひ方をしないで、嚴密に物事を考へれば、ばけらさん、あなたの主張が大嘘である事は明かなのですよ。
繰返し申し上げますが、ばけらさん、あなたの言葉に基いて考へると、結果として、日本も助かるんですよ。さうすると、當然、以下のやうな疑問が生ずるでせう。
アメリカの報復に協力した全ての国とアメリカ自身が助かる事が優先されるのか。
「どつちも助かるべきなのだ」とか言つた囘答をするのは、餘りに圖々し過ぎると思ひますね。どつちか、はつきりして下さい。もちろん、日本人ならば、日本以外の國よりも、日本を優先する筈ですね、さうすると、あなたは結局「日本が助かれば良い」と言つてゐるんです。ごまかさうとしたつて、欺されやしません。
いいですか、文字通りの意味
でばけらさんの言葉を受取る、と云ふのは無理なんです。文字通りの意味
が極めて曖昧なので、ばけらさんの言葉を讀者は必ず解釋しなければならないのです。必然的に要請される解釋を、文字通りの意味
で解釋せよ、なんて云ふ言葉で批判する事自體、無理があるのです。ばけらさんは、自己批判して下さい。
それにしても真の
××とは、他人の思想を否定するのに實に便利な言葉ですねえ。アメリカ人は、報復するのが眞の勇氣だと信じてゐますよ。坂本龍一さん、あなたの「勇氣」は所詮、和を以て尊しとなす日本人の「勇氣」でしかありません。
と言ふか、現代の日本人は、卑屈になる事を稱揚し過ぎる。謝罪とか屈伏とかは、堂々とするものでもないし、勇氣が必要であるものでもない。言葉を飾つてごまかすのは止せ。
暴力は暴力の連鎖しか生まない
、と坂本は言ふけれども、暴力は連鎖によつて生れるのではありません。ジョージ・スタイナーが言ふやうに、暴力の本能は人間のうちに深く根ざしたものです。
暴力を抑壓すれば、退屈の問題がたいへん大きな問題とな
ります。日本人は「戰爭を抛棄した」事になつてゐますし、半世紀の間、事實として戰爭に參加してゐません。しかし、武器を持つて戰はない日本人は、政治家の惡口を言つたり、他人を中傷したりしてゐます。匿名掲示板では、極めて暴力的な日本人の意見が横行してゐます。
暴力は無くす事が出來る、と云ふ日本人の「信仰」は、迷信に過ぎません。或は、「人類の歴史は戰爭の歴史であつた」と云ふ事實に基いた現實主義を、「日本國憲法の精神」で否定出來る、と日本人が考へるのは、異常です。觀念論の迷妄から日本人は好い加減、脱却すべきです。
今になつて見ると、妙に示唆的。
例のやつ。
そこは竹本健治ファンサイト
の掲示板であつて、ご本人のサイトの掲示板ではありません。
スタイリッシュな慇懃無礼
、で有名なホランド氏が、ボクたちはネットを介して知り合い、今だ一面識もない間柄だけど、だからこそ飾りのない心の交流をしてきたと思っています。
と言つてゐる。
この「そのまんま」であることを「誠実」だとか「正直」だとか「まっすぐ」だとか思っておられるようですが、そういうことなら人間より昆虫の方が「誠実」で「正直」で「まっすぐ」だと思うんですが、いかがでしょうか?
と云ふ自分の言葉を、ホランドは、またもや都合良く、忘れてしまつたらしい。
かうまで「状況證據」が揃つてゐるのだが、田中幸一はアレクセイとホランドが別人だと、まだ言張るかね。もつとも、ホランドになつた時、田中は自分がアレクセイであつた時の記憶を本當に失つてゐるのかも知れないが。同じアレクセイの時にも記憶を無くしてゐるのだから、十分あり得る事だ。
惡いのはminiBBSの作者だと思ひます。
荷物が到着しました。ただいまより「無名戰士」くんの換装作業を開始します。
マザーボードを筐體に取附けたところで、メモリ(DDR SDRAM)が無いのに氣附く。一囘休み。
はじめまして。まだ荒らされていない掲示板を探してここまでたどり着きました。
…アメリカは迅速。「報復」を目的に速攻で動いている。
行動力は強い。それは確か。
けれど戦争でテロの根絶?それは不可能。
反感のあるところにテロリストは発生する。戦争で勝って武力による制圧をしても一時凌ぎにしかならない。押さえつけて服従させることはテロの潜伏・拡散を促す。大きな国が憎まれているかぎりテロは何度でも発生してくる。「報復」に「報復」では、共鳴現象で事が大きくなってしまう。
最初のテロからして「報復」の意味が含まれいるのに、そのまま反射の仕返しって災厄の増長になる。
だから今回は「時代が怒涛のように流れるからしょーがない」って諦めるらないことにした。
殺戮範囲が拡大すると、呼び名がテロではなく戦争になってしまう。
戦争は「国家」がやるからといって、何の疑いも抱かずにいられるはずはない。。
テロにつられて戦争。…被害の場が拡散して範囲が巨大化した。
「テロ」も「戦争」も呼び名が違っても、互いの掲げる「正義」がぶつかって、拒絶反応する現象でしかない。
「正義」とは何ぞや? その意味を曖昧なままふりかざしていないか?
より普遍的なホンモノの「正義の定義」。脳をフル回転させて考えて答えを組み立てる必要有り。
納得できない強制的流れには疑問を感じ続ける。
まだ荒らされていない掲示板を探して
をられたとの事ですが、このご挨拶は、「議論をしたい」のか、「荒したい」のか、曖昧なので、危險な感じがします。
反感は、寧ろ「副作用」です。副作用を誇張して、本來の效用すらも否定してしまつて良いものでせうか。
より普遍的なホンモノの「正義の定義」なるものは、ありません。本質的に正義は相對的なものであり、萬人に共通の正義なるものは、幾ら考へても、出て來ません。
アメリカ人の價値觀を否定し、「普遍的な價値觀」を確立しよう、と主張する日本人が常に忘れてゐるですが、日本人の言ふ「普遍的な價値觀」とは即ち日本人の價値觀に過ぎないのであります。日本人にとつて日本人の價値觀は「普遍的」なのかも知れませんが、アメリカ人にとつてそれは決して「普遍的」ではありません。アメリカ人にとつての「普遍的」な價値觀は、テロを自由に對する挑戰と見做し、自由を守る爲に戰ふ事は正しい行爲である、と云ふものであります。
價値觀の對立を否定するのは、不可能です。ならば、價値觀の衝突は不可避であり、その規模が巨大化すれば當然、戰爭に繋がります。そして、戰爭を否定する爲に、正義をも否定するのは、私は感心しません。正義は人間だけが持つものであり、正義を否定する事は、人間が人間である事を否定する事だからです。
PC「無名戰士」くんにIDEのHDD(60GB メルコ製品)を組込んでみたが、BIOSに認識されないは、Linuxを入れても起動しないは。
さつぱり譯がわからない。
アメリカ合衆国というのは進行中の自由に関する実験なのだ、と Tonya は私に言ったが、彼女の意見はまったく正しいと思う。私達の過去と現在の闘争は、南北戦争から妊娠中絶を受ける権利に関する議論まで、多くが自由という問題を巡ってのものだ。答えが簡単に出るものではないからだ。自由には危険が必ず伴い、そういった危険はいろいろな形でやってくるが、その後ろに潜む脅威はすべて自由を失うことなのだ。それが、そしてそれだけが、この実験を終了し、しかも最悪の終わり方での終了となるだろう。
アメリカ人の聲。
日本人は、アメリカ人が自由と云ふものをいかに大事に思つてゐるか、を知らない。アメリカは自由主義の國である。
ネットを震撼させたコンピュータ・ワーム、Nimdaを検証する @ [@IT]
皆が同じシステムを使ふから、ウイルスが大流行すると云ふ事。
Nimdaが恐ければ、IISなんかやめて、WARPを使へ。
米Excite@Home、米大手CATV会社からブロードバンドサービス契約を打ち切られる @ [INTERNET Watch]
J-COMは日本の@NetHomeを切らないかね。
米Excite@Homeがマーケティング子会社を閉鎖、ポータルサービスも縮小、なんて話にもなつてゐる事だし。
ブロードバンドにそんなにこだはりますか。
CNET Japan Tech News:CNET Japan発:ウェブTVが2002年3月末でサービスを終了、会社は清算
WebTVのブラウザによってサポートされているHTML要素も、今後は參照する必要がなくなる。或は、WebTV Viewerの日本語版は、結局リリースされませんでしたね。
ページアップ/ダウン 2001/09/27 - 01:45 @ [ねこめしにっき]
WindowsのInternet Explorerでも、Shift + SpaceでPageUpします。
Ctrl + ホイールマウスのホイール囘轉で「文字のサイズ」を變更出來る事は以前書きましたが、Shift + ホイールマウスのホイール囘轉で進んだり戻つたり出來るのに今氣附きました。
餘談ですが、PC/ATとPC-98では、スクロールの表現が異つてゐて、混亂を惹起こしたものです。
PC-98系のアプリケーションで、DOS/V向けに移植されたものが、この對應を勘違ひしてゐてゐて、使ふ氣をなくした事があります。
AptivaくんのHDDに埋もれてゐた「偽ペルソナウェア with "偽春菜" v3.2.24g.95-2000 phase 24 DLLtype.C」を起動してみた。(手もとにある最古の偽春菜)
何もかも懷かしい。
欲しいとか言はれても、あげられませんので。
と言ふか、「inverse」とか「うなぎ」とか、みんな消えちつた。
かつて某書で「基盤が鹽を吹いて壞れた」と書かれたGateway2000 4DX2-66/Vだが、私が初めて購入したPCがそれの同型機で、たしか1992年末にうちに來たのだが、今も我が家では現役である。這ふやうな速度でWindows95(OSR1)が動いてゐる。
オリジナルのHDD(340MB IDE)の容量が足らなくなつて、HDD(540MB IDE)を中古で購入して追加したのだが、これもいまだに動いてゐる。
殘念な事にこの牛くん、メモリを16MB以上認識して呉れない。
ちゆさんとこのPCも死んださうで。何なんですかね。
世間の人はテレビのバラエティ番組を樂しく觀る、と云ふ事實に氣附く。
「明は鎖國をしてをり、貿易をしたい國は朝貢をしなければならなかつた」と云ふ重大な事實が、日本史の授業ではなぜか教へられる事が無い。
これらの事柄の原因は全て、上記の事實で説明可能である。『アジア史概説』宮崎市定著・中公文庫
<a href="urn:isbn:4-16-350080-4">福田恆存語録 日本への遺言</a>
、みたいにリンクを張つても良いんですかね。仕様上は何等問題はないと思います。実装上は・・・。
ブラウザに實裝されてゐない仕樣に準據した記述をするのをためらふ人が多いのですが、私は寧ろ、進んでその手の記述を採用して、「こんな記述をしてゐるのを、誰も氣附かねえだらうな、ざま見やがれ、ギコハハハハ」とか思つて樂しんだりするので、全然問題ないのです。
「狂氣とは何か」を考へる場合、事前に「正氣とは何か」が定義されてゐなければならないのだが、現實に定義されてゐたためしがない。
本日の買物。
極端な見方をすれば、世界はもつぱら關係性だけからなるものであり、それ以外の何ものでもないと見ることが可能である。私たちは辭書といふものは意味が集積されたものだと思つてゐる。ところが辭書上では、單語の意味は他の單語との關聯においてのみ定義されてゐるのである。私は次のやうな考へ方が氣に入つた。ある情報は、事實上は、それがどんな情報とどのやうに關係してゐるのか、といふことによつてしか定義することはできない。意味には、それ以上の含意は事實上、ほとんどないのである。關係の構造がすべてである。私たちの腦の中には何十億といふニューロンがある。しかし、ニューロンとは何だらうか。細胞にすぎない。ニューロン同士がつながるまでは、腦に知識は生じない。私たちが知つてゐることのすべて、私たちが私たちであることのすべては、私たちのニューロンがどのやうにつながつてゐるかに由來するのである。
「後方支援」でアメリカが滿足するのか、と云ふ疑問を日本人が抱かないのは異常。
前線に行け、とは、命をかけろ、と云ふ事で、それを主張すると、「日本人を危險にさらしたいのか」と云ふ批判を日本人から受ける譯だが、一方で「安全な所から『支援』だなんて、圖々しい」とアメリカは思つてゐる。「後方支援」なんぞで日本は自己滿足する積りだが、そんなもの「支援」でも何でもない、としかアメリカは思はない。
どつちにしても、自衞隊にとつては、いい面の皮である。何をやつても、周圍から文句を言はれて報ひられないのが、自衞隊である。
私はこれだけの事を言つただけなのに、それが「電波」と批評されるのだから、世の中は面白い。或は、下らない。