解つてたまるか!

平成13年7月24日

部屋の配置換へシミュレーションツールとか。

平成13年7月24日

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/ではなく、http://members.home.ne.jp/w3c/でもアクセス可能であるらしい。

平成13年7月24日

ごめんね。キッズgooの運用基準(うんようきじゅん=ルール)を満(み)たさないことばがみつかったか、運用基準を満たさないページだったので、このページはひょうじしないよー。

にやろめ。


http://kids.goo.ne.jp/cgi-bin/kgframe.cgi?BL=0&SY=0&MD=2&TP=http://user2.allnet.ne.jp/nozは一應表示されたりする。


どう考へても、home.ne.jpをはじいてゐる。

平成13年7月24日

某所にて夏休み限定企畫を公開。

平成13年7月24日

なんか、呪ひでもかかつてゐるのではないかとすら思はれるのだが、本日も當地にて雨は殆ど降らず。

一應ぱらぱら來たみたいだが、それだけ。とは言へ、ほんの僅かながら、涼しい風が吹いてくるのはありがたい。


隣の犬はへばつてゐたが、せきせいいんこは元氣。

平成13年7月24日

自ら主張するイデオロギー
自分で自分の枠組みを作って、防御障壁を作っているのかな?それはそれで、楽な自己表現かもしれないけど、その言葉に縛られる事は、自分の限界を形作ることになりかねない。人から「レッテル」を貼られることは、知ったことではない(人の思考、言動まで、制御は出来ないし、したくもない。)が、自分で自分に「レッテル」を貼ることは、言葉の「鎖」に縛られそうで怖い。

自分で自分を縛るのは勝手だが、それを威張られても困る、と云ふ話。


引用の件で引用元の筆者が以下のやうに書いてをられるので追記。(2001.7.25)

それと、引用するのは別段構わない(それに、引用を制限なんて事はできないし)ですけどね、意味を付け加える際は、付け加えた事を明記して欲しいものですが、如何に?加工の際は、その旨を明記して欲しいです、個人的には。

  1. 意味を付け加えると言はれても、如何なる意味をも私は附加してゐないので、どう云ふ事なのかアレなのですが。
  2. 加工の際はとあるのを見ると、「マーク附け」の事かとも思はれるのですが、マークアップは原文に何の意味をも附加しないので、違ふのかも知れない。取敢ず、意味が良くわからない要望なので、わかるやうになるまで保留。
  3. 引用した意圖を一應書いておくと、24日附け以前の所で私はさんざつぱら「拒絶の論理」を攻撃してゐるのですが、それは防御障壁を自ら作つてゐるやうなものであり、よろしくない事だと言ひたいが爲に引用してゐるのであります。「闇黒日記」で採上げられた即「斬られた」と考へて警戒なさつてゐるのだつたら、贊意を表してゐるのでご安心下さいと申しあげます。

平成13年7月24日

私の言ふ事は極めて解り難く、「もつと簡單な事を言へ」と命令される事も屡々あるのだが、では「簡單な事」は常に理解されるのだらうか。

右翼の言ふ事は簡單だが、それを左翼が理解する事はないし、左翼の言ふ事も簡單だが、それを右翼が理解する事は矢張りない。

私は、現實を一面的に切り取る「簡單な事」は、虚僞であると思ふ。複雜で合理的な部分と非合理的な部分を含む現實をありのままに見据ゑるならば、その表現は極めて複雜でわかりづらいものとならねばならない。

平成13年7月24日

「國家神道でうまくいかなかつたのは、そもそも神道が駄目なのだ」と云ふ類の言説は、「あの葡萄は酸つぱくて喰へないのだ」と呟いた狐の言葉と良く似てゐるやうに思ひます。


結局のところ日本は戦争に負けたのである。負けたことによって戦争犯罪が戦勝国によって裁かれた。戦争は負けた奴が一方的に悪い。オレたちに倫理にもとるところはないといくら主張したところで、勝ってから言えと言われるのがオチだ。負けた以上いつまでもいつまでも私が悪うござんしたと頭を下げ続けねばならない。負け犬の論理はたかが50年やそこらで通用するようにはならないのである。

  1. 話は戻るが、この部分には全く肯定出來ません。戰爭の勝敗は、戰力の多寡・國力の強弱によるのであり、戰力の多寡・國力の強弱とは善惡とは全く關係がない譯で、ならば戰爭の勝敗が國の善惡を決定する理由にはなりません。そもそも、國に善惡は存在しないのであつて、戰爭の際、國家が持出すのは大義名分であり、即ち正義であります。

    勝てば官軍と言ひますが、勝つた官軍の兵士は全員善人であるかと言へば、さうは言へないのであつて、負けた賊軍にもあつぱれな勇士はゐるのであり、勇敢とは美徳であり、道徳的に善いものであるから、負けて正義を否定された賊軍にも善人はゐた、と云ふ事になるのであります。

  2. 第一次大戰で負けたドイツは、その怨みを忘れず、第二次大戰でヒットラーを擔いで散々ヨーロッパを荒しまはつたが、同じやうな怨みを、今の日本人は懷き續けてゐるでせうか。

    實は、日本人は負け犬の論理なるものをさつさと捨ててしまつて、却つて負け犬根性を「誇り」に轉化してゐるのであります。それはごまかしであり、自己欺瞞であり、心理學で云ふ「合理化」以外の何物でもないのであつて、それゆゑそこを衝かれると痛い弱點となつてゐるのであり、現代日本人の言はばコンプレックスとなつてゐるのであります。或は、敗戰は日本人のコンプレックスなので、そこを如何にしてつつかせまいかと日本人はするのであります。

    言換へれば、「負けた」と認めるのならば良いのであつて、戰後の日本人のやうに「負けるが勝ち」と言つてしまつてはいけないのであります。

生け贄の論理と人間城の主さんはおつしやつてゐて、それは「人間を生け贄にするのは良くない」と云ふ事なのだらうが、私は「國家神道や軍や日本の傳統を生け贄にする事こそ餘程惡い事だ」と思ふ。人間よりも觀念を生け贄にする事の方が惡質だ、と私は思ふのである。

人間を生贄にする時、生贄にする人間は忸怩たる思ひをするが、觀念を生け贄にする時、人は何の痛痒も感じない。言換へれば、人間を生贄にする事は惡であり道徳的であり人間的であるが、觀念を生け贄にする事は前でも惡でもなくただ單に非人間的である。非人間的であるよりも人間的である方が、人間にとつて價値のある事である。


それから、日本には特殊事情がある、とおつしやるのは結構ですが、なのに、その「特殊事情」を信じてゐないのは變だと思ひます。

平成13年7月24日

しかし、アンマウントが「机の上から書類箱をどかす」比喩だとするなら、その操作が「ボリュームアイコンをゴミ箱へ放り込む」というのは、「中身をシュレッダーにかけてカラにした上で戸棚に仕舞っとけ」と言ってるような感じも受けますよね。

OS/2のデスクトップには、「ゴミ箱」ではなくて、「シュレッダー」があります。

シュレッダーにフロッピーを抛り込んだら、フォーマットしてくれさうな氣がする。もちろん、OS/2コマンドプロンプトが開いて、formatコマンドが動くの。笑ひ。


調べてみたら、こんなユーティリティが發賣されてゐた。

[1999年08月23日(USA)] - The Wall 3.31, PopCD! 2.17 and Beat/2 2.01

Pretty Pop Softwareは本日、The Wall 3.31、PopCD! 2.17、Beat/2 2.01をリリースした。

The Wallは、ユーザが指定したインターバルで、背景イメージや色を変更する。 *.BMP/*.GIF/*.JPG/*.TIF/*.TGA/*.PCX/*.DIBの各フォーマットを使用できる。 TILED、SIZED、NORMALを指定可能。The Warllはそれぞれに拡張属性を書き込み、指定された.BMPを表示する。

PopCD!は、「ポップアップ CD-ROM/リムーバブルメディア/オーディオCD オブジェクト」ユーティリティだ。CD-ROM、リムーバブルメディア、オーディオCDを挿入すると、PopCD!がデスクトップにオブジェクトを生成し、開く(または再生する)。オブジェクトをシュレッダーにドラッグ&ドロップすると、CD-ROM、リムーバブルメディア、オーディオCDをイジェクトする。


フロッピードライヴのオブジェクトを抛り込んだら、シュレッダー君、單に削除して呉れさうな氣がする。

平成13年7月24日

ついでにいうと、オレはアメリカ大統領の選挙戦で、候補者が競って信仰告白をしていたのを無気味だと思っている。アメリカでは保守的勢力は多くの場合過激派キリスト教会と結びついており、彼らの支持なしに大統領になることはほぼ不可能であるから、候補者たちは突然敬虔なクリスチャンになった。過激派キリスト教会がそうやって社会におけるプレゼンスを増していくことは多様性の封殺に繋がるのであるし、アメリカ人の鈍感さは指弾されてしかるべきであろう。

  1. 逆に言へるのは、信仰を持たないと自稱する日本人を、アメリカ人は無氣味に思ふ、と云ふ事であります。
  2. それはどうだらう。キリスト教會の事を過激派と決め附けるのは誤りです。また、現實主義の立場に立つならば、過激派キリスト教会がアメリカ人に選ばれてゐる事實は否定出來ないのだし、それを鈍感と決め附けるのは現實主義以外の何かを信じてゐるからにほかならない、と云ふ事になります。

一つ斷つておかなければならないのは、私は自由の信者ではなく、自由主義者だと云ふ事であります。實は、自由主義とは或意味、自由が敗北した姿にほかなりません。

自由は多樣性を前提とした概念であり、當然、「自由を否定する自由」を自由は認めなければなりません。それでは困る、自由は守られねばならない、と言出した時、そこには自由の絶對化が發生してゐるのであり、それが自由主義と云ふものであります。その時、自由主義は、「自由を否定する自由」を否定してゐるのであり、必然的に自由自體の否定が行はれてゐると考へねばなりません。

言換へれば、敵に勝利する事によつて、自由はそれ自らに背く事となります。


「汝の敵を愛せ」とはキリストの言葉であり、そこに西歐の自由と云ふ概念の淵源はあると私は見てゐるのですが、その敵が勝利した時キリスト教はこの地上から消滅します。にもかかはらずキリストは「汝の敵を憎め」とは言はなかつた。

キリスト教は、一面恐るべき合理性を持つてゐて、それゆゑ20世紀もの間生延びて來たのですが、他面、恐るべき不合理を秘めてをり、其處にキリスト教的傳統を持たない日本人がキリスト教を理解しようとした時に困難を感ずる理由があります。しかし、その不合理に西歐のクリスチャンは慣れてゐるのであり、不合理なものを扱ふ能力は、日本人以上のものがあります。日本人はその點、西歐に學ばなければならないのであります。

そして、自由とは、不合理に對する「慣れ」或は不合理の傳統を持つ西歐が生み出したものなのであり、其處に日本人には理解し難い不合理なものは存在してゐる筈なのであります。しかし、日本人が西歐を受容れるならば、その不合理なるものを切捨てて、自分に理解出來るもののみを取込まうとする事は許されません。自分に解るものだけを取込む、とは、結局既にわかつてゐるものを再確認する事にほかならず、何も學ばないに等しいからです。


ここで話は元に戻ります。自分と考へを共有しない人間を「村八分」にするとは、結局のところ、自分の知らない事は學びたくない、と云ふ事にほかならないのではないか、と私は言ひたいのであります。そして、宗教を排除して、政治を純粹なものにしたがる、と云ふのは、政治の過保護に他ならないのではないか、と思ふのであります。

「純粹病」がなぜよろしくないのかと言ふと、他者とのコミュニケーションを取らうとしない事であり、結局他者から何も學ばうとしない事であるからよろしくない譯です。例の「つくる会」の教科書も、まあ、餘り中身は上出來ではないやうですが、まづ排除しにかかると云ふのは、そもそもそこから或思想を學ぶのを恐れてゐるからだと思ふのであります。

それと同じ事が、「行爲の自由」或は「行爲を拒絶する自由」を主張する人にも言へるのではないか、と私は思ひます。即ち、何かをする事が即、その人の思想を變へてしまふ事に繋がる、と、「行爲の自由」或は「行爲を拒絶する自由」を主張する人は信じてゐるのではないでせうか。私はそこに、コミュニケーション拒否と、自分の知らない事を知りたがらない精神とを見て取ります。

日本人が神道の流儀に從ふのは、日本人が日本人になる事でこそあれ、日本人が日本人以外のものになつてしまふ危險を冒すものではありません。その意味で、日本人が「國家神道」を拒絶する理由は全く存在しない、と私は思ふのであります。

又、神道の信者以外の信者が「靖國神社に祀られる事を拒否する自由」と云ふのも、例へばクリスチャンには存在しないのであります。ローマのカトリック教會は、布教地域の傳統を尊重するやう宣教師に指示してゐます。カトリック教會は、神道を日本の傳統的な先祖崇拜であると認め、否定してはならないと宣教師に命じてゐます。地域に即した形でキリスト教を布教する事は、クリスチャンに課せられた義務であり、逆に、地域の傳統を否定するやうな眞似をしてそこの住民の反感を買ふのは、布教を妨げる事になるから、まともな宣教師はそんな眞似は絶對にしません。

その意味で、日本人宣教師には、キリスト教を全然理解してゐない人が多いやうに、私には思はれるのであります。

西歐でも、ユダヤで生れたキリスト教は、勢力をローマからヨーロッパ全體に擴大する際、各地の土俗的な信仰を採入れてゐます。日本のキリスト教は、日本人の「西歐への憧れ」と云ふ奴に便乘して、キリスト教の日本化と云ふ事に餘り努力をしてゐないやうです。閑話休題。

逆に、日本の神道も、變なところで近代化し損なつてゐるところがありました。それが戰中の國家神道と云ふものを生じた原因ですが、その失敗を反省しないで、無かつた事にしてしまはうと云ふのが、現代の日本人であるやうに思はれます。日本では、罪障は、あつちの神樣からこつちの神樣に盥廻しにされ、祓はれていくうちに、いつの間にか無くなつてしまふ、と考へられてゐるのですが、キリスト教の罪の觀念に比べると、隨分好い加減なものです。もちろん、我々の文化はさう云ふものなので、それはそれで認めなければならないのですが、それで良いのか、と思つたら、反省して、我の持たないものを持つてゐる文化を眞劍に學んでみようとしなければならないのではないでせうか。

平成13年7月24日

日本に生まれ育ってよかったと思うことは多々ある。最近怪しくなったとはいえ、交通機関がほとんど寸分の狂いもなく動くとか、夜中に繁華街を一人でうろついていて身の危険を感じないですむなどといったこともオレが日本に住んでいることによって得られる恩恵である。そういう物理的な側面についてはまさに日本という国家の制度の賜物であって、それを否定することはできない。が、逆にいえばそういう快適さが得られるのであれば日本でなくてもかまわないし、恩恵を受けている対象について精神的に帰依せねばならない理由も見つけられない。そこを倫理的に攻撃されるのであれば甘んじて受けるしかない。インド学者として生きていくには、日本にいるよりもドイツやイギリスにいた方が生きやすい。そういうところへ移住する機会に恵まれないのはオレにそれだけの能力がないからである。

  1. 國民講座『討論・現代日本人の思想』で福田恆存は、たとへば、自分が日本人で日本が好きで、日本に生まれて日本を愛するといふところから出てこないで、東京タワーをつくらなければ日本の優秀性は信じられないといふ、これは世界どこでもさうなのかしら、と言つてゐる。日本に生れてきたから日本を愛する、と云ふのが本當の愛國心ではないでせうか。そこを倫理的に攻撃されるのであれば甘んじて受けるしかない、と受流すのではなくて、攻撃されるところは弱點であり、弱點は反省しなければならない、とお考へにならなければをかしいのではないでせうか。
  2. T.S.エリオットは、イギリス人の學者が人喰ひ人種の間に入って、それを研究するのは構はない、だが、そのイギリス人が人喰ひ人種と一緒に人を喰つてしまつたら、そのイギリス人はイギリス人でなくなる、と言つてゐますね。

ここだけがどうしても分からないのだが、別にオレは国家が国家のために死んだと看做される人々をまつること自体は否定していないのだが (まつりたくないという思想の自由があると考えていることも同様に否定しないのは既述のとおりである)、それが国家神道によらなければならないのはなぜか。アメリカでそれがキリスト教式で行われるのは、国家の成立ちにキリスト教が深く根差しており、現代においても国民の大多数はキリスト教徒だからである。日本における国家神道とアメリカにおけるキリスト教は違う。ユダヤ人を含む非キリスト教徒のほとんどはアメリカがキリスト教の国だと知って移住した人たちであるが、国家神道はものすごく政治的に作り上げられたもので、日本人の伝統的宗教心を反映したものだとは思えない。日本の伝統は本地垂迹説に基づく神仏混淆のいいかげんで融通無碍な宗教心にあるといえるだろうから、それに基づいた儀式のプロトコルを設定することは極めて困難だろう世界がこうなんだから日本もそうなるのが自然だ、というのは特殊事情を故意に無視した暴論であると考えるし、ましてそれが国家神道に基づかねばならない理由はない。日本人のための儀式なのだから日本の事情だけを考えればいいのである (韓国や中国などのアジア諸国の反発、といった要素はここでは措いておく)。

  1. 實は私は、國家神道と神道とを全くの別物とすべきではないと思つてをります。日本人特有の宗教である神道は、極めて曖昧なものであり、實體は存在しないも同然です。しかし、國家に屬するものは全て形式を持たねばならないのであり、所謂神道を國家の儀式や行事で用ゐる際には、國家神道の形式を借りるのであります。
  2. 私は、所謂神道と所謂國家神道との間に壁を作るのではなく、風穴を開けたいのであります。そもそも、近代化とは傳統の意識的な再構成であり、傳統的で曖昧な神道を意識的に再構成したものが國家神道と呼ばれるものであります。その近代化の過程を、一度の失敗を理由に否定する事はないと思ひます。ただ、失敗は失敗として、戰前流の國家神道のまづかつたところ(内部的・精神的な問題)は改めつつも、外面的・形式的な部分で國家神道の流儀は生かせる筈です。
  3. 日本の特殊事情に國家神道は適合しない、と云ふ事は無いと思ひます。そもそも日本は西歐の流儀に合はせようとして近代化を進めたのであり、その意味で傳統の近代化・自覺化は絶對になされねばならないものです。

    神道はキリスト教と異るのであり、キリスト教と同じやうに儀式のプロトコルを設定するのは極めて困難でありますが、だからと言つて諦める事はありません。それを諦めるのは、西歐と異る日本の特殊事情を尊重してゐるやうで、實は西歐に屈伏してゐるのであります。

  4. 私は、国家神道に基づかねばならない、とは考へないのであつて、日本が日本の傳統的な神道を近代的な國家の體制に組入れる方法――人間城の主さんの言葉によれば儀式のプロトコルなるものにする方法――は、必然的に「國家神道的」なものになる、と考へます。

    英國教會は、宗教の國家への屈伏であり、その成立によつてイギリスは近代國家への道を歩き始めたと言へます。一方、日本においては、國家神道が國家へ屈伏したとは言へず、寧ろ政治が自身の權威附けの爲に――或は、政治が政治以外から國家を動かす裏口として――國家神道に身を屈してしまつたところに問題があります。言はば、政治の側に責任があるのであり、國家神道の側にのみ問題を見出すのは責任轉嫁であります。政治がしつかりしてゐなかつたから、國家神道が勢威をふるはざるを得なかつた。そこを勘違ひしてはならないのであります。

所謂國家神道と呼ばれるものは、政治體制が崩壞して軍が日本の政治を引繼いで以來、急激に權威を増したのであつて、言はば「惡用」されたのであります。戰後、敗戰の怨みを反省と云ふ美辭麗句に置換へて、日本人は軍を惡者にし、軍に關係するもの一切を卷込んで、排除しにかかつた譯で、その一貫として、軍に利用された國家神道なるものもまた惡者扱ひされるやうになつたのであります。

だが、それ以前に國家神道と呼ばれるものはあつたのかと言へば、實は傳統的な神道と不可分だつたのであり、靖國神社もまた一般の神社と同じやうなものであつた事は、坪内祐三が『靖國』に書いてゐます。

實際のところ、神道が國家神道として權威を増した背景には、日本が追詰められてにつちもさつちも行かない状態になつてゐた事實があります。昭和に入つて、支那では戰爭が膠着状態に陷り、歐米諸國からは總すかんを喰らひ、日本人は心理的に切羽詰まつた状態になつてゐたのであつて、そこで神頼みに走つて神道の絶對化――國家神道の成立――を圖つたのですが、それが日本の近代化の末路であつたと云ふところに私はあはれを感じずにはゐられません。しかし、「やり直し」はそこからはじめなければならないのであつて、それまで一切を御破算にしても仕方がありません。


「排除の論理」とか「純粹病」とか、日本の風潮を表現する文句は色々作られて來ました。きだみのるは「部落」と云ふ言葉で象徴的に日本を表現してゐます。何うも、日本のやる事は「部落」の域を出ないのではないか,と私は思ふのですが、だからと言つて「部落」の事を私は輕蔑してゐるのではありません。きだは部落に馴染まうとしたのだし、日本の傳統から切りはなされ、フランスの傳統の中で育つたきだも、そもそも自分は部落の一員である筈だと承知してゐたのであります。

「部落」で時として起る事は「村八分」であります。日本人は、自分と考へを共有しない人をすぐに「村八分」にする。それだけは昔も今も全く變らない、日本の現實です。そして、その事を日本人は反省しない。戰前、國策に協力しない人間を「非國民」呼ばはりしたのは「村八分」の精神に基づいたものであります。それが戰後、國策に協力した人間を「村八分」にして、日本人は安心する。「やつつける」か「冷笑する」かといつた違ひは、相對的なものに過ぎません。本質的に日本人は變つてゐない。

平成13年7月24日

人間は知りたいと思つた事しか學ばない。


どうも野嵜さんは「善悪」と「真偽」の判断を混同しているのか、「善悪」の判断の下位に相対的判断と絶対的判断というカテゴリーを設けようとしているように見えるが、そのカテゴライズの根拠に文化的差異を持ち込んでもそれ自体に政治的な判断が働いているのではないかと思う。

善惡は絶對的判斷に屬し、正邪は相對的判斷に屬するのであります。


他人の主張に政治的な判断を見出すのは、御自分が政治的な判断を重視してゐる事の投影ではないか、と私は思ふのであります。もしさうならば、渡邊さんは政治的な人間なのであります。

平成13年7月23日

オレがなぜ神道の儀式という点では共通しているにも拘らず、知人の神前結婚式と国家的儀式とでは態度を変えるかといえば、一つには前者では縦令それが国家神道の神社で行われるとしてもあくまで個人的な儀式であって、オレにとって知人の門出を祝いたい気持ちが国家神道に対する違和感を上回るからである。もう一つの理由は、国家的儀式では国家が国家神道という一つの宗教に基づいた儀式を行うことは間違っていると思うからである。野嵜氏はアーリントン墓地と靖国神社の違いを故意に無視しているが (アーリントン墓地にあたるのは昨日も書いたが千鳥ヶ淵墓苑の方だろう) 政教分離をばか正直に守るのが日本くらいだからといってそれが間違っているということにはならないこういう時だけ多数派におもねるのは日和見である

  1. 国家的儀式では国家が国家神道という一つの宗教に基づいた儀式を行うことは間違っていると思うと、人間城の主さんはおつしやいますが、なぜ間違つてゐるのでせうか。私は國家が國家神道と云ふ一つの宗教に基く儀式を行ふのは當然だと思つてゐます。寧ろ、何にも基かない儀式を行ふ方が異常です。

    そもそも、死者を弔ひたいと云ふ氣持ちは、宗教的感情以外の何ものでもないのであつて、なのに無理矢理無宗教と言張るのは却つて自然な感情に反するものです。また、人間城の主さんは形式としてはキリスト教の墓地であるが、それはその形態がアメリカでは一般的であるからであり、非キリスト教徒の遺族はキリスト教の礼拝に参加しない自由がある、とお書きですが、同じ事は當然靖國神社についても言へるのではないですか。日本は神道の國であるから、死者を祀るのも當然神道と云ふ形式を取ります。もちろん、神道を信じない自由を人は保持しますが、神道の形式で執り行なはれる日本の儀式にその人は默つて從はなければなりません。その際、その人がクリスチャンであるのならば、外面は神道の形式であつても、心の内部でキリスト教の信仰を懷いて祈ればよろしいのであります。

    日本人は、「建前と本音」を使ひ分ける人種だと言はれてゐますが、なぜかイデオロギーや思想の話となると、建前と本音の徹底的な一致を主張するので不思議です。江戸時代のきりしたんも、「本音」を匿して蹈み繪を蹈めば良かつたのに、彈壓される道を選びました。幕府も、蹈み繪を蹈めば、本當はきりしたんであつても許す積りであつた、と云ふ説があつたやうに記憶します。

    一方、礼拝に参加しない自由なるものを、私は認めません。「嫌な事はしないで良い」と云ふ事は現實にあり得ませんし、「嫌な事をしないで逃げる」事に人は忸怩たる思ひをすべきだと信じます。また、既に述べた通り、神道の儀式に參加しないでそれを冷笑する自由なぞ、私は絶對に認めません。宗教を強制されない自由はありますが、一體、「拒絶した宗教を冷笑する自由」なんてものが、どうして認められるのでせうか。信教の自由に限らず、自由の本質を履違へてゐる人が日本には異常なまでに多いのですが、或思想を選擇する自由とは、自分の選擇しなかつた思想を馬鹿にして良い自由ではありません。自分の選擇しなかつた思想を、自由主義の國民は尊重しなければなりません。彼我の信條の違ひを、互ひに認め許す事が、自由主義では常に要請されます。

    異る宗教の信者が互ひに憎み合ひ殺し合ふのを避け、國家の統一を維持する爲に「信教の自由」は考へ出されたのであり、「信教の自由」を主張する際、人は自分の信じない宗教を尊重する義務を負ひます。にもかかはらず、我こそは自由主義者の見本である、とでも言ひたいやうな態度の人に限つて、「尊重する」「尊重する」と口先許りは良い事を言ひつつ、自分の信じない宗教を露骨に馬鹿にして憚らないものです。自由の履違へですが、その時その人の内部では、自由の絶對化がなされてゐるのであり、宗教に代る「自由への信仰」が發生してゐます。現代の宿痾である、「宗教の代用物としての自由」の淵源は、ここにあります。

  2. 野嵜氏はアーリントン墓地と靖国神社の違いを故意に無視していると云ふ指摘は、「それとこれとは話が別」式の、餘り意味の無い反論であるやうに思はれます。「なぜ人は人を葬るのか」と云ふ根本的な部分が問題なのであつて、人が人を葬り、弔つてゐる時點で、そこには宗教感情が入り込んでゐる事實を私は指摘したいのでありますから、私がアーリントン墓地と靖国神社の違いを故意に無視してゐるのは當然なのであります。
  3. 政教分離と云ふ事には、何の根據もありません。福田恆存は「私は政祭一致で良いと思つてゐる」と發言してゐます。實際のところ、政教分離をばか正直に守つてゐる現代の日本人は、分離された宗教を馬鹿にしてしまひ、分離した政治を無闇矢鱈と持上げてしまつてをります。それは困る事なのであります。
  4. こういう時だけ多数派におもねるのは日和見である、と云ふのは、「俺たち日本人は少數派であり、少數派は正しいのだから、この正しい事を守つていかねばならないのである」と云ふ事でせうか。少數派が少數派であるがゆゑに正しいと云ふ主張をした羽仁五郎は、福田恆存に徹底的にやつつけられてゐます

そうではなく、野嵜氏は「日本は氣違ひの國だと私が思ふ所以である。そして、氣違ひ九十九人の中に一人だけ正氣の人間が紛れ込むと、その正氣の人間は氣違ひから氣違ひ扱ひされるのである。」と述べられている。この文章は「オレは正常でオレ以外はキチガイである」としか解釈できず、したがって野嵜氏は自分が少数派であることを自認し、自分が正しいことを主張しておられる (少数派であることと正しいことを結びつけてはもちろんないが)。つまり野嵜氏は自分が少数派であるという立場から大衆を嘲笑している。それなのに「日本だけだよバカだね」というのは日和見である。さらにオレは、少数派だから正しいと言っているのではなく、少数派だからといって間違っているとは限らないと言っているに過ぎない。どこをどう読んだら「少数派は正しい」というように読めるのか。そういう自分に都合のいい意図的な誤読をしないでほしい。少数派だから正しいなんて本当に思っている奴がいたら正真正銘の低能である。

  1. つまり野嵜氏は自分が少数派であるという立場から大衆を嘲笑している、と云ふのは、人間城の主さんの勝手な判斷であり、眞實ではありません。特に、大衆を嘲笑していると云ふ部分は、寧ろ人間城の主さん御自身の無意識が反映されてゐるやうに思はれます。

    私は、「少數派は少數派であるがゆゑに正しいと云ふ主張は誤」と云ふ主張をしてゐるのであり、ならば自分が少数派であるという立場から大衆を嘲笑する事など到底出來ません。

  2. 少数派だから正しいと言っているのではなく、少数派だからといって間違っているとは限らないと言っているに過ぎない、と云ふ事ですが、それは私の主張でもあります。人は言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右されると申しますが、それでは困る、と云ふ事を私は言ひたいのであります。

    が、人数の多寡が判斷の基準とならないのならば、言論の是非をこそ人は判斷の根據としなければならないのであつて、その爲にはあらゆる角度から問題を見、冷靜に結論を引出さねばなりません。その爲には、是か非かを決定する爲の證據を、贊成派反對派が一生懸命に出し合はねばならないのであつて、少数派だからといって間違っているとは限らない、と言つたところで無意味なのであります。そして、相手の意見を無視してひたすら少数派だからといって間違っているとは限らないと言張り、それだけの理由で相手の主張を否定するとしたら、それは「少數派だから正しい」と云ふ主張を暗示的に押し附けてゐるのであります。

    或は、「少數者の主張だからと言つて、間違つてゐるとは限らないだらう?」と「詰問」し續ける事は、直截的な言ひ方でないだけに質が惡いものです。相手を論理的に追詰めるのでなく、相手を道義的に追詰める事だからです。


しかも、ここで例の「笑ひ話」が、伏線として生きてくるのだから、私の議論は恐ろしい。

赤信號を渡つてゐて警官に注意された醉つぱらひ曰く「赤信號みんなで渡れば恐くない」
「それぢや困るんだよ」と警官、苦笑ひ。
「赤信號だらうが青信號だらうが、道を渡つて何が惡い」
「道を渡るのは構はんが、交通法規と云ふものがある」
「交通法規は絶對的な眞實なのか? 警察の權威を笠に着やがつて、威張るんぢやねえ」

交通法規は絶對的な眞實なのか?、と言つた「醉つぱらひ」は、交通法規を論理的に全く否定出來てゐないにもかかはらず、絶對的な眞實なのか?と云ふ言ひ方で交通法規を根據に自分を取締らうとしてゐる「警官」を罵倒してゐる。そこが「をかしい」のであり、「笑ひ話」なのである。或は、威張るんぢやねえと言つてゐる「醉つぱらひ」自身が、何の權威もないのに威張つてゐるのがをかしいのである。

さて、この「醉つぱらひ」は、疑問に答へさせようとする事で、相手を道義的に責めてゐる。私は佐藤氏をこの「醉つぱらひ」に擬したのだが、佐藤氏だけが「醉つぱらひ」なのではないぞと言ひたいのである。「××なのではないか」式の議論は、好い加減止めるべきだ、と言ひたいのである。

アノニマスの「醉つぱらひ」氏は、別の場所で「少數者の主張だからと言つて、間違つてゐるとは限らないだらう?」と言つて、「多數派」を權威を笠に着て、威張つてゐると決めつけるかも知れない。

なほ、こんな理屈つぽい「醉つぱらひ」が現實にゐる譯はないので、上の「笑ひ話」は、笑ひ話として極めてリアリティに缺ける。しかも、「闇黒日記」を含む野嵜の議論全體と云ふ文脈を背景に考へないと、この「笑ひ話」の意圖はさつぱりわからない筈である。


と言ふか、私は、「精神的なエトランゼ」が、なぜそれでも國に歸屬したがるのか、なぜ物理的にもエトランゼとならうとしないのか、を理解出來ない。いまや日本は日本人でないエトランゼの國になつてゐる。日本は氣違ひの國だと私が思ふ所以である。と云ふ文章を、人間城の主さんは故意に見落としていらつしやいませんか。日本は氣違ひの國だと私が思ふ所以は既に述べられてゐるのであります。この部分に反論ナシで、少数派であるという立場からと云ふ批判をするのは、却つて自分が數に拘つてゐる事を自白してゐるやうなものです。

そもそも、私の據つて立つところは一體全體どこであるのか。それは「日本國内の少數派」であると同時に「世界の多數派」である筈だが、それを日和見であると決め附けられちやたまらない。實際のところ、私は「多數派」に與してゐる事を十分過ぎる程に意識してゐるのであり、「少數派」を氣取つてゐるのではありません。(氣取りはしないが、自嘲ぐらゐはしてゐるかも知れない)

寧ろ、少数派だから正しいなんて本当に思っている奴がいたら正真正銘の低能であるとおつしやつてゐる人間城の主さんは、 政教分離をばか正直に守るのが日本くらいだからといってそれが間違っているということにはならないと云ふ御自分の主張を御自分で反省しなければならないのではないですか。それが間違っているということにはならないとは即ち、「それが絶對に正しいと云ふ事にはならない」のですから。

或は、つつこみが入るだらうなと豫想した處にちやんと入るのだから、侮れない人は侮れない。


それにしても、HTMLは、註釋を附けるのに便利ですね。

平成13年7月23日

小林秀雄が大學の講義で難問題に取組んでうんうん唸つてゐると、眞劍に聽いてゐる學生達の一人がおづおづと手を擧げたさうである。「教室が違ふんですが……」

平成13年7月23日

OS/2は、「取敢ず何でもポイントして右クリックすれば解決可能」と云ふ仕樣を作り損なつて、渾沌の世界と化してをりました。

平成13年7月23日

念のために断っておくと、PCという言葉を見ればわかるとおり政治的とは倫理的というのと同義である。あるコンテクストを限定し、そこに「普遍」の場を作って「正しい」と判断を下すのが「政治的・倫理的」判断というものであって、それは必ずしも論理的な厳密さを必要としない。

申し譯ないが、政治的とは倫理的というのと同義と云ふ渡邊さんの主張に私は贊成出來ないばかりか、政治と道徳(倫理)は全く次元の異るものであるから渡邊さんの主張は間違つてゐると言はざるを得ない。

(グレアム・)グリーンは(『權力と榮光』の)ウィスキー神父をして、警部の人間性についてかう言はしめてゐる――You are a good man. (※英語でgoodといふ時は道徳的に善いといふ意味がある)

人の上に人を戴く警部は、人の上に人を戴く文化の全ての欠陥を持つてゐる。自分の不完全さを悟らず、自分の力を信頼し、平気で残酷になるといふ欠陥である。一方の人の上に神を戴くウィスキー神父は、人の上に人を戴く文化の欠陥を免れえてゐる。すなはち自分が情けない存在だと知つてゐて自分の力を信じず、残酷でゐられない。

政治は人の上に人を戴かないとやつていけないし、警部はさういふ政治の領域に属する人種である。それは人の上に人を戴く文化の欠陥から逃れられない。正義に拘はる事は出来ても、善に拘はり続ける事は出来ないのである。

英語の表現は道徳的な善悪と政治的な正邪を厳密に区別する。悪はevil、善はgoodであり、不正はwrong、正はrightである――そしてrightは「権利」を意味するのである。sinとcrimeを峻別するのが英語の(キリスト教の)文化であり、罪と犯罪を峻別しないのが日本の(人の上に人を戴く)文化である。(※かういふ道徳と正義とを峻別する文化を学ぶ事は、道徳と正義とを峻別しない日本人が英文学を学ぶ重要な理由の一つなのである。)

正義は政治に屬し、相對的なものである。一方、善惡は道徳(倫理)に屬し、絶對的である。イデオロギーも法律も正義に屬する。日本には、絶對の觀念がないから、政治と道徳は同じ平面上のものと認識される。しかし、政治と道徳を峻別しないのは、日本の文化の弱點なのであつて、それゆゑ日本人は西歐の文化を學ばなければならない。

もつとも、儒教では「道は近きにあり」と言ふし「孟子」、親の犯罪を子が役所に訴へ出る「正直者」の村を孔子が罵つてゐるし「論語」、道徳と政治には漠然と違ひのある事が示されてゐるのである。ただ、「修身齊家治國平天下」と言ふ時、修身齊家(道徳)と治國平天下(政治)の間にある差異が閑却されてしまふ。


福田恆存が「一匹と九十九匹と」で言つてゐるのだが、99匹の羊が生延びる爲に1匹を犠牲にしても構はないと考へるのが政治的な考へ方であり、いや、その1匹の幸福はどうなるのだ、と考へるのが道徳的な考へ方である。そして、文學者はその1匹の事を考へるべきなのだと福田は論じてゐる。

一匹と九十九匹の羊の喩へは聖書の喩へだが、聖書のキリストは、政治とは峻別すべき道徳の存在を強調し、道徳的に生きる事の重要性を説いてゐる一方、政治の存在を認めてゐる。それが有名な、「神のものは神に、カイザルのものはカイザルに返せ」と云ふ言葉なのだが、神のものとカイザルのものを峻別しない日本人はこの言葉を單に機知に基いたものだとしか解釋しない。


だが、「カイザルのもの」と「神のもの」とを峻別し、「神のもの」に屬する道徳を扱ふのが文學であるとはつきり認識するのならば、政治主義的な「文學作品」が道徳的に極めておぞましいものである事も見拔けるやうになる。

三島(由紀夫)の「憂國」が道徳的におぞましい作品であるのは、ポルノ作品として書かれたからではなく、登場人物が自己の「美學」に陶醉した作者の傀儡と化してゐるからである。作中人物と、作者自身との間に懸隔のない作品は、自己陶酔の産物にほかならない。

「英靈の聲」が道徳的におぞましい作品であるのは、「己の理想とする昭和天皇」をしか、三島は認めてゐないからである。三島は「英靈の聲」で、現實の昭和天皇を否定し、キャラクタの「昭和天皇」を自分の信ずるイデオロギーの傀儡としてしまつてゐる。

殘念ながら、多くの研究者は、三島の政治主義ゆゑの勘違ひを理解しない。三島を右翼であるがゆゑに支持する右翼は「現實の昭和天皇を三島は許せなかつた」と云ふ事を納得しないし、左翼は異るイデオロギーを信奉する三島を最初から理解しようとしない。松原氏は、このままでは三島の自害は犬死にになつてしまふそれでは餘りに(三島が)かはいさうである、と述べてゐる。

三島の「憂國」を、右翼はイデオロギーに基いて賞讃し、左翼はやはりイデオロギーに基いて否定する。一方、中野重治の小説を、右翼はイデオロギーに基いて否定し、左翼はイデオロギーに基いて賞讃する(「轉向文學者」であり、又のちに共産黨を除名になつた中野を、それゆゑ否定する左翼もゐるが、その場合、その左翼はイデオロギーに基いて中野を判斷してゐる)。

しかし、さう云ふイデオロギー的な「文學論」は、読者不在のマスターベーションに過ぎない許りでなく、文學の本質とは何ぞや、と云ふ事を閑却した政治の眞似事でしかない。議會で政策を論じ合ふ政治家の方々ならばいざ知らず、文學者が政治の眞似事を紙の上で行ふのは、無意味である。

又、三島の「憂國」を、美學的に評價しようとする右翼もゐる。この手の美學も日本的な餘りに日本的な代物であるが、美を奉じた芥川龍之介はプロレタリア文學の攻撃に堪へられなかつたのである。美はそれほど丈夫なものではない。

三島の晩年の政治的な小説は屡々嘘が書かれてゐるのであり、その嘘とは、まともな人間ならば絶對にやらかさないであらう事を、作者の都合で登場人物が平氣な顏をしてやらかしてゐると云ふ事なのだが、イデオロギーはその嘘を見拔く事を許さない。しかし、嘘は依然嘘なのであつて、人間の精神に關する嘘を文學は絶對に許さない。そして、三島と同じやうに政治に盲ひた中野も、自分の事を語るのに時として大嘘を吐いてゐるが、一方で、三島とは比べ物にならないくらゐ、正直に小説を書いてゐる。

日本の文學者が政治主義に盲ひて駄目な小説を書いてゐる事を、松原正氏は『文學と政治主義』で激しく批判してゐる。『文學と政治主義』の電子テキストが配布されてゐるから(第一章 大岡昇平と大江健三郎)、政治と道徳の峻別について興味のある方は貰つて來てお讀みになるがよろしい。

平成13年7月23日

Cascading Style Sheets愛用者にも認識の違ひがある。

スタイルシートでfont-size : 10pt;などと文字の大きさを絶対表示にしてしまう極悪なHTMLとCSSを書く人は相変わらず後を絶たない。それをやると“表示→文字のサイズ”で文字の大きさが変えられなくなってしまって、大きな文字で読みたい私にとっては苦痛でならないのだ。

 文字の大きさを厳密に決め、厳密なデザインを行なうために、スタイルシートが存在するからです。デザイナーが文字を10ポイントで表示したいから、font-size: 10pt と書くのであって、それは半ば当然のことです。趣旨にご賛同頂けないのであれば、CSS機能をOFFするのが礼儀でありましょう。

とりあえずWCAG(ウェブ内容アクセス指針1.0)とTechniques of WCAG(ウェブ内容アクセス指針1.0用技術)あたりをよんでみるとか。

相対指定で組んだほうがいいとか思った。あと、厳密なデザインが欲しかったらpdfでも使えばいいとか言う話。

絶対指定で組んでも構わんといえば構わんけど、wwwではデメリット大きいよなぁ。

絶對指定で固めた例※。作るの、凄い大變ですよ。しかも、一度作つたら、二度と直す氣がしなくなる。

※もつとも、良くわかつてゐない頃に作つたので、あちこちの指定が出たら目。

平成13年7月23日

「最近Internet Explorerが良く落ちるようになった。Mozillaでは安定してるので、そろそろ乗り換えるか」と云ふ發言を見る度に思ふ、「それはWindowsのレジストリか何かがをかしくなつてゐるんです。Internet Explorerが惡いんぢやありません」。

平成13年7月23日

/アール=デコ展@伊勢丹美術館/

「あーる高峰秀子」に聯想が働く俺は墜落してしまひました。

平成13年7月23日

根も葉もない話と、夢も希望もない話と、どつちが好き?

平成13年7月23日

ホームページ講座は凄まじい内容です。トップページが重いので注意してください。と云ふコメント附きで、KSmiracle Directoryのネタとしてタレコミがあつたのですが、どうせなのでここで紹介。

【ソースの構成】
  • メモ帳にタグを記述したものを「ソース」といい、これがホームページの正体です。
  • ソースの初めと終わりには必ず <HTML> と </HTML> を記述し、ソースはその間に記述します。
  • ソースは HEAD部分とBODY部分で構成されています。
  • HEAD部分はページのタイトルや JAVA SCRIPT などの本文以外の情報を記述します。
  • BODY部分は本文に表示させるタグを記述します。
  • <HTML> <HEAD> <BODY> タグは「構造タグ」といい、必ず記述しなければならないタグです。
  • <TITLE> と </TITLE> の間に記述した文字はブラウザの「タイトルバー」に表示されます。
  • BODY部分でも、 <!-- と --> の間に記述したものはタグとして認識されませんし、画面にも表示されません。後でソースを見る場合の参考のために、タグの説明などを書いておきます。
  • 画像や音声を用いる場合は、それらのファイルを「HTMLファイル」と同じフォルダに入れておきます。

上記の記述全てに「つつこみ」を入れられます。

野嵜は西久保さんを應援してゐます。

平成13年7月22日

先程の先生も、學生が、欠伸をせず、熱心に聽く振りをして呉れてゐれば、嫌な氣はしない。もちろんこの事は、學生が本當にその先生に心醉しなければならない、と云ふ譯ではない。學生はその授業を「詰らねえな」と思ひながら聽いてゐて良いのである。

一般に、自由とは、何かを行爲する自由であると思はれてゐる。そして、案外思想の自由は無視されてゐる。私は、行爲に自由はないと思つてゐる。その代り、何をするにしても、思想の自由だけは全ての人間に殘されてゐると信じてゐる。

神道を「信じない」と言張る人には、信じないのは勝手だが、信ずる振りくらゐはして呉れ、と言ひたいのである。


駄目な「ほーむぺーじ」を作つて日錢を稼いでゐる我がCSSコミュニティの方々ならば、世間に行爲の自由がない事、思想の自由が大事である事は、お解りになるだらうと思ふ。


なほ、「詰らねえ」と思ひながら授業を聽いてゐるうちに、その學生はその授業が面白くなるかも知れないし、學問の面白さに氣附くかも知れない。「神道なんて下らねえ」と思つてゐる人でも、神道を信ずる振りをして儀式に參加してゐるうちに、神道の意義を覺るかも知れない。「結論はわかつてゐる」と言つて、端から物事を拒絶する事もあるまい。

そこいらの新興宗教と、神道とを一緒くたにする事はない。「靖國神社には金を出したくない」と曰ふ拜金教徒と、金儲けに勤しむ新興宗教とは、寧ろ近いのではないか、それゆゑ新興宗教の信者と拜金教徒の現代の日本人とは、一致團結して神道を排撃するのではないか、とすら、私は思つてゐる。

平成13年7月22日

俺は自由主義者だが、本質的に人間には自由など無いと思つてゐる。


参加したくない者が傍観していることがなぜ参加している者の意義を喪失せしめるのか。

實は、私はこのやうな質問が出てくる理由がわからない。熱狂的な場に於て、冷靜な人間が一人でもゐる事は、熱狂を冷ます原因になる。どうしてこのわかり切つた事を、多くの秩序破壞者が理解しないのかが、私には理解出來ない。恐らく、相手の主張を理解しない事が自分の主張を押通すのには最良の手段だと云ふ事を、さう云ふ人は無意識に理解してゐるのではないか。人は、理解したい事しか理解しない。

或部分は無秩序で、或部分は秩序がある、と云ふ事は、兩者を合せた全體に於て、無秩序である。私は、それだけの事を言つてゐるに過ぎない。本質的に、自由か、秩序か、と云ふ問題なのである。

別の説明をしよう。授業をしてゐる先生が、眞面目な先生であるならば、學生が詰らなさうな面をしてこちらを眺めてゐたら、非道く嫌な氣分になる筈である。ここで、「先生には講義をする自由がある。學生にはその講義を冷靜に眺める權利がある」等と言つても、その先生には何の慰めにもなるまい。傍觀者の學生が一人でもゐれば、その先生は講義をする喜びを感じ得まい。

行爲さへ出來れば良いと云ふものではない或種の行爲があるものだ。それが儀式である。儀式に關する議論では、單なる物理現象以上の、精神の働きに對する考察が要請される。ところが、儀式に反對する人は、人間の精神を見ようとしない。


我々には「戦争で死んだ人を追悼するなど下らない」と考える自由があるのだ。

そんな自由はない。いかなる政治的信條を支持するかに自由はあるが、道徳に自由はない。死者は全て祀られねばならないのだから、戦争で死んだ人も當然祀られなければならない。


以下は物理的な話ではなくて、思想的な話。

日本人が日本国が行う儀式の目的や意図に共感しない自由、人間が共同体に違和感を覚える自由、等と云ふものは存在しない。自分の所屬する共同體のやり方に從へないのなら、その人は異邦人(エトランゼ)になるしかない。

私は、「精神的なエトランゼ」が、なぜそれでも國に歸屬したがるのか、なぜ物理的にもエトランゼとならうとしないのか、を理解出來ない。

いまや日本は日本人でないエトランゼの國になつてゐる。日本は氣違ひの國だと私が思ふ所以である。そして、氣違ひ九十九人の中に一人だけ正氣の人間が紛れ込むと、その正氣の人間は氣違ひから氣違ひ扱ひされるのである。やんぬるかな。

平成13年7月22日

「豪邸訪問」の類の番組を見てゐると、金持ちの豪邸に本はないのだなあと思ふ。

平成13年7月22日

7/22(日)「抗議デモ」の項にて、韓國の反日ムード、日本の反韓ムードの事が採り上げられてゐる。

韓國や中国の反日運動は、どう見ても内政干渉ではありませんね。植民地の宗主國に對する要求運動に似たものです。

平成13年7月22日

IBMがオープンに走つたのは、日本のDOS/Vが一因だと思ふけれども、オープンソースでIBMはMicrosoftに勝てるかどうか。

Microsoftのやり方は、批判は多いけれども、それでMicrosoftは大儲け出來てゐるのである。


憎むべし、輕んずべからず。

平成13年7月22日

満開製作所が5月に不渡りだか倒産だか。

平成13年7月22日

サイバーポルノで初の最高裁判断 被告の有罪確定
ちょっと強引じゃないかなあ。解釈でごまかすよりもさっさと今の時代にあった立法をした方がいいんじゃないかなあ。

かう云ふ言ひ方なら贊成出來る。

平成13年7月22日

絶對主義による押し附けは論理的にあり得る事であり、それはそれで筋が通つてゐる。しかし、世の中には「相對主義による押し附け」なるものが存在する。これは異常な事である。

「相對主義」は、言葉からして矛盾である。

そして、「相對主義者」に限つて、「あんたの絶對主義には干渉しない」と言ひ譯をするものだが、「相對主義」を信奉し、實踐してゐる時點で、「あんたの絶對主義」を否定してゐると云ふ事實に「相對主義者」は絶對に氣附かない。「相對主義」の見方で「絶對主義」を眺めるからである。その時點で「相對主義」の押し附けが發生してゐるのだが、「相對主義者」は自分の行爲が絶對的に正しいと信じてゐるから、自分の行爲を反省しないし、自分の行爲は相對的なものだと信じてしまつてゐる。しかし「相對主義者」の行爲だからその行爲は相對的だと云ふ譯ではない。その反省が出來なくなるから「相對主義」は惡質なのである。


「正しい」と云ふ事を押しつける人は、他の人にとつては迷惑かも知れないが、筋は通つてゐる。しかし、間違ひを押しつける人は、他の人にとつてはありがたい存在かも知れないが、筋だけは通つてゐない。

平成13年7月22日

放置されれば消えてしまふものを敢て放つておくのは、その存在を否定する事と同義である。ただ、「消えろ」ではなく、「放置されれば消えてしまふものならば、消えるのが當然なのでせう」と言ふのは惡質である。自分の意見を、萬古普遍の眞理であるかのやうに見せかけるのは虚僞である。

「そんな馬鹿な事、俺は嫌だが、あんたがやりたいのならば、勝手にするが好いさ」と言ふのは、相手の意見を認めてゐるやうで、實は認めてゐない。

平成13年7月22日

「つくる会」の歴史・公民教科書を批判する時、「イデオロギーが誤つてゐる」と云ふ主張と、「記述が誤つてゐる」と云ふ指摘とを、ごつちやにしてゐる人が非常に多いやうですが、兩者は分けて考へるべきです。

「イデオロギーに基いて事實を歪曲してゐる部分」と、「勘違ひ・無知による誤り」を混同して批判すると、「お前の批判は、イデオロギーに基いた惡質なレッテル貼りだ」と云ふ「反論」に反論出來なくなつてしまひます。

平成13年7月22日

これは私への挑戰であると看做して反論。人間城の主さんにも煽られてゐるし。

とは言へ、蓮川氏が述べてをられるやうな「戦後民主主義」的な通念と正反對の考へ方も成立するし、それはそれで筋は通つてゐるぢやないか、と私は書いたのであつて、反論も何もないのである。ただ、私は「戦後民主主義」的な通念に潛む「商人根性」が堪らなく嫌である。

 神社に死者がいるという信仰を共有しない人間にとって、そのような信仰を持つ人間がそのような信仰にもとづいて祭ることに文句を云う必要も権利もないが、しかし見誤ってはならないのは、靖国が問題になるのは、信仰を共にしない人間が、祭る行為や、それにかかる費用といったものを分担することが正当なのかということなのだ。

要は「俺は金を出したくねえ」と云ふ事であるが、「俺はあんたと意見が違ふ」と云ふのは言ひ譯であらうと私は推測するのである。

もちろん、その言ひ譯が先だらうが後だらうが、屁理屈は屁理屈なのであつて、なぜなら意見の相違は金を拂はないで良いと云ふ理由にはならないのである。私が拂つた税金は私と意見を異にする人間の爲にも當然使はれてゐる。

金、金と言ふ精神はけち臭い。「商人根性」と私が呼ぶ所以である。金は賤しいものであるべきである。「武士は食はねど高楊枝」と云ふ諺の復權を願ふ。

しかし、「靖國神社にだけは金を出したくない」と言ふのならば、「金を出したくない」は目的でこそあれ、理由ではない。「金を出したくない」から「靖國神社は許せない」と言ふのは、「逆切れ」である。もちろん、蓮川氏の主張はさう云ふ主張ではないのであつて、靖國神社に關して金の話を持出すのは本質的に議論と無關係の事なのである。

 靖国の存在そのものは文句をいう筋合いのものではない。単に、それが時の権力ととくに親しい関係を持つと云うことが批判されるべきなのだということだ。

この意見に對しては、人間城の主さんがかう述べてをられる。

国家は道徳的規範などということに関与すべきではない、という点はオレは同意するが、ここが議論の別れるところかもしれない。国家が家父長のごとく規範を率先して垂れるべきだとする立場もあるからね。

實際のところ、國家が道徳的な指導者として絶對的な權威となる事は不可能なのだが、一方で、國家の儀式はあり得る。その儀式には國民全員が參加した方がよろしい。儀式は觀察すべきものではなく、傍觀すべきものでもなく、參加するものである。國家の儀式に參加する事で、國民は國家と云ふ共同體への歸屬意識を存分に味はふ事が出來る。そして、冷やかな眼の存在は、存在自體が儀式に參加する人間の意義を喪失せしめる。

「祀りたい奴は勝手に祀れ、俺は嫌だ」と言ふ事は、それ自體「祀りたい奴」の行爲を完全否定するのである。秩序と渾沌とは、全か無か、の關係にあるのであり、「ある者は秩序を、ある者は渾沌を」とは、既にそれ自體が渾沌である。

このやうな言ひ方は、全くもつて「自由の惡用」であると思ふ。「××したつて良いぢやないか」は、自由の押し附けである。

 その意味では、A級戦犯合祀といったことは二次的な、外交の政治的な事柄に過ぎない。慰霊碑ということも、そんなに国家のために死んだ人を祭るなどという国家主義的イベントがやりてえならせめて特定宗教とタイアップせずにやれっちゅうねん、という話で、それを文化の欠けた近代のやりくちと見なすのは文脈を見失っている。

これは惡質なレッテル貼りである。國家が国家のために死んだ人を祭るのがどうしていけないのか。それを全く説明しないで、国家主義的だ、と言ふのは、「お前は非國民だ」と同じレヴェルの讒謗である。アメリカには、ヴェトナム戰爭で死んだ兵士の爲の慰靈碑があるし、アーリントン國立墓地がある。アメリカは国家主義的な國か。

また、國家が特定宗教と結び附く事は當然あるべき事である。アメリカの議會でも裁判所でも、宣誓はキリスト教の聖書に手を置いて行はれる。「政教分離」を馬鹿正直に遵守する國家はこの地上に日本をおいてほかにない。

 しかし文化ということをいうなら、国家に貢献した人間を神として祭る、というのは、生け贄の論理であって、はしたないことだと思う。

生け贄の論理なる言ひ方は、ただのレッテル貼りに過ぎないし、理屈にもなつてゐない。生贄は文化に屬するものだからである。動物は生贄を捧げない。生贄を捧げるのは人間だけである。「生贄即はしたない」と考へるのは、文化と云ふ事を理解してゐないからである。

文化とは、動物と人間を分かつものであり、人間を動物並に貶しめるものではない。そして、動物も人間のやうに合理的な行動を取るのであり、合理を超えた行動を取るのは人間だけである。合理主義に私が反對し、神秘的なるもの、宗教的なるものを守らうとするのは、そのためである。

私は、拜金教徒である現在の日本人よりは、金以上の價値を信じた(或は信ずる振りをした)過去の日本人の方が増しである、と言ひたい。神道は、宗教としては幼稚なものだし、國家に利用されたものであるが、利用される事は惡いのかと言へば、さうとも言へまい。寧ろ、神道を變な風に利用した日本人の精神こそ問題であらう(もつとも、その精神と、神道と云ふ宗教とは不即不離のものではあるが)。

「何かを利用して失敗した」時、利用の仕方を反省せず、「その何かが惡かつたのだ」と決め附けて事足れりとするのは、日本人の惡い癖である。「國家に利用された神道は、利用されるべき價値を持つてゐた筈だから、これからはもつと良い方法で扱はう」と考へず、「國家に利用されたのだから神道は惡いのだ」と決め附けて、日本人は神道をひたすら排撃しようとする。しかし、神道は、日本人だけのものなのである。

神道をひたすら排撃するのは、神道と不即不離の日本人の精神や價値觀をも卷込んで破壞してしまふ事になりはすまいか。


以下の段落は、上の文中のどこかに挿入しようとして、果せなかつたものである。

そもそも國家の存在意義と云ふものを考へれば、國家は國民を統合する爲の存在である。既に國民が國家を作つてゐる以上、國家の存在の是非を云々するのは不可能であるし無意味である。既にそこには、國家による統一と、秩序が期待されてゐると看做さざるを得ない。左翼はそれに反對するかも知れないが、彼らはそれでは徹底した無秩序と渾沌を期待するかと言へば、さうでもなからう。

人間は、自由と同時に秩序を求める。私は自由主義者だが、自由の限界も知るべきだと思つてゐる。

平成13年7月22日

圖書館から借りてきてゐる本、讀切れないよ。

『日本語の文法』
大野晉著・角川書店・昭和63年4月25日初版發行
『日本ニ於ル言語觀念ノ發達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)』時枝誠記博士著作選1
明治書院・昭和51年9月25日發行
『森銑三著作集第一卷人物篇1』
中央公論社・昭和45年12月10日初版發行・昭和48年7月10日普及版發行
『日本思想體系36 新井白石』
岩波書店・1975年7月4日發行
『日本思想體系25 キリシタン書 排耶書』
岩波書店・1970年10月26日第1刷發行・1974年4月1日第1刷(2)發行

13日に借りて來たのだが、27日までに返さなければならない。しかし、2週間で讀切るのは、無理です。


ベストセラーだの文庫本だのを基準に、貸出期限と貸出制限數を決めるな。(落ち着けッ)

平成13年7月22日

私は個人的に1行36文字に設定しているが、多くても40文字ぐらいで行は変えるべきではないだろうか。

頭や首を動かさず、目だけで文字を追えるようにして、少しでも読者の負担を軽くすることが文章系ホームページ作者の最低限の常識だと考える。

それを餘計な御世話と言ふのです。

絶對に1行36文字でなければならないのかね、絶對に多くても40文字ぐらいで行を變へなければならないのかね。20字ではいけないのかね、1600×1200の畫面にしてゐる閲覽者もまたその制約を強制されねばならないのかね。tableだのbrだので變に整形されてゐなければ、ウィンドウのサイズを變更する事で閲覽者は自分にとつて都合の良い状態にする事が出來る、と云ふ事に、なぜ氣附かないのかね。

ネタ仕入元:そのDTDもどうかと思った 2001-07-21T21:12:51+09:00 @ [Hello World]


最近、目が疲れるので、Internet Explorerの文字のサイズを「最大」にしてゐるのだが、讀む側の都合を考へて呉れないサイトが結構ありますね。また、font-familyにsans-serifを指定されてゐると、うちでは化けるんです。[ツール]-[インターネットオプション]-[ユーザ補助]で「Webページで指定されたフォントスタイルを使用しない」「Webページで指定されたフォントサイズを使用しない」にチェックを入れてゐますが、何とかならないものですかねえ。

平成13年7月21日

WXGの「辞書エクスプローラ」では、單語を選んで切取・コピーが出來るのは當然の事、辭書テキストから單語を貼附ける事も出來る。

平成13年7月21日

WXGのヘルプ。擴張品詞のところ。

終止形+
用言の終止形の後につく。『笑う-んだろ』

これ、「連体形+」ではないのかねえ。上の「笑う」は連體形ではないかねえ。

平成13年7月21日

辭書のチェック、全然終つてねえよ。終らねえよ。

何やつてんだ、俺。

平成13年7月21日

やつとIMEのユーザ辭書を一通りチェックし終つた。平行して附屬語辭書もいぢつてゐたのだけれども、結果としてユーザ辭書と合はせて恐るべき癖の強い代物になつてゐる。以前から譯のわからない辭書であつたが、現状、WXGユーザの中で最もあくの強いものであらう。十秒くらゐ考へて、一つの文章を一つの「文節」に變換して呉れたりする。恐らく私以外の誰も使へまい。公開しません。

大野晉の『日本語の文法古典篇』を讀んでゐるのだが、文法の原理を知らないとIMEの辭書はいぢれませんね。


實は1年以上前に、正かなIMEを作ると云ふ「IMEプロジェクト」なるものをはじめてゐる。で、プログラミングを羽織ゴロ助さんにお願ひし、私がかな漢字變換のアルゴリズムを考へる、と云ふ事になつてゐたのである。プログラムの基礎部分は出來上がつてゐてこずゑの部屋で公開されてゐるのだが、私がアイデアも何も出さないので、かな漢字變換のアルゴリズムは全く實裝されてゐない。HTMLだのCSSだのと騷いでゐたせゐもあるが、私がアイデアを出さなかつたのは私に知識が無い爲である。

或語の前後にどのやうな語が附くか、をきちんと記述し、データベース化して、それをIMEがうまい事使へるやうにすれば、良いIMEが出來ると思ふのだが。個人的には、入力した一つの文章を、文節に分割するのではなく、そつくりそのままの形で變換出來れば良いと思ふ。日本語は膠着語なのだから、英語みたいにわかち書きしなければ駄目、と云ふのは、嫌ぢやないか。

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