今の人は、「辛い」を「辛ひ(/tsurahi/)」と發音するのでせうか。よし、「辛ひ」と發音するにしても、形容詞の「辛い」を「辛ひ」と書かなければならない必然性があるのでせうか。
椎名林檎の真夜中は純潔の歌詞の
攻められたひが発端では?
この手の變な假名遣は戰前からあつたやうで、發音通り説に贊成する急進論者
である堺利彦も『文章速達法』で攻撃してゐます。
ちなみに、椎名林檎は以前、一度斬つてゐる。
お目出たふ御座居升。近頃は、中々新譜をお届け出来ずに居ります。
有難ふ。ごきげんやふ。
ナニを
勤しまうともそれは御勝手ですが、出たら目な假名遣をわざと使ふのは止めて下さいませんか椎名林檎樣。※引用部強調野嵜。
ちなみに、堺の文章は平成13年5月28日分(瞬間5月 Part.7)で紹介ずみです。
こんな規格
があると云ふ説を目にする。
UXGA
SXGA
SXGA+
QUXGA
このやうな規格
は、この世に存在しません。斯る誤つた表現を謳ひ文句にしてゐるメーカが間違つてゐる。
SXGAが規格だ、と云ふのは誤り。そもそも、XGAつて何の事か、メーカの方々は、或はユーザの方々は、御存じなのでせうか。XGA-2なる代物が存在した事實を覺えてゐる人はゐるのでせうか。AGXなるものも存在したのですが、そんな事を知つてゐる人は、「闇黒日記」の讀者に何人ゐるでせうか。XGAがMCA依存のテクノロジであり、ISA版がまともに動かなかつた事實を知つてゐる人は何人ゐるでせうか。MCAとは何なのか、説明出來る人は、今時何人ゐるでせうか。と言ふか、MCAを搭載してゐるハードウェアを今でも使つてゐる人は、どれくらゐゐるのでせうか。ISAつて何ですか。EISAなんてものを覺えてゐる人はゐますか。昔々、VLバスなんてものが存在した事を覺えてゐる人はゐますか。Gateway 2000用のATI Graphics Ultra Pro VLバス版は、他のPCのVLバスに刺さらなかつたんですが、もはやSXGAとは全然關係ありません。
もつとも、Mach32が8514/A互換のグラフィックチップであり、その8514/AをもとにIBMが開發したのがXGAである、と云ふ所で、なぜか話が繋がつたりしますが。その8514/Aが1024×768專用であり、いはゆる「XGA」と一致したりしますが、これを「XGA」と言つたら大間違ひ。8514/Aは16色しか出ません。
ちなみに、1600×1200のモードは、かつてナナオのボード等で實現されてゐました。當時はCAD用。と言ふか、「ナナオ」も最早昔のブランドですか。
ちなみに、SVGAなる規格も存在しません。VESAがSVGAで基本的にサポートすべき規格は決めた事がありますが、SVGAとは「VGA以上」の全てのグラフィック表示(の能力を持つハードウェア)を指す言ひ方であり、それ自體が規格なのではありません。640×480の256色の表示も立派なSVGAです。VGAは最高で640×480の16色しか出ません(正確には違ふ、慥かMCGA互換のモードならば、解像度はもつと高くなる)から、それ以上ならばSVGAを名乘る資格があります。
Tsen-LabだのS3だのTridentだのOrchidだの、Weitekだの、みんな無くなつてしまひましたねえ。ET-4000や86C924、Viper VLBなんて、最早誰も知らない。
Borland - News Release : ボーランドのフラッグシップ・プロダクトのエントリー版 Borland(r) Delphi(tm) 6 Personal無償ダウンロードを決定
「馬鹿右翼」だの「馬鹿左翼」だのと言ふのはよろしいが、馬鹿ではない右翼や馬鹿ではない左翼の言ふ事くらゐ、ちやんと聞きなさいよ。馬鹿。
うちのテレビが画期的な色になって久しい。RGB各チャンネルのバランスが狂ったというか、RとGだけとかGだけになってしまって、緑色のモノクロ画面で観賞するはめになったりしているのです。
慣れてしまえば、緑色でもいいのだけど、F1とか2輪GPなんかは見づらい。マシンごとにカラーが違うわけなんだけど、これが皆一様に見えてしまうのです。いったい誰がトップなのかサッパリなんてことがおきます。
で、しかたなくテレビを折檻。ブラウン管の上の方に「ライダーパンチ」や「あんパンチ」をくれてやるとしばらく綺麗な色で観賞できるわけです。が、最近あまりに折檻しすぎたのか、すぐヘタバッてしまい、いよいよ交換かも……。
しかし、映らないならふんぎりもつくのだが、とりあえず緑色でも映っているとなるとなぁ………。
修理に出してみてはいかがでせうか。
「言葉を疑へ」番外篇。
別にコリってApple報道に限ったコトぢゃなひぉね。
形容詞「なし」の活用語尾が音便で「い」となつたものなので、(以下略)
何やら個人的に活動してたらしき人物がアップル社長に(どうやら自分が活動していた件について改善があったらしく)感謝状なんぞ送ってるのを見ると滑稽以外のなにものでもなひ。
助動詞「なし」の活用語尾が音便で「い」となつたものなので、(以下略)
最近何でも鵜のみにするシト多くなひ?(<ない?
「ない」です。と云ふのは、「なひ」ではなく「ない」が正しい、と云ふ事なのであつて、「何でも鵜呑みにする人」は多いと思ひます。かといつて、無闇矢鱈と逆らへば良いかと言ふとさうでもないので、「ない」くらゐは鵜呑みにしてやつて下さい。
ぁぅ〜、ほぼカンペキ口語体での文章なので御勘弁を〜
ほぼカンペキ口語体での文章
である事は、この種の假名遣
を用ゐる根據にはなりません。兩者は全く論理的に結び附きません。なぜほぼカンペキ口語体での文章
であるから「辛い」を「辛ひ」と書かなければならないのでせうか。
今の人は、「辛い」を「辛ひ(/tsurahi/)」と發音するのでせうか。よし、「辛ひ」と發音するにしても、形容詞の「辛い」を「辛ひ」と書かなければならない必然性があるのでせうか。
「正しいHTML」の前に「正しい日本語」を書くべし。
何となく危險な感じがするな。
ということだそうなんで、実用性という点で、
font-family: "MS UI Gothic"font-size: 11ptこの指定でマカーは、無視されていること確定。以前から言っているように、font-size:11ptって、マジで読みにくいんですけど。しかし、こーゆー事を仕事にしているっていう事みたいだから、あんまり突っ込んじゃいけないような気がしてきた。だって、下手したら「営業妨害」と、とらえられたりしませんかね? その辺ちょっと怖くないですか?
私は、一度この手の「非常識」に營業妨碍されてゐるので、全然問題ありません。確かにこの手の「非常識」を信仰してゐる人は怖
かつたりしますが。殆どやくざ。
相手が小泉だから巨泉をぶつけます、と云ふ發想が親爺。違ふのかも知れんが。
野嵜さんは泉鏡花の例を挙げてゐたけど、
例に擧げたのは、泉鏡花の小説ではなく、谷活東の散文「七夕の夜」です。谷が泉鏡花の「杜若」のモデルになつてゐる、と云ふだけの話です。
しかし、私は、言論による闘いと思ってやっているわけではありません。木村さんとの意見の違いを述べ合っているつもりでいます。勝敗は、もちろん関係ありません。合意できれば一番いいのです。また、違いが分かればそれでいいのです。議論が、勝ち、負けになると序列につながると思うのですがどう思われますか?
なぜ皆合意
したがるのだらう。合意
がテーゼとなるから、屡々日本では「和を亂す奴」が非難されるのである。
そもそも合意
したいと言ふ人間に限つて、「相手が俺の意見に從へば良い」「俺の意見に從はない相手が惡い」と思つてゐる。自分の意志を相手に強要したがつてゐるのである。さう考へると、合意
と云ふ言葉は、欺瞞的な、嫌らしいものにしか見えなくなる。
ワレヅやR○Mやmp3は発見した時に全て拾っておくべきである。それがたとえ要らないモノでもだ。そして全てが自分のハードディスク内に収まったら、即座に違法サイトとしてチクるのは常識。どうせ消えるのだから早いほうが善い。
非常に常識的な意見だと思ふ。人間、この意地惡で利己的なもの。
お約束。
http://members.jcom.home.ne.jp/monazilla/ を HTML4.01 Transitional としてチェックしました。
190個のエラーがありました。このHTMLは 18点です。タグが 19種類 392組使われています。
まあ、標準化團體ではないから仕方がないか。それにしてもJ-COM@NetHome。よりによつてJ-COM@NetHome。
ネタ仕入元:Diary @ [雨やどり]
なんでこんなに分裂統合を繰り返すのか左翼活動家達は。これでよく敵味方が識別できるものだと感心します。
近親憎惡です。或は、元祖と本家の爭ひ。
ヒジョ〜につらひ...
形容詞「辛し」の活用語尾が音便で「い」となつたものなので、「辛い」は「辛い」であり、「つらひ」ではありません。
平田さんに、野嵜が基本的な知識を持つてゐなかつた事實を指摘していただきました。ありがたうございます。
平田師匠が半年前の記事まで遡つて調べて下さつた事實に驚愕。私ですらよく讀返さない昔の「闇黒日記」を、良く我慢して讀んで下さつたものである。
今をさかのぼること二ヶ月前、侍魂の規模が大きくなりすぎて以前のTOP画像が著作権に触れる疑いが出てしまい、それならばと一か八かで版権会社と個人で独自に交渉してみるも見事に瞬殺。<身の程しらず
サイトの規模と著作權法に觸れるか否かとは無關係。サイトの規模がどんなに小さからうとも、違法な畫像は違法。
うちのサイトも「TOP繪」を募集してみるかね。例によつて色々な方法で募集。
それよりも、翻訳物で長い独白が続く場面なんかで閉じ括弧がつかないことがあるのはどうにかならんか。英語では同一人物が長く喋るときに
``Peter Piper picked a peck of pickled pepper
``A peck of pickled pepper Peter Piper picked
``If Peter Piper picked a peck of pickled pepper,
``Where's the peck of pickled pepper Peter Piper picked ?''のように、段落の切れ目で引用符を閉じずに改行し、また引用符で始まるような書き方をするんだけど、それが訳本として出版されると、この括弧の使い方がそのままで
「色は匂へど散りぬるを
「我が世誰ぞ常ならむ
「有為の奥山今日越えて
「浅き夢見し酔いもせず」という感じになってることがよくある
續けて、翻訳家ともあろうものが、日本語と英語で約物の使い方が異なるということがわからないんだろうか?
、と千熊屋氏は書いてゐる。しかし、日本語獨特の約物の使い方
なるものは、案外當てにならないものである。
泉鏡花の「杜若」に出てくる登場人物のモデルとなつた「文士」である谷活東の散文「七夕の夜」に、次のやうなくだりがあるさうである。
「うむ。足下の名は、
「谷と申します。
「家は何処だ。
「直ぐ下の右側で、橋の角で、
「何番地だ。
「二十八番地。
「どの家だ。
「あすこに見えまする右側の新しい家で、
「うむ、大きな家だな。
「側へ行くと小さうございます」
明治のものであるが、日本人によつて最初から日本語で書かれた文章である。段落の切れ目で引用符を閉じずに改行し、また引用符で始まるような書き方を
谷はしてゐる。
西鶴の『一代男』を見てもわかる通り、良く讀めば地の文と區別される、と云ふのが日本語の會話文の表現方法であつた。今の日本語の約物
は、英語などの外國語に於る約物
を參考に作られたものである。
鉤括弧のやうな約物
は、もともと日本語に存在しないもので、明治になつてから漸く整備された代物である。上記の谷の文章は、その整備期の文章である。だが、その整備期は過ぎ去つたと言切れるだらうか。明治以來、日本人は傳統と西歐の折衷と云ふ困難な作業を續けてをり、その作業は完了してゐない。
いたひ……
形容詞「痛し」の活用語尾が音便で「い」となつたものなので、「痛い」は「痛い」であり、「いたひ」ではありません。
そのたうりです。-bcまでやったとみなしてが正解ですな。
「通り」は、歴史的仮名遣では「とほり」であり、「現代かなづかい」では「とおり」と書換へられます。「たうり」になる理由は全くありません。
ちゃんと記事に書きます。しくしく。こういうツッコミは大歓迎なので(時代によりどんなネタもObsoletesになり得るんですから)、お気軽にツッコんでくださいな。
obsoleteは形容詞であり、sが附く事はあり得ません。
杉並区立中学校で学んだわが子が「お母さんは『暴力や戦争は絶対にいけない』っていつも言うけど、戦争って良いことがいっぱいあるよ。学校で習ったもん。戦争になったら、一番に志願して、人の役に立ちたいなぁ」なーんて言ったら、どうでしょう?「人の役に立つ、って、意味がちがうだろ!!」と思っても、『戦後の古い人たち』とか『反戦世代』なんて言われてしまうかも!
要は、『戦後の古い人たち』とか『反戦世代』
とかいつた「レッテル」を貼られるのが、連中は怖いのである。何しろ、「戰前の古い人たち」とか「戰爭世代」とかいつたレッテル貼りの恐ろしさは、身にしみてわかつてゐるのである。
しかし、暴力や戦争は絶対にいけない
と子供に教へる母親が、人の役に立つ、って、意味がちがうだろ!!
等と云ふ實にぞんざいな口調の本音を隱し持つてゐる事實は記憶しておいて良ささうである。連中の、いかにも優しさうな表情は、所詮假面なのである。
時の権力者が歴史を都合良く書き替える、というのは、昔からあったことですが、それって「専制君主」のすることじゃなかった?
戰後の教育が何をやつたのでせうか。まさにその「専制君主」のすることじゃなかった?
いやいや、專制君主もよくなし得ない、國語國字改革なんてものをやつたのではなかつたですかねえ。
この教科書が杉並区で採択されると、2002年、つまり来年度から全区立中学校で授業に使われることになります。先生はこの内容に沿って授業をしないと「不適格教師」とかで現場を外されてしまうので、どうしても、この教科書の内容を忠実に教えることになりますよね。ちゃんと学ぶ子になって欲しくない、なんて変ですよね。
あんた達は、教科書そのものを現場
から外
さうとしてゐるのではないですか。そして、反戦世代
の古臭い教科書のみを採用させて、その反戰思想に沿って授業をしない
教師を「不適格教師」とかで現場
から外
してしまはうと考へてゐるのではないですか。
過去に犯した過ちを反省し、二度と同じ失敗を繰り返さず、よりよい世の中を作ろうと考えるのが、ごく普通だと思うのですが、そうじゃない人たちがいるんですね・・・困ったことです。
それはあなたです。
「御國の爲に」と「戰爭反對の爲に」と云ふ點では異りますが、結局のところ、あなたのやつてゐる事は「言論統制」以外の何物でもありません。そして、反省すべき「過ち」は、「言論統制」と云ふ部分にあるのではないですか。
人は自分を否定すべき文句でもつて、他人を罵る。
この教科書の問題点はすでにご存じかと思います。基本的人権を根底から覆すような、子供たちの将来と命をないがしろにするような、そしてそのことを良しと教えよというような教科書です。親としてこのような教科書を子供に使わせることは、どうしてもできません。
にもかかはらず、あなたは「言論の自由」を根柢から覆すやうな事をしようとしてゐるのですねえ。そして、子供の頭に「反戰思想」を刷り込み、子供の思想を統制しようと、あなたはしてゐるのではないですか。或は、あなたは子供の将来と命
を人質に取り、自分の主義を強制しようとしてゐるのであります。
「つくる会」の教科書が出現したのに對し、左翼はこれを「無かつた事」にする努力は惜しまないが、なぜか自分たちの教科書を反省しようとは絶對にしない。それは即ち、左翼が「自分たちの主義は絶對的に正しい」「自分達の史觀に基いた教科書の記述は絶對である」と信じ込んでゐる證據である。
言換へれば、左翼は、絶對主義を否定する一方で、自分達の主義を絶對化してしまつてゐるのである。これは矛盾だが、絶對的思考に陷つた人間は自己の矛盾に氣附かない。氣附きたがらないからである。
そこにこそ、眞に反省すべき點がある筈なのだが、左翼にとつて反省すべき點は「戰爭をした」と云ふ事實である。そこから、「戰爭をしなければ、何をしたつて良い」と云ふ嫌な思ひ上りが出現するのだが、左翼はそれに目を瞑る。その方が、右翼を叩くのに便宜だからである。思ひ上がつた人間の聲は大きくなるし、聲の大きい方が「世論」を作るのに有利だからである。
こどもたちに真実を伝えることは、わたしたちの責任です。戦争賛争の教科書を採択させないために、力をあわせましょう。 ★★★ 7月7日高井戸地域センターで『絶対に使わせない!「つくる会」教科書 杉並集会』を開きます。
猫撫で聲の背後には、自己の獨斷に過ぎないものを平然と真実
と言ひくるめる知的怠惰が潛んでゐる。知的に怠惰な人間が、絶對主義と言論統制とを招來するのである。
そして、知的に怠惰なその人間が自分は善意の塊であると信じ込むところに、その人間がどうにも救はれないゆゑんがある。正しく、救ひやうのない馬鹿である。自分に惡意の全くない事を信じ込める人間がゐる、と云ふのが私には信じられない。
昔、善人なをもて往生を遂ぐ、況や惡人をや、と親鸞は言つた。
山田宏区長は、教育委員の5人のうち3人を辞めさせ、新たに3人を任命しようとしました (これはどこの自治体でも例のない異例なことです)。結果としては二人が任命されましたが、その一人大蔵雄之助氏は、「霊感商法」で有名な統一協会関係の新聞に主筆格で何度も執筆している人です。また、彼歴史事実をねじ曲げ「従軍慰安婦はいなかった。売春婦だった」などの暴言をはいている人です。教育委員交代劇・顛末記をお読みいただければ、杉並区長・杉並区教育委員会の"今"が一目瞭然になります。
大蔵雄之助、東洋大学教授は
統一協会の実質的機関紙「世界日報」の論客です。「世界日報」ではモンタナ大学で開かれた国際会議に出席したことにふれ、日本の核兵器禁止運動家の「原爆無用論」は説得力が無いとし、「あの破壊力を体験せずに日本は降伏したか」と述べ、核兵器有用論者であることが分かりました。 同会議には軍隊慰安婦問題で出席した市民団体もあり大蔵氏についてこう報告しています。「大蔵氏の『慰安婦なんていなかった。あれは売春婦だった。』との発言に韓国からの出席者は泣いていました。日本からの出席者も抗議したが訂正しなかった。」後日モンタナ大から「大蔵氏の売春婦発言は議事録から削除する」との連絡が入ったそうです。国際問題に発展するような問題発言を平然と行う人物です。教育委員としてはもっともふさわしく無い人物です。
言葉は疲勞しないをJ-CARP(全国大学連合原理研究会)の機關紙「Tetra」に寄せてゐる前田嘉則先生も危ないぞ。ひいては「言葉 言葉 言葉」も……。笑ひ。
福田恆存、松原正の著作買取專門
。
本田透Official HP
。フルバは失笑せずに見られません。
表記變換の友。
ちびちびロボット。
ネタ仕入元:2001.6.25 @ [204 No Content - topics log]
RFC1866 は obsolate なのですが、これを読んでいないとフレーズ要素の意味などさっぱり分からないという恐怖れがあります。
obsolate
がtypoなのは明かであるやうだが、「おぶそれいと」と無理矢理讀んでみると、恐怖れ
と云ふ語と共に、「おそれ」とひつかけた駄洒落なのではないか、と推測が可能になりさうだと思つてしまふ私が怖い。
自然のままに生きるといふ。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のままに生きることを欲してゐないし、それに堪へられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがつてゐる。また演じてもゐる。ただそれを意識してゐないだけだ。
『きんぎんすなご』はわかつきめぐみさんの漫畫。
うちの近所には、あと一月たたないと、七夕が來ないのです。
The World Wide Web Consortiumが構造改革(Restructures
)。
W3C User Interface Domainが7月6日附けで分割。W3C Document Formats DomainとW3C Interaction Domainに。
何となく危險な感じがするな。
非道いね。実用性を重視して制作されてい
るんだと。
ここは、私一人が斬るのではなく、皆で集中攻撃をかけるべきかも。
うーん。何だか目が痛いよ。
七夕。
lainは7月6日で3周年なのです。
7月5日夜10:30〜6日4:00までアニメマラソンをしてみたのです。
御蔭で今日は何にもする氣になれず。
麻弥さん、谷山由紀の名著『コンビネーション』を遂に發見。おめでたうございます。
『コンビネーション』は、大きめのBOOK OFFで、極稀に見つけられます。
明治時代の「偉人」を批判するのが現代の流行だが、さう云ふ批判をしてゐる連中が誰一人森銑三の文章を讀んでゐないと云ふのは殘念な事だ。
森の人物に關する論攷を讀んでゐれば絶對に思ひつかないやうな奇怪な發想を平然と述べる馬鹿が多いのにはあきれる。
森が西郷隆盛について書いた文章がある。
明治初年の宮中の改革は、西郷一人の仕事ではなかつたが、そこには西郷の意図の最も大きく動いてゐるものがあつた。まだ一少年におはした明治天皇に、野武士のやうな荒削りの人々を接近せしめて、宮中に剛健な気分を漲らせたことなど、今日から考へても、愉快に堪へないが、さうした思切つた改革は、西郷が在つて、始めて成し得たものであつた。旧幕臣の山岡鉄舟を推薦したのも西郷だつたといふが、西郷には、もとより薩長の幕府方のなどといふ観念はなかつた。そして己れ自らもまた教育者として、天皇に親近し奉つたやうに思はれる。
一日、天皇が馬場で馬術の御稽古を遊ばされてゐた時に、馬から落ちて、思はず知らず、痛い、と仰せられた。普通の役人達だつたら、飛んで行つて御起こし申上げて、御怪我は、御痛みは、などといふべきところだつたらうが、御一緒に馬を走らせてゐた西郷は、さうした態度に出なかつた。馬上から天皇を見下ろして、痛いなどといふ言葉を、どのやうな場合にも、男が申してはなりませぬ、ときつぱり申上げた。
天皇は、その後にも、この西郷の一言を、一生御忘れにはならなかつた。最後の病床に在らせられた時にも、つひに苦痛を御訴へにはならなかつた。西郷の教訓を、終生御服膺になつたのである。いつのことだつたか、西郷からさう教へられたと、西園寺公望に御話なされたことがあつたさうであり、西園寺さんは、それを人に語つてゐる。
西郷の明治天皇に親近し奉つた年月は、長くはなかつたのであるが、天皇は後々までも、折に触れては、西郷といふ型の大きな人物を御回想になつてゐたやうに拝せられる。西郷は生きた教育者でもあつたのである。明治天皇を御感化申上げた人物としては、第一に西郷を挙ぐべきではあるまいかと思はれる。
これを讀めば、「明治天皇」は暗殺されていた!!等と云ふ怪説を述べる事は不可能になる。
以上、即位前と即位後の明治天皇(睦仁親王)を比較してみましたが、誰が見ても、同一人物とは思えません。即位前、虚弱体質で臆病で字が下手で女官と遊んでいた「睦仁親王」と、即位後、相撲で相手を投げ飛ばす程の巨漢で字が上手く乗馬もこなした「明治天皇」。これらの事実から、「睦仁親王」と「明治天皇」が「別人」であったと考える方が、むしろ自然では無いでしょうか? これは一体どう言う事なのでしょうか? 考えられる事はただ一つ。つまり、睦仁親王とすり替わった「何者」かが、「明治天皇」として即位したと。そして、睦仁親王は父・孝明天皇同様、岩倉具視一派によって暗殺されたのだと。
明治天皇が別人のやうになつたのは、西郷をはじめとする多くの人物の感化を受けたからだ、と考へてよいと思ふ。睦仁親王とすり替わった「何者」かが、「明治天皇」として即位した
、等と短絡的な考へ方をする必要はないと思ふ。そもそも、「自然だ」と云ふ素人特有の發想は、案外正しくないものである。
それにしても、右翼がわざわざ御先祖樣を貶しめるやうな事を書くのは奇怪だ。もつとも、右翼に馬鹿が多いのは事實。
各種「アンテナ」とKSmiracle Web Directoryが同レヴェルに扱はれてゐるのが良くわからない。
何でも自分で考へれば良いと云ふものではない。
シェイクスピアの研究では既に意見が出盡してをり、「間違つてゐる事は明かだが、敢て間違つた事を言つてみる」と言はないと「獨創的」な論文が書けないさうである。しかし、これもどうかしてゐると思ふ。
関係ないが、Jakob Nielsenを、ジェイコブ・ニールセンと書いているサイトがあった。うちの駄目プロバイダが連想されて不快だ(笑)。外人の名前をわざわざカタカナに直すのはこれからはやめておこうと思った。
J-COM仲間。
ALLNETのウェブリソースは6月末日に破毀されてゐる筈なのに、まだ殘つてゐる。http://user2.allnet.ne.jp/noz/には依然アクセス可能。
移行しなくても本當は良かつたのかな?
皆素直にJ-COMに移行したらしく、最近のALLNETのサーヴァは、異常なまでに速くなつてゐる。
「始點アンカー作成、title屬性拔きで」。
どうもありがたうございます。
今夜は部分月蝕。
あーれー? 月蝕じゃなくて月食?
「同音の漢字による書きかえ」と云ふ国語審議会の「報告」(昭和31年7月5日)が惡いのです。
御上は「嘘字を書け」と國民に命じたのです。愚民政策にほかならないのですが、國民は自ら愚民となる事を選擇したのです。
序文の引用部で、本来TITLEとなるべき文章がCITEとして書かれてしまっているようです。
修正しました。どうもです。
Amaya 5.0 リリース。
當然の如く、日本語には非對應。
景氣の惡い話。新潮社「フォーカス」休刊。
- 治聾酒の醉ふほどもなくさめにけり
- 春の夜や灯をかこみ居る盲者達
冬蜂の死にどころなく歩きけり
等の俳句で知られる俳人・村上鬼城は聾者であつた。補聽器をたよりに老いぬ暮れの春
と云ふ句もある。寫生の句であるが、人間的な情感の強く表はれたものが多い。
神保町で古本を買ふ。
古本でない本も買ふ。
露草色の郷にて「伊勢物語」の電子テキストが公開されたが……。
むかし、おとこ、うゐかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。このおとこ、かいまみてけり。おもほえず、古里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。おとこの着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。そのおとこ、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける。
春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知られず
となむ、をいつきていひやりける。ついでおもしろきことともや思けん、
みちのくの忍もぢずり誰ゆへにみだれそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなんしける。
強調部の假名遣が妙です。底本のママなのでせうか。
なのださうです。お騒がせしました>toka3aki樣。
江洲さんとこから映像による思考。 たとえば「赤」を思考に浮かべるとき、僕は赤という活字が脳裏に浮かぶ。一方、 アカという字、あかという音声、650nm の波長を持つ光、アリザリン、薔薇の花、土の色、夕焼け、などなど といったものを思い浮かべる人もいるだろうと予想できる。ただし、これらのものが 他人にとって「赤」という言葉を示すことを思考者が自覚しているとは限らない。 そして、脳に浮かんだ言葉なりイメージなりと つながりを持った言葉なりイメージなりをずるずるたぐっていく過程を思考と呼ぶなら、 言葉で思考するのもイメージで思考するのもたいしてかわらなくて、思考の要素ひとつ ひとつを外部に出力する過程で映像になるか音声になるか言葉になるかの違いが生じるのだと思う。 そう考えると、今のところ脳が思考する過程をきちんと観測できないから、 「誰一人として同じ思考をする人はいない」なんていう陳腐な結論にたどり着いてしまう。
私は「赤」を單獨で思考に浮かべ
ない。全て文脈に從つて解釋する。聯想を全く行はないのである。その點、creativeな意味でも、imaginativeな意味でもない思考方法を私は採つてゐると言へるかも知れない。その結果としてcriticalな思考を私は好むのかも知れない。
アガシ、セミファイナルへ進出。
八二年の教科書問題は、非常に大きな意味があって、日本人の中にある戦争認識が被害から加害に変わったと思っている。それまで日本人の戦争認識というのは典型的には原爆と空襲で被害の問題だけだった。ところが八二年の教科書問題は「侵略」という言葉を「進出」に書きなおさせたように、この問題がきっかけになって、日本は侵略をしていたということを多くの人が認識するようになった。それともう一つは検定基準に教科書を作る時にはアジアの国々に対して配慮をしなさいという「隣国条項」というのがはいった。八九年の一番新しい指導要領では、この「隣国条項」に基づいて近現代史重視の教科書が作られた。七〇年の「杉本判決」、八二年の教科書問題をきっかけにして、日本の教科書は段階的によくなってきていると思う。
「侵略」を「進出」と書換へさせた、と云ふ報道が誤りであつた事實が無視されて、誤報の内容が既成事實化されてゐる。
発行者:埼玉県立所沢高等学校PTA会長 君島和彦
なるほど。みんな繋がつてゐる譯だ。
基本資料。
洒落たものを喰つてゐるね。
對談が面白くない例。
對談が面白い。
Scribbles in this week 落書きだよ〜ん @ [Interface Workshop]
Specialの對談が面白い。
EFF Open Audio Licenseの邦譯。著作権・音楽の目的とは何か〜米EFFが新ライセンス形式で問題を提起に無視されてyomoyomoさん落涙。
「コンピュータ&インターネット関連コラム」と「インターネット&オープンソース関連文書日本語訳」。個人的に、兩者は別コンテンツ扱ひすべきであり、indexは分離すべきだと思ひます。その方が、餘所のサイトから利用(或はリンク)されやすくなるやうな氣がする。
「青空文庫」に比べると相當マイナーに扱はれてゐますが、飜譯と云ふジャンル自體がマイナーであると考へれば仕方がない事でせう。
理論はすでにできている。が、それを言語に翻訳するのに大変な時間がかかるというようなことをいったのはアインシュタインでしたか。私は自分が言葉で考える側だと思っていたのですが、よく考えてみると……考えている過程に言葉らしきものが出てこない。実はイメージで考える側だったのかもしれません。ごくたまに言葉を組み合わせて考えることがあるのですが、そういうときは大抵思考がうまくいっておらず、結論が出ません。しかしいずれにせよ考えを出力するのには言葉が使われるわけでして、どこかで翻訳されているはずなのですが、それがどこであるのかはさっぱりわかりません。あるいは、実は皆同じように考えていて、そのとらえ方が違うだけということもあるのでしょうか。
こういうことを専門に研究している人とかいないのかな。
私の場合、イメージや言葉の斷片ではなく、文章がダイレクトに腦内から/腦内に出力されます。思考過程即言語過程であるのですが、これは意外と珍しいのでせうか。
頭の中で文章の推敲をしてゐるし。
インパクには電通が關はつてゐるんですか。知らなかつた。
ネタ仕入元:2001年07月04日(水) @ [ワツニュ]
たはいのない言葉に笑ひ轉げてはそつと溜め息
巧みに隱された皮肉をよけながら時を過ごして
誰もみんなこんな風に生きてゐるんだし
辛く思へるのはまだ甘えてゐるからね
何をしても誰かが笑つてゐるやうでなぜか不安で
言葉たちはいつかあやふやを愛して背中を向ける
忘れたくないことよりも忘れたいことが増える
見上げる夜空は青 海になりたい
やつぱり篠原美也子は天才だねえ。
blockquoteの中身を段落にし忘れてゐたのも修正しました。ありがたうございます。
中々見られるものじゃないらしい(謎)例のアレ(アトランティスの謎)は早々にコンニャクヒコーキ(謎のゲーム魔境)で手の届かないトコロ(京極夏彦の謎2)に行ってしまわれた様子ですが何にせよ雲行き(戦艦大和びっくりデータ99の謎)が怪しくなるとイタい(死海文書の謎)だの電波(日本権力構造の謎)呼ばわりして終了(ファイヤーエンブレム紋章の謎)というのは実にアレ(鳥玄坊先生と根源の謎)であり引用論争(オランダ靴の謎)といいどうしてこう(謎亭論処)なりますかいやこういうフー(里見の謎)に発言する自由(謎の生物シーモンキー)はあるのですからまったく問題なかったり(新解さんの謎)こだわらなかったり(神々の遺伝子−封印された人類誕生の謎)どーでもよかったり(小松未歩)するのは自明でしょうけれど(カラフルピュアガール)。
カヅサツさんらしい、パロディ精神の發露とも言ふべき、大變面白い文章です。
ただ、「〜だの」と云ふ言ひ方は、「AだのBだの」と云ふ風に用ゐなければなりません。「〜とか」も同樣です。
KSmiracle Web Directoryのabout.htmlを修正しました。ありがたうございます。
けなされて嬉しきもの襃められてかなしきもの
見た目は大して變らないのに、中身は完全に變つてしまつたWindowsなんて代物もあつたりしますねえ。
2ch に名前がでるのは WDML関係(謎)以来だな。 71 の言いたいことは挨拶すれば良いってこと?よくわからん。それにしても、野嵜に叩きのめされたことになってるのか。まったくこだわりませんが(藁)。
相當こだはつてゐるやうですね。
岩井がなぜ偉さうにしてゐるのか、やつと理由がわかつた。
ちいちゃんだよ〜。
暑いね〜〜。
すごーいHなサイト、みつけちゃった。
超刺激的だよ。
暇なとき、見てね。
じゃ、またね!
「ヤツがくる!」が移轉したとの御聯絡をメールでいただきました。もちろん、上のやうな文面ではありません。
あからさまに煽ってくるような人には関わらない方が身のためという噂。
この人、(謎)、(謎無)、(ピュア)(以下略)のない文章を書けるんですね。
どつちにしろ、嫌みたらしい事に變りはありませんが。
もうちょっと隠し味(謎)があればよかった(謎)。あれ(どれ)ではノミネート止まり(謎)。
で、(謎)があればあつたで、やつぱり嫌みたらしいんですが、取敢へず意味不明な文章であり惡文である事に變りはないので、少しは精進して貰ひたいと思つた。
パーサのプログラミングが大變なのはわかるが、データ制作者に負擔を強ひれば良いと云ふものでもなからう。データ制作者も、プログラムの譯のわからない仕樣に盲從するのは馬鹿だと思ふ。
外面が美しくとも、その背後にぐちやぐちやでぬとぬとのものがある、と云ふのは氣持ち惡くてねえ。潔癖症?
その邊り、「美少女萌え」の連中には理解し難い事なのかも知れない。しかし、「美少女だつて、ご飯は食べるし××もする」と言つた吾妻ひでおを信奉した昭和50年代のマニアは、'90年代のヲタどもよりは餘程偉かつたと思ふ。
當方のPC「無名戰士壱號」では現在、「何か」は動いてゐません。「SSP」も動いてをりません。「嶋ちゃんの秘書」よりも飽きるのが早かつた。
もちろん、岩井は自分が無禮であると承知で無禮を働いてゐる確信犯。
かくしん‐はん【確信犯】道徳的・宗教的または政治的確信に基づいて行われる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯などに見られる。
確信犯【かくしんはん】道徳的・宗教的または政治的義務の確信を決定的な動機としてなされる犯罪。社会変動期に特に顕著に出現する。政治犯,国事犯とその実質を同じくする。確信犯人はその世界観が是認されない限り,自己の行為の違法性を意識していないから,既成の法秩序の内部では救済しにくい。法と道徳の境界線上にある難問であり,ラートブルフは,確信犯人に対しては,懲役刑ではなく名誉拘禁をもって臨むべきことを提唱し,ドイツ刑法にある時期採用された。→抵抗権/悪法論
「分かっていて敢えてやる」という意味の使い方は非常に普及している誤用ですが、日本語に敏感な野嵜さんですら間違うのだなあ、と思いました。それとも、「もとは誤用とは言え既にこちらの意味の方が普及しているので問題なかろう」ということかしらん。それはそれでありだと思いますが。
私は、「岩井は無禮が正しい事だと信じてゐる」と云ふ意味で確信犯
と申したのでありまして、「岩井は無禮が間違つた行爲であるけれども敢てやつてゐる」と云ふ意味で申したのではございません。
當然、まともな日本語を書けない岩井についても、
礼儀がなってないと受け取っても構わないはずであり、そういう輩に礼を尽くす必要は無い筈。もちろん、岩井は自分が無禮であると承知で無禮を働いてゐる確信犯。
直前の文章で、「岩井の立場では無禮は是であるから、こちらも岩井には無禮な態度を取るぞ」と私は申してをります。
さう云ふ譯で、ちやんと私は確信犯と云ふ語を正しく用ゐてゐたのであります。寧ろゆうじろうさんが、「誤用」の意味にとらはれて、私の文章を誤讀してしまつたのであります。
文章は全體が有機的に成立してゐる筈のものなので、その中の一語の意味を決定するのには、その前後を見れば良いのであります。言換へや繰返しが、いかなる文章にも存在するのであり、それを追跡していけば、詰り文章のコンテキストを追つていけば、良くわからない部分もわかるのであります。
特に私の文章には言換へや繰返しが多いのですが、一般的な文章にも同じ事が言へます。特に、良く書かれた文章は、この手法を巧みに使ひ、曖昧な概念を次第に鮮明なものとしていくものです。
國語の長文讀解の問題では、コンテキストを追跡して或語の明確な意味を抽出する、と云ふ作業が求められる事が屡々あります。案外この作業が要請されてゐる事は、氣附かれてゐません。それゆゑ、國語の問題は感性が必要だ、とか言はれる譯です。國語嫌ひが多數出現する理由もここにあります。
しかし、國語の問題(特に長文讀解)で必要なのは、繰返し・言換へによつて、筆者がどのやうに論理的に思考を展開してゐるかを追跡する技術だけです。國語に於て文章を讀む技術とは、文章の中の特定の部分を他から切離して理解する事ではなく、或部分の意味を文章全體の中に位置づける事にほかならないのであります。コンテキストを辿る作業を平素から意識的に行ふ癖をつけておけば、長文讀解問題は9割方確實に得點可能です。
一般の文章を讀む際にも、この作業を意識的に行ふ事で、その文章を適切に讀み解く事が可能となります。面白いやうに、筆者の意圖がわかるやうになりますし、筆者の論理展開のミスに簡單に氣附く事が出來るやうになります。
逆に、文章を書く際にも、この事を意識してゐれば、詰り自分の文章で言換へや繰返しが適切になされてゐるかどうかを確認しながら文章を書けば、誤讀される事も少くなります。また、あとで讀者に「つつこみ」を入れられた時にも、うまく反論が出來るやうになります。
誰か妹(義理)ください。
今更妹なんぞ要らない。「安井夫人」みたいな嫁なら募集。
そんな風に生まれる誤解ってのを解く方法は無いものでしょうか。私は、顔文字とか(謎無)とかは、誤解を解く為(というか、されない為)の先人の知恵だと解釈しています。それを使わずとも誤解されないだけの文章を書いていればいいんですが、回りくどく書くよりも偉大なる先人の知恵を拝借したほうが楽に決まってますから、皆さんそういった表現を使われるのではないでしょうか。
顏文字や「(謎)」や「(謎無)」と云つた表現は、誤解されないやうなちやんとした文章を書かずに濟ませようと云ふ横着な精神が生んだものであり、先人の殘した負債であると私は解釋します。
物を書く時に樂をしようとするから誤解される事が増えるのだ、と私は考へます。
例えて言うと、小屋の中に何人か集まってて、時々飛んでくる弾丸を斬鉄剣あたりで火の粉をギャンギャン飛び散らせながら斬る人がいて、耐火服を持ってる人と持ってない人がいて、火の粉はこの家を弾丸から守るためのものなんだから、耐火服を持ってない人は熱くて熱くてたまらなくても我慢せねばならない、といった状況。
僕は火の粉を飛び散らせずに斬るべきと言った。彼らは僕が耐火服を着るべきと言った。
こちらが斬鐵劒を持つて「尋常に勝負しろ」と言つてゐるのに、岩井は飛行機の機體に蒟蒻を塗りたくつてその中に籠つて出て來ない、と云つた状況のやうな氣が。と言ふか、岩井が「尋常に勝負」しないから、Piroさんにしても私にしても腹を立ててゐる譯で。
五右エ門いはく、あのぶよんぶよんした蒟蒻だけは斬れなかつたのだ
。その後、一度も生かされなかつた設定ですが、さう云ふ話があるのです。
「ルパン三世(新)」はANIMAXで放映中。
今日、母が圖書館から借りてきた言葉の誤用の本を面白がつて讀んでゐた。
「これは私への挑戰だな」は「あ〜る」からの引用だと明記しておくべきか。
一つは、互ひに自ら感情的になるのを抑制し、感情的な要素を退けて、ディアロゴスに近づくことである。もう一つは、感情的な言葉の投げ合ひによつて、問題になつてゐる事柄の眞理・眞相を見失ふことがないやうな、感情の訓練を積むことである。
後者の贊同者は無い模樣。
したがつて、他人や自然を含めての他者との對話を拒否することは、自己閉鎖的になることであり、經驗を拒否することになる。ここからまた、我々は自分と同質のもの、親しいものとだけかかはつてゐる場合には、自己の現實性を失ふことになる。
岩井は、中村雄二郎のこの文章について、どう思ふか。
それはそうと、あれれ、〜だよ。と言う構文は紋切型だと思うのですが、それも含めて笑うところであるという認識で良いのでしょうか。不安になってみたり。
T.M.Nの「神様」のパロディですので、紋切型とは區別すべきかと。
しかし、こんな時にこんな事を言出すのだから、神様は洒落ではなく本當に人格が存在してゐるのではないかと思はれる。
「理を通すことより、謝ることの方が遥かに簡単である」
ギスギスした心を平穏に戻す為に「カードキャプターさくら」でも読みましょう。
「蒼き流星SPTレイズナー」「機動戦士ガンダム」「頭文字(イニシャル)D」の三連續コンボは、鬪爭心だけ助長します。よろしくありません。自戒。
ANIMAXで「蒼き流星SPTレイズナー」放映開始。
法に基かなければならないと主張するけいさんが、憲法に關しては憲法以外の「慣習」なるものを優先しなければならない所に、現行憲法の欺瞞性の問題がある。
闇黒日記 - 平成13年7月2日 - 言葉言葉言葉
そうは思いません。慣習は法律と同様、あるいはそれ以上の効力をもつ有効な法規範として機能します。野嵜さんは「慣習は法ではない」という観点に立っていらっしゃるようですが、少なくとも法学の世界では、慣習は実定法に次ぐ第二の法源として大きな意義を認められています。私は、「法に基づかなければならない」という主張と「現行憲法は慣習として法規範性をもった」という主張が矛盾するものだとは考えません。
一般的な意味の慣習ではないから、「慣習」と鉤括弧附きで私は言つてゐるのであります。Yahoo!掲示板時代からの常連さんにはおなじみの話ですが、私が「」(鉤括弧)附きで言葉を用ゐてゐる時は注意して貰はなければなりません。私は文脈附きで「慣習」と言つてゐるのであります。
慣習法の成立要件は、第一に継続反復的実行、第二に法的信念である国際司法裁判所規程§38。
これが一般的な慣習法の定義である譯です。しかし、ここでけいさんは重大なミスを犯してゐます。慣習法は常識的に、慣習にもとづいて成立する法。法としての力を持っている習慣。一種の不文法。
と定義されます。
ここに、一種の不文法
、とあるやうに、慣習法は條文を必要としません。日本國憲法は慣習法として確立された
、と言つた瞬間に、日本国憲法の條文自體の存在意義は消滅し、継続反復的
に実行
される慣習自體、或は法的信念
自體が尊重されれば良い、と云ふ事になつてしまふのであります。
また、日本國憲法によつて生じた「慣習」が日本國憲法の權原となるとしたら、それは言はば、自分が自分を支へるやうなものであり、言ひかへれば「自作自演」であります(それゆゑ、けいさんの言ふ「慣習法としての日本國憲法」における「慣習」に、私は鉤括弧を附けたのです)。
いろいろ考えてみましたが、慣習法説ではダメだという積極的な理由がないように思われます。
功利主義的発想
と云ふ問題點を離れ、純粹な慣習法の理念から、けいさんの「慣習法説」の結論は否定されます。なほ、最初に斷つておきますが、實を言ふと、けいさんの主張が正しければ正しいほど、却つて「日本國憲法」は無效となつてしまふ、と云ふのが私の指摘です。そして、私はけいさんを「斬つて」ゐるのではありません。
私はけいさんの文章の筋が通つてゐるがゆゑに、却つてけいさんの導き出したい結論が出てこない「ねぢれ現象」を捉へて論じてゐるのであります。
諸外国の例を見ても、たとえば連合王国においては慣習および Common Law が国家の基本法として機能しており、私の言う慣習的憲法はけして突飛なものではありません。例の文章の中で書きましたが。
イギリスでは民主主義の精神と傳統が慣習として定着し、しつかりと法を律してゐる爲、成文法の憲法が必要ないのであります。慣習法は成文法を不要にこそすれ、條文を要請はしません。例へば、マグナ・カルタは慣習法ですが、憲法ではありません。繰返しますが、イギリスの慣習法は、結果として不文憲法をのみ導き出すのであります。
「日本國憲法」が慣習法であるならば、「日本國憲法」は憲法ではなくなつてしまふのであります。「日本國憲法」を律する慣習法が存在する、とは言へますが、「日本國憲法」は慣習法である、とは斷じて言へません。
慣習法は憲法を不要にこそすれ、けいさんの言ふやうに、憲法の根據とはなりません。或は、先行する慣習に法と同等の權威を認める事は可能だが、先行する法が作つた「慣習」をその法自身の權威附けに用ゐるのは無理である、と私は考へます。
紋切型でものを考へる人間は、どんなに知識を持つてゐても、判斷力と表現力そして物事の認識と云ふ點で缺陷があると私は思つてゐる。