解つてたまるか!

平成13年7月2日

議論で反論出來なくなると、すぐ默殺したり、「放置」したりして勝つた氣になるのは、日本人の惡癖。

平成13年7月2日

言語過程説、ぴんち。


これ(06/28/2001 @ [回顧録]) を見て思ったのだが,私は言葉で考えることが滅多にない。思考する時頭に浮ぶのは,どっちかというと漠然としたイメージだ。ビジュアルといった方がいいかも知れない。様々な映像,図形,そんなものがめまぐるしく頭に浮かぶような感じだ。そんなわけで私の思考に言語は全く不要である。

だから「言葉で思考する」ということがよく理解できない。本当だろうか? 私のような思考方法って普通じゃないのだろうか?

逆に、「言葉で思考する」側の私もまた「イメージ或はヴィジュアルで思考する」と云ふ事が理解出來ないのであります。

中には両方の思考方法を取ることができるという人もいた。

その人は、「言葉で思考する」人にも「イメージ或はヴィジュアルで思考する」人にも、それぞれの思考方法の過程を説明出來るだらうか。出來るのならば、詳しい話を聞いてみたいもの。しかし、「イメージ或はヴィジュアルによる思考」を言葉で説明する事は可能だらうが、「言葉による思考」を「イメージ或はヴィジュアル」で説明するのは難儀だらうね。それとも、同じくらい簡單或は難しいのか。

平成13年7月2日

平成13年7月2日

勝利。

岩井は私に口で勝てないから、默殺を決め込んだのである。馬鹿め。


やりとりをするという目的があるならば、相手に伝達することが期待できる手段を用いれば良いだけです。

そのやりとりをするという目的が岩井にない事は自明。

皮肉が最低限の礼儀であるとは何処にも書いてないです。何処からそんなフーに読み取ったのかに大変興味があります。僕の文章力が不足しているか、Piro さんの読解力が不足しているか、あるいは、その両方が原因なのでしょうけど。僕の文章力が不足だった場合は、今後の参考になるので是非。

最低限の礼儀にも到達しない文章を綴つてゐる事を自慢してゐる。

また、技術の話をしているところに、前堤知識が欠落しているような話をもってくる奴は礼儀がなってないと受け取っても構わないはずです。僕は、そういう輩に礼を尽くす必要は無いと考えます。

當然、まともな日本語を書けない岩井についても、礼儀がなってないと受け取っても構わないはずであり、そういう輩に礼を尽くす必要は無い筈。もちろん、岩井は自分が無禮であると承知で無禮を働いてゐる確信犯。

更に、文章があったとして、それをどのように受け取るのかは読み手の自由です。受け取り方を書き手が強要することは不可能であると考えます。あらゆる読み手に自分の意図どおりに受け取らせようと思えば、自分が努力して、文章からそれを伝えようとせねばならないはずです。努力したところで、あらゆる読み手が意図を必ず読み取ってくれるか否かは、 結局、読み手に依存なのですが。

要は、讀者がどう讀むかは知らねえから、俺(岩井)は非道い駄文を書くぞ、と、さう云ふ宣言。駄文を書くのは惡い事に決つてゐるし、駄文を書いてゐると自覺して駄文を書くのは更に惡い事である。岩井が最低の「物書き」である事は明か。

相手がまともなことを言っているのに皮肉を言ったりはしてないつもりです。 Piro さんは、何処をどのように読んで、僕がそのように主張していると思ったのでしょうか?

岩井がどう云ふつもりなのかは知らないが、それをどのように受け取るのかは読み手の自由ではなかつたのかね。岩井は自分の發言の矛盾に、どうして氣附かないのだらう。

郷に入っては郷に従うものだと思います。それが因習だと思うならば、そういうことを禁じるコミュニティに入るなり、作るなりすれば良いのではないでしょうか?

郷に入らば郷に従え
ローカルルールを押しつけるのに使はれる常套句だが、根據は全然ない。

岩井の言葉は、Piroさんに「出て行け」と言つてゐるに等しい。それでゐて岩井氏は、ウェブから消えて下さい。と言つた私を、岩井は「電波系」呼ばはりするのである。岩井は反省せよ。

なお、Piro さんに対して、直接皮肉をこめたのは慇懃無礼とは?ですね。議論を禁ずるとしか受け取れない主張をされて、何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたから。結局、そのあたりに対する Piro さんの返信は無かったように把握しています。あと、尚更の件でいくつかありましたか。あんなもん、皮肉を言われても仕方ない文章でしょう。 Piro さんが尚更の意味を知らなかった、もしくは、誤って使ってしまったことが起因だったみたいですが。

岩井は何を言つてゐるのだらう。慇懃無礼の意味が微妙に誤解されている気がするけど拘らないでおく。などと言つておいて、岩井は實に執拗に慇懃無礼と云ふ語にこだはつてゐる。「こだわりません」とは「こだはつてゐます」の意か。出たら目も好い加減にして貰ひたい。

何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたから、も、大嘘である。わからないのに岩井はなぜPiroさんに「反論」をしたのだらう。それが誤解ならば、と豫め逃げ道を作つてゐるが、たぶん、ダメってことだろうと想像して、そう理解しておく。と岩井は言つてゐるのであり、岩井は「わかつて」ゐるのである。わかつてゐるくせに「わからない」と言張る岩井は惡質。

この手の欺瞞と惡意に滿ちた文章を書く岩井を相手にしてしまつたPiroさんは不幸。一方、Piroさんを惡者に出來るからといつてつけ上がつてゐる岩井の罪は萬死に價する。

全世界の皆さん(誰)への紹介(謎)です。

嘘である。既に論證した通り、岩井の「こだはりません」は「こだはつてゐます」の謂である。

それぞれの意味は辞書などで調べていただくとして、僕はいずれも「不必要」の意味で使っています。で、特に使いわけているわけではないです。 2通りの表記になっているのは、単に行動記録においての文体の統一などにこだわっていないからです。参考にならないかも知れませんが、参考まで(謎)。

不用意に語を選んでゐる(或は、語を選んでゐない)事の辯解くらゐすれば良いのだが、岩井はそれが「こだわり」にすぎない、と決めつけて、こだわっていない自分が正しいかのやうな顏をしてゐる。

※岩井は「こだわる」の意味を知つてゐるのかね。知らずに「こだわりません」と書いてゐるとしたら噴飯もの。

言葉足らずですみませんでした。そのあたりにはRe: 根幹を含んでいたつもりでした。

誤用の件は別の発言で述べられ済ですから了解してます。が、それを知る以前の発言を指していきなり皮肉を言われたなどと言われてたら、かなりげんなりするので書いたまでです。

言葉足らず。全く、すみませんですむと岩井は思つてゐるのかね。

それにしても、紋切型を濫用する岩井は、他人の言葉遣ひに隨分うるさいね。自分の事は棚に上げ。

かくあるべきなどとは考えてませんが、規約などに何も明記されなかったら、そのように受け取る人は多いはずです。何故、件のFAQ集が特定の MLの名を冠したものではなく、技術系全般を想定しているように受け取れる名前になっているのかを考えればわかるのではないかと思います。で、Web標準化 MLでその習慣を打破したいならば、 ML自体でその旨を表明するなり、管理者に問い合わせてみるなりをすれば良いのではないでしょうか? 目的が因習の打破ならば、手段を間違えているように思います。

文章があったとして、それをどのように受け取るのかは読み手の自由です、と云ふ文章と矛盾。岩井は自分の文章が前後で矛盾し捲つてゐる事實に氣附かない。或は、氣附いてゐるけれども、氣にしてゐないだけか。どうも後者であるやうに思はれる。岩井は確信犯だから。

そういう感覚の人がいることぐらいは理解できます。が、僕はそっち(どっち)には興味ないので。興味があることに割く時間もそんなにないのに、そっち(どっち)まで手がまわりません(謎)。

その割りに、一々他人の間違ひにつつこんでは快を貪つてゐるやうに見えますが。

忙しいなら、默つてゐろ。

岩井氏は、ウェブから消えて下さい。らしい。もちろん、そのように発言する自由はあるので、まったく問題ありませんが。

岩井は、議論を禁ずるとしか受け取れない主張をされて、何を言っているのかさっぱりわかりませんでしたから。と言つたやうに、判然としない文章の主張はきちんと讀取つて反論する癖に、はつきりした主張には反論せず、電波系だのイタいみたいだのといつたレッテル貼りで逃げる。

さうすると、岩井は、囘りくどくわかりづらい一般的でない言ひ方を互ひに用ゐるのは好きだが、ストレートでわかり過ぎるほどわかり易い言ひ方を互ひに用ゐるのは好まない、と云ふ事になる。

恐らく、岩井はストレートにものを言ふ事が出來ないのであらう。岩井は「口が御不自由な方」であると御見受けした。


今後も、岩井の馬鹿が馬鹿な事を言つたら、片端から叩いていかうと思ふ。岩井のやうな馬鹿をのさばらせておく事は出來ない。馬鹿は默らせなければならない。

馬鹿と言つて惡ければ、小利口と讀み替へるべし。岩井のやうな奴がゐるから、世の中は良くならないのである。


まあ、岩井が「口の御不自由な方」であるのだとしたら、仕方がない。もしさうであるのならば、謝ります。


と言ふか、イタいッてどう云ふ意味ですか。(ピュア)

平成13年7月2日

法學者・憲法學者は、案外單純な思考の缺陷に氣附かない。

したがって、次のように結論できる。平均的な諸外国に比べて明らかに優位に立つ実力は違憲である。なぜならそれは国際紛争を解決する手段として十分に機能し得るものであり、憲法第九条の禁ずる「戦力」に該当するからだ。一方、諸国に比べ、装備・編成・練度などの点において劣後するような実力は憲法第九条の禁ずるところではない。他国を屈服させることができず、国際紛争を解決する手段として機能しないような実力は、憲法第九条の定める「戦力」に該当しない。

そのやうな実力に、何の存在意義があるのか、と云ふ事を法學者は考へない。けいさんも考へない。考へはじめたら「日本國憲法」を否定せざるを得なくなるからである。飯の種である憲法を否定する事は、普通の憲法學者には出來ない。


『憲法講義』で「大日本帝國憲法は法の正當性を審査する機關を持たなかつた」と青山武憲氏は言つたが、日本国憲法も事情は同じである。自衞隊と憲法第9條の關係を、最高裁判所は審査しない。その結果、第9條は事實上骨拔きにされ、さらには、日本國憲法自體が「言拔けさへすれば何でも出來る憲法」と云ふ憲法にあるまじきものに貶しめられてゐる。

我々は「日本國憲法」が現實に機能してゐない、死に體である、と云ふ事實を反省すべきである。

平成13年7月2日

「日本國憲法」は「大日本國憲法」の改正としては違法、と云ふ考へ方は、最近の憲法學では一般的なものになりつつある。日本国憲法の有効性の記述も、最近の憲法學の参考書の記述と平行してゐる。

そして、理論的に「日本國憲法」は無效であると考へられる、と云ふ正しい結論を一度導きだしておいて、だがしかし、とやるのが、やはり憲法學の「常識」である。

すなわち、新法はその成立過程において違法であり無効なものであったが、制定後50年余を経過する間に、それは慣習法として確立された、と考えられないだろうか。

筆者は「慣習法」と言ひ、私見であるかのやうに言つてゐるが、寧ろ「常識」的な説であると言へよう。「日本國憲法」は定着し、現實に機能してゐるから有效となつたのである、と云ふ「論法」である。この「論法」は、憲法學の教科書にも載つてゐる。

日本国憲法は現に国民の間に定着し、実際に機能している現実に即してみれば、無効論は単なる観念論にすぎないといえよう。

現行憲法無效論は觀念論であり非現實的である、と云ふ決めつけに及んでゐるのが惡質だが、言つてゐる事は「慣習法」説と同じである。

もちろん、憲法學者達も馬鹿ではないから、強氣に攻めるばかりでなく、「泣き落とし」と云ふ戰法も使ふ。

 日本国憲法は、形式的には、大日本帝国憲法の改正であるが、実質的には、新しい憲法の制定であって、大日本帝国憲法を基準として見る限り、その無効論は正しい。しかし、これを逆に、日本国憲法を有効なものとし、この憲法を墓準として見る場合、これと大日本帝国憲法とは相入れないから、大日本帝国憲法期の憲法現象は、日本国憲法98条の適用を受けないものについては、単なる法的な史的事実に止まることになるわけである。

 日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正権の限界を超えているが、法的にはこの改正権の行為を審査する機関は、大日本帝国憲法には存在しなかった。大日本帝国憲法では、法律の合憲性についても、これを実質的に審査する機関は存在しなかったのである。それゆえ、日本国憲法の有効牲を審査できる法的な機関が存在しなかった以上、これを有効とするよりほかにない。もとより法哲学的あるいは政治学的には、この場合にも、日本国憲法無効論を唱えることは、可能である。

 一体、法の正しい有り様としては、あるいは実定法に上位する高次の法を想定する限り、憲法の被占領状態における改正など認められるべきことではない。現に実定法である国際法も、占領軍に対して被占領国の憲法を変更させる権限など認めてはいないのである。しかし、その否定されるべき行為を無効とし得るのは、その行為を無効とし得る機関だけであって、そのような機関が有在しない以上、無効論は、法哲学ないし政治学の理論に過ぎなくなる。国家行為の合憲性審査権を有する司法裁判所は、そのような機関として適当でない。司法裁判所は、立法の合憲性の審査に際してさえ、高度の政治性を持った国家行為の審査には馴染まないのである。大日本帝国憲法の改正の限界の法的問題あるいは当・不当の主張は、政治自的には可能であったが、占領軍あるいはその圧力による行為を法的に争う術はなかったし、そのような機関は、日本国憲法上も存在しない。

 要するに、いかなる憲法の場合もそうであるが、憲法制定や憲法改正に不当なものがある場合に、形式的・実質的に憲法の制定権あるいは改正権そのものが違憲のものであっても、これを解決する法的な手段は今日存在しないから、それは有効なものとして運用されるよりほかにない。その憲法を存置するか否かは、政治の間題であって、この分野に関する限り、「力」が憲法の存立を決定することは、憲法の悲しい宿命である。仮に将来、日本国憲法を無効として大日本帝国憲法へと復古することがあったとしても、それもまた法の間題ではなく、時の政治の事情の力の間題でしかない。

日本国憲法を疑ふ前に、大日本帝國憲法を疑ひなさい、と云ふ御託宣と、所詮憲法なんて、政治の前には無力なのだ、と云ふ泣き言でもつて、讀者を納得せしめようとする筆者のレトリックには感心する。

だが、いづれの解説も、「日本國憲法は現在の日本國で通用してゐるんだから、それで良いぢやないか」と云ふ開き直りの域を出ないと私は思ふ。そして、それ以上に問題なのは、いづれの筆者も、「日本國憲法」の正當性を主張してゐる一方で、憲法そのものの權威を否定してゐる事である、と思ふ。

けいさんは法がすべてだと書いていらつしやるが、法律がすべてじゃない。世の中にはもっと大事なものがあると云ふ事とけいさんの「慣習法」説は矛盾してゐないか。

法に基かなければならないと主張するけいさんが、憲法に關しては憲法以外の「慣習」なるものを優先しなければならない所に、現行憲法の欺瞞性の問題がある。憲法が日本國民を欺してゐるのではなく、日本國民が自分で自分を欺いてゐるところに、憲法問題の厄介な理由がある。


そして、現實の憲法學説において、なし崩し的に「現行憲法無效説」が採入れられてきてゐる事は、將來、本質的な議論のなされないまま、いつの間にか「現行憲法無效説」が憲法學説の大勢を占めるやうになるであらう事を私に豫想させる。

しかし、それでは困るのである。

平成13年7月2日

野次馬の私がMS分割裁判に關して偉さうな事を言つても、仕方がないと思ふのである。

しかし、MS分割裁判に關して、我々は皆、所詮は野次馬でしかないのではないか。


ビル・ゲイツの惡口を言つてゐる人間に、ゲイツを理解してゐる人間はどれだけゐるのだらうか。我々は結局、雰圍氣でMicrosoftを罵つてゐるだけではないか。

平成13年7月2日

あれれ、(謎)と(ピュア)を取つたら、糞面白くもない文章しか殘らないよ。

平成13年7月2日

りさいくるしょっぷ マイハート、以前は HTML4.01 Strict できっちりマーク付けされていたというのに、今ではInternet Explorer 4.0 以上の使用を推奨します。などと書いてあったりして残念な思いをいたしました。

残念な思いをいたしました、と云ふ紋切型を使はなければ、もつと増しな記事になつてゐる筈。水無月氏はなぜわざわざ氣持ちの惡い「方言」を用ゐるのだらうか。そこには讀者に對する一種の「甘え」があるのではないか。顰蹙を買うだけで逆効果、と云ふ文句は自分にそつくりそのまま返つてくるのではないか。

……こういう状況で逆行されると、企業イメージはかなり低下します。私の中では

かう云ふ氣弱なものの言ひ方が、説得力を減じこそすれ、増やす事はない、と云ふのが、なぜ残念な思いをいたしました式の「方言」を愛用する連中には理解出來ないのだらうか。馬鹿だからです。

侍魂にも言へる事だが、詰らない落ちを附けたり、自虐的な言ひ譯をしたりするのが「美徳」であると云ふ固定觀念は、好い加減排除されるべき。


「企業だから」、「企業イメージを全てのユーザに押しつけ洗脳すべき」という考え方があるのは分かっています。

この文章は間違つてゐる。りさいくるしょっぷ マイハートのウェブサイト制作者が、「自分のところは企業である」と認識してゐる事はあり得るが、「企業イメージを全てのユーザに押しつけ洗脳しよう」と考へてゐる事はないだらうからである。嫌な言葉だが「強制性」を水無月氏は強調してしまつてゐるやうに思はれる。しかし、そもそも「イメージ戰略」は「押しつけ」だの「洗腦」だのと云つたものではない。

水無月氏が企業と顧客(或は見込み客)との間に搾取被搾取の關係を見出してゐる事も、私は推測するのだが、今のところ、それは斷言しないでおく。ただ、意圖と結果を、水無月氏は、故意に據るのか過失に據るのかは斷言出來ないが、取違へてゐるとは言へよう。


誰も気づいていないのかもしれませんが、5/31 に Recommendation となった XHTML1.1 では、FONT 要素や BODY の background 要素は破棄されています。これが「移行期間は終わった」「今後は FONT 要素や background 属性を使うべきではない」という流れであるのはもちろんですが、「後方互換性のため、ブラウザは FONT 要素や background 属性をサポートすべき」という考え方がこの仕様からすっぱり無くなっているという点に注目すべきです。XHTML1.1 に準拠したブラウザは、FONT 要素や background 属性をサポートする必要はありません

XHTML 1.1 - XHTML 1.1 Document Type Definitionには、IGNOREとされてゐますが、一應xhtml-legacy.moduleの存在が示されてゐます。この邊をどう解釋するかは、色々意見の分かれるところですが、少くとも仕樣の擴張としてlegacyな「要素」を處理系が用ゐる事は許されてゐる、と見ても良いでせう。

XHTML1.1 に準拠したブラウザは、FONT 要素や background 属性をサポートする必要はありません、と云ふ事は、「サポートしてはなりません」と云ふ事ではありません。


りさいくるしょっぷ マイハートを辯護してゐるのではなく、水無月氏の論法は説得力に乏しい、と私は指摘してゐるだけである。

「CSSコミュニティ」のサイトでも、時として、處理系と文書とを取違へたり、閲覽者の都合と制作者の都合をごつちやにしたり、「である」と「であるべき」とを混同したり、「すべきである」「すべきではない」「しなくともよい」「してもよい」を嚴密に區別しなかつたり、「ありもしない愚論をでつち上げて論破する」と云ふ論法を用ゐたりしてゐる。

これらは反省すべきである、と私は言ひたいのである。

平成13年7月2日

安倍吉俊著『SCRAP』を買つたのである。

平成13年7月2日

平成13年7月2日

岩井は他人と本氣で話す氣が無いのだらう。

コミュニケーションを取る氣のない人間が掲示板やメーリングリストに出てくると、迷惑。話をする氣がないのなら、默つて呉れ。


岩井氏は、ウェブから消えて下さい。らしい。もちろん、そのように発言する自由はあるので、まったく問題ありませんが。

それで岩井はどう思つたのかね。「自由」と云ふ言葉に逃込んで、なぜ何も言返さないのかね。岩井は、何も思へない缺陷人格の持主なのかね。それなら仕方がないが、佯狂は不許可である。

電波系? と書いてゐる邊り、岩井がこちらを侮蔑してゐるらしき氣配は見られる。しかし、岩井こそ「電波系」なのではないか。自分を否定すべき文句でもつて、岩井は私を罵つてゐるのではないか。

岩井は(謎)だの何だのと書いて、文章の意味を曖昧にしようとしてゐる。それをこちらが「わかつて」しまふから、岩井は電波系と呼んだのだらう。しかし、「俺の文章がお前にはわかる筈がない」と信じてゐる岩井の方こそ勘違ひしてゐる。いかに表面的な部分ではぐらかさうとしても、文章の雰圍氣から筆者の意圖は讀者に傳はるのである。岩井は理系の人間だから安易に否定するのだらうが、文章は讀めばわかるのである。文系の人間をなめるな。


もつと眞面目になれ。ふざけるな。この糞野郎。

平成13年7月2日

なぜエルピー・プル/プルツーの項目が無いの?

なぜ「シャアが来る」が無いの?

平成13年7月2日

カートゥーンネットワークでまた「宇宙戦艦ヤマト」放映。

時に西暦2199年、ではじまるナレーションの恰好良さは異常。

平成13年7月2日

ブラッシュアップ。

平成13年7月2日

コンピュータ用語界の「悪魔の辞典」を目指し真・コンピュータ用語辞典は、書籍として刊行されてゐるさうである。この事實は、同書の「危險度」が我がインターネット紋切型辭典に及ばないと云ふ事の有力な證據である。

平成13年7月2日

役に立つ囘答とは、このやうなものの事であります。

不用」は用がない、役に立たない「不要」は必要がない(ATOK の註釋、及び「国語例解」)。「不用」はやや特殊な用途しかないやうな

この「ニュアンス」の違ひをはつきりと確認したいのであります。

「岩波国語辞典第三版」には以下のやうに出てゐます、

不用
  1. 使はないこと。
  2. 役に立たないこと。
不要
必要がないこと。いらないこと。

かう云ふ「定義」では、さつぱり區別がつかない。とは言へ、一見區別がつかないからといつて、これらの語を好い加減に用ゐて良い、と云ふ事にはなるまい、と思ふのであります。この感覺(あやふやな言葉を使ふ居心地の惡さ)は、すぐに「こだわりませんが」といつて好い加減な事許りを言ふ人には理解の出來ない感覺だと思ひます、が、まあ、こだはりません

平成13年7月2日

「言葉を疑へ」の題材にしたいので採上げます。別に「斬る」のが目的ではありません。

ML に限らず、技術に関する話には虚礼は不用であるはず。

「不用」と「不要」の遣ひ分けについて、詳しく知りたいと思つた。


早速反應があつたのは良いが、「發言者」自身「ごみレス」である事を自覺した「ごみレス」でした。

それぞれの意味は辞書などで調べていただくとして、僕はいずれも「不必要」の意味で使っています。で、特に使いわけているわけではないです。 2通りの表記になっているのは、単に行動記録においての文体の統一などにこだわっていないからです。参考にならないかも知れませんが、参考まで(謎)。

全く參考になりません。参考まで、と云ふ岩井氏の言ひ方は大嘘です。

なほ、今の場合、自覺的に言つてゐるのだから岩井氏は嘘吐きである、と云ふ事は自明ですね。嘘を平氣でつくのが岩井氏流の「禮儀」なのかどうかは知りませんが、少くとも今の場合、岩井氏は嘘吐きであつた、と云ふ事は事實で、誰も否定する事が出來ません。そして、自分が嘘吐きである事を岩井氏はごまかさうとしてゐる、少くとも、罪を輕く見せようとしてゐる、と云ふ事も、誰にも否定出來ない事實です。豫め参考にならないかも知れませんが、と斷つてゐるのがその證據です。

かう云ふ欺瞞的な文章を平氣で綴るから、岩井氏は嫌らしいのであります。その「嫌らしい」と云ふ部分だけ、岩井氏が自覺しない、と云ふのが、岩井氏の困つたところであります。

と言ふか、岩井氏の發言を例によつて「意譯」しますと、「俺は言葉の使ひ方が好い加減なんだ。それの何が惡いんだ、え? 一々うるせえぞ小僧」と云ふ事になるのではないですか。「小僧」は關係ないかも知れませんが。


引續き、色々な方法で、「不用」と「不要」の遣ひ分けについて、情報を御待ちしてをります。

岩井氏のそれのやうな、役立たずのごみ情報は不要です。うざつたいだけです。岩井氏は、ウェブから消えて下さい。

平成13年7月2日

お察し下さい。

平成13年7月2日

MS分割・再結合問題についても書くべきでしたでせうか。當サイトは「隙間商賣」の極北を目指してゐるので、メジャーな話題には觸れなかつたのです。「闇黒日記」の「直前のリソースへのアンカー」は修正しました。ファイル更新の際に、link要素は直したのですが、それで安心してしまつてゐました。>shelarcyさん

平成13年7月2日

赤い色眼鏡でも白い色眼鏡でも、良く見える色眼鏡は良い眼鏡。

「紅い眼鏡」はまだ見た事がない。

平成13年7月2日

個人的には

も不許可。


「まあ、こだわりませんが」と云ふ發言には、なぜこだはらないことを一々書くの? と言返したい。まあ、こだはりませんが。笑ひ。

平成13年7月1日

「CSSコミュニティ」で流行つて欲しくない紋切型。あとらんだむに。

例によつて自戒もこめて。

平成13年7月1日

 そうですね。ちなみに、国語を減らせというのは、例の3割授業時間が減るしわよせが、すべて理数系に来てることに納得が行かないだけなので、直接的に国語である必要はないんですけどね。

 自分は詰め込み教育は否定派なので、文学読むだけの国語の時間なんぞ要らんと思うし、あと、中学校の古文(国語)の廃止、文法学習中心の英語授業の廃止なんかも、前々から主張してるところで、今のところ考えが変わる様子はないみたい。

 そんな暇があれば、外に出て蝶の観察をするなり(理科)、植物や小魚の観察をするなり(理科)、街を歩いて働く人たちを見たり(たんけんぼくのまち的社会&情操教育)、お年寄りたちと遊んだりおしゃべりしたり(道徳&情操教育)、外国人の人と遊んだりおしゃべりしたり(外国語など)するべきなのです。例えば、鎌倉幕府自体を教えるのは良しにしろ、それが1333年に滅亡したことなんて、好きな人だけ独学で学べばいい。そんな時間があれば、なんで台形の面積が(上底+下底)×高さ÷2なのか学んだ方が、また、文法なんて考えない、自然な英会話習得の手段を提供する方が、「IT先進国家」を目指しているらしい日本にとっては、きっと利益が大きいはずなのです。

 そういう根本的な所に考えが及ばないで、考え出した解決策が理科離れ対策で“日本版ノーベル賞”だなんて、全く滑稽極まりないと思うわけで。

 ちなみに、儂の名前は岡野ではなく陸野です。

文学読むだけが國語ではない筈。

日本人はすぐに「無くせ」「潰せ」と主張するが、なぜ「改善しよう」と思はないのだらう。國語の教育法を改善しようと考へず、漢字とかなづかひの方を變へようとしたり、日本人の考へる事は出たら目。

しかしまあ、子供が豫備知識なしに、外に出て蝶の觀察をしたり、植物や小魚の觀察をしたり、街を歩いて働く人たちを見たり、年寄りたちと遊んだり喋つたり、外國人と遊んだり喋つたりして、何を學べると言ふのだらう。遊びは學校の外でやつて呉れ。學校は、知識の傳達の場でなくなつたら、存在意義がなくなる。

また、文法なんて考えない、自然な英会話なるものが、本當に役に立つのかどうか、も反省する必要がある。

 まず最初の間題点は、生徒の、「なぜ文法なんかやるんだ」という疑問です。「文法なんかなくったって、学ばなくたって、ちやんと話せるじやないか。だから、文法なんて要らないじやないか」と考える生徒は、もちろんたくさんいると思います。そういう生徒に対しては、こう答えたい。

 インドでは、字を知らない人のほうが多い。字を知っている人は人口の二割しかいない。十人のうち二人は字が読めるけれど、あとの八人は字が読めないという状態です。アメリカでは人口の二割が文字を読めないといわれています。では、その人たちは文字を知らなければ言語生活を営むことができないかというと、そんなことはない。現にちやんと大人になって、いろいろな日常の会話をし、日常の生活をやっていますがら、何も文字など学ばなくてもいいと考えられるでしょうか。

 しかし、すぐおわかりのように、文字が読めれば新聞を読むことができる、新聞を読むことができれば、世界の情勢に関するいろいろなデータを見て考えることができるし、内容を忘れたときにはもう一度持ち出してきてそれを見て、自分の判断を形づくることができる。もちろん本が読めることによって、物事を詳しく認識する、あるいは推理する。その材料を読むことができる。字が読めなくても日常生活ができるから、字を読む必要はないとは言えない。これは日本ではどなたでもおわかりになると思います。 では、文法を知らなければ言語は理解できないのかという問題があります。それについてちょっと考えてみます。例えば我々が文法を習わなくても、日記を書くことはできるし、場合によれば手紙を書くことだってできる。

 では文法を学ぶとはどういうことか。さっきの英語の例をとってみれば、英語の文法では英語の文章を理解する時に、こういうバターンがあるということを知っていることによって、自分にとって難解な文章をちやんと読むことができるということがある。文章を書く場合にも、そういうセンテンス・パターンを覚えていて、それに従って書けば、文法に外れない文章を書くことがかなりできるようになるということがある。だから、日本語のセンテンス・パターンを文法によって学ぶ。そして、そういうことを知った上で文を見れば、ああ、日本語の文章というのはこういうふうにできているのか、英語どはここが違うんだということがわかる。それぞれの人がそういう勉強をしていれば、文章をきちんと組み立てることができるし、人の文章をきちんと読み解くことができやすくなる。また、古文の文章を読もうとした場合、文法に従って読むとわかるというふうになり得るはずなのです。つまり文字を知れば多くの知識を正確に得られるように、文法を学ぶことで、文章の理解が確実になるわけです。

だが、殘念な事に、日本語の文法は、現代文であつても古文であつても、確立せられてをらず、文法を教へる側の國語教師も文法を信頼してゐない、それゆゑ生徒もまた、文法不信に陷つてゐる、と大野氏は書いてゐる。

XHTML 1.0 Strict準據の、文法的に正しいHTML文書を公開してゐるのに、なぜ陸野氏は文法を憎むのだらう。まさか「HTMLと英語や日本語は別の物だ」などとは言はないだらうねえ。


陸野氏は、自分の嫌ひな科目を憎んで、罵つてゐるだけのやうに見える。


それにしても、陸野氏は、うちを見てゐると思はれるのだが、なぜリンクを張らないのだらう。無視した積りだらうか。

平成13年7月1日

俺に言ってるのなら違うと思った(謎無)。

NiAOUさんに言つてゐるのではないので安心して下さいまし。

平成13年7月1日

私の冗談は難し過ぎて通じない事の方が多い。反省すべきだと思ふ。

平成13年7月1日

何と言ふか(何)、この手の(どの?)言ひ方(ッて何)を使ふ人(誰)は、自分(誰)が皮肉ッぽいと云ふ事を自覺してゐるだけに始末に負へませんね。まあ、自分的にも問題なんぞありやしないと思つてゐるので、ぜんぜん氣にしないんでせうが(謎無)。

しかし、その手(どの?)の腐れ隱語的方言を連發してゐるうちは餘裕が殘つてゐるのだらうが、いつの間にか非常に一般的なものに文體が變化してゐる邊り、精神的には追詰められてゐるのではないか、と思つた。


普通に喋れるなら、普通に喋れ。

平成13年7月1日

KSmiracle Web DirectoryのHTML文書に、「CSSコミュニティ」と言ふと必ず參照される文書にあるまじき最低レヴェルの大馬鹿な初心者も吃驚の大ポカ的で致命的と言ふべき非道い腐れなミスがあつたのに、誰も指摘して呉れなかつたよ。自分で直したよ。

平成13年7月1日

ul/liで表現出來さう。

以上、ともにStarry Nightのコンテンツ。私と同じALLNET追出され組。


ありみかさんによる實驗的リソース。どうもです。

平成13年7月1日

 汗セミコロンの位置が向かって右だと気持ち悪くなるおれは慢性2chアレルギー。

決まりきつた思想・感情を表現する紋切型の一種であるがゆゑに、顏文字を私は嫌ふ。

平成13年7月1日

ML に限らず、技術に関する話には虚礼は不用であるはず。現実世界でも、だ。 もちろん、最低限の礼儀は必要である。その範囲には個人差があるだろうが。 Piro さんは、どうやら僕の言葉遣いに問題があると言っているように思う。だが、言葉遣いを変えたところでどうなのであろうか? 表面上の言葉遣いを変えただけでは、それこそまさに慇懃無礼ではなかろうか?

すると、問題は、岩井氏の口調・文體ではなく、岩井氏の人格そのものである、と云ふ事になる。


言葉を見つけたり論理を組み立てたりするために時間がかかること自体は何ら問題はないと思う。しかし、そのみつけた言葉を用いる際に、一般での用法から逸脱した使い方はやめた方がよいであろう。

この言葉は、岩井氏自身にもはねかへつていくのではないか。或は、岩井氏には、まったくこだわりませんがが、ウェブの一部でのみ或種のニュアンスを含んだ一般での用法から逸脱した使い方をされてゐる言ひ方である、と云ふ自覺がないのだらうか。


俗語・隱語の類は、なぜ氣持ちの惡いものと化すのでせうかねえ。


岩井氏はいつ「闇黒日記」の存在に氣附くだらうか。別に氣附かなくともこだはりませんが。笑ひ。

平成13年7月1日

ウェブサイトの移轉の際に、律義に全てのリソースをそつくりそのままの形で移動してゐるのは私くらゐのものだと云ふ事實。

平成13年7月1日

最近、CSSコミュニティーと言われる団体では、xhtml1.1やiso-htmlが流行っているようです。ISO 信者という言葉も見られます。しかし、「皆がやっているから」ではなく、自分自身で納得した上で導入すべきでしょう。その意味で、彼らの姿勢には疑問を感じます。

ただ、ジョークでありパロディである、と云ふ時點で、これらの「擬似用語」を我々は自覺的に用ゐてゐる、とは主張したいのであります。


と言ふか、最近、洒落が洒落になつてゐないのは事實であり、嘆かはしいと言へば嘆かはしい事であると云ふのも事實。


私のサイトはxhtml-basic準拠ですが、PC/Macから携帯端末に至るまで幅広くサポートされている上に、それなりに高度なレイアウト作成も実現できるためです。

XHTML Basicを實裝してゐる處理系は、まだ一般的ではないやうな氣がします。現時點では、今後あるべき仕樣としてXHTML Basicが勸告されてゐる、と看做した方がよろしいやうに思ひます。

平成13年7月1日

Q
なぜCascading Style Sheetsなのか?
A
そこにCascading Style Sheetsがあるからだ。

平成13年7月1日

平成13年7月1日

リンクを張つて「つつこみ」を入れ合ふ「ウェブ日記コミュニティ」では、なぜか引用が嫌はれてゐる樣子。

「闇黒日記」は、引用して批判をするのがテーゼなので、「ウェブ日記」ではありません。


引用のメリット。相手のサイトが「黒歴史」と化しても(要するに、消えても)、自分のサイトはそれなりの一貫性を維持出來る。

とは言へ、「闇黒日記」は飽くまでおまけなので、一貫性も糞もありませんが。

平成13年7月1日

あれれ、斬ろうと思ったら消えてる。

ややや、ガ島から転進したか。

 あまり引用って好きじゃないけれど、今回は引用多めで。余計な突っ込みはあんまりだらだらとしたくないので、この話題も今回限りで。

 さて。何気にHTTP_REFERRERを眺めてみると、Web標準化MLでお世話になっている岩井氏のページと思われる、行動記録というところから大量に(汗)。ということで、そこを拝見させてもらっての感想。(ちなみに、岩井氏がサイトを持っている事はこの時はじめて知った)

そういうつもりはまったくありませんが、そういう印象を受けるのは自由でしょう。

という言葉を見てなぜか、M女史の遺したものというサイトを思い出してしまった。

 まぁ、それはいいとして。ただ、

自分の意志を誰かに伝えたいならば、日本語を正しく使ってください。

と言っている傍から

フー

つーか、

というのはあまりにも説得力が無いなとは思った。後者は訛りだろうからしょうがないかもしれないけれど、前者は明らかに正しいとは言えないだろうと。

ください。

と明らかに語りかける口調で言っているのに(しかも引用先を明らかにしておいて)。少なくとも説得力は感じなかったな・・・

 まぁ、自分とは直接は関係ない話なんでこの話はここまでっと。

 どちらにしても、公に出る文章で()を多用しているのはあまり見たことが無いし、多すぎると見苦しい印象を受けた。自分は多用しようとは思わない。ただ、個人的には(笑)とか(爆)、または(謎)というような、意思表示のために少しは用いたりもしている。これもあんまりいいことじゃないと思ってはいるが、どうしてもチャットやメッセンジャー等の中ではこれがないとどうしても堅苦しくなるから、あえて崩しとして。

 岩井氏によって間違いが指摘されたのを発見したので訂正しようかなとも思ったのですが、いざ訂正と思うと面倒くさい感が先行してしまって、結局公開中止(笑)としました。

 しかし、カウンターがあの頃以上に回ってるのに驚いた。はじめて1日で100を超えたよ。今までで最高80台だったと思うから。

 総括。『伝えたいことがあるんなら直接どうぞ』 まぁ、自分は伝えたいことは特に無いので、その辺はあしからず。

うちから行つた人はゐなかつた模樣。

閑古鳥が鳴ってます

は依然修正されてゐません。


平成13年7月1日

titleとh1を乖離させてみるテスト。

I love ISO-HTML!

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