解つてたまるか!

平成13年7月15日

折角頂戴したメールだが、「斬る」べき事は「斬つておく」方がフェアだと思ふので、敢て採り上げる。フェアな態度をとらない事も讀者に對する裏切りだと思ふので、好意を裏切るやうな形になるが、決して裏切つてゐるのではない、と考へていただければ、と思ふ。「闇黒日記」のテーゼとして「それとなく囘答」と云ふものがあるのだが、さすがに「それとなく」「それとなく」ではこちらも氣がとがめるので、たまには眞正面から「讀者を斬る」と云ふのもあつてよろしいかと思ふ。

屡々メールを送つて下さるU氏には迷惑な話だが、「俎上に載せられる」事を勘辨していただきたい。


獨裁と民主制は所詮數の差に過ぎない、と書いた折、或方から頂戴したメール。

量も重なると質的に変異する場合がありますからね。そこら辺見逃すと空理空論になるような気もいたします。

量も重なると質的に変異する場合があります、と云ふ常識は空理空論であり、獨裁にしろ、民主制にしろ、所詮は「カイザルのもの」であつて相對的な價値觀によるものに過ぎず、「神のもの」に屬する道徳のやうに絶對的な價値觀によるものではない、と言ひたかつたのに、その批判對象の常識で以て反論されてしまつた。

常識を以て反論される以前に、私が常識を知つてゐる可能性を豫想していただきたい。或は、私は「反面の眞理」を述べてゐるのであり、殘る半面を以て反論として貰つては困る。


で、今囘も、政治主義的な觀點から國家神道を批判しても意味がない、日本人の先祖崇拜を道徳的な觀點から評價すべきだ、と言つたところ、しかし、野崎さんはこと宗教の話は不得手のようですね、と言はれてがつくり。

日本では明確な形での祖霊崇拝は記紀の時点を最後に衰退し始めます。そのあとは祟る神やら仏の日本化やら付随する海外技術の受容やらがからんで一言ではくくりきれない状況になっていきますので、なにをもって神道(かみつみち)というかは難しいのです。

しかしこれらの混交したものがとても面白い信仰の形態を予感させるものであっただけに、無理やりにこれらを分離させてしまった明治の宗教政策は批判を浴びるわけです。


国家神道は野崎さんの言う「日本人の本質」を内包したものだったのではなく、それを破壊したものだと言うのが正しいところでしょう。

私の言ふ日本人の本質とは、日本人の死生觀であり、簡單に言へば日本人獨特の先祖崇拜であり、シャーマニズム的で曖昧な、體系化されざる未發達の代物であるにせよ、現世的利害を超越した價値觀である。これは私の文章に書かれてゐる。

然るに、このメールの筆者の言ふそれを破壊したものだの「それ」は、一體何をさすのだらうか。實はここに、「野嵜の言ふ日本人の本質」から「メールの筆者の考へる日本人の本質」への「話しのすりかへ」が行はれてゐる。しかし、メールの筆者はそれに氣附いてゐない。

そして、「常識の裏側を衝く」私の議論に對して、メールの筆者は「常識ではかうだ」と曰ひ、申し譯ない言ひ方になるが、それで「勝つた」と思つてゐるのである。


はつきり言つて、私の文章は短過ぎて、話が飛躍し過ぎる嫌ひがある爲、異常に理解し難いのだが、少くとも意圖くらゐは讀取つていただきたいものである。常識は先刻承知なのであつて、しかしその常識は解釋に過ぎず、現實は別の解釋をする事も可能なのだ、と云ふのが私の文章の趣旨である。「國家神道にも出現する必然性はあつたから、ただ否定するのではなく、その必然性の根柢にあるものを探るべきではないか」と云ふ私の提言に對し、「國家神道は否定されるべきものだ」と云ふテーゼによる反論をされても困るのである。

それから、いつものことですが、長文失礼しました。とメールの末尾にあつたが、長文は全く失禮ではないと私は思ふ。寧ろ、意を盡してゐない短文の方が失禮ではあらうと思ふ。その點、私は讀者にお詫びしなければならないし、メールを送つて下さるU氏にもお詫びしなければならない。

平成13年7月15日

あれれ、Internet Explorerの「文字のサイズ」がいつの間にか「大」になつてゐたよ。

平成13年7月15日

当サイトでは、各リソースのURIは普遍的であります。拡張子別に分けているので、移動することはまずありません。(サーバーによる強制移転時を除く)

非常に重要な注記。サーバーによる、と言ふべきか、サーヴィス供給者による、と言ふべきか。J-COM殺す。

平成13年7月15日

バナー廣告の作り方。バナー廣告のデザイン。

平成13年7月15日

IDG。

平成13年7月15日

サーチエンジンではないインフォシーク。

平成13年7月15日

平成13年7月15日

優しくない。

ちつとも優しくないよ。

つつこまれる爲に書かれたとしか思へないよ、このHTML入門。


前につつこみを入れた記憶がないでもない。

平成13年7月15日

雨、降らないかな。

平成13年7月15日

平成13年7月15日

韓國の歴史教科書を邦譯・出版してゐるのは、明石書店と云ふ共産黨系の出版社。

平成13年7月15日

『新宇宙戦艦ヤマト』第2卷を本屋で立讀み。

宇宙戦艦まほろばなるものが出現。「『まほろば』の類が出てきたら即駄作」と云ふ私獨自のテーゼに從ひ、『新宇宙戦艦ヤマト』は駄作と決定。


取敢へず「第○○代目の某」はやめて下さい>松本零士樣。と言ふか、松本さんの世界では、初代古代進と初代森雪は結ばれなかつたんですね。

平成13年7月15日

私は「Workplace Shell for Windows」のWin32版を希望>IBM。

平成13年7月15日

數日前、肩の凝りが餘りに非道いので、PCの畫面の解像度を1600×1200から1280×1024に落したところ、Internet Explorerの文字が大きくなつて、大分良い感じになりました。

平成13年7月15日

栗林忠男「現代国際法」(慶応義塾出版会、1999)をまた一から勉強し直し。

国際法は、封建制とキリスト教の絆を失ったヨーロッパに、これに代わるべき結合の紐帯を与えるために生まれたものであるという説明に改めて深く感銘を受けました。たしかに神聖ローマ皇帝や法皇による一元的な支配が(たとえそれが名目上のものに過ぎなかったにせよ)諸国家に対して及んでいるところでは、国際法は進展しにくいでしょう。ちょうど、江戸時代の日本において大名諸藩の間に自律的な条約体系が発展しなかったように。

西歐の法の觀念の根柢には、契約と云ふ實に西歐らしい觀念が存在します。キリスト教にしてからが、神様と人との契約なのです。だから「舊約」「新約」と言ふのであります。

もつとも、キリスト教があつたからこそ、西歐に「契約は守られなければならない」と云ふ觀念が傳統としてしつかり根づいたとも言へます。さうなると、國際法も法のうち、キリスト教の傳統あつてのものとも言へさうです。

近代的な法體系と云ふものも、體系化を志向するキリスト教の傳統が反映してゐると解釋すべきだ、と、私は考へます。科學の體系も、法の體系も、キリスト教社會にしか生れなかつた、と云ふ事實は、重要です。

平成13年7月15日

ていうより GARALLY って何語か。

むう。見逃してました。


どうして教科書の題名には「新しい」と附くのでせうかねえ。どこかの出版社で「古き良き歴史」とか「古き良き國語」とかいつた教科書を出して呉れませんかねえ。

平成13年7月15日

v2.05b公開。

平成13年7月15日

お盆なので宗教のお話。


佛教では、四十九日が過ぎたら死者は轉生してしまふので、供養する意味がありません。佛教で、御先祖樣の供養をするのは、印度から支那に入つて以後の事です。支那には、先祖崇拜の儒教が存在し、輪廻轉生を大前提とする印度本來の佛教は廣まりませんでした。そこで、「盂蘭盆經」と云ふ僞經が創作され、先祖供養をするお盆と云ふ行事が佛教に出現した譯です。日本に傳はつた佛教は、支那で變形した佛教です。『沈黙の宗教――儒教』加地伸行著

日本の「お盆」ですが、印度で生れ支那で變形した佛教に、更に日本の土俗信仰がプラスされたもので、もはや印度佛教徒は何の關係もありません。日本では、死者の魂は郊外の山野にふはふはと漂つてゐるものです。人々が輪になつて踊り、魂を村外れ、町外れから、集落の中心である廣場に構築した、依り代である櫓まで連れきたり、歡待するのが「盆踊り」である、と、柳田國男が書いてゐます。


日本の神道と云ふ宗教は、非常に曖昧模糊とした代物で、體系化された理論が存在しません。何でも取込んでしまふ、良く言つて鷹揚な、惡く言へば好い加減な宗教であります。惡口を屡々言はれる國家神道は、儒教の理論を援用した、極めて怪しい代物なのですが、土俗的な神道も大差はありません。日本人の信ずる宗教は、本質的に曖昧模糊としたものであり、その曖昧な價値觀自體が「神道」と呼ばれるべきものだと私は思つてゐます。

ただ、日本人の曖昧な價値觀に過ぎないと言つても、神道は日本人だけのものであり、まがりなりにも千年以上の歴史のあるものです。國家神道もまた、その歴史の中で生れたものであり、無意味に存在する筈のものではありません。キリスト教に比べれば、近代化と云ふ點で國家神道は大失敗に終つたものではあります。が、それでも國家神道は、日本人の價値觀・宗教觀に則つた本質を内包してはゐます。その本質を、國家神道の失敗を理由に、破壞してはならないと考へます。

その本質とは、日本人の死生觀であり、簡單に言へば日本人獨特の先祖崇拜であり、シャーマニズム的で曖昧な、體系化されざる未發達の代物であるにせよ、現世的利害を超越した價値觀であります。國家神道は、天皇を先祖崇拜のシャーマンの代表者として「神聖不可侵」としたのであり、その意味ではすぐれて日本人的なものであつたと言へます。そこに、日本人特有の政治至上主義が紛れ込んだ事が、國家神道を失敗させた理由ですが、日本人は、その政治至上主義よりも、神道の本質を破壞する事の方が大事だと勘違ひしました。

平成13年7月14日

MEMOPADには、直接言つてあげるべきなのかな。

平成13年7月14日

7月は憂鬱な月。


俺は人を裏切り過ぎ。

平成13年7月14日

野嵜健秀 さんが書く日記の性質
人間度
25
精神度
66
思考度
40
変態っぽさ
25
やましさ
50
野嵜健秀 さんの日記のオススメの題名
ご飯にする?お風呂にする?それとも日記
今日書く日記のネタが無いあなたへ
野嵜健秀 さんが今日書くと良い話
  • 熱い想いが
  • 睡眠不足になりそう
  • 首吊り死体
  • 大きな声が

上の言葉をすべて使って 後悔している話 風にまとめると良いかも。

ネタ仕入元:○○なが解説日記

平成13年7月14日

高田馬場の洋書ビブロスが7月25日で閉店。

平成13年7月14日

本日の買物。

ベルジャーエフ著作集7 ロシア共産主義の歴史と意味
ベルジャーエフ著作集8 わが生涯
マルセル著作集7 戲曲・演劇の時間
西鶴全集第七卷 一目玉鉾
正宗敦夫校訂
中国文学雑談
吉川幸次郎対談集 朝日選書83
パスカル書簡集
現代のヨーロッパ哲學
ボヘンスキー著・桝田啓三郎譯
續人間詩話
吉川幸次郎著・岩波新書
日本文化の根底に潜むもの
きだみのる著
冬刻詩集
大木惇夫著
プラトンに關する十一章
アラン著
芭蕉庵桃青傳
内田魯庵著
ソクラテスの道
出隆著
詩人哲學者
出隆著
風雅の道
潁原退藏著

本日屆いたもの。

月曜評論
平成13年7月號

平成13年7月14日

暑くて死にさうなのです。

天からクーラーでも降つて來ないかね。

平成13年7月14日

ああ 青梅線ってまだ103系が残ってたんだっけ。ぢつは中央線から乗り入れてる201系しか印象ないのでありました。

「實」を「ぢつ」と(以下略)。

平成13年7月14日

仕様書は読んでないので突込みがあればどーぞ。の件。

平成13年7月14日

びぎねっとの freetalk に「Linux 学習法」というスレッドが立ってた。何故 freetalk で? とか思ってたんだけど、 世間話や雑談を含む、一般的な議論やQ&Aを行うメーリングリストです。とあるので、freetalk でやるのが適切でしたか。油断してました(謎)。

岩井が油斷すると、びぎねっとの freetalk に「Linux 学習法」というスレッドが立つのださうである。

岩井は電波系なのではないか。

久々に Windows を起動したら、手違いで(謎) Linux のはいっているパーティションのブートレコードを壊してしまった…。まあ、ブートディスクが見つかったので(謎)問題なんぞありゃしませんでしたが。

ブートディスクが見つかる事は謎の事態なのであるさうだ。明々白々の事實が謎の事だと云ふのだから、岩井の認識能力は異常。

それにしても、自分の手違ひを「謎」と言ふ岩井氏の自信は過剩であるやうに思はれる。


一々「(謎)」「(謎)」と書くなよ。自分で「つつこみどころ滿載」と言つてゐるやうなものぢやないか。

馬鹿。

平成13年7月14日

ここの記述も隨分怪しいねえ。そのうち斬らう。

平成13年7月14日

人間城の主樣が發見されたサイト。

MEMOPADの「似而非歴史的假名遣」を、人間城の主樣が斬つてをられます。

「といふ」は「と言ふ」とは表記しない。「と云ふ」を用いる。

「云ふ」と「言ふ」とは、森鴎外が嚴密に區別してゐます。

  1. い・う(い・ふ)。
    1. みずからいう。
    2. 他人の言葉を引いてのべるときに用いる。
    3. …ということだ。
  2. しかじか。文末にあってこれ以下の言葉や文章を略するときに用いる語。 ここに。語調を調える助字。
  1. い・う(い・ふ)。
    1. 言葉を発する。
    2. かたる。のべる。
    3. よぶ。称する。
    4. 問う。
  2. こと。
    1. 言葉。いうこと。「―行一致」
    2. 意味。
  3. 文字。「七―絶句」
  4. 一句。
  5. いうこころ。そのいみ。
  6. いいつけ。命令。
  7. われ。「詩経」に多く用いられている。
  8. ここに。言葉の調子をととのえる助字。

一般には嚴密に區別して用ゐられてゐません。


MEMOPADの入力は、かなり手間がかかつてゐるのではないかと推測。丸谷くんの類を使つてゐる可能性もない譯ではないが。

以下、氣附いた誤り。


レス大歓迎 投稿者:佐藤 俊 投稿日:2001/06/22(Fri) 22:58 No.1

形容詞の活用語尾は音便だから「ひ」ではなく「い」。

ツアラトウストラぢやなひけどかく語りき 投稿者:佐藤 俊 投稿日:2001/06/22(Fri) 23:59 No.2

♪デイジー、デイジー 投稿者:佐藤 俊 投稿日:2001/06/23(Sat) 16:35 No.3

触ってしまってのところだけ、撥音促音の表記が小さな「っ」になつてゐる。

はじめ人間<月を見る者> 投稿者:佐藤 俊 投稿日:2001/06/23(Sat) 21:47 No.4

「だう」つて何語ですか。ゆうきまさみも勘違ひしてゐたが。

今日の食材はーつ!? 「バク」 投稿者:佐藤 俊 投稿日:2001/06/24(Sun) 08:42 No.5

この筆者は、は行四段活用を知らないのか。


以下略。


個人的には、

過去の落書きはGARALLYの「落書き」で見れます

の、見れます、がそもそも氣に入らない。

平成13年7月13日

小学校などのシロウト相撲を見ていると、「見合って見合って、はっけよい、のこった!」という掛け声で取り組みを始めていることが多い。まるで「よーい、どん!」かのようにこれらの科白を使っている。また、取り組みの最中にむやみやたらと「のこった!」と激を飛ばす光景も見られる。

しかし、これらの用法は本来は間違い。

「激を飛ばす」とは言はない。「檄を飛ばす」と言ふ。「檄」の代りに「激」と云ふ字を用ゐるのは間違ひ。

但し、「檄を飛ばす」は、「活を入れる」とか「激勵する」とかの意味ではない。

  1. ふれぶみ。
    1. めしぶみ。まわしぶみ。昔、役所から人民を呼び集めるために出した木札の文書。
    2. 皆に知らせるために出す回状や通信。
  2. 敵の悪い点を書き、味方の正しい点を人に知らせる文書。

參考:「『ゲキトバ』新説」高島俊男(『せがれの凋落 お言葉ですが…(3)』所收)

「檄を飛ばす」を「野次を飛ばす」の類と混同してゐる人が澤山ゐる。檄は、飽くまで文書、掛け聲や御説教ではない。

新聞記者まで間違つてゐるのだから沙汰の限り。シーズン中、長嶋さんがジャイアンツの選手に「檄を飛ばす」事はありません。

平成13年7月13日

結城浩さん久しぶりにHTML Validatorを動かす

久しぶりにHTML Validatorを動かす。ぼろぼろだった。せめてトップページと日記ぐらいは、ということで少し直す。トップページは100点になったので、調子に乗って「Valid XHTML 1.0!」のロゴを張る。

トップページのソースを見ると「Validatorを通つてゐるだけ」であるやうな氣もしないではないが、下層の文書はそこそこまともなので、結城さん、わかつてゐるのだかゐないのだか。取敢へずうちを見たのなら見たと書いて呉れれば、と思つた。


C&Perlで学ぶ「CGIレッスン」のソースは、h2の中にh2が出現したり、preの終了タグがぽつんと存在したり、ulの直下にb要素があつたり、DOCTYPE宣言ではHTML 4.0なのにbrやhrの記述方法がXHTML流だつたり、と、とても面白い。

アクセスカウンタについてには、空のh2なんてものが冒頭にぽつんと一箇あつたりするし。空のh2を削除し、以降のh3をh2に書換へた方が、ソースはすつきりすると思ふ。

Webページを作る心がけにも、やはり冒頭にぽつんと空のh2がある。美しくないのです。

平成13年7月13日

・・・ってのは置いといて、自分が二千年生きてきたわけでもないのに二千年の伝統だか歴史だか何だかと言ってほくそ笑んでるようぢゃ所詮やられ役を脱せません。でも、びぢんだから惜しいなぁ・・・

「美人」を「びじん」ではなくびぢんと表記しなければならない必然性を御説明願ひたい……ひよつとして「美人」とは無關係の何かなのか。

それから、「現代かなづかい」か正かなづかひか、どちらかに表記は統一すべし。ちやんぽんは氣持ちが惡い。


「……」を「・・・」と表記するのが「ワープロ世代」の特徴。ワープロに使はれてゐるやうに見える。

平成13年7月13日

平成13年7月13日

昨日、ぢつはふとしたことで気付いたのですが...かれこれ2年も通勤で通っていた場所に「ノブナガ…」という表札が。

「實」を「ぢつ」と書かねばならない必然性を御説明願ひたい。

平成13年7月13日

豫告通り、超くせ關係のサイトを全削除。

平成13年7月13日

踏切はなぜかんかん鳴るのだらう。

平成13年7月13日

「CDシュレッダー」は、重要・機密データが記録されているCD形状の記録メディアであるCD-R/RWやDVDなどを処分する際に利用する専用シュレッダーマシンです。操作方法は紙の文書をシュレッドするのと同じ要領です。本機にCDを挿入すると特殊ローラーが回転することでCDの表面に対してミクロ間隔に凹凸状のエンボス加工をします。これによりCD形状の記録メディアに記録されたデータを判読不能にして、不燃物として廃棄処分することができます。

甘い。

CDのきらきら光る面に傷を附ける必要も意味も全くない。表面を幾ら傷つけても、データはそつくりそのまま記録層に殘つてゐる。研磨サーヴィスでデータを再び讀取れるやうにする事は、時として可能である。

記録層をずたずたにすれば、データは破壞され、二度と讀取れなくなる。レーベル面をドライヴァやカッター、或は先の尖つたペンでぐりぐりぎこぎこやられれば、一發でそのCDは死ぬ。

CD-Rの場合、レーベルを剥がしたあと、青い色素を拭いて落とせば完璧。

ネタ仕入元:HNS: ys' memo

平成13年7月13日

WEB相談室に文字の大きさを変えたいという投稿があった。

内容を見ると、どうも文字サイズが中以外だとレイアウトが崩れるということらしい。簡単に解答すれば、CSSのfont-sizeプロパティでうんぬんということになると思うが、「崩れ方」によってはベターな解決策もあり得ると思ったので、見てみた

これは、テーブルでレイアウトしてくれたほうが余程良いという典型的な例である。なにしろ、positionプロパティ依存のマークアップであるため、要素の登場順序さえ、意味を持たなくなる。レガシーですらない、positionの誤用。CSS対応ブラウザの普及でこの「テクニック」が蔓延してしまったらと思うと、やりきれない思いがする

馬鹿ならば「この『テクニック』には、残念な思いをいたしました」と書くところ。さう書かなかつたのがこの筆者の功績。

平成13年7月13日

「Pre-HTML」と「ISO-HTML」は別物であるらしい。準備中の過程と、完成した文書とは別、と云ふ事。なのかな。

平成13年7月13日

えーでも、 Windows デスクトップ的には、「名前順で自動整列」がデフォルトだし、そのままで使ってる人がほとんどなんでわ。ライトユザになればなるほど。街行く Win ユザに「クイズ 100 人に聞きました」をしたらば、 93 人はこうなっていると答えるかと〜。

LiteStepのデスクトップに、「名前順で自動整列」は存在しないのです。LiteStepを使つてゐるユーザなど、滅多にゐませんが。


ゴミ箱なんか要らない。

平成13年7月13日

[ツール]-[インターネットオプション]-[ユーザー補助]の「Webページで指定されたフォント スタイルを使用しない」をチェックするのは常識(?)。

平成13年7月13日

そうそう、そういえばIE6prで見てくださってる方もいるようで。IE6だとボックスの width の計算がIE5.5以下と違うつーか仕様に適切になってて(まぁそれは実に喜ばしいんだけど)、その割には、box-sizing が適応されないので、かなり表示が崩れてると思いますが大丈夫でしょうかね^^;;;

特に崩れてゐるやうには見えませんが。

平成13年7月12日

「charmapx.zip」。unicode對應文字コード表。文字自體のみならず、實體參照もコピー出來る。Windows用。

平成13年7月12日

サイトのリストラを檢討中。


「超」の附くサイトは削除豫定。

平成13年7月12日

どこかの譯のわからないサイトからMP3を落すのは違法で、BOOK OFFで中古CDを購入するのが違法でないのは何故。

平成13年7月12日

例の「CSSリンク集」に關して。井蛙さんのサイトのコメントになぜメンタル系とあるのか、どこから引用したのか、と云ふご質問。

日記の文中から引つ張つたやうな記憶があるのですが、詳しい事は忘卻の彼方です。好い加減で濟みません。


はじめましての松島樣には、DOCTYPE宣言の頭の<を消してしまつた文書の存在を指摘していただきました。ありがたうございます。


それにしても、KSmiracle Web Directoryには、ちやんと利用者が存在するんですねえ。

平成13年7月12日

別の見方。初心者等が JavaScript を Java と書いていても一応意図は伝わるが意味が全然違うので宜しくない、というのはよく言われるが、相手の発言に拘りながら「拘りませんが」と書くのは何故に OK なのか。いや、 OK と判断するのは自由だが、言葉の正しい定義が重要である技術者としては首尾が一貫していない。技術系 ML に飛び込んだ異分子に対する皮肉による撃退を、その ML の技術的価値を保持するという技術者の見地を持ち出してまで肯定している割には。

「こだわりません」は何年も前の「流行語」です。今「ナウい」なんて言つたら馬鹿にされますが、それと同樣に、「こだわりません」と言ふのも馬鹿にされて良い事であります。しかし、流行語と云ふものは、後から思ひ起せば全て馬鹿馬鹿しいものです。

流行語は、言はないで濟ませられるのならば、言はずに濟ませた方がよろしい。文章では、長持ちする表現を使つた方が良いのであります。品位のある文章には、それなりの理由のあるものです。

平成13年7月12日

ぢつはそれなりにアクセスがあるみたい。

「實」を「ぢつ」と書かねばならない必然性を御説明願ひたい。


もちろん、そんなものは存在しない。例によつて「奇矯な表記を使つてみたい」と云ふ謎の嗜好のなせるわざである。

平成13年7月12日

私は時々、人は腦ではなく、脊髓でものを喋るのではないかと感ずる。


かう云ふ場合にはかう言ふべし、と云ふ紋切型は、殆ど「條件反射」である。

「正しいHTML」を罵る時、「南京虐殺は無かつた」と言ふ人間を嘲笑する時、その論者が口にする文句は、屡々「條件反射」的なものであるやうに思はれる。


要は「もう少し頭を使つて呉れ」と云ふ事なのだが、頭を使ひたがらないし、使はないのが當り前である人間は、さう言はれても理解出來ない。そして、「もう少し頭を使つて呉れ」と云ふ言葉が通じない時、「脊髓反射人間」の側ではなく、「頭を使へ」と言ふ人間の方が馬鹿である事にされるのだから、人間社會は蟻の社會と大差がない。

平成13年7月12日

或cite要素と或blockquote要素またはq要素との間に、必然的な結び附きはない。リンクすれば良いと云ふものではない。


2.3.であれば、citeとか、blockquoteとかって、どれだけの読者が気にしてるの?

読者を「人質に取る」のは良くない。

また、意味を理解してるの?

読者を馬鹿にするのは良くない。

多分、ほとんど関係ないということではないか、また、気にしている人がいても、それは、その意味しているものが何かが必要ではなく、HTMLの技術的(文法的)な部分だけに終始しているのではないか。

HTMLの技術的(文法的)な部分以外、全く關係ない、と云ふ主張。しかし、HTMLの技術的(文法的)な部分が定まつてゐる事は、制作者にとつても閲覽者にとつても、非常に有益な事ではないか。なぜ規則化を、そんなに拒むのか。

だとすると、どっちでもいい、話であると思う。

どっちでもいい、と思つてゐないから、あなたはわざわざ「反論」してゐるのではないか。

それに、HTMLへの理解度の高い人たちは、HTML4への準拠という形を取っている、sam君は理解してないが、もれ聞くところによると、見栄えは全く考慮せず、記述の意味合いのみを表現するものであるとのことである。

HTML文書が適切に記述されてゐる場合、ブラウザは適切な見栄えを實現しなければならない。制作者は見栄えを氣にしてゐない、と云ふ譯ではない。見栄えに關して、制作者はブラウザを信頼してゐれば良いのである。

そうした場合、多くの人の使うブラウザーでは、ページにアクセスするだけでは、そのタグを見ることが出来ないわけで、”HTML の記述で解決出来ます”ってことは、どうなのかな?って疑問があります。

疑問そのものが成立たない。タグを隱し、文書の要素に適切なスタイルを適用して表示する事が、ブラウザには求められてゐる。

都合よく、Rjさんが書いて下さったように、”やや不親切”ってことではないのかな?

全く不親切ではない。寧ろ、iだのbだのといつた、多樣な解釋の可能な「タグ」のみでHTML文書を記述するのは、制作者が自己の文章に對して無自覺となるのを許す事であり、閲覽者の想像力を要求する事であるから、制作者の負擔を輕くこそすれ、閲覽者の負荷は増大するだけである。即ち、閲覽者にとつて不親切であるのは「見映えだけが記述された文書」である。

つまり、W3Cに従っていくのが”当たり前”であるのあれば、HTML4.0になって行くのでしょう。であれば、見栄えに反映しないタグとして書くことの必要性より、必要と思うのであれば、見える部分で記述することが一番ではないのでしょうか。

なぜW3Cに従っていくのが”当たり前”であるのか、を考へないから、「從ふな」と云ふ脊髓反射的な反抗の文句が出るのである。或は、見える部分で記述すると安易に言ふが、適切に記述されたHTML文書をブラウザは適切に整形する筈である。

見える部分でも「(一般には)見えない」部分でもしつかりと記述されてゐる文書の方が、見える部分ではそれなりの表現のなされてゐるが(一般には)見えない部分では譯のわからない文書よりも増しである、と私は思ふ。

でも、どっちでもいいことだと思うけどね。

どっちでもいいことについて、嫌みたらしい文句を書き竝べるのは、どう云ふ了見なのか。「あなたの動機は何ですか」とききたい。

Linkについても、人を陥れようとしての行為でなく、素直にLinkを行っていれば大きな問題にはならないと思うし、もし問題になったとしても、ちょっとした会話で解決してしまうものだと思っている。

いや、そんな考えでは、うまく事は進んでいかないという声もあるかもしれない、もし、そうなら、きっと人が人として生きるということが解らなくなってしまっているのだろう。その状況であれば、それこそどうでもいいことではないのだろうか。

なぜ、議論で追詰められたら、すぐに相手の「人格否定」に走りますか。「人間性善説」を主張する人には、自分の説に從はない奴を惡人と決めつける傾向がある。

私は「人間性惡説」を認めるから、それゆゑに「うまく事が運ばない」場合を想定して、それなりの豫防策を講じておかうとする。逆に、「人間性善説」が眞理であるならば、会話に頼るまでもなく、いかなる場合にも問題は起らない筈である。

----面倒だからどっちでもいいけど。

ならば、何でわざわざ文章を書きますか。どっちでもいい事に、なぜ口を出しますか。どっちでもいいと思つてゐるのなら、默るがよろしい。


矛盾。矛盾。矛盾。


ネタ仕入元:ノベる 2001/07/12 - 09:10 @ [ねこめしにっき]

平成13年7月12日

「PC Tips」を名乘るのは結構だが、このtitleはまづからう。

平成13年7月12日

日本共産党のホームページで党の政策を見れば一目瞭然のように、たとえ政権を取ったとしても、たいして私たちのくらしに不都合なことは起こらないでしょう。もっとも、最終的な目標は共産主義社会の実現にありますが。

共産主義社会の実現の爲にならば、いかなる嘘をついてもよろしい、と云ふのが共産主義の教へるところです。共産主義に於ては、目的が手段を正當化する、と云ふ事を、我々は忘れてはなりません。

共産主義のいちばんの特徴は階級がないことです。さらに、私有財産も認めない社会です。工場の労働者も工場長も社長もみんな能力と働きに応じて報酬が分配されます。無階級であるということは、支配する人物が誰もいないことだから、国家さえ消滅してしまいます。共産主義というと旧ソ連などの国家を想像してしまいますが、あれは社会主義(レーニン主義)の国家なのです。共産主義社会の前段階が社会主義社会であるのです。もちろん、日本共産党は社会主義社会の建設を前段階の目標に据えています。

これを元に僕が考えるに、真の共産主義社会はまさにユートピアであると思います。実際、カール・マルクスは人類史の最後の段階で階級は消滅し、生産力は高度に発達して、各人が能力に応じて働き、必要に応じて消費できるようになると書いています。ここから先はさらに間違っている可能性大ですが。世界同時革命とは、これを全世界規模で一気に成し遂げてしまおうとするものだと思います。なぜなら、究極の共産主義社会は、階級が無いということは国家すら無いわけだから、全世界、全人類規模で達成されなければならないからです。実際にそれを標榜している団体がいくつかありますが(日本にもある)、その思想の実現のために生じる犠牲を考えたら、今すぐに支持できるものではありません。ましてや、人命が失われることに関しては大変な憤りすら感じます。共産主義に対する反感はそこからきているものだと思います。

共産主義は理想主義であり、御人好しの思想であり、それゆゑ私は好感を持つのだが、その一方で、私は「人間性惡説」を信ずる者だから、「共産主義は絶對的に誤つた思想である」としか言へないのであります。

階級が無くならうとも、能力の差は依然として殘るのであり、能力の差が階級に取つて代る事はあり得るのであり、それが現實化したのがソヴィエト聯邦であつたと私は考へます。共産主義からスターリンの恐怖政治が出現したのは或意味必然性があつたと私は考へます。

なほ、生産力の向上が科學萬能主義や進歩主義に基く迷信である事、人間が自己の能力以上の報酬を求める困つた存在である事は、言ふまでもない事でせうが、さう云ふ非現實的な大前提なくして成立しないのが「眞の共産主義」であります。


人間性の一部を否定しない限り、共産主義は成立しないのであり、それゆゑ私は共産主義を認めない。

平成13年7月12日

Amaya 5.1、リリース。

平成13年7月12日

Word Word Word Criticism
正字正かなで記述されている野嵜氏のサイト。HTML 4.01 strict で記述されている。

今や、當サイトのHTML文書は、殆どがXHTML 1.0 Strict準據かISO-HTML準據になつてしまひました。ISO-HTML準據と云ふ事は即ちHTML 4.01 Strictにも適合してゐる譯ですが。

平成13年7月12日

ダサいホームページを解読

平成13年7月12日

道元と禅問答。

いやあの坊さんが道元だったかどうかは不明なのだが、正法眼蔵を読んだ後だったのでそんな気がした。やたら口の汚い道元だった。疲れた。

道元ではなく、私だつたのでは。

平成13年7月11日

 中国を訪問している自民、公明、保守の与党3幹事長は10日、江沢民国家主席ら中国要人と相次いで会談した。江主席は日中関係について「歴史問題はきちんと対応しなければならない。火をつけると直ちに大きな波風を起こす可能性がある」と述べた。間接的な表現で、小泉首相の靖国神社公式参拝や歴史教科書など歴史認識をめぐる問題に懸念を示した発言だ。一連の会談で中国側は靖国問題を特に重視する姿勢を強調し、首相の参拝を強くけん制した。

これが脅迫だとわからないのが日本人。「波風を立てる」主體は中国である。

朝日新聞も、間接的な表現と書くくらゐなら、「直接的な表現」ではどう云ふ意味なのか、をはつきり書けば良いのに、と思ふ。


「中国は要求した」「韓國は要求した」では話にならない。「要求を日本が呑まなかつたら、中国或は韓國はどうする積りなのか」を、マスコミはきちんと考へ、傳へる努力をすべきである。情報を右から左に流すだけの存在であるとしたら、マスコミの存在意義は無意味となる。

もちろん、この「はつきり言はれてゐないが、分かる事」を、はつきり書いたら(或は言つたら)文句が返つてくるから、マスコミははつきりさせないのである。しかし、かう云ふ態度が「當り前」であるのはよろしくないと思ふ。

平成13年7月11日

結城浩さんのサイトを見る度に思ふ――たまにはHTML文書を文法チェッカにかけてみたらどうか。

平成13年7月11日

迷走氣味。

平成13年7月11日

死に一切の意義を認めない現代は、不幸な時代だと思ふのである。

平成13年7月11日

自衛隊はれっきとした国防軍ですが、専守防衛に徹し、隣国に脅威を及ぼさない規模に縮小する必要があります。米国の主導する米国の国益のための干渉・侵略戦争に巻き込まれる可能性がある集団的自衛権を行使することは、明瞭な憲法違反であり、認められません。

集団的自衛権と云ふ言ひ方が、實は私は大嫌ひなのだが、なぜこの手の欺瞞的な言ひ方に、日本人は嫌惡感を感じないのだらうか。

平成13年7月11日

平成13年7月11日

みさ
「・・・だまって進めなさい」
みん
「はひ・・・」

感動詞「はい」を(以下略)。

平成13年7月11日

DeskJet 505Jのインクを買つて來たのだけれども、高いね。

平成13年7月11日

異常なし。つまらん(をひ

感動詞「おい」ををひと表記しなければならない根據は何なのでせうか。

平成13年7月11日

F さんの日記で WindowsNT + Internet Explorer 4.01 だと、Quu がちゃんと表示されない、との報告が(ありがとうございます)。多分 CSS の position 関連が原因かと思うんですが、果たしてろばQの設定がおかしいのか、Internet Explorer の Bug なのか良く解らないので調査中。

Internet Explorer 4(Win32)には慥か、ブロックレヴェル要素にposition指定してもうまく反映されない、と云ふバグがある筈です。critical experiments lainのソースが異常に汚いのは、IE4對策のせゐ。インライン要素を無理矢理作つてposition指定する、と云ふ方法で逃げてゐますが、この方法は餘りよろしくないやうな氣がします。

ちなみに、critical experiments lainで、class屬性やid屬性を使はず、外部*.cssファイルにスタイルシートの記述を追出してゐないのは、Netscape Navigator 4.x對策だつた筈。

平成13年7月11日

やぶから棒な話。その2。

女は三つにして既にヲバサンである。

……と云ふ事に氣附いてしまつたので、「萌え〜萌え〜」とか言つて女性の一面しか見てゐない連中は馬鹿であるとしか私には思へません。


ちなみに、もう一つ私には氣附いてゐる事がある。

男は幾つになってもガキ。

平成13年7月11日

やぶから棒な話だが。

獨裁制と民主制の差は、數の差に過ぎない譯で、兩者に絶對的な質の違ひは無い。


……と言ふと、目くじらを立てて怒る人がゐるので註釋。

確率的に、獨裁であつても善政はあり得るし、民主制であつても惡政はあり得る。ただ、獨裁だと、全か無か、と云ふ博奕みたいな事になるので、取敢へず臆病な、或は「安全志向」の現代人は民主制に逃げてゐるに過ぎない。

政治は相對的、と云ふ事。人間のする事に絶對はありません。民主主義の過信は禁物。


かう言つても、物凄い形相で怒り出す、或は爆笑やら嘲笑やらを始める人がゐるのだから、日本と云ふ國は異常。民主主義と云ふ政治的なものを疑ふのが、日本では道徳的な惡事或は愚鈍の證しであり、民主主義を讚へ、現在の日本國の體制を賞讃するのが道徳的な善事或は知性の徴であるとされる。

政治は相對的である、と云ふ事が分からない人が日本には多過ぎる。

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