解つてたまるか!



平成13年7月27日

部屋の大リストラ敢行中に、『トルストイとドストイェーフスキー』(メレシコフスキー)を讀み始める。


やはり、本棚の絶對量が足らない。

平成13年7月27日

野嵜さんは「道徳か政治か」という言い方をやめる、とのことで、そうなると少し意味合いが変わる。「善悪」は人間が決定することは出来ない絶対的な価値判断で、「正邪」は文脈によって人間がその場その場で捏造できる想定的な価値判断である、という話は、ではその「善悪」の基準は何処から来るのか? という疑問を導かずにおかないだろう。僕は単純な相対主義者ではない。むしろ人間は「この私」というかたちでしか存在できないし、「そう判断した」という事実の絶対性からはどうのようにあっても逃れられないと考える種類の絶対主義者である「善悪」の基準そのものはそれぞれの人間が負っている文脈によって違う。念のためにいっておくと個人個人においてその判断は絶対的な価値を持っているが、「世界全体」(事実の総体)に対して「絶対的」な価値は持ち得ないということである。個々の判断は、その人がそう判断し行為した限りにおいて「絶対」なのである。相対的であるのはその判断や行為の解釈のほうである。ある行為がどういう価値を持っているのかは「世界全体」にとっては相対的だろうが、個人にとってはそのときそう判断したというかぎりにおいて絶対的なものである。

  1. 言い方をやめる、とは申してをりません。
  2. 「善悪」の基準と渡邊さんはおつしやるけれども、それは正邪の基準でせう。相對的な正義に徹底して從ふのが善であり、相對的な不正に徹底して從ふのが惡であります。そして、それ以外は善でも惡でもないのですが、「善でも惡でもない事」は、道徳に於て、もつとも忌むべきものであります。
  3. 我思ふゆゑに我ありはデカルトの文句。そのデカルトを批判して、パスカルは、デカルトの説を徹底させると、神は不要になつてしまふ、と述べ、それは許し難い事だと言つてゐます。
  4. 道徳と徳目とは異ります。渡邊さんは、「善悪」の基準を論じてをられますが、それは徳目に他ならないのであつて、それと道徳は別なのであります。
  5. 個人個人においても、或價値は常に重要であり、或價値は常に他人事であります。道は近きにあり、と申しまして、道徳の問題は常に重要な問題であります。そして、何時いかなる場合にも、政治の問題は他人事に過ぎません。修身齊家は身近な問題で、道徳の問題であり、常に差迫つた問題であります。しかし、治國平天下は政治の問題で、他人事の問題であります。

たとえば子供の犯罪を密告すること、これは政治的にも道徳的にも正しい場合もあれば間違っている場合もある。政治においては「法」とは用法にこそ「価値」があるのであって、状況によって解釈を変えるのは当たり前である。絶対王政下で王の息子の軽犯罪を告発するのが政治的に好ましくないとされ無視されるのは「正しい」し、王の威厳を増すためにあえて処罰し「法を守る理性的な王」としての信頼をあてこむのも政治的に「正しい」だろう。道徳的には「親は子供を何があっても守る」という道徳が内面化していれば状況がどうあれ密告しないのが正しいし、「如何なる場合においても犯罪は告発されるべきである」という道徳律が内面化していれば密告するのが正しい。「道徳」と「政治」をあえて区分するとすれば、道徳においては判断の是非はその判断に基づいて行為した「結果」にはないが(いいかえれば「良心」に照らして恥じるかどうかが問題)、政治においては「結果」が悪ければ「間違い」となるということくらいだろう。わかりやすくいえば道徳は「前提」を重要視し政治は「結果」を求める、ということか。しかし、ある人が自分の子供が現実に犯罪を犯したときどう判断し振る舞ったか、という「事実」はそれをどう解釈したところで変えようがない。解釈であれば「いやそういうつもりではなかった」と釈明し弁論の達者な人間であればその価値を変えることもできるだろうが(変えることもできるというのは変えないこともできるという意味である。「道徳」あるいは宗教的戒律が「絶対的」にみえるのは「変えない」ということを選択するのが宗教の前提だからである)、やってしまったことの事実性だけは変えられない。僕が絶対だと思うのはその事実性だけである

  1. 親は子供を何があっても守るは飽くまで徳目です。

    徳目と道徳とは區別されるべきです。徳目を知りつつ、その徳目を選ぶ事は正であり、その徳目を敢て選ばないのは不正です。徳目を意識する事が道徳的と云ふ事であります。

    機械的に徳目に從ふ事は、道徳的ではありません。徳目に從はない事を何とも思はない事も、道徳的ではありません。いづれも、非人間的な事であり、非人間的である事は絶對的に惡です。

    しかし、徳目に從はない事を選びつつ、後悔し、煩悶する、或は、徳目に從へない事を悔やむ、と云ふのは、人間的な事であり、人間的である事は絶對的に善であります。

    もちろん、徳目に反する方が利益になると知りつつ、それでも敢て徳目に從ふ事を選ぶ行爲は、その躊躇と選擇的意思を根據に人間的であると言へるのであり、人間的である事は絶對的に善であります。

    「政治的判斷」が入り込まうと、徳目の威厳を認めてゐるのなら、その人は道徳的であると言へます。また、徳目に反すると云ふ(正義上の)「惡事」をなしても、その「惡事」を激しく後悔し、苦惱するのは、道徳的には惡ではなく、善であると云へます。

  2. その「良心」に照らして恥じるかどうかが道徳上の善惡を分かつ根據であります。
  3. 事実は非人間的な事であり、それ自體に善惡はありません。道徳の問題は、事実をいかに認識するか、と云ふ點にあります。
  4. 過ちを犯した人間が言ひ譯するのは、一般には「見つともない」行爲だと思はれてゐますが、自分の行爲の辻褄を何とか合はせようとする努力は人間的で、その意味で道徳的であると言へます。しかし一方、「徳目に從はないのはいけない事ではない」と言つて、自分の「惡い」(實は「正しくない」)行爲を何とも思はないのは、非人間的な事で、その意味で非道徳的であり、道徳的な觀點から言ふ惡であります。
  5. 宗教は常に、選擇的であり相對的である或行爲の一方を爲すやうに命じます。それはまさに、釈明し弁論の達者な人間であればその価値を変えることもできるやうな命令なのですが、にもかかはらず、反問を許さない主類の命令であります。その意味で、宗教の命令は絶對的なのであります。
  6. 優れた宗教の命令は、人間が努力しなくては(或は、努力しても)不可能である事なのであつて、事実を見れば、全ての人間が「惡人」となつてしまふやうなものであります。

    「汝姦通する勿れ」をキリストが「汝姦淫する勿れ」と言換へたのは有名な話ですが、姦通は事実であるのに對し、姦淫は事実ではなく、心の働きであります。そして、姦通の事實を外部に洩らさないやうにするのは全くの不可能と云ふ譯ではありませんが、姦通を想像する事すら姦淫なのですから、姦淫の罪を免れる事は、全ての人間にとつて不可能事です。下半身に生殖器を備へてゐる以上、人間が姦淫の罪を犯さない事はあり得ない、と云ふ事は、ほぼ間違ひない事實でせう。

    もちろん、口で「俺は姦淫してゐない」と言ふ事は可能ですが、心の中の問題であるのだから、姦淫をしてゐない證明は不可能ですし、他人が誰かを姦淫の罪で訴へ、その罪を證明する事も不可能です。そこがキリストの教への、すぐれて道徳的なところであります。

「前提」(内面化している道徳律)を重視するか「結果」(行為がもたらす利益)を重視するかというのは、態度の問題としては大きな問題かもしれないが、いずれにせよ自由意志で選択可能なのだから僕にとっては重要な差異とは思えない僕が重要だと思っていることはむしろ、「何故わたしはここにいてあそこにはいないのか?」というパスカル的な問いのほうであり、「わたしが何であることによって何が可能なのか?」というフーコー的な問いであり、論理的命題がつねにトートロジーであるのならば思惟とは何であるのか、ということである。

  1. それは飽くまで事実であり、道徳はそこから先の認識の問題であります。
  2. 私にはむしろ、我思ふ、ゆゑに我あり、と云ふデカルトの結論を渡邊さんは、既に支持してゐるやうに思はれます。

ところで、一昨日も書いたが僕は道徳も政治も大して重要だとは思っていない。僕にとって重要なのは快楽である。道徳的に考えるのも政治的に振る舞うのもそれが快楽を生むと判断しているからであって、それ以外の理由は特にない。

  1. この渡邊さんの宣言に、木村さんが掲示板で反論なさつてゐる。

    「俺は何々主義者だ」と云ふ自己申告は大抵當てにならないものです。

    快楽は、蓼食ふ蟲も好きずきで、別にどんなものを好まうと知つた事ではないのですが、道徳的即人間的と云ふ事であつて、道徳と人間とは切つても切離す事の出來ぬものです。。

    人間が獸と違ふ點は、道徳を氣にせずにゐられない事です。事實、渡邊さんは上記の文章で、「自分は道徳なんか氣にしない人間だ」と懸命に自己宣傳しようとしてゐます。「道徳なんか氣にしない」とわざわざ廣言する事自體、道徳が氣になつてゐる證據ではありませんか。

    人間は道徳と生涯縁が切れません。ならば、我々は好い加減に考へるより、眞劍に考へるべきです。冷笑したり敬遠したりせず、眞劍に考へるべきです。「犯罪によつて法的に被つた罪は、人が考へるより遙かに少ししか犯人を脅かすものではない。彼自身みづから道徳的要求を持つてゐるからだ」と、『罪と罰』の創作ノートに糞眞面目に書附けたドストエフスキーのやうに。

日本語で「惡い」と言つた場合、正義に屬する「惡い」と、道徳に屬する「惡い」との區別が附きません。これは、日本人が正義と道徳の區別にだらしがない證據であつて、それゆゑrightとgoodの區別をする西歐の流儀を學ぶ事には價値があるのであります。


が、日本の流議で滿足してしまふ日本人は、甚だ多い。

平成13年7月26日

世の中には、「レッテルを貼る」事が「自分の頭で考へる」事だと思つてゐる人が多いやうに、私は感じますね。


「レッテルは、余りにも適切である時、それが正しい証明になる」と曰つた、とんでもなく頭の惡い人間が、Yahoo!掲示板方面にゐて、私に執拗に絡んだ擧句、「言葉 言葉 言葉」の「營業」を妨碍した事がありましたつけ。

平成13年7月26日

ちゃいぱさん@☆☆ 10倍ズバリ!! 素敵にするホームページの条件(CGI,CSS,HTML,JavaScript) ☆☆「Chaichan World」人気カウンターに投票してねと涙ながらに嘆願。協力してあげて下さい。


と言ふか、うちの「言葉 言葉 言葉」人氣カウンターも、人氣がないですよ。何しろ私は人氣がないさうですし。

平成13年7月26日

斷續的に、ウィルスメールが3通到着。

平成13年7月26日

一念發起して、部屋の大リストラを敢行→破綻。

明日、箪笥を移動すると云ふ事で續劇。


本棚を向ひ合せに置くと、途端に古本屋の風情を釀し出すと云ふ事を發見。と言ふか再發見。

平成13年7月26日

どうやら私に怨みを抱いた雷樣は、颱風を連れて來たらしい。

平成13年7月26日

野嵜さんの主張であれば、本来価値判断で重要なのは「道徳」であって、その否定的媒介として「政治」が弁証法的に要請されているだけであって、本質的な価値判断は「道徳」に帰してしまう。いいかえるなら、「道徳」を吟味するための口実として「政治」が存在するだけである。これは二元論ではないのだ。「道徳」による一元論を論争のために「政治」という媒介項を通して主張しているだけのことである。

なんか違ふのだが。取敢ず、渡邊さん御自身の思想を私に投影してゐるのだと考へると、渡邊さんの思想は以下のやうなものなのだらうなと思つた。

「渡邊さんの主張であれば、本来価値判断で重要なのは「政治」であって、その否定的媒介として「道徳」が弁証法的に要請されているだけであって、本質的な価値判断は「政治」に帰してしまう。いいかえるなら、「政治」を吟味するための口実として「道徳」が存在するだけである。これは二元論ではないのだ。「政治」による一元論を論争のために「道徳」という媒介項を通して主張しているだけのことである。」

渡邊さんは、「政治一元論」だから、反對意見を述べた私が「道徳一元論」なのだらうと推測なさつてゐる譯だが、さうではない。

「政治の事は政治で面倒を見ろ、道徳の事は道徳で面倒を見ろ」と云ふ事が私の主張なのであつて、道徳に關する問題を政治的に扱ふな、と云ふだけの話なのである。


ところでやはり野嵜さんという人は面白い人だなと思ったのは、「一匹と九十九匹」の話で、ようするに野嵜さんは誰かが「真実」を知っているというか、どこかに「真実」があると信じている人なのだな、と思ったことである。僕は「百匹全部間違い」という可能性をまず最初に考えてしまう。その意味で僕は政治的でも道徳的でもなくあえていえば快楽的に考える人間なのかもしれない。

  1. 私がイデアリストであると云ふのは、自分でもその通りだと思ふ。その意味では私は樂天主義であるかも知れない。
  2. 渡邊さんの間違いと云ふ用語は、正邪に屬する事なのか、善惡に屬する事なのか、私には判斷が出來ないし、渡邊さん御自身が全く氣にしていらつしやらないやうに思はれるのだが、正邪ならば立場によつて「正しい」とも「間違ひ」とも言ひ得るのだし、善惡ならば人間に決定的な判定は出來ないのである。

「善か惡か」は絶對的な事で道徳に屬するものだが、「正か邪か」は相對的な事で政治に屬する。道徳か政治か、と云ふ言ひ方が惡いのならば、「絶對的な價値判斷のなされるべき領域に相對的な價値判斷を持込むべからず、逆もまた然り」と言へば良いだらうか。


平成13年7月26日

KSmiracleの「CSSコミュニティ」の項が云々の發言が、變な波紋を呼んでゐるみたい。

一體どうしろと。

平成13年7月26日

ところで、野嵜氏は「おたく」をしばしばヲタと書いておいでですが、この語は対称の「お宅」に由来するものでせうから、正かな派としてはやはり「オタ」とすべきぢやないですか。

私は、敬意を拂ふ對象は正かなで、さうで(も)ない對象は「現代かなづかい」で引用します。その原則から考へれば、「ヲタ」と云ふ「一種の假名遣」を私が用ゐてゐる場合、徹底的な侮蔑が表現されてゐると云ふ事になりまして……。


實は私は、「オタク」と云ふ表現と和解してゐない。ファン、マニア、愛好者と云ふ言葉は用ゐるけれども、「オタク」「オタ」と云ふ言葉は平氣で使へない。

平成13年7月26日

私と人間城の主さんとの間には、絶對的な懸隔がある。人間城の主さんは私心から離れられないのであり、私は「私心から自由になる」事を目指してゐるのであります。

平成13年7月26日

追記。浅薄なものならばない方がマシであるということ。国家神道程度のものを「伝統に基づいた権威あるものだ」という態度には与しないオレは伝統を重視するが、国家神道にそんなものはないと考えているから、国家神道が日本民族の精神性を代表するものだと思われてはたまらない、と言っている極めて単純だと思うが。野嵜氏は「国家神道が伝統を反映していないと云ふ説こそでっちあげ」だと言い、そして国家神道は「失はれた原理の再認識」だと言う。オレは国家神道のごときは「失はれた原理の再認識」ではない、と言っている。現代と過去を断絶したいのではなく、結びつけるのであればまともな過去の資産と結びつけてくれ、ということだ。それが可能でないならば、強引な「再認識」ではなく、もっと謙虚に過去の資産から学んでほしいのだ

  1. 國家神道は駄目だと言つてそれを否定すると、一緒に神道の傳統も無くなつてしまふのであつて、私は傳統を大事にすべきだと思ふから、神道の傳統を守る爲に國家神道も否定すべきでないと思つてゐます。

  2. 國家神道だけ否定して、神道の傳統だけ生かす、等と云ふ「理想」は無理。それが無理だから人間城の主さんは虚無であり精神性を欠いている「戰後民主主義」を支持してしまふのですが、それは傳統を失つてニヒリズムに陷つてゐると云ふ事ではないでせうか。

    それでは困ります。

    浅薄なものならばない方がマシであるということ、と人間城の主さんはおつしやいますが、日本の文化は本質的に淺薄なのであり、しかし、ニヒリズムよりは淺薄ではあつても文化的である方が増しです。

  3. 極めて単純であるがゆゑに、虚僞である、と私は思ひます。理想のものが手に入らないのなら、いつそ皆無くなつちまへ、と言ふのは「自棄のやんぱち」であります。

  4. ならばきちんと失はれた原理を再認識すれば良いだけであつて、ニヒリズムに逃げて威張る必要はないのであります。ニヒリズムは完全な虚無であり、國家神道は「間違つてゐる」だけであるのだから、ニヒリズムよりは國家神道の方が増しです。ニヒリズムの分際で國家神道を罵倒するのは、態度が大きい、と言はざるを得ません。ニヒリズムとは即ち「負け犬の遠吠え」にほかなりません。

  5. だから「國家神道」を反省せよと言つてゐるのではないですか。そして、反省とは單純に否定する事ではないでせう。

  6. 学んだ結果がニヒリズムでは困るのです。

散々話をしてきて漸く何がここまで噛み合わないかが分かった。野嵜氏は「天皇を頂点とした家父長的社会構造」を是とし、オレは是としない。そして野嵜氏はその社会構造を「伝統」であるとして、それに従うべきだと考えられている。国家神道や靖国神社はその拠って立つところの違いからすればおまけのようなものだそもそもオレにはある特定の人物に心酔した経験がないので、自説の根拠として大学の講義ノートを持って来られても、「じゃああなたは他人と全く同じ思想を持っているのか?」という疑問を持つだけである霊媒と話をするのは面白くない

  1. 惡意が籠つてゐるやうに見えますが、この要約は客觀的に見ればその通りですので、何にも反論しません。

    しかし、人間城の主さんの主張では、何かを主張する時の意圖は極めて重要なものである筈で、ここで人間城の主さんの惡意が見えてゐると云ふ事は、人間城の主さんにとつては重大な意味を持つと言へるでせう。そこは人間城の主さんにとつては、とことんまで追求すべき問題である筈です。

    もちろん、私には論理的に問題となる事だけが重要であつて、「意圖」はどうでも良い問題であると言へばどうでも良い問題です。

  2. 私にしてみれば、「それはお可哀想に」と云ふ事になつてしまひます。

  3. 正しいと思つた意見に同意する事の何が惡いのでせうか。その邊り、人間城の主さんは、何か勘違ひしていらつしやるやうな氣がします。

  4. 人の話に絶對に同意しないやうな人と話をするのは、非常に嫌な事です。

    それにしても、私の事を霊媒呼ばはりですか。人間城の主さんの意圖はともかく、私は靈と云ふものの存在を信じてゐますし、死者の代辯者を自任してをりますので、さう呼ばれるのは光榮な事です。G.K.チェスタトンは、生者だけでなく、死者にも權利を與へるのが眞の自由主義だ、と言つてゐますしねえ。

    もつとも、松原先生は御存命ですし、お元氣ですので、もし私が「靈媒」であるなら、生き靈を呼出してゐる事になります。


あ〜る
……あ〜る田中いきりょう。
鳥坂先輩
緊張感を殺いだな、貴樣!

平成13年7月26日

W3C信者ネタゴーストとかあるのかな?

俺が不用意に「作る」と言つた爲に關係者全員が降りてしまつて、それ以來半年俺が何もしてゐない爲、存在しません。

平成13年7月26日

鉄野正夫氏は精力的に翻訳作業をしているようだ。実は未だ殆ど読んでないんだけど、訳出のレベルってどうですか>識者。

譯出のレヴェルはまだ檢證してゐないが、取敢ず歴史的假名遣を「アクセシビリティ」の名の下に排斥しようとする姿勢があるのは困つた事だと思つた。

「現代かなづかい」は「一般に使はれてゐる」から「アクセシビリティが高い」とでも思つてゐるのだらうか。ならば「不思議マークアップ」は「一般に使はれてゐる」から「アクセシビリティが高い」のだらう。濟し崩し的に採用された「不思議マークアップ」を否定して「正しいHTML」を支持すると言ふのなら、濟し崩し的に採用された「現代かなづかい」を肯定して「正しい假名遣」を否定するのは異常。


歴史的假名遣を「アクセシビリティ」の名の下に否定して良いと云ふのなら、「(謎)」も同じやうに否定して良いのだらうね。

平成13年7月26日

夜中、凄まじい雷雨。雷樣が怒つたらしい。

平成13年7月25日

国家神道が日本の近代化の過程で自覚的に再構成されたものであったとして、それがどういう意図をもって再構成されたのかを問題にしている。そもそも自覚的に再構成されたということは、そこには当然何らかの政治的社会的意図が働いたのである。それによって作られようとしたのは天皇を頂点とした家父長的社会構造であり、ヒエラルキーの上部から通達される指示は究極的には天皇に行きつくものであるとする、反対や吟味を許さない精神を是とした制度である。そうした朱子学的階層思想が国家神道の本質であるという認識は間違っていまい。祖先崇拝とて「家族」の絶対視であり、オレはそれを是としない、ということである。そこには君主を諌める部下はよい部下であるといったような儒教にかつて見られた功利主義的側面は影を潜めている。伝統を遡れるとして、せいぜい平田篤胤や水戸学くらいまでしか遡れない新しいものであり、それをオレは「でっち上げられたもの」と表現している。それは吉田神道や伊勢神道に見られたような、外来文化との関係を構築しようとした知的格闘は見られない排外的なものであるし、各神社の祭神を天皇と関係するものに強引に変更させもした。それが古来の神道の伝統との連続性を主張するのはおかしいのではないか。「南京大虐殺はなかったというのはでっち上げ」式の「キーワード」と混同される用語を用いたことは反省材料だな。

  1. 申し譯ないのですが、「下衆の勘繰り」と云ふ言葉で表現したくなりました。
  2. 宣長によれば、國學は「私心を去る」のがテーゼであります。それは契冲が先づ言つた事です。
  3. その通りです。そして、私はそれを是とするのであります。理由は松原正先生 講義ノートを御參照下さい。ちなみに私は、人間城の主さんのおつしやる功利主義的側面を重視する必要は無いと思ひます。お芝居なんかでは面白いんですがね。
  4. 傳統の再認識は、傳統が失はれた時、初めて出現するのであり、近代特有の現象です。或は、近代が新しいものであるのは當り前です。非難する意味がありません。近代は全て、でっち上げられたものなのであり、その當り前過ぎる事實を、何か惡いものであるかのやうに言ふのは變です。
  5. 伝統との連続性とは、過去への屈從の事でせうか。

    過去の原理の再確認とその再生が近代に於る「復古」のテーゼであり、過去から現在、そして未來へと一貫する原理の確立こそが、國民國家の近代化と云ふ事であります。茲に、江戸時代末から明治初にかけて、尊皇と云ふ概念が出現した理由があります。言換へれば、時代には三つあるのであります。

    1. 國の本質的な原理がしつかり生きてゐた時代
    2. その原理が失はれる時代
    3. 失はれた原理を再認識し、再獲得しようとする時代

    この最後の時代が近代なのであります。斷絶は、1と2、2と3の間にそれぞれあります。2と3の斷絶を敢てしてまで、1と3を直結させようと云ふのが、近代の意圖です。これは2の時期の誤りを正さうと云ふ、正義の觀念に基く近代の意思であります。そして、正義の觀念に基くがゆゑに、近代の行爲は必ずしも眞である譯ではないのですが、だからと言つて眞に近づかうと云ふ努力は抛棄されてはならないのであります。

    ややこしいのは、日本の近代は、日本の内部で完成される前に、西歐の流入によつて中斷された、と云ふ事です。その邊りの日本の特殊事情は、單純ではないのであります。日本の傳統と近代化、そこに割つて入つた西歐――この渾沌とした状況の中で惡戰苦鬪したのが夏目漱石であります。松原正氏の『夏目漱石』は、その邊りの事を徹底的に論じてゐて、非常に興味深い書物ですので、一讀をおすすめいたします。

と言ふか、人間城の主さんが何を言つてをられるのか、私にはさつぱり理解が出來ないのであります。人間城の主さんは、現代と過去とを斷切りたいのか、それとも結び附けたいのか。個々の主張はそれなりに意味が通つてゐさうなのですが、全體として人間城の主さんの主張は一貫してゐないやうに思はれます。

結局のところ、靖国神社に賛成する勢力と反対する勢力、といういささか単純に過ぎる二分法に乗っかるなら、オレは反対する政治勢力に与することになる。「語るに落ちる」と言われても、AでなければBとなってしまうのは野嵜氏の設定した軸を尊重すれば必然的な帰結である。ただ残念なことに、現存する「靖国神社に反対する政治勢力」の中にオレが肩入れできる具体的な勢力はない。共産党やら社民党やら、あるいはそうしたものの下部組織である「市民運動」団体の構成員みたいな連中をオレに投影されたのなら悲しいことだ

人間城の主さんが、野嵜氏にもそういうバカな復古主義者の肩を持つ義理はあるまい、とおつしやつたもので。

オレは古典学者であるから、専門のインド哲学のみならず、それに曖昧にでも関連する古典を多く読んだ。そうした経験に基づいて、伝統や宗教といったものに対するオレなりの考えはある。オレは伝統破壊者ではないし、宗教心を否定するものでもない。国家神道ごときがオレの精神生活に容喙しようというなら千年早いということだ。「戦後民主主義」は虚無であり精神性を欠いているからこそオレにとっては余程マシなのである。理解されないだろうけど。

國家神道は輕薄なものであるから氣に食はない、だからより輕薄な「選御民主主義」を選ぶのだ、と云ふ理屈は、理解されないのが當り前です。もちろん、その當り前でない事を當り前の顔をしてやらかす人が今の時代、非常に多いから、人間城の主さんは當り前の顔をしておつしやつたのでせうが、それを日和見主義と申すのであります。


取敢ず、22時30分現在、7月24日が二つありますので、修正のほど、よろしくお願ひいたします。idがアイデンティティを失つてゐます。

平成13年7月25日

なんで負けたかを反省しなきゃ次に戦争をした時に (笑) 勝てない。

日本の反省は、「二度と戰爭をしない」らしいですが。


その邊を、故意に混同して、自分に都合よく話を持つて行かうとした人が、Yahoo!掲示板にゐたやうな、かすかな記憶。

平成13年7月25日

絶對主義にしろ自由主義にしろ、反對勢力は一掃される。前者は力によつて、後者は自然淘汰によつて。

まあ、似たやうなもの。

平成13年7月25日

もちろんソースコードを覗いてみる。なんと! <sup>で文字を小さくしていやがる!!!! 超絶句。信じられん。

俺もさう云ふの、見た事がある。

平成13年7月25日

う〜む、こりゃあ明らかに幻想四海さんが無知をさらしてみのうらさんの逆鱗を踏んでるね。科学とSF。

逆鱗に觸れる。まあ、踏まれても龍は怒るでせうが。

平成13年7月25日

「戰爭に負けて反省」は「外發的」。

平成13年7月25日

「身内ネタ(でもない)」の邊に、なつかしの名作シリーズッぽいものが。

平成13年7月25日

暇潰し用。あだると的。

平成13年7月25日

うーん。

CSS饅頭???

平成13年7月25日

あやしい方面を巡囘する人向け。

平成13年7月25日

パスカルはモンテーニュとエピクテトスの影響を受けた一方で、かう書いた。私はモンテーニュを許す事が出来ない。彼は人間の悲惨を言つたが、人間の偉大について言はなかつた。また、エピクテトスも許せない。かれは人間の偉大を知つてゐるが、人間の悲惨を知らなかつた。

對象の非を鳴らすのが研究であるとか批評であるとか現代人は思つてゐるし、對象に非がある(と思はれる)場合にその對象の長所を見出すのは惡であるとすら現代人の一部は信じてゐる。

長所と短所の兩方を、すべてのものが備へてゐると考へる事が、なぜ許されないのか。もちろん、何か或物を絶對だと信ずる精神が、その何か或物に敵對する全てを排斥しようとするからである。

平成13年7月25日

雨が降つたので、雷樣は特赦。


うちの近所だけ、餘り降らなかつたみたいだが。

平成13年7月25日

某お役所からウィルスメールが屆いたよ。どうしよう。

平成13年7月25日

所謂「自虐史觀」の持主と「レッテル」を貼られてゐる方々が、そのレッテルにいきり立つのは、そのレッテルが不當であると思つてをられるからではないですか。慥かにそれはさうなのであつて、なぜなら「自虐史觀」と呼ばれる思想を持つてゐるとされる方々は、「俺たちは過去の最低な歴史を反省し、それによつて今や世界に誇るべき平和思想を抱くやうになつてゐるのであり、愚かな世界の人民を平和に導く選良集團なのである。俺たちに逆らふ輩は人殺しの大好きな極惡人で地獄に落ちるべきなのであり、俺たちは平和を愛好する善良な人間の代表であり、愚鈍なる戰爭好きの馬鹿を地獄行きから救濟する偉大なる指導者なのである」と思つていらつしやるのです。この手の方々は、自虐等と云ふ事はちつともなさつてをらず、寧ろ己の信念は絶對であると信じ込み、傲つてゐるのですから、「自虐史觀」等と呼ばれるのは心外であるのも當然です。彼らは「ゴーマニズム」とは別の意味で傲慢であるのです。

私が「夜郎自大」と呼ぶゆゑんです。


戰爭するべし、自然なら。

平成13年7月25日

今は、熱射病と言はずに熱中症と言ふらしい。いつから變つたの?

平成13年7月25日

KSmiracle Web Directoryの「CSSコミュニティ」の項が縱に長くなり過ぎて、これでは「Infoseekもどき」と言張つても最早誰も納得して呉れないのではないかと危惧してゐるのだが、一方で、リストラ出來ない状況にあるやうな氣がしてならないのであつて、ではどうすれば良いか。

平成13年7月25日

私は常々「政治と道徳は別物である」と言つてゐて、それは政治と道徳を混同するのが當り前である日本人にはなかなか理解されない。しかし、政治と道徳を峻別しない日本人は、政治と宗教を分離しろと言つて平氣である。これは私には不可解な事だが、恐らく日本人自身もその根據を言へないのではないか。日本人は祭政分離を絶對化してゐるが、譯もわからず兩者を分離して、どうする氣だらう。


政治と道徳の違ひを、相對的な違ひとしてしか認めないのは、政治的なものの見方に偏つた考へ方なのであり、反省する必要がある。政治と道徳を政治と道徳の兩方の觀點から眺めず、偏に政治的に眺めて道徳的に眺めないのは、偏見である。

偏見を持つ主體が偏見を偏見ではなく「絶對の眞理」と看做してゐる時、偏見は偏見となる。偏見が無くならないのは、偏見を持たれてゐる側からの抗議を、己の偏見を意識してゐない人が、自分では「絶對の眞理だ」と信ずる偏見に基いて判斷するせゐである。この場合の「偏見」は「固定觀念」と言換へても良い。いづれにせよ、反省の意思がなければ、この手の偏見も固定觀念も、打破される事はない。


私は政治と道徳の二元論を主張して、政治の一元論を信奉してゐる人に對抗する爲に道徳を強調するのであるが、私にとつて大事なのは政治でも道徳でもなく二元論である、と云ふ事が理解されないので、非常に困つてゐる。

この私の立場が、「あれもこれも」ではなく、「あれか、これか」の「あれ」と「これ」との各々のそれ自體に於る一貫性を尊重すると云ふ事は、更に理解し難い事であるやうである。


そして、この理解し難い事を人は理解すべきだと主張する私は、理解し難い事は理解し難いがゆゑに理解されないと云ふ事も頭の中では理解してゐる。それゆゑ私は、常に夢も希望もない話ばかりするのである。

平成13年7月25日

戰中は右翼全盛の時代だつたが、右翼は國家神道の權威を笠に着て世の中を動かした。では、戰後はどうかと言へば、戰後は左翼全盛の時代であります。そして、今の左翼は國家神道を否定し、それによつて世の中を動かしてゐるのであります。

やつてゐる事は、右も左も結局同じなのであります。


據つて立つイデオロギーを變へた處で、同じ事をやつたのでは無意味なのであり、だから私はイデオロギーに頓着せず、ただ別の事をせよと主張するのであります。或は、イデオロギーを取替へれば、同じ事の意味が異るものになる、と考へるのは淺薄な考へ方だと思ふのであります。

平成13年7月25日

オレは「生贄」などということは一度も言ったことがない。混同されているのだろう。

生け贄の論理は蓮川さんの用語だつたので當方の勘違ひ。


蓮川さんのところで「補足」があつた。

 文化と云うこと。生け贄が文化ではない、などとは書いていません。文化として恥知らずだと見なしているだけです。生け贄という言い方はもっと限定します。その点では説明不足でした。スケープゴートの論理ということです。あとから感謝したところで、自分、あるいは自分たちのために死ぬことを褒め称えるというのは、勝手な話です。また、死にそうした意味づけを施すと云うことはそれを政治的に利用すると云うことです。死者と生者の断絶を、観念によってごまかすということです。

  1. 生け贄が文化として恥知らずである、と云ふ根據がわかりません。さう看做すのは御自由ですが、なぜさう看做すのかを書いて貰はないと、讀み手の側としては困惑するだけです。
  2. スケープゴートの論理と言はれても、私には生け贄の論理と何が違ふのか、全くわからないのです。そもそも、靖國神社に祀られてゐる人々は、自ら進んで死地に赴いたのであり、「スケープゴート」にされたのではありません。

    自ら死地に赴いた人は、本當は死にたくなかつたのであり、實はスケープゴートにされたのだ、と、後世の人間が言ふのは、後世の人間の獨斷です。大體、人間の本心なんぞ、本人ですらわからないものです。


大分分かってきたが、じゃあ国家神道と伝統的神道に断絶がないとしても、国家神道が神道の特殊な一形態であることは間違いないだろう。そして国家神道が軍部に利用されてあのひどい結果を生んだわけだが、そもそも国家神道には政治的に利用されやすい要素があるのであって、天皇を神と直結させた時点で、天皇の名の下に好き勝手をしたい奴には甚だ便利なのである。しかも現在国家神道の復興を叫ぶもののほとんどは、まさにその政治的に利用された形態の国家神道の復興を望んでいるのであって、「戰前流の國家神道のまづかつたところ(内部的・精神的な問題)は改め」ようとしていない。そこにオレは復古主義者の浅薄さを見るのである。野嵜氏がいかにそうではない、と主張しても、それは野嵜氏の主張であって彼らの主張ではない。野嵜氏にもそういうバカな復古主義者の肩を持つ義理はあるまい。「国家神道」という言葉から連想されるのは明治期にでっちあげられた代物であって、たとえば国分寺や国分尼寺の建立に代表されるような、仏教が「国家仏教」であったような伝統を反映したものではない。靖国神社における国家神道的儀礼に賛成できないのは、それが特定の政治勢力に利用されている状態が何ら変わらないからなのだ。

  1. その論理はよろしくないと思ひます。同じ論理に基くと、「殺されたのは、殺される側に殺される要素があつたのだ」と云ふ主張が通用してしまふ事になります。国家神道が軍部に利用されてあのひどい結果を生んだと言ふのならば、惡いのは當然軍部の側であり、國家神道に連帶責任を取らせようと云ふのは、被害者に連帶責任を取らせようとするのと似たやうなものです。間違つてゐます。天皇を神と直結させた時点で、天皇の名の下に好き勝手をしたい奴には甚だ便利と云ふのも、天皇の名の下に好き勝手をした奴が惡いのであつて、「被害者」である天皇に責任はありません。
  2. 人間城の主さんは、神道關係者の文章を讀んで判斷なさつてゐるのでせうか。或は、そこにオレは復古主義者の浅薄さを見るとおつしやるのは御自由ですが、それがどうだと云ふのでせうか。人格の否定に基く主張の否定は、論法としてちよつと拙いのではないでせうか。そもそも、さう云ふ言ひ方をして良いのは、國家神道の支持者でこそあれ、その否定者ではありません。國家神道を否定する人間が、どうして「國家神道がもつと良くなるやう努力せねばならない」と言へるのでせうか。
  3. 私が義理で附合つてゐるのだとお思ひですか。
  4. 連想ゲームはよろしくない、と私は常々主張してゐるのであります。
  5. でっちあげと云ふのは、實に屡々目にするキーワードであつて、私はさう云ふ言ひ方が氣に入らない。そもそも私は、國家神道は近代化の過程にあつて、曖昧模糊然とした神道を近代的・自覺的に再構成したものだ、と説明してゐるのであり、それなのに、でっちあげでっちあげ、と連呼されては堪らないのであります。
  6. 伝統を反映したものではないと云ふ説こそでっちあげだと、私は説明してゐるのですが、どうしても理解していただけない。
  7. 人間城の主さんが靖國神社の存在を否定する事は特定の政治勢力に利用されはしないのでせうか。或は、人間城の主さんは、靖國神社に反對する爲に特定の政治勢力を支持してしまつてゐるのではないですか。

    この部分は、語るに落ちたと云ふ觀があります。人間城の主さんは、或政治勢力に反撥してゐるのであり、それは他の政治勢力を支持してゐると云ふ表明にほかならないのであります。

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