解つてたまるか!

平成13年7月20日

靖國神社ではない戰沒者慰靈墓地を作る構想が持上つてゐるのださうで、現代の日本人は戰前のものを戰後流に燒き直すのが大好きだからこの構想も實現するだらう。嫌な話である。

なぜ靖國神社は駄目なのかと云ふと、A級戰犯が祀られてゐるからださうである。A級戰犯を除け者にした戰沒者慰靈墓地ならば、首相も大威張りで參拜出來るから便利なのださうである。祀る側の都合が最優先と云ふ事だ。戰沒者を置去りにした戰沒者慰靈墓地。

多くの同胞を死に致らしめたとして日本人はA級戰犯を憎んでゐる。それはそれで結構だが、日本人を死に致らしめたA級戰犯を憎むのならば、日本人を殺したアメリカ人となぜ仲良くしようとするのだらうか。いやいや、日本人を殺したのはアメリカ人だけではない。ロシア人も中國人もイギリス人も、日本人を殺してゐる。

そもそも、A級戰犯は所詮、政治的に裁かれた人間であるに過ぎない。既に述べた通り、政治的な思想・信條によつて、或人間が道徳的に善人であるか惡人であるかを決定する事は出來ない。A級戰犯の指導した政治が「誤つてゐた」としても、それは道徳的・絶對的な誤りであつた譯ではない。更に言ふならば、A級戰犯が同じ日本人を死に至らしめた事自體、全く咎められるべき事ではない。同じアメリカ人を戰場に送り込んだ當時のアメリカ大統領・ルーズベルトを、殆どのアメリカ人は非難しない。

勝ち負けが問題なのではない。そもそも、政治は時として國民を死に致らしめるものなのである。國家が全體として生延びる事が政治の目的であり、その爲に一部の國民の犠牲は當然の事とされる。政治の世界は相對的なので、死者の多寡は關係ない。政治は個人を救濟しない。個人の救濟は宗教の使命である。

國の爲に死んだ日本人は靖國神社に祀られる。それは大東亞戰爭で日本が負けるまでの日本人の常識であつた。大東亞戰爭で死んだ人々は當然、自分が靖國神社に祀られるものと思つてゐた。死者は戰沒者慰靈墓地に祀られる事等、全く豫期してゐなかつた。

戰死した人々もA級戰犯も、間違ひなく國の事を思つてゐたのであり、でなければ、程度の差はあれ、どちらも自分の身を可愛く思つてゐたに違ひないのであり、それでも兩者は戰爭で死んだ事に變りはないのであつて、ならば同じ死者として差別されるいはれはない。兩者を同じやうに祀る靖國神社の態度は正しい。兩者に差をつけようと考へる人間の方が間違つてゐる。

戰死者とA級戰犯とを差別しようとする人間に尋ねたいが、あなたに死者を裁く權利がなぜあるのかね。

平成13年7月20日

戰前は「俺の事を右翼と呼んでくれても良いよ」と言つても全然問題が無かつたし、「俺は左翼だ」と言つたら袋叩きの目に遭つたものである。戰後は「俺の事を左翼と呼んでくれても良いよ」と言つても全然問題が無いばかりか、「俺は右翼だ」と言つたら袋叩きの目に遭ふ。

「右翼=體制側」と云ふ圖式は間違つてゐるのであつて、戰後の日本の社會の體制は完全に左翼の體制であり、その體制に與する事は非常に氣安い事なのであつて、だから今の日本人は皆「自分は左翼である」と思ひ込みたがるのである。

平和の時の平和論と云ふのは、内村鑑三の言葉だつたかね、山本夏彦翁が好んで使ふ言葉である。


右翼とか左翼とか言つてゐるが、結局彼等は政治主義的な人間であるに過ぎない。政治主義的な人間は、個人を見ないで集團を見る。人間は、相對的な世界に住んでゐるから、絶對的な眞理で全てを割切る事など到底出來ないし、よつて相對的な基準で社會を割切る事しか行ひ得ない。その爲に反對者は常に現はれるのだし、それがいかなる政治的主張も相對的であると云ふ證據なのだが、その現實を政治主義的な人間は認められない。右が左を否定し、左が右を否定するのは、右は右の政治的主張が絶對の眞理であると信じ、左は左の政治的主張が絶對の眞理であると信じてゐる事によつてなされてゐる事であり、結局のところこれは絶對の探究にほかならない。

右だから馬鹿だとか左だから馬鹿だとか云ふ事はないのであつて、右にも左にも馬鹿はゐるし利口はゐる。それゆゑ「あいつは右翼だから馬鹿だ」とか「あいつは左翼だから馬鹿だ」とか云つた判斷をするのは意味がない。


問題は、右にしろ左にしろ、個人は二の次だと云ふ事である。

左翼は「個人を守る」と云つてゐるが、「個人を守る」と云ふ思想自體が重要なのであつて、本當に個人の事を考へてゐる左翼はまづゐない。それゆゑ、人權よりも人權思想の方が、プロレタリアートよりもプロレタリアート獨裁の方が、「自己實現」の保證されたユートピア社會よりも、ユートピア社會を實現する爲のマルクシズムの方が、守られねばならないと左翼はすぐに言ふ。所詮「カイザルのもの」に屬する政治で以て「神のもの」に屬する個人の救濟なんぞをやらうとしてゐる時點で、左翼の思想は間違つてゐる。

では右翼の思想はどうかと言ふと、こちらは正直ではあるのだが、正直の上に馬鹿が附くのである。


それでも、集團が生活していくには、割切りが無ければ仕方がない譯で、それゆゑ私は政治を否定しない。ただ、政治に絶對的な價値を見出すのは馬鹿だと言ひたいだけである。ただ、相對的な現實を見る時に、相對的であるがゆゑに必然的に要請される二元論を、我々は馬鹿にし過ぎてゐるのではないか。一面の眞理と云ふ奴を、我々は實に安易に否定する。右の思想も左の思想も、一面の眞理であるに過ぎない。しかし兩者は、政治と云ふ場で通じ合ひ、手を握りあつてゐる。

政治主義に我慢ならないのが文學者である筈で、彼らは政治とは全く異る次元で一面の眞理を提示し續ける。それは即ち道徳と云ふ事であり、道は近きにあり、道徳は個人に屬するものだが、政治主義からはかけ離れた一面の眞理と云ふものを、政治主義的な人間は全く理解しようとしない。その點では、右と左が共同戰線を張つてゐるやうに、私には思はれる

左翼全體主義を指彈し續けたジョージ・オーウェルをソヴィエトの共産主義者やイギリスの社會主義者は叩き續けた。福田恆存は晩年、保守文壇から干された。

そして、政治主義的な人間にしてみれば、「叩かれる方が惡い」のであり「干される方が惡い」のである。日本に限らず政治主義的な人間は大勢力を誇つてゐるから、反政治主義の人間の分は極めて惡い。

平成13年7月20日

WXGの辭書のメンテナンスは終りさうにありません。

當方にとつてのみ致命的な問題が發生。

か 化:体言+,さ変名詞
ば 場:拡張の+,名詞

を附屬語辭書に登録してゐると、

ばか 馬鹿:拡張の+,名詞

を登録しても「のざきのばかが」が「野嵜の場化が」にしか變換出來ないよ。「××の馬鹿」云々はきちんと變換出來るやうにしたいのに。

と言ふか、附屬語辭書に細工をし捲つて譯がわからん事に。既に連文節變換ではなくなつてゐやがる。綺麗さつぱりカスタマイズを消し去つて、0から作り直した方が良いやうな氣もする。

平成13年7月20日

今週末も雨は降りさうにありませんよ。干上がりさうですよ。

泳ぎにでも行くかね。プールでオフ會なんて企畫したら、人が來るかね。

平成13年7月20日

「Cascading Style Sheetsで××をやらうとしたが、うまくいかない」と言ふ人は、すぐに「惡いのはCascading Style Sheetsだ」と云ふ結論を下し、「レンダリング出來ないブラウザが惡い」と云ふ結論が下されるのを認めない。

「プログラムがデータ形式をサポートしないのが惡い」と「プログラムにサポートされないデータ形式が惡い」とでは、どちらが絶對に正しいと云ふ事はない筈である。だから、根據を擧げて自分の信ずるところを陳べ合つて、その是非を議論しなければならないのだが、その際、彼らが前者を支持する理由がふるつてゐる――「どうしてさう考へて惡いのですか」。

ちつたあ頭を使へ、馬鹿者。

平成13年7月20日

最近、XHTMLとかCSSとかのサイトを詣でる事をさぼつてゐるので、ISO-HTMLに移行したりしてゐるサイトの發見が遲れがちに。

(NOB)'s Web ServiceがISO-HTMLに移行してゐる。何か。の略歴もISO-HTML化。


ISO-HTMLバナーコレクションの野嵜作のバナーは時々改訂してゐます。

平成13年7月20日

まことさんのとは別のあれ。ヴァージョンアップ。

平成13年7月20日

サイトを開きたいユーザはYahoo!ジオシティーズを使へ、とか言はれるのかな。

平成13年7月20日

「××のため、日記を書けなくて、すみませんでした」と云ふ記述をよく見るけれども、「ウェブ日記」を書けず、公開出來ないと云ふのは、どうしても謝らなければならない事なのでせうか。

「ろくでもない事を平氣で書く」のは、良くない事だし、謝罪すべき事だけれども、「理由があつて書けない」のは仕方の無い事だし、謝るべき事でもないと思ふ。

「ウェブ日記」はタダなのだし、タダのものを享受出來ずに怒る人がゐるとしたら、怒る方がをかしいよ。


何でそんなに謝るの。謝らなくても良い時に謝つて、自分を善人に見せかけるよりも、本當に謝らなければならない時にきちんと謝るやう努力しなければならないのではないかねえ。謝罪の安賣りをしてはいけない。

本當に謝らなければならない時にきちんと謝るのは、とても難しい事だよ。俺だつてさうさう出來ない事だよ。

平成13年7月20日

「右の頬を撲たれたら左の頬も差出せ」とイエス・キリストは言つたが、そんな事は土臺、人間には出來つこない、とキリストは知つてゐたのである。しかし日本には、その人間には出來ないわざを、簡單に出來ると思ひ込み、それが出來ない奴は馬鹿だと言張る人間がゐる。さう云ふ事を主張する人間に限つて、敵を憎む事甚だしいのだが、彼らはそれでも自分たちが善人であると信じて疑はない。

「善人なをもて往生をとぐ、況や惡人をや」――善人面をするのは道徳的に極めておぞましい事であると親鸞は言つた。親鸞は實に意地惡な坊主だつたから、死ぬまでに散々人間の幻想を叩き捲つて、それが餘りに身も蓋もなかつたから、弟子たちは一生懸命ごまかしをやつて、それで淨土眞宗はいまだに續いてゐる。俺が死んだら死體は鴨川に捨てろと開祖が言つた教團が、平然と葬式をやつてゐるのである。

もつとも、それが日本人なのであつて、私は「葬式佛教」を非難しない。それにつけても、日本人はごまかしの好きな人種である事よ、と私は言つてゐるに過ぎない。もちろんそのごまかしは、身内の間でしか通用しない自己欺瞞であつて、自分で自分を納得せしめる爲の「合理化」でしかない。

平成13年7月20日

なぜそんなに自分の意見を他人に納得して貰ひたがるかね。それは意見の押しつけではないかね。

自分と他人は違ふのだと云ふ事を、なぜ納得しないかね。

平成13年7月19日

「反省するのは偉い事なのだ」と日本人は思ひ込んでゐるが、「反省」とはどう云ふ意味かね。

平成13年7月19日

引續きWXGのユーザ辭書のメンテナンス。

そこかしこにかつての論爭の爪痕が。さつくり削除。

平成13年7月19日

 なにやら感動的な歌詞であるが、本質あまり変わってないような…。こういうテーマ丸出しな歌は悪趣味だと思うんだがな…。もののけ姫が気に食わないのと同じなんだが。

何だか新興宗教のみたいな歌ですな。

と言ふか、「戰爭しないぞ戰爭しないぞ戰爭しないぞ」とか「反省するぞ反省するぞ反省するぞ」とか、この手の人たちは毎日みんなで唱和して喜んでゐるんぢやないですか。反對勢力を見下して、自分たちだけ解脱を果したかのやうに思ひ込んで、悟りすました顏をして、「戰爭に反對しない彼らは生きる資格ナシ。ポア」とか言つてゐたりするんぢやないですかねえ。

實際のところ、この手の反戰主義者は「右翼」だの「保守反動」だのの片鱗を見せる人間を見つけると、物凄い勢ひで嘲笑しはじめます。そのうち、何人かでその一人を取圍んで、相手の人格を否定し續け、洗腦し、思想改造を行はうとします。反戰思想の信者は新興宗教の信者と一緒です。人格否定や洗腦、思想改造が善い事だと思ひ込んでゐるから、連中は始末に追へない。

平成13年7月19日

カートゥーンネットワークで「魔法のエンジェル スイートミント」を見たら「はまつて」しまつたよ。「レイズナー」より面白いや。笑ひ。

平成13年7月18日

なぜうちの近所だけ雨が降らない。雷樣殺す。

平成13年7月18日

Mozilla 6のComposerの擧動は、何とも怪しげでとても愉快。

平成13年7月18日

IME(WXG4)のユーザ辭書のメンテナンスを久々にはじめたら、全然終らない。ファイルサイズを見たら6MBある。

附屬語辭書も4MBあるし。


システム辭書が9MB強。

平成13年7月18日

「言葉 言葉 言葉」用のスタイルシート改修を決意→實行→挫折。

平成13年7月18日

日本語變換ソフト「契沖」は、いつリニューアルされるのでせうか。

平成13年7月18日

雨量・雷観測情報がリニューアルしてゐる。

平成13年7月18日

プログラマークエストって読んでるとせつなくなる(謎)。

自分の感情くらゐ、自分でわからないのですか。


方言にも良い語と惡い語とがある。標準語に良い語と惡い語とがあるやうに。

平成13年7月18日

 最後に、最近見つけたこんな話。あるメーリングリストにおいて「ハッカー」という言葉をある人が使ったところ、返ってきたレスポンスはたったの1行でした。

 hackとcrackとは違います。

 これだけ。これでは、さっぱり意味が伝わりませんよ。ただ間違いを指摘するのではなくて、hackとcrackがどう違うかをちゃんと説明してあげる。そして、相手が何を言いたかったのかを理解したうえできちんと返事をつける。そのくらいのことはやってほしかったなぁって思いました。…これが私が本当に言いたかったことです(苦笑)。

上の指摘は大贊成なのだけれども。

 「言葉は正しい意味で使うべき」という主張がよくあります。確かにそうなんですが、言葉というのは生き物でして、時代とともに変化するものですし、また使っている人によっても微妙に意味が違っていることだってあります。そこから起こる誤解を防ぐために、学問ではまず用語の定義から始めるわけですが、普通のコミュニケーションにおいてはそこまで厳密にする必要もないんじゃないか?とも思いますね。

 例えば、私は「チェーンメール」のコラムで「普通のメールだって途中でハッカーの手によってどうかされる可能性があるんですから」という表現を使いました。すると、数人の方から指摘を受けました。「ハッカー」とは本来「コンピュータにとても詳しい人」の意味であり、ここで言うような「他人のコンピュータに侵入して悪事を働く人」という意味では「クラッカー」を使うべきではないか?というものです。

 この指摘、私にとってはとてもありがたいものです。感謝してます。しかし、私はここではあえて「ハッカー」という言葉を選んで使っていたのです。「ハッカー」は和製英語としてほぼ定着していると判断しました。ここでは「クラッカー」を使うよりも「ハッカー」のほうが多くの人にとっては理解しやすいだろう、と私は今でも思ってます。「クラッカー」という言葉を知っているほど詳しい人ならば、おそらくここで「ハッカー」と書いても分かってくれるだろうという期待もありました。

 私の中にも「正しい意味で使うべきではないか?」という疑問はあります。しかし、多くの人に見てもらうホームページですから、できるだけ多くの人に理解してもらえる表現を使ったほうがいいのではないか…というのが現時点での私の考えです。もちろん異論もあるでしょうし、ホームページの趣旨によっても変わってくると思いますが。

「本來誤であつても、理解し易いから使ふ」と云ふのは、非常にポピュラーな屁理屈であります。なぜ屁理屈であるかと云ふと、「理解し易い」と云ふ部分に根據が全く無いからです。

實際のところ、この手の「理解し易い言葉」「わかり易い言葉」「簡單な言葉」が誤解を生ずるばかりでなく、屡々トラブルを誘發する事實は、引用元の文書を參照すれば明かです。

問題は、この手の言葉を、文章の筆者がぽんと抛り出すところにあります。言はば「符牒」みたいなもので、「解る人間には解る」と云ふ語に過ぎないのですが、それを筆者が「一般に理解される筈だ」と決めつけてゐるところに問題があります。

要は、説明を省きたがり、讀者に「ツーカー」の理解を求めたがる文書の筆者の知的怠惰に問題がある譯です。殘念ながら、この手の知的怠惰を指彈する事は、日本國では許されてゐません。もし指彈すれば、即座に「言論彈壓」のレッテルを貼られます。

假名遣にしても漢字にしてもさうなのですが、なぜ文章の書き手を甘やかす事が、日本では好まれるのでせうか。その結果は、讀者に無用の負擔をかける事になるだけなのですが。


わかり易い語を選べ、と云ふのならば、上の例では「ハッカー」も「クラッカー」も不可で、私ならば「惡い人」と書きますね。或は「惡いハッカー」とか「惡いクラッカー」とか、「惡い」と云ふ形容詞を上に附けるだけでも、意味が限定されて、より正確で誤解の減る言ひ方になります。それでも誤解する人は出てくるでせうが、さう云ふ人はどんなに懇切叮嚀に説明されても理解出來ませんし、理解する努力をしませんので、放つておきませう。

平成13年7月18日

雷がきこえたのに、結局雨は來ず。暑い。死ぬ。

平成13年7月18日

「言葉 言葉 言葉」人氣カウンターで投票しようと思ったのですが、私が推すネットワークパロディ文書アーカイヴ(細かく言えば、本物のウェブ管理者)やPC Columnsの項目が無いではないか。なんてっこった。

對應しました。御指摘ありがたうございます>U-Z樣。

http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/csslink.html
がh2から始まっています。

御指摘ありがたうございます>D.Tomita樣。

 調べずに書いておりますので間違っていたら申し訳ないのですが、訳の解らないサイトにある MP3 は(恐らく)「著作者に無断で不特定多数に配布される複製物」であり、BOOK OFF での中古 CD の売買は「著作者から部分的に買い取った権利の移動」な訳ですから根本的に発生している事象が異なるのではないでしょうか。

どうもありがたうございます>ろばQ樣。まあ、「權利」なんてものは全然譯が解らん、「權利」なんて誰も見たものがゐないんだし、「權利」とは天狗の類か、と云ふ話だつたんですが。


結城浩樣感謝の言葉を頂きました。結城さんは私のPerl/CGI關係の師匠(@書籍『Perlで作るCGI入門』ソフトバンク刊)で、もつたいないお言葉。

と言ふか、あの拗ねたやうな私の言ひ方は非道く失禮だつたと思ふ、反省。

平成13年7月17日

正面切つてが流行語になりさうで嫌なのですが、正面切つてMEMOPADを批判開始。

……かうなるから正面切つて批判するのは嫌なんだよな。私は「長文失禮いたします」派ではなく、執拗な迄に相手の文章を分析し、懇切叮嚀に説明し、自分の主張を長文で相手に理解せしめようとするから、(「お察し下さい」と絶對に言はないと云ふ事だ)相手の所有するリソースを占有するやうな事になつてしまふ。それは同時に、自分の書いた文章の所有權を相手に呉れてやる事にもなる譯で、非常に損な事でもある。

と言ふか、何様のつもりなんだらうと言はれた居丈高な注意書きの群れが、一朝一夕に成立したものではない事くらゐ、佐藤氏には理解して貰ひたかつたが、理解出來るたまぢやねえよ、あれは。全ての規定には一々理由があるのであり、PC Tipsをはじめとする「言葉 言葉 言葉」關係のリソースにその理由は散りばめられてゐるのだが、うちのサイトのリソースは容易に閲覽し切れる量ではないからね。

平成13年7月17日

少女漫畫の話をしたついで。


武内直子の「美少女戦士セーラームーン」は、傑作と呼べるほど優れた作品でないのであつて、こんな作品をブームにしてしまつたヲタの罪は重いのである。

武内直子の傑作は「THEチェリープロジェクト」なのであつて、この作品の恐るべき均整美がさつぱり評價されないのは、日本の漫畫文化の貧困を證明するもの。劇中劇を挾んだ前後の完璧な對稱の美しさに、讀者は注目すべき。


誰も指摘しないが、阿智太郎の『僕の血を吸わないで』第1卷の構成は、「チェリ・プロ」の劇中劇を挾んだ前後對稱と云ふ構成と同一のものである。そして、この構成が、實はシェイクスピアの「ハムレット」と同一のものである、と云ふ事も、私は指摘しておく。讀者には、自分の目で確かめて貰ひたい。


阿智太郎も武内直子も、ストーリーテラーとして一流の才能を持つてゐる、ちつとも下手つかすではない、と言ひたいのだが、わかるかな、わからないだらうなあ。

平成13年7月17日

貶すよりも襃める方が樂しいよ。


最後に野嵜師匠の反応。 要約すると「少女畫と言へば即ち真柴ひろみであり,真柴ひろみを知らずして少女漫畫を語るは運慶,快慶を知らずして佛像を語るが如き愚行である。故に真柴ひろみを草の根を分けてでも探し出して買ふべし」という事だろう。 野嵜師匠をも虜にした真柴ひろみ恐るべし。 俺もいつかは通る道なのだろうか(遠い目)

真柴ひろみを知らなくとも少女漫畫を語る事は出來ると思ふ。逆に、真柴ひろみ一人によつて、全ての少女漫畫はとどめをさされてしまふ、と私は言ひたいのである。


「硝子(クリスタル)白書」「てぃーんず」「瞳いっぱいの涙」が真柴ひろみの三大傑作。いづれも典型的な作品であるのだが、素材の組合せ方とストーリー構成は極限に達してゐる。少女漫畫に、ここまで形式を突詰めた作品は存在しない。

凡庸な作家なら一つのアイデアで一つのストーリーを作つてしまふところだが、真柴は複數のアイデアを絡み合せて一つのストーリーを作る。短篇はシンプルな話が多いが、長篇を真柴は複雜極まるストーリーに仕立て上げる。特に「瞳いっぱいの涙」は、少女漫畫史上最高の密度を誇ると言つて良い。しかし、複數のアイデアが絡み合つてゐるのに、それらが渾然一體と化した結果、ストーリーは驚くほど明快である。

「人氣があれば延長、人氣が無ければ打切り」と云ふ日本の漫畫界で、恐らくは連載開始前にストーリー構成を確定し、最初から豫定した囘數で起承轉結、首尾一貫した物語を完璧に描き切る、と云ふ離れ技を真柴ひろみは實現してゐる。テーマに倚り掛かつた駄目な作品も幾つかあるが、話の運びが巧みな良い作品が真柴には極めて多い。


真柴ひろみのストーリーテラーとしての才能は、初期の作品の「素直になれなくて」一篇を讀めばわかる。恐ろしい數の伏線が張られてゐるし、ストーリーは「どんでん返し」の連續だし、それでゐて詰込み過ぎの印象はない。

テーマやプロット或は繪は大したものではないけれども、真柴の話の組立て方は天才的である。古本屋などで探して「素直になれなくて」を是非一讀して貰ひたい。この一篇で、真柴ひろみの全てがわかる。

もつとも、「素直になれなくて」は、真柴ひろみの缺點とも言ふべき部分がはつきりあらはれてゐるのであつて、それゆゑ私にとつて論ずるに値する面白い作品である譯なのだが。

平成13年7月17日

珍場面・珍発言−これほど盗聴法はおかしい!

民主主義もへったくれもない!とにかく酷かった自自公による世紀末・盗聴法国会。警察に「盗聴権限」を与え、市民のプライバシーが侵害されるこの法律には、問題が山積し、国民の大多数が反対した。しかし、自自公は数の力で強行突破!いったい日本はどうなってしまうのか。

このビデオは、その無法国会の実態と盗聴法のおかしさをナマ映像をふんだんに使ってバク口する。法案成立後明らかになったDVDを使った大規模盗聴計画、そして神奈川県警の一連の不祥事(犯罪行為)・・・。

珍発言、珍場面の連続で思わず笑ってしまったり、あきれてしまったり。そして怒りがジワジワこみ上げてくる。

核マルだの中核派だのの盜聽に關しては口を噤むのだから、この連中の頭のをかしい事は自明。或は、連中は犯罪者の仲間である。そもそも、「盗聴法」によつて犯罪にコミットしてゐない市民のプライバシーは全然侵害されないのだから、連中は大嘘をついてゐる。

大體、「盗聴法」を作つて「我々は盜聽をします、その爲にルールを作ります」なんて告白する馬鹿正直な政府が、市民のプライバシーを侵害するなんて眞似をするかね。もし政府が惡人や無法者の集團なら、法律を作らず、默つて盜聽でも何でもやるだらう。

「盗聴法」に反對する連中は「市民のプライバシーを守れ」と言ひつつ、自分達が反體制的な行動を樂に取れるやうにしたいだけなのである。或は、市民を人質にとつて、警察や日本政府を脅してゐるのである。警察や政府の權威を失墜させ、その弱體化を彼らは狙つてゐるのである。その意圖は明白である。


しかし、そもそも、日本人が警察を無闇矢鱈と憎むのは異常。警察が無かつたら、日本の治安はどうなつてゐたかね。

平成13年7月17日

 そういえばあまり関係ないが、うちの弟が七三一部隊の蛮行を題材にした歌を合唱部で歌わされたらしい。歌詞をメールで受けとったが実にひどい歌詞だった。せっかくだから少々紹介しておく。混成合唱組曲「悪魔の飽食」だそうだ。二曲目の題名が「生体の出前いたします」。歌詞がしょっぱなから飛ばしていて、「より取り見取り お好みをおっしゃってください。男、女、若いのから年より、大中小、細いの太いの、白いの黄色いの何でも、中国人、ロシア人、モンゴル人、朝鮮人。どれでも実験材料のリザーブをどうぞ」。挙げ句の果てには、「発病し、生き延びたマルタは凍傷実験。飢餓、水断実験、感電にやけど実験、空気静脈注入実験、胃腸の位置を逆転する胃腸返し、馬や猿による代用輸血実験。どんな実験も731では思いのまま」。こんなものをクソ真面目に正義面して歌わせようというアホ教師が公立高校(仙台一高)に存在しているのだから、あれくらいの教科書が出てくるのも歴史の必然であるような気がする。少なくともこの歌よりはあの教科書の方がずっとまともだろう。そしてこんな歌を歌わせようとする教師よりは、あの教科書を書いた連中の方がまともだ。もちろんこんなひどいものと比べても意味はないが。

 なお、オレはこの歌に歌われた事がウソだと言うのでもないし、この歌に歌われた事が本当であっても大したことではないと言うのでもない。ただ、こんなセンスの歌詞の歌を歌わせて悦にひたるのがどう考えてもアホだと言うだけだ。誤解されぬように。なにせ「悪魔の飽食」で検索かけるとコンサート聞いて感動したとか言う文章が山と見つかって怖いのである。なんでそんなに純真でいられるのだろう。ところで、検索しても歌詞全文は見つからなかった。リンクを貼ろうと思ったのだが残念。

まあ、その手の狂つたセンスの持主が山のやうにゐるから、2ちゃんねるが繁盛する譯で。

次の戰爭で、日本人は七三一部隊の蛮行みたいな眞似を、平氣でやらかすのではないかね。どうせその戰爭で日本は負けるだらうが、負ければ平然と「反省しよう」と樂しさうに言ひ出すのではないかね。

日本人には、「反省した振り」をしつつ、「反省しない」人を罵つて快樂を貪る、と云ふ嫌な癖がある。ユダヤ人以上の「選民思想」――に本陣はコンプレックスの塊のやうな人種である。


「戦争の空しさ」と言ふアニヲタは、いつも樂しげ。

「南京大虐殺はあつた」「従軍慰安婦は可哀想」「過ちは繰返しません」「日本政府は戰爭の被害者に謝罪しろ」と叫ぶ連中は、いつも樂しげ。

馬鹿ぢやないか。嬉しさうに「反省」するな。

平成13年7月17日

棺光一の「価値相対主義・基本用語解説」のログなんてものが手許にあるのだけれども、讀みたい人はゐますか。

平成13年7月17日

部屋の整理をしてゐたら、色々なウェブサイトのプリントアウトが出てきたよ。CSSの解説とか、アニメ評論とか。

おなじみTokiMeki NetworkOfficine Musubime、當時は「Tomorrow's World!」と云ふ名稱だつたTyphoon Factory 2のHTML&CSSの解説記事は、今讀返しても良く出來てゐます。駄目な解説記事も出てきたけれども省略。

アニメ關係では、lainだとかりりかだとかの記事がいつぱい出てきたが、「ヴェスポリ研究所」のボトムズ解説が貴重品。ほかに「アニメのイリアステル」の「トライガン」の記事が出てきたが、ここの記事は全部保存しておきたかつた。


昔話をはじめるのは末期症状。

平成13年7月17日

 特に「谷間ゆり」スズランの英語名からとったのでしょうが、そんな名前の美少女からはパイズリしか連想できません

バルザックの小説『谷間の百合』は、知つてゐてとぼけてゐるんだらう、きつと。

平成13年7月17日

charsetはbig5。

平成13年7月17日

蛇足ながら指摘しておくと W3C 信者は HTML Validation Service より (宗教的なチェックが可能な) Another HTML-lint を好む傾向があります。

CSSコミュニティではなぜかミケネコ HTML-lintが大人氣。理由は文體。

平成13年7月17日

気安いデスクトップが「気違いデスクトップ」に見えてしまふ私は病氣。

平成13年7月17日

http://www2.bunko.ne.jp./¯suimay/shisosya.htmです。p.83.)→jpのあとの「.」は不用(だと思ふ)。「¯」で表示したところは「˜」なのだらうけれど、フォントの関係か tilde には見えず。

tildeに見えなければならない理由はありません。と言ふか、overlineで表記した方が正解に近いと云ふ説があります。tildeの部分を%7eと書くのがより安全ですので、より正解に近いと言へるかも知れません。

EUCやISO-2022-JPでなく、パソコン等で広く普及しているシフトJISコードを使うことも考えられる。だが、ウェブで使う際には、URIにしばしば使われる記号である「~」(チルダ)が無いことが問題である(厳密に解釈すれば、だが)。シフトJISではASCIIでなくJISラテン文字が使われているので、0x7eはチルダ(TILDE)でなくオーバーライン(OVERLINE)である。このため、シフトJISではURIの中のチルダを生のまま書くことはできず、“%7e”のように書く必要があるのである。

tilde

文字の上につくニョロっとした記号です。ティルド、チルダなどと発音されるようです。俗に「ニョロ」「チルダー」などと呼ばれることもあります。US-ASCII には 0x7E の位置にこの文字がありますが、JIS X 0201 や Shift_JIS にはこの文字はありません。代わりにあるのは overline(上線)です。

ですから、JIS キーボードのキートップに tilde が刻印されていないのは当然のことです。SHIFTを押しながら「へ」のキーで tilde が入力できるという解説を見かけることがありますが、その動作で入力されるのは overline であるはずです。

ただし、JIS 規格では、overline を tilde のような字形で表示しても良いことになっています。ですから tilde のように見える環境が多いのですが、それでも文字の名称は tilde ではなく、あくまで overline です。

参考:URLのチルダなどなんて記事もありましたね。

と言ふか、譯がわからん。


overline或はtildeは、IBMのOS/2用ブラウザ「WebExplorer」のアドレス欄で表示されません。「チルダはWebExplorerでどうやつて入力するの?」は「Team OS/2的」に有名なFAQ。

『〜』が出ないので苦戦を強いられるま〜りんちゃん

笑ひ。


記號の文字は、言語やシステムによつてころころ變るものなので、overlineがtildeになつても全然不思議ではありません。\(バックスラッシュ)は\(圓マーク)に平氣で化けます。

平成13年7月17日

論理マークアップには以下のような欠点があります。

  1. HTML文書が論理構造しか持たないため、CSSをサポートしていないWebブラウザでは、意図していた表示が出来ない。
  2. 見栄えを変更するためには、スタイルシートで指定する必要があるため、新たにCSSを覚える必要がある。
  3. Netscape 4.xではCSSのサポート機能にバグがあり、場合によっては正常に表示できない。

1.は、何だか誤解を招く表現であるやうな氣がする。

例えば、見栄えに拘らないのであれば論理マークアップだけで良いでしょう。 Webブラウザ側でマークアップに相応しい見栄えを実現してくれますので、スタイルシートを覚える必要もなく、主張したいことを伝えることが可能です。

筆者は多分、「わかつてはゐる」のだと思ふけれども。


といふか、「拘る」と云ふ語の意味を皆、誤解してゐるよ。

平成13年7月17日

ひよつとしたら、「メンタル系」は、「リンク集」からひつぱつてきたのかも知れません。

平成13年7月17日

最先端を直走る技術者と好奇心溢れる人々に捧ぐとか書かれてもなあ。ruby要素を使うならば、XHTML 1.1に準拠すべきだし、まもなく正式版が登場するであろうIE6のstrictモードがスクロールバー任意着色のCSSプロパティを解釈するとも思えんし。

と云ふ譯で、件のほーむぺーじを見てみた。


@NetHome広告貼り付け緊急企画

私が利用している@NetHomeの薦め
〜この文章を読んだ貴方はプロバイダーを変えずには居られない〜

@NetHomeといふかJ-COMを奬めてゐる時點で不許可。

先日、どこだかの代理店から「廣告を出して呉れ」と云ふダイレクトメールが送られてきて、私は應じなかつたのだが、この人はそれに律義に應じたんだらうな。


變なHTMLの書き方をされてゐると、美しくマーク附け出來ない。不快。

平成13年7月16日

今日きた作品社の「日本の名随筆」シリーズ及び『随筆名言集』メールマガジンにこんな言葉が。

あらゆる集団には宗教的な構造が内在する。(古井由吉・本巻86「祈」より)

平成13年7月16日

取敢へず作つてみた。

平成13年7月16日

「だぁ! だぁ! だぁ!」が面白いので原作を読んでみたいのだが,少女マンガちうのがアレでソレでナンなのであって 23 にもなる成年男子にとっては非常に買いづらいのであった。 ネット的に近所の強者の皆さんを見ていると,少女マンガを買うことなんぞ呼吸するかのごとく自然な行為のように行なっていらっしゃるようだが,やっぱ越えたくない一線ちうものが…。 でも読みたい。 あうーっ! (発狂)

昔は、高橋亮子とか富塚真弓とか横田幸子とかところはつえとか牧あけみとか、古めの少女漫畫を探し囘つて買つたもの。メジャーな作品よりも、この手の異樣に澁い作品を買ふ時の方が緊張する。

最近は、漫畫なんて全然買はない。


一番最初に讀んだ少女漫畫が真柴ひろみの『Girl』。以來、真柴ひろみを超える漫畫家を探し續けたのだが、今に至るまで、少女漫畫或は全ての漫畫家の中からさう云ふ漫畫家は見つからなかつた。

真柴ひろみは、私が少女漫畫を讀んだ始めであり、終りである。

平成13年7月16日

2ちゃんねるで晒されるよりも、侍魂にリンクを張られる方が怖いと云ふ噂。

平成13年7月16日

景気の惡い話。

ブックオフに押されて、町田本店がPOPビルから移轉(6月1日)。※古書店と読者の雑誌巻頭文-2001年4月号 今後の高原書店 −町田本店の縮小移転とインターネット事業の拡大

平成13年7月16日

平成13年7月16日

思想の自由なきところに言論の自由だけが存在するのは、無意味である以上に有害である。自由な言論の名の下に、思想の強制が行はれるからである。

平成13年7月16日

やはり、古書店業界は苦しいのださうである。

平成13年7月16日

東洋精神分析学/古仏仁話が、今、伝統の仮名遣がよみがへる!と稱して元祖日本の仮名遣/定家仮名遣なるメールマガジンを出しはじめてゐる。

私には、懷古的な趣味はないのでねえ。

【説明】明治政府は、七百年日本に定着した庶民の仮名遣である「定家仮名遣」を破棄しました。その結果、庶民の国語が大いに乱れ始めました。その「定家仮名遣」が、今、庶民に再び広がります。毎日三語と国語に関する話題をひとつ毎朝七時に配送。

この邊、大嘘と言って良いと思ふ。實際のところ、庶民は定家假名遣を知らなかつた。更に言ふならば、「定家假名遣」と呼ばれるものに、實體は存在しない。一貫した體系としての「定家假名遣」と呼び得るものはないのであつて、定家以後、多くの人が假名の遣ひ分けの方法を次から次へと追加していつた事實だけが存在する。その一聯の假名遣の發展過程を定家假名遣と呼びならはしてゐるに過ぎない。

定家假名遣に於る假名の遣ひ分けを決定する方法について、近代的な觀點から反省したのが契冲の歴史的假名遣である。

平成13年7月16日

昭和19年に『詩人哲學者』を正字正かなで刊行した出隆は、昭和22年に『ソクラテスの道』を「現代かなづかい」で出してゐる。

平成13年7月16日

月刊さわたりさん。

猿丸先生の小説は4箇月ぶり。

平成13年7月16日

「火野 蜜子」さんの姓名判断

***** 火野 蜜子 *****
総運 32画 総合  	 意外な幸運に恵まれる吉数
天運 15画 先祖運	 着々と発展する吉数
地運 17画 個性  	 剛毅で気迫のある吉数
人運 25画 社会性	 勝気に過ぎて損する半吉数
外運  7画 環境運	 波乱を克する勇猛の吉数
総運+人運 39.60  天運+地運+外運 24.00  得点 63.60

良く當つてゐる

平成13年7月16日

さくらんぼ が売ってなかったので、代わりにアメリカン=チェリーを買った。…

さくらんぼが何を賣つてゐなかつたのでせうか。

「○○が賣られてゐる」「○○を賣つてゐる」を「○○が賣つてゐる」と言ふのは間違ひです。

平成13年7月16日

戰前と戰後の間に「軍國主義から民主主義への轉換」を見出すのが左翼的な常識だし、「傳統の斷絶」を見出すのが右翼的な最近の流行であるが、「イデオロギーの部分でなく氣質の部分で日本人は全然變つちやゐないよ」と指摘するのが「反近代の思想」の人間である。

古代から近世にかけて儒教や佛教を受容れ、近代に至つて國家神道を作り出した日本人が、案外外來の宗教・思想を受容れてゐない事實を、私は指摘したい。形を眞似する事は巧いが、日本人は頑なに自己の信念を守らうとする。受容も破壞もあつたものではない、と言ひたいのである。


ちなみに、大東亞戰爭の敗戰について、「軍國主義から民主主義への轉換」だと言ふのは「精神主義」以外の何物でもない。戰爭を遂行する際に國民精神を強調し、戰爭に負けたからと言つて平和主義を強調するのは、時局に應じて心構へを變へる、と云ふ事に他ならず、精神主義である。

左翼と右翼は精神の底邊で通じ合つてゐるのであり、それが「反近代の思想」の徒の目には許し難いものに映る。

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