Code Red對策。Microsoftのニューズレターより。
for WindowsNT 4
for Windows 2000
トレンドマイクロ
攻撃を受けてゐるWindowsMeユーザはどうしろと。
もじらぶらうざの不具合。アンカーをつついたあと、文書を讀込んでゐる最中に、またアンカーをつつくと落ちる。
@NetHomeのWWWサーヴァが鬼のやうに遲い。殺す。
CDドライヴやカセットテープドライヴ、MDドライヴを自由に追加・交換出來たり、ユーザインタフェイスを自由に變へられたり、筐體を自由に交換したり出來るラジカセ、ッて無いですかね。
そういうこと
なのです。
ほーむぺーじはリアルタイム更新が基本なのです。
インターネット紋切型辭典@PC Tipsのメンテナンスを敢行。JCOM@NetHomeのリソースは刈り込み捲りました。
この手の定義集は、定義をどれだけ短く出來るかが勝負。
「よらば大樹の三井」と云ふCMのあつた事をおぼえてゐる方はいらつしやいますか?
インターネットには、「道義的義務」を楯にとつて、「法的權利」を認めない人がゐるので困ります。
ホランドたんの文章を、ネタとして使はせていただきました。あんまり面白いもので。
もうすこしわかりやすい喩えをしておきます。岡本太郎が描こうと、東山魁偉が描こうと、ゴッホが描こうと、ピカソが描こうと、「リンゴ」はリンゴでしかありません。でも、その「リンゴをスイカに改変しなければ、そこに他人が手を加えても良い」のか、ということですね。無論ダメですよ、そんなの。
でも、こう書くと「文章と絵とは違う」と思う人もいるかも知れませんが、そんなことはないんです。文字だって、もともとは「絵」から始まってるんですから「姿(みてくれ)」は重要なんです。その意味で、木村さんのご意見は「意味偏重」と言うよりも、「言葉」や「文章」というものについての「全体観に欠ける」ところがあると思います。その意味で「手前味噌」であり「客観性に欠ける」と言えるのではないでしょうか? これはもちろん「論理的ではない」ということでもあります。
「CSSコミュニティ」の方々なら、當然「つつこみ」を入れられますね。
同感です(楽古堂さまの真似)。「理想」を言えば『内心の声』をそのまま「言語化」すれば良いんですよね。ただ問題は「言葉」は「対自的なもの」に止まらず、「対他的なもの」とならざるをえないという点でしょう。逆もまた真なりで、エスペラント語の問題なんかもそうだと思います。
『内心の声』をそのまま「言語化」するのがなぜ
理想なのか。
「対自的なもの」に止まらず、「対他的なもの」とならざるをえない言葉の
理想とは何か。
ホランドはこの邊り、良く考へないで、思ひつきでくつちやべつてゐるやうな氣がする。
即ち、1.の「理想」と、2.の理想とは異るのだが、同じ「理想」と云ふ言葉なので、ホランドは兩者を「雑(で、非本質的)な括り方」をし、「一緒くた」にして論じてゐるやうなのである。
HTML的なミスの修正をした。もしこちらでHTML的な修正を施した場合、「轉載」先でも當然それを受けて修正して貰へるものと期待。てにをはのミスを修正した場合も同樣。何しろ、それでより讀み易くなるのだから、「轉載」した文章を讀む讀者にとつてメリットが生ずるのだ。論旨の修正ではなく、拙い文章の修正ならば、公正を標榜する「轉載」者は、「道義的義務」に基いて、當然應ずべきであらう。でなければ、「道義的義務」なんて言ふな。笑ひ。
リダイレクトではありません。
Validate、ありがたうございます。
リダイレクト。
>ホランド。
俺の認識として、ホランドは「言論の自由」を否定する言論統制狂である、と云ふ事になつてゐる。もつとも、その點で俺はホランドを責めない。言論統制狂であるがゆゑに、自分の言論統制的な言動を恩着せがましく他人に強要するのにも、それ自體、俺は文句を附ける積りがない。
ただ、言論統制狂としてホランドは何の權力も持たない、と云ふ事實を私は責めてゐるのである。ホランドが日本國政府に所屬する檢閲官であり、俺たちの言論を取締る立場にあるのならば、ホランドが威張るのも當り前である。しかし、ホランドはただの個人であり、現實の言論を統制出來るだけの權力を持つてゐない。俺たちの發言にいちやもんをつける事しか出來ない。それなのに、ホランドが威張り腐つて平氣でゐるのはをかしい、と思ふのである。
支離滅裂な事を言つても許されるのは、眞正の氣狂ひか、言論に頼る必要のない實力者かだけである。頼れるものもないのに、何かに頼る事が出來ると考へて安心し、餘裕でゐられるのは、馬鹿か氣狂ひのみである。
悔しかつたら、我々の言論を批判するだけでなく、取締つてみよ>ホランド。それが出來ないからホランドは、「道義的義務」等と云ふ誰も見た事のない概念を持出して、我々を批判するのではないかね。「道義的義務」とは天狗の類か。
>ホランド。
以前不滿を述べた事のある、一部の人にとつてはお馴染み當家のマイコン制御式だめだめCDラジカセ(ビクター製)が昇天。よりによつてNOIRのサントラを銜へ込んだままドライヴがオープンしないと云ふ、殆ど嫌がらせではないかと思はれる最後つ屁的状態で死んだ爲、分解による強制排除を敢行。
と云ふ譯で、CDラジカセの買ひかへが急務となつたのだけれども、以下の條件に適合するラジカセのありやなしや。
1は、マルチタスクのラジカセ希望と云ふ事。こんな事も出來ないラジカセが賣られてゐたのには驚いた。2は、モータでCDの出し入れをやつて呉れるな、と云ふ事。電源の入つてゐないラジカセでCDの出し入れが出來ないのは不便だ、と云ふ事に、なぜメーカの人間は氣附かなかつたのだらう。3、4は單なる好み。ガミラス風・ジオン風の變にエルゴノミクス的なデザインは嫌ひ、と云ふ事。5は、とにかく重要。
餘談。私はトレイ式のCD-ROMドライヴが好きで、フロントローディング式の奴は嫌ひである。ボタンが押されるとうにょ〜っとCDの乘つた板が出てくるCD-ROMドライヴよりも、力任せに押込まれたボタンによつてCDトレイが排出される奴の方が、信用出來る。
地元方面 O氏,I氏と空戦に興じる。 今日は O氏が P-38 ライトニング,俺と I氏が零戦二十一型という変則的な機種選定でやってみることに。
「雙胴の惡魔」P38ライトニングをなめてはいけない。
山本五十六乘機を撃墜したのもP38。
13日夕、気象庁のホームページ(HP)のデータが納められたコンピューター(サーバー)が不正侵入を受け、HPが書き換えられた。……
同庁によると、午後4時12分にHPを見たという利用者からの指摘で異変に気づいた。書き換えられたHPには「CHINA EAGLE」などの英語とともに、中国語で、「小泉首相の靖国神社参拝に抗議する」などと書かれていた。
ホランドなら、靖國參拜を中國人に納得させられなかつた小泉總理に道義的責任がある、とか言ふんぢやないでせうか。そして、法的問題と道義的問題とは無關係、とか言つて威張るんぢやないでせうか。
世の中には、合理的に説明出來ない事が幾らでもあつて、それゆゑイデオロギーと云ふものが存在したり、戰爭が起こつたりするのだが、ホランドにはそれが我慢のならない事であるらしい。でなければ、「俺が納得出來ない事は、この世の眞實ではない」と大威張りできる譯がない。
しかし、「自分が納得出來ないのは、納得させられる説明をしなかつた相手が惡い」と言ふのは、單なる「開き直り」と言ふか「逆切れ」と言ふか、そのやうなものではないかね。理屈になつてゐないよ、それこそ合理的な理屈ではないよ。
「強制スタイル」した時、Internet Explorerのキャンバスの一番上にh1が出現しないサイトを、私は「CSSコミュニティ」の一員と認めたくない。
これはウチのことを言ってる気がしてならない(笑) 多くのブラウザで
position:fixed
を不満なく使える日が来るまでお待ちくだせぇ〜。…いつだよそれ。
「強制スタイル」した途端、いきなりてつぺんにh2が出現したり、それまで見出し然としてゐた文字がただのfontによる「大きな文字」になつてしまつたり、h2より上位の見出しであるべきタイトル畫像がh1で括られてゐないのが判明したりして残念な思いをいたすぢやねえがつかりする事がある、と云ふ話です。
「ナビゲーションバー」や「スローガン」その他の段落があつてh1、ならば全然問題ナシです。ありみかさんとこは「全然OK」です。
と言ふか、position:fixed;
は「強制スタイル」で殺されます。
また、フランスの偉い哲学者であるモンテーニュは、
すべての人間は、自分とやり方が違えば、これを野蛮人というと書いた。
ホランドに贈る言葉。
今日の名言。
むしろ、一方的に「初心者イジメが過ぎる」と断言することを全世界のインターネットユーザーに向けて主張することのほうが、ある意味、初心者イジメが過ぎるように思うのですが。
「正字正かなに表記を變更して引用するのは思ひ遣りがない」と斷言する事を全世界のインターネットユーザに向けて主張する事の方が、或意味、思ひ遣りがないやうに思ふのですよ。>ホランド。
ホランドには、この項目も忘れずにお持ち歸りいただきたい。
「月曜評論」平成13年8月號「大阪の目」で「けつねうろん」が困つた事を書いてゐる。
えらいことですわ。教科書でもめてまんなあ。
谷沢永一センセが眼むいて、『新しい歴史教科書』を絶版にせえと言うてはります。やっぱりえらい人の言うことはわてらアホと違いますわ。
前にもここで書きましたんやが、谷沢センセも細かいことごじやごじや言わんと、藤岡信勝センセと仲直りしなはれと、わて言いました。
せやのに、やっぱりケンカですわなあ。
松原正センセもこの『月曜評論』で西部邁センセにケンカ売ってますわなあ。
わてらアホですよって、そのときそのときで気が変ります。藤岡センセがワアーッと言いはると、そやなあと思い、谷沢センセがギャーッと言いはると、なるほどなあと思い、松原センセがこうじゃと言いはると、フーンと思い、西部センセがこうぞと言いはると、ウーンと思いますんや。どっちへでもフワフワ動きますわ。
えらいセンセらは言いまくって御本人はそれでよろしいわいな。せやけど、わてら無学なもんは困りますねん。あちゃこちゃ分れましたら、どっち行ってよろしいんやろ。
みなさんフライト、いや違た、プライドが高いですよって、簡単には頭下げませんわなあ。わてらすぐ頭下げますわ。そのついでに、地面のどこぞにゼニでも落ちとらんかいなと探しまっけどな。
おもろいことに、サョクのセンセイらは、おたがいさんケンカしてまへんなあ。みなさん同じ意見ですわ。
以下略。
かつて日本一のミニコミ紙
であつた「月曜評論」は、最近どんどんをかしくなつてゐるが、以前から一貫してをかしかつたのがこの「けつねうろん」氏。今囘も、「国士は仲ようしなはれ」と云ふ、ひよつとして鐵扇會の初心者・元氣だぞが書いてゐるのではないかとすら思はれる駄目な記事である。松原先生も、「身内」に足を掬はれるのだから、嫌になる事であらう。
無學が自慢の「けつねうろん」氏に教へて差上げるが、サョクのセンセイらは、おたがいさんケンカしてまへん
が、その時點の左翼の方針に少しでも逆らふ事を言つた瞬間に(或は暫く經つてから「別件」で)存在自體を消されるのである。
共産黨の歴史は除名の歴史である。かつてはソヴィエトの意嚮に逆らつた黨員が、後には宮本顕治の意嚮に逆らつた黨員が、冷や飯を食はされたり、黨を除名されたりしてゐる。かの中野重治も除名されたし、袴田里見も除名された。飽くまで、その時點での黨の方針に素直に從ひ、黨の方針が變ればそれに素直に從ふ黨員だけが、左翼の間では生延びられる。それゆゑに、左翼の意見は「統一」を保つて來たのである。
もちろんこれは「言論の自由」を認めない、全體主義である。月曜評論は編緝綱領に、月曜評論は自由の原點に立脚した編輯姿勢を貫く
、と云ふ文言と共に、月曜評論は左右の全體主義と戰ふ
、と云ふ文言を掲げる。左の全體主義を月曜評論は嚴しく指彈する。しかし、同時に月曜評論は、右の全體主義をも嚴しく指彈しなければならない。月曜評論の眞の敵は、左でもなければ右でもない、本質的に自由を否定する勢力である。
「けつねうろん」氏は、左の全體主義に對抗する爲に、右も全體主義を採用しろ、と主張してゐる。これはそもそも自由主義を掲げる月曜評論の趣旨に合はない。月曜評論の編集部は、自社の方針とは合はない筈の「けつねうろん」氏の文章を、なぜ掲載したのだらうか。「けつねうろん」氏とともに、月曜評論もプライドを捨てたか。しかし、右に擦寄つても、「大多数」の右は、寄らば大樹の蔭、「正論」と「諸君!」しか買はないぞ。
私は喧嘩を賣つてゐます。
こちらにも念の爲「轉載」しておく。
「闇黒日記」8月14日附けの項目として、ホランド批判を延々書き毆つたから、ホランドは勝手に持つて行き給へ。
ただし、當方の意圖を一切歪めてはならないので、當方の文章を正確に再現して貰ひたい。HTMLのソースレヴェルで私の意圖は表現されてゐるので、ホランドは「正しいHTML」の作法を學び、私の主張を全く歪めない形で、公正な形で「轉載」するやうに。もし萬が一、私の意圖を少しでも歪めるやうな事があつたならば、私はホランドの道義的責任を徹底的に追求するし、ホランドにも責任をとつて貰ふ。
言つておくが、私はHTMLに關しては「ISO-HTML信者」なので、それをホランドは尊重するやうに。もしこの點でホランドが私の意圖を完全に裏切るやうな眞似をしたら、その瞬間にホランドは「道義的責任」を追求されねばならなくなる。そんな事になつては殘念だから、呉々もホランドは、注意して、私の文章を「轉載」するやうにしてほしい。
そして、「正しいHTML」とは我が「CSSコミュニティ」のテーゼであり、少からぬ勢力の支持に基いた主張である事をお忘れなく。
「CSSコミュニティ」のテーゼを、ホランドが尊重するかしないかも大問題であるから、關係者一同はホランドの動靜に注目するやうに。ホランドがもし私の文書のマーク附けを改竄するやうな事があつたら、それはホランドが我々「CSSコミュニティ」に喧嘩を賣つた事と同義である。
上の文章は引用だが、マーク附けは地獄の箴言 掲示板ではなく、上の引用を基準とするので、ホランドには注意して貰ひたい。公正をもつて自認するホランドだから、私の文章を少しでも歪めることはないだらうと信ずる。もちろん、單にソースをコピーすれば良いと言ふ譯ではないのであつて、私は自分の文章が引用される際、適切な形式の文書の中に適切な形で置かれる事を望んでゐる。
とは言へ、ホランドは「大多数」を人質に、「不思議マークアップ」を施した謎文書を作り上げ、私の文章を當然の如く改竄するのではないか。それは「CSSコミュニティ」への挑戰である。
木村さまは
「新字新假名の文章を正字正假名に改める」事が、その逆の場合よりも、明らかに「不合理」で「讀みにくい」結果 を招いたり、その他の害惡を社會に及ぼしたりするとは、到底斷定出來ないからである。と説明なさっておられますが、「新字新假名の文章を正字正假名に改める」事が、その逆の場合よりも、明らかに「不合理」ではないとしても、「讀みにくい」結果 を招いたりするのは歴然たる「事実」なんです。その他の害惡を社會に及ぼしたりすると言えば大袈裟ですが(大袈裟に言うからこそ、該当しにくくなるわけですが)、「一般多数の日本人」にとって「傍迷惑」な「改変」であるというのは紛れもない事実です。泉下の中井英夫さんも迷惑でしょうが、ファンのボクはもっと迷惑に感じています。
もしこれが事實なら、中井英夫はホランド並に尻の穴の小さい小説家に過ぎなかつた、と云ふ事になるが、ホランドはさう言ひたいのだらうか。
蟹は自分の甲羅に合はせて穴を掘るさうである。
ホランドは、何處から何處までを持つて行くかね。
自分に都合の良いやうに切り取りはしないだらうね。
マークアップはどこまで「改竄」するだらうね。「闇黒日記」のマーク附けは、異常なまでに本質的だから、font要素だの何だので以つて好い加減にマーク附けされ直されたりしたら迷惑。しかも、blockquote要素のtitle屬性やspan要素のtitle屬性も重要な意味を持つてゐる。もし私の文章をここから持つて行きたいのなら、ブラウザで字面をなぞつてコピーアンドペーストなんてしてもらつては困る。ホランドは先づ、PC Tipsで「正しいマークアップ」を學んでから、ソースレヴェルで「轉載」して呉れ。さうでなければホランドの「轉載」は、私の意圖を完全に歪めたものとなり、「道義的に許されざる改變」になつてしまふ。
これはただの忠告です。笑ひ。
くだらないよと笑はれて 熱い思ひ口にしても
この世界の勝利 彼の夢の重さ
選ぶことは失くすことに似てゐる
負け惜しみだと笑はれて 言ひ返せずにうつむいた
この世界の正義 彼の胸の勇氣
流されて行くだけ
流されて行くだけ。
仕方ないさとあきらめて 頷くよりほかなくても
忘れないで どんな生き方になつても
ずつとあなたを支へた愚かさを
くだらないよと笑はれて 唇噛んでうつむいた
この世界の正義 胸の奧の勇氣
流されて行くけど
流されて行くけど。
篠原さんの辭の用ゐ方は天才的。
この世の正義が何だ、と篠原さんは呟く。「負け犬」にも「負け犬」の意地がある。
はやりの歌はいつも誰かの驅け引きで
運び込まれてくる夢たちを默つて選ぶばかり
交はす言葉もなく雨を見てる背中に
かける言葉はなく胸の鼓動數へてた
思ひ通りに行くことのはうがすくない
自分らしく行きて はやりの歌は指をさす
篠原さんは、戀する氣持ちさへも屆くことないものがある/自分らしくとか素直だとかそんな言葉はきれいなだけ
、と言つてのける。
屆かない戀心が僞物だと誰が言へるか。
篠原さんは、私が正字正かなに表記を改めてその詞を引用しても怒るまい、と私は言切る。
一日中ぼんやりとテレビばかりを眺めてた
世の中はあれこれと辻褄合はせのパレード
深い椅子の中から正義の味方が叫んでる
君の爲 君の爲 命さへも賭けるとわめいてる
正義の味方
は、ブラウン管の向かうにゐるだけではない、こちら側にもゐる。向かうで叫んでゐる正義の味方に、こちら側の正義の味方も唱和する。
「ジレンマ」が賣れなかつたのも、この日本國では當然の事だが、とても殘念。
ホランドは、答の出た處で、なぜ疑問を呈するのを停止するか。
もちろん、ホランドは答へようとしない。或は、答へてしまふ。
「答へようとしても答へられない疑問もこの世には存在する」と云ふ事を、ホランドは認めない。
斯る馬鹿を罵るのは、本當に嫌な事である。
自分の言つてゐる事を無反省に合理的で絶對的な眞實であると信じてゐる人間を説得する事は不可能だからである。
ホランドがこれらの事を、突詰めて考へた形跡はない。ホランドにとつて、疑問は解決されるべきものである。私にとつて、究極的な疑問の究極的な答は「解つてたまるか!」である。
人間は納得づくでこの世に生れてくる譯ではない、人は説得されてこの世に生れてくる譯ではない、と云ふ事を考へたら、「大多數が納得するやうな説得力のある説明」も糞もねえだらう、と思ふが如何。もちろんホランドはこれを鼻で嗤ふが、この問題を鼻で嗤ふ人間に、道義的と云ふ事を云々する資格はない。
「人はなぜ、なぜと云ふ事を考へるのか」。人は「なぜ」を問ふ存在である。中嶋敦の「悟淨歎異」「悟淨出世」を讀め。全くもつて、「解つてたまるか」と答へたくなる疑問許りがこの世には多い。
そして、そのやうな疑問を考へようとしない人が、やはりこの世には多い。多過ぎる。
◆ 野嵜健秀さま
さっきも『「凡人」であることを認めるのが、そんなにイヤですか? 』の中で書きましたが、
現行の法規で、「假名遣を變更した引用」を取締る事は全く不可能だと云ふ事は證明濟み。
なんて書いておられる段階で、貴方が反論に値しない人物であることは、もはや誰の目にも明らかでしょう。いったい貴方は、ボクの文章を読まれたんでしょうか? 読まれた上で、まだそんな「的外れ」なことを平気で書かれるのでしょうか?
根拠薄弱な「被害者意識」と、それに基づく頑な「思い込み」。そこから発せられる無根拠な「断言」・・・「正字正仮名」が、その使用者を「論理的にする」なんてのが、いかに「勘違い」の「思い込み」に過ぎないかが、ホントによくわかる実例だと思いますよ、貴方と木村さんは。
もちろん、ボクは「正字正仮名」主義者が、みんな、貴方がたレベルだとは思っていませんよ。「立派」で「賢明」で「沈着」な人もいるでしょう。ですが、そういう人たちが貴方がたの周囲にいないという可能性は、非常に高いと思います。だって、同じ「正字正仮名」主義者なら「それは違うよ。落ち着きなよ」って忠告してくれる人が一人くらいいても、おかしくはないですからね。・・・ああ、もしかすると、そういう「忠告」をうけながら、それを無視なさっているのかも知れませんね。それともお二人は、すでにお仲間からも見放されてしまっているのでしょうか?
ホランドの、この人を小馬鹿にし捲つた、失敬千萬なる文章。
これは、例によつて意譯すれば、「お前の文章は恥づかしいものなんだよ、さつさと泣きを入れてこい、俺は寛容な人物だから、土下座して謝れば、許してやつても良いよ、ギコハハハ」と云ふ事になる。
ホランドのボクの文章
とは、以下のやうな代物。
ボク
だなんて、馬鹿ぢやないかと思ふのだが、本人にとつては恥づかしくない言ひ方らしいので原文のママ。
全て單なるレッテル貼り。
ホランドの遣り口が端的にわかる一文。
ホランドには仲間がゐるのですかねえ。ゐるとしても、その仲間にホランドは全然止められてゐませんねえ。
この手の反論を許さない獨善的な人間のキーワード、もはや誰の目にも明らかでしょう。
、が現れてゐるのに注意。
- 誰が見ても
反論されると困る事を主張する際に用ゐる決り文句。
類義語:「自明」
「正字正かな」論争(4)には、ほとほとあきれる。野村雅昭と同じ事を言つてゐるのもをかしいが、その後の論理展開が循環論法に陷つてゐるのである。
以下は、電子掲示板「アレクセイの花園」における「『正字正假名』論爭」の延長であり、ホランドこと碧川蘭氏による私(木村)への批判に對する反論として書かれる文章である。碧川氏は言ふ。
一般的に「現實社會」で適用される「決まり事」や「義務」といふものは、所詮「人爲」的なものであり「絶體原理(神的原理)」ではありえないから、「例外」の存在は「自明の前提」なのです。(「アンチ・ヒロイズム」)
その通りである。そこまで解つてゐながら、なにゆゑ碧川氏が「新字新假名の文章を引用時に正字正假名に變更する事」をあつさり非常識と決めつけ得るのか、理解に苦しむ。表記變更は、「引用文を勝手に改變してはならない」と云ふ「決まり事」「義務」の「例外」である。從つて、決して非常識な行爲ではない。これから、そのゆゑんを説くとしよう。
そこまで解つてゐながら、なにゆゑ碧川氏が「新字新假名の文章を引用時に正字正假名に變更する事」をあつさり非常識と決めつけ得るのか・・・この問いに対するボクの端的な答えは「例外として承認できる程の、合理的な説明がなされていないから」というものです。引用にもあるとおり、例外の『存在』は自明の前提です。それは否定のしようもない「事実」です。だけど、それが「存在」するいう「事実」を認めることと、その「存在」の「質」を評価(し、時に否定批判)することとは、話が別です。ボクは表記變更は、「引用文を勝手に改變してはならない」と云ふ「決まり事」「義務」の「例外」である。という事実は(原則として)認めます(良き例外は認めるということ)。でも、木村さまがやった中井英夫の文章に対する「改変」は、その(例外の存在を認めるという)原則ですら適用されない逸脱例(つまり、悪しき例外)だと評価するんです。だから認められないんですよ。
ものごとに「例外」は付き物です。だからこそ、一般論と個別論を混同してはなりません。一般論(原則)としては認められることでも、個別 の事例では認められないような場合(例外)はいくらでも存在します。
木村さまの議論は、ご「自分の場合」の個別性をなんら顧慮することなく、妥当な「一般論」を展開することで、その一般論に該当しないご「自分の場合」まで、正当化できたように思っている、としか見えないんです。
木村さまがやった中井英夫の文章に対する「改変」がなぜ
その(例外の存在を認めるという)原則ですら適用されない逸脱例(つまり、悪しき例外)だと評価すべきものなのか、を、ホランドは、假名遣とは別の次元の理由から合理的に説明してゐない。
要するに木村さまがここでおっしゃりたいのは「大西巨人も、改変を正当な行為と認めている」ということです。「その点では、私(木村)と大西巨人は同意見だ」と。・・・でも、木村さま自身が
この方針が果して適切かどうかは、意見の分かれるところとか私は大西氏の「我流」に追隨はしないが、一つの見識であるとは思ふ。と書かれているとおり、大西巨人さんの「改変」と木村さまの「改変」では、その「意味」するところも「価値」も違うんですね。それを「改変」という点で(だけ)は同じだなんて「雑(で、非本質的)な括り方」で「一緒くた」にされても困るんです。考えても見て下さい。大西巨人さんの「改変」は、今現在の「一般 多数の読者」が「新字新かな」に馴染んでおり「その方が読みやすい」という「妥当な情勢判断」とその「メリット」に対する認識が正しく働いた上での「改変」です。ですから、大西巨人さんの「改変」は、木村さま風に言えば「いちいち断らなくても良い」ような、断らなくても「一般多数の読者」が納得するような「合理的な改変」なのです。しかし、それでも大西さんは、原文・原著者への配慮として、あるいは誤解を無くすためのより一層の努力として、毎回いちいち「注釈」をつけているのです。そして、・・・こういうのが、ボクの期待する原文や原著者にたいする「敬意」表明の実践であり、「敬意」の現れとしての「礼儀」の姿なのです。
そんな大西巨人さんの場合に比べて、木村さまの場合はどうだったでしょうか?
木村さまは原文が 「新字新かな」だった中井英夫さんの文章を引用するにあたり、「正字正かな」で書かれているご自分の文章に合わせて、何の注釈も付さずに「正字正かな」に「改変」しています。この(改変の)場合、「新字新かな」に馴染んでいる今現在の「一般多数の読者」に対しては、ただ「読みにくい」というデメリットこそあれ、これといったメリットは何もありません。
こう書くと、木村さまは「正字正かな」の効用を説かれることでしょうが、その効用が事実だとしても、「それを求めていない」一般 多数の読者には、それを「問答無用」の「注釈抜き」で「これで読め」とやられるのは「傍迷惑な押しつけ」以外の何物でもないんです。結局、もともと「新字新かな」で書かれていた中井英夫さんの文章を、わざわざ「正字正かな」に書き換えるというのは、一般多数の読者にとっての「有意義(有価値)」ではなく、「正字正かな」主義者にとっての「有意義(有価値)」でしかないんですね。
いくら栄養があったって食べたくないものは食べたくない。例えばピーマンに栄養があったとしても「味も嫌いだが、とにかく嫌いだ。あんなものを口に入れることなど、想像だにできない」と言ってる人(大人)に、ピーマンをそれと気づかれないように調理して、「親切心」で食べさせるようなものです。やっぱり、こういうやり方は「思いやり」とは言えないと思います。結局それは「親切な私」の「押しつけ」であり、「自己満足」に過ぎないんですよ。正しいことをやっていると言うのなら、「ピーマンを使っているけど、ぜったい美味しいはずだよ。だから食べて」と「注釈」付きで勧めるべきだと、ボクは思います。相手の立場に立てば、これは当たり前に納得できることなのではないでしょうか?
事實としての效用とは、事實が問題ではなく、效用が問題であり、結局のところ質の議論である。木村さんは、質の面から、正字正かなの是なる事を説いてゐる。しかし、木村さんの議論が質の議論であるのを、ホランドは故意に嘲笑して、無視する。その方がホランドにとつて都合が良いからだ、と言ふと、ホランドは「被害者意識の妄想」呼ばはりするのだが、ホランドには「加害者意識」がない。閑話休題。
なぜ現代の讀者に正字正かなが讀みにくくなつてしまつたのか、と云ふ事をホランドは故意に無視してゐるのである。それは獨斷であるが、ホランドは自分が「讀者の代表」であるかのやうに振舞ふ事でごまかしてゐる。或は、ホランドは、讀者が何を求めるべきか、と云ふ質の議論ではなく、現に何を求めてゐるか、と云ふ事實の議論に逃げてゐる。
ホランドは、話をすり替へ、自分に都合良く相手の意見をねぢ曲げて、そのねぢ曲げられた意見を否定して、勝つた氣になつてゐるのである。おまけに、勝誇つてゐる自分の本心を、親切心で糊塗し、他人のみならず、自分をも欺いてゐる。
栄養があると、ホランド氏も認めるのだらうか。
(大人)と註釋を附してゐるのではないか。そしてそれは虚僞なのではないか。
だから
私が新字新假名で書かれた文章を引用する時、正字正假名に改める理由も、大西氏とほぼ同じである。というのは、「ほとんど嘘」なんですよ。ほぼ同じという表現は正しくありません。「共通する側面も無いこともない」という程度のことをほぼ同じと言い換えるのは、「ほとんど嘘」だと言えるんです。そしてこれは「悪しきレトリック」というやつです。次に
日本語の文章は、正字正假名で表記する方が「合理的」であり、「讀みやすい」。という断言ですが、これも眉唾です。ボクも「正字正かな」については詳しくありませんから、園主さま(アレクセイ氏)同様に、『「正字正かな」は合理的』だという仮定に立って議論しましょう。……「正字正かな」は「合理的」です。でも、だからといって「読みやすい」とは言えない。なぜなら「読みやすさ」を保証するのは「合理性」よりもむしろ「慣れ」だからです。事実、ボクは「新字新かな」の方が明らかに「読みやすい」。この文を読んでいるあなた(読者諸兄)も、たぶんそうでしょう。つまり木村さまが、ここで言う「読みやすい」とは、現実の「一般多数の日本人」にとっての「読みやすい」ではなく、「もし日本語の表記に白紙状態の読者が、両方を同じように学んだとしたら」というような「仮定的状況下」での「読みやすい」なんです。そして、この 「正字正かな」の方が「読みやすい」というのは、「と仮定した場合」という条件付きだということを、木村さまは 知ってか知らずか(気づきながらか無自覚にか)「明記」していないんですよね。
園主さまも書いていましたが、国語表記の問題は「現実」問題なんです。「もしも神様が実在したら」とか「もしもあの時、おかしな改変が国家レベルでなされていなかったら」とか「もしも読み手が、日本語の表記について白紙状態であったならば」なんて言ったってダメなんですよ。たとえ 「正字正かな」が「合理的」だとしても、だから「読みやすい」とは言えない。それが現実なんです。現実の問題は「合理性」だけでは語れない。現実にはそこに「多くの条件」が絡んでくるんだということも、既に園主さまが書いておられたとおりなんです。なのに木村さまの議論は、いつまで経っても「手前味噌な仮定の状況」から離脱することができないんです。
木村さまが「正字正かな」を「個人的に使う理由」として
合理的なものには屡々美が具はるから、「美しい」と云ふのも理由の一つに擧げて良からう。というのならわかります。しかし「美」は「不合理な押しつけ」の根拠にはなりません。特定の「美」は、普遍的なものではないからです。つまり、「自己満足」ならしても良い。だけど「自己満足」だけで押しつけられても、他人(他者)は決して「満足(納得)」しないということです。
また、私には、引用部を含む文章全體を統一した國語論理體系で表記したいと云ふ思ひもある。という「気持ち」も理解できます。ですが、これも同様に「他人に強いる」根拠にはなりません。これも所詮は「自己満足」です。
「不思議マークアップ」のせゐで、強調なんだかなんなのだかさつぱり譯のわからない處を適當にemだのstrongだのに置換へてゐましたが、譯がわからないので恣意的に置換へてゐます。註釈を附けたからよろしいでせう? >ホランドたん
悪しきレトリックですねえ。自分で自分を否定してゐれば、世話はないや。呵々。
共通する側面すらもない。これは「話のすり替へ」と云ふ奴です。
悪しきレトリック。だが、もし假定の話がいけないのなら、ホランドは平和の話を出來ない筈だが。或は、現實を變革するいかなる類の主張も否定される筈だが。この文章をホランドが本気で言つてゐるのなら、ホランドは「全ての変革を否定せよ」「現状は絶對的に維持されねばならない」と既に主張してゐなければならない。だが、ホランドはそのやうな主張をしてゐる譯ではないし、
大多数が
納得する事によつて現實は變へられると信じてゐる。思考が不徹底なのである。
それでも正字正かなの方が、讀者は認識し易い。
ガリレオは「それでも地球は動いてゐる」と言つた、と云ふ傳説。皆が天動説で納得してゐる西歐で、地動説と云ふ主張はなかなか受容れられなかつたが、當時でも簡單な觀察で地動説の眞なる事は理解出來た。受容れられなかつたのは、信仰の力が強かつた爲。
しかし、正字正かなの方が合理的、と云ふ事を「假に」受容れるホランドが、合理主義よりも「現實主義」に基いて正字正かなを否定するのはどうしてだらう。ホランドは合理主義を信じないのだらうか。或は、現實の力でごり押し出來る事を見越して、ホランドは「假に」正字正かなが合理的である事を受容れたに過ぎないのではないか。すると、それは悪しきレトリック
と云ふ奴ではないか。
「不合理な押しつけ」の根拠と云ふ言ひ方をしたのだから。
混同してはなりません。現實論としては受容れられない事でも、理想論としては受容れねばならない事は存在する。そして、受容れねばならない理想を現實に適用しようとする處に、現實變革の第一歩がある。ホランドの「現實絶對論」は、突詰めればさう云ふ理想論の萌芽すらも摘み取れ、と命ずる筈のものである。
特定のものではなからう。その美は普遍のものであらう。そして、合理的であると云ふ事にも美は存在する。整然とした秩序は、絶對的な美である。それを強ひて
特定のと決め附けるとしたら、それは獨斷である。
他人に強いる事を本気で厭ふのならば、ホランドは表音主義者の「趣味の押附け」であつた國語國字改革を憎まなければならない。それとも、
大多数が受容れる「押附け」は
良い押附けだとでも言ふか。ホランドの價値判斷は出たら目である。
碧川氏に言はせれば、私が以上擧げたやうな理由は、「非常に『趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)』意見(理由説明)でしかない」と云ふ事にならう。・・・そのとおりですね。ですからこそ假にさうだとしても、私は、私自身による表記改變を、大西氏による表記改變と同等に、表現の自由の正當な行使と考へる。ようでは困るんです。ボクは大西巨人さんの「改変理由」を「非常に『趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)』意見(理由説明)でしかない」とは評価していませんから。前にも書きましたが「一緒くた」にされては困るんです。木村さまは
「新字新假名の文章を正字正假名に改める」事が、その逆の場合よりも、明らかに「不合理」で「讀みにくい」結果 を招いたり、その他の害惡を社會に及ぼしたりするとは、到底斷定出來ないからである。と説明なさっておられますが、「新字新假名の文章を正字正假名に改める」事が、その逆の場合よりも、明らかに「不合理」ではないとしても、「讀みにくい」結果 を招いたりするのは歴然たる「事実」なんです。その他の害惡を社會に及ぼしたりすると言えば大袈裟ですが(大袈裟に言うからこそ、該当しにくくなるわけですが)、「一般多数の日本人」にとって「傍迷惑」な「改変」であるというのは紛れもない事実です。泉下の中井英夫さんも迷惑でしょうが、ファンのボクはもっと迷惑に感じています。中井英夫の読者にとっては、そうした「改変」は「改悪」以外の何物でもなく、ファンでない人には「紛らわし」かったり「煩わし」かったりするだけです。なんども言うようですが、そうした「改変」に価値を見い出しているのは「正字正かな」主義者(の主観)だけです。それは木村さまも新字新假名に直す場合の方が、「讀みやすい」と感ずる人の數は多いだらう。と認めざるをえない事実なのです。そして、この事実に対する木村さまの抗弁はしかし、言ふ迄もなくなく表現の自由を認めるか認めないかは、「數の問題」では無いのである。という、またしても「法」による「権利」の話なのです。「言うまでもなく」ボクは「木村さまの改変の内容の道義的是非と問うているのであって、「木村さまの法的権利の有無」を問うているんではないんですね。表現の自由を認めるか認めないかは、「數の問題」では無いとしても、「道義的是非」の問題は、「多数決」という意味での『数の問題』ではなくても、「説得力」という意味での「数の問題」ではあるんです。「説得的な説明」ができない人が「私は数の論理には拠らない」なんてカッコをつけてもダメだってことは、木村さまにだってわかるはずです。でも、木村さまのおしゃられていることは、そういうことでしかないんですよ。
碧川氏(=ホランド:野嵜註)に言はせればと云ふ木村さんの仕掛けた羂に、實はホランド氏はひつかかつてゐるのである。
そのとおりですね、が、自分に向けられた矛先をかはす目的で發せられてゐるのは明かで、ホランドは
「非常に『趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)』意見(理由説明)でしかない」に力點を置いて話を進めてゐるが、木村さんの羂は
碧川氏に言はせればをホランドに認めさせる處にある。そして、これを認めたホランドは、自ら矛盾に足を踏み入れた事になる。自分の
評価を我々に強ひてゐるに過ぎない、と云ふ事を、ホランドは自ら認めてしまつた事になるからである。ホランドの
評価に、合理的な根據は存在しないのであつて、
「非常に『趣味的・主觀的な(好き嫌ひレベルの)』意見(理由説明)でしかない」のは、ホランド自身の
評価である。それをホランドは知らん顔して通り過ぎる。私が「自己批判せよ」と言つたゆゑんである。
歴然たる事実ではないのである。「現實的な慣れ」と「合理的な讀み易さ」とを
「一緒くた」にされては困るのである。
泉下の中井英夫さんを人質に取るな。或は、ホランドは中井氏の代理人か。ホランドは、中井氏の思つてゐる事がわかるのか。ホランドは「電波」か。慥かにさうかも知れないねえ。或は、自分がファンの代表であるかのやうな顔をするな。全てのファンがホランドと全く同じやうに思ふのかね。飽くまでホランド個人の意見に過ぎないものを、ファンの總意に見せかけるのは止して貰ひたい。
「讀みやすい」と書いてゐるのが羂なのであるが、註釋附きでないと何事も理解出來ない馬鹿正直なホランドは理解しないであらう。
大多数が
納得するかしないかと云ふ現實的な話と「一緒くた」にしたホランド自身が自己批判しなければならない。
説得的な説明を出來ないホランドが威張れる理由が私には全くわからないが。と云ふのは、私には「ホランドの言ふ
道義的と云ふ事」が理解出來ないからである。どうも、我々の用ゐてゐる道義的、或は、眞の意味での道義的と、ホランドの用ゐてゐる
道義的と云ふ言葉との間には、絶望的に深い淵があるやうなのである。
「引用時の表記變更」を實踐する(實踐した)プロの言論人は、大西巨人氏に限らない。・・・プロじゃないけど、ボクだって場合によってはそうでしょう。この場合の『場合によっては』とは「その改変に妥当性が認められる/場合によっては」という意味であり、「何でも認める」ということではありません。無論これは、ご自分の「改変」に「律儀」に「注釈」を付す、自他に「厳格な大西巨人」ならば、余計にそうでしょうね。
ホランドがその改変に妥当性が認められる
と言ふその妥当性
を絶對的に決定する合理的な根據が全く提示されてゐない、と云ふ事を私は(木村さんも)問題にしてゐるのである。大多数
が納得
してゐるかしてゐないかがその根據だ、とホランドは言ふが、それは数
に基いた相對的な根據でしかない。しかし、説得力
は数
が問題だ、とホランドは主張するばかりである。
ホランドに教へてやるが、「説得力がある」と「合理的で正しい」とは別物である。それを「雜(で、非本質的)な括り方」で「一緒くた」にされても困るんです
。「俺は納得出來ない」が大多數であるからと言つて、それだけでその「納得出來ない事」が僞である、と云ふ證明は完了しない。