思はず意譯。
そういうつもりはまったくありませんが、そういう印象を受けるのは自由でしょう。
そういうニュアンスがあったこと自体は否定しません。それを言いたいが為の表現ではありませんが。
まあ、そういう意味だったというのは今理解しました。
「誤譯」かな?
v2.05が公開。
大昔の文書。
「W3Cの仕様に従っている奴らって、自分の頭を使わずにお上の意向に従っているだけでしょ?」
「周りの声に耳を貸さずに自分の世界に閉じこもっているよりはましでしょ!」
実は仕様を理解するだけの能力が無かったり。
私はISO-HTML信者なので、この手の批判が當嵌らないのです。
多分、
htはhr
の事だと思いますが、そう言えば野嵜さんが昔PC TipsでHTMLの事をhtmlとしていたのは何故ですか?
unix方面では大文字と小文字を區別して書かない、と云ふ噂を信じてゐたからです。
今は、「よくわからない略語追放運動」と共に「大文字小文字を嚴密に區別しよう運動」をしてゐるので、HTMLとhtmlを區別してゐます。
ht
は直しました。
ML SPOOL split by the unit '200' (web ML)
これが例の文脈
ですか。
「オーサリングツールは人間の考へてゐる事なんてわからないんだから、制作者は自覺的にHTML文書を作らなければならない」と云ふだけの話を、なぜあれほどまでに迂遠な形で語り合へるのですかねえ。私の理解出來ない事が、世の中には澤山ありますね。
マークアップは、文章の註釋作業であり、再構成であり、分割と統合であります。しかし、飽くまでマークアップ自體は手段なのであり、目的は文書を正しく讀んで貰ふ事にあります。手段が自己目的化する所に、表現に對する日本人の自覺のなさがあらはれてゐるやうに、私には思はれます。
「適切に讀まれる爲に、どのやうに表現すべきか」と云ふテーマの主眼が「適切に讀まれる」ではなく「どのやうに表現するか」であると解釋されてしまふのが、HTMLに限らず、言語に關する議論の不毛となるゆゑんであります。
言語學の抽象的な議論は無意味であり、言語學へのアンチテーゼとして、現實にある文章表現の解釋の意義を再確認しようと云ふのが、我が言語過程説の立場であります。當然、HTMLのマークアップに關する議論も、具體的な文章を題材に、いかにマークアップするか、を論じなければならない、と私は考へます。
でなければ、決着なんてつかないよ。
まぁそんな些細コト(笑)よりも、僕にはその前の記事の
スキトキメキトキスというタイトルの方が気になります〜。うぅおぉぉ、懐かしい〜。『さすがの猿飛』のエンディングですよね?
オープニングだつたやうな記憶が。本編を見なかつた私が歌詞を覺えてゐるのだから、多分オープニング。
Piroさんは岩井さんにかう言ひたいのではないですか。「わかつてゐてすつとぼけんのはよせ」。
侍魂は、なぜ、わかりきつた落ちを書くの? 親切心?
讀者をなめるな。
岩井氏@行動記録/None(仮称)の文章を讀むと、皮肉よりも罵倒の方がまだ増しであるやうに感じられる。
皮肉にはどこか、逃げ道が殘されてゐるやうに思はれてなりません。匿名ならば最初から逃げ道は用意されてゐるが、實名であつても皮肉には逃げ道があります。その分、皮肉を言ふ時、論者は本氣でなくなる。
一方、名のりをあげて他者を罵倒するには、反論を受ける覺悟が論者に必要となります。論者は本氣で議論にかからなければならなくなります。
もちろん、匿名で他人を罵つて喜ぶ馬鹿と、名のりをあげて他人を罵倒する論者とは區別せらるべきです。匿名で他人を罵倒するのは、覺悟とは永遠に無縁であり、百害あつて一利なし、暇潰しの爲に「議論」をしてゐるに過ぎません。さう云ふ、相手の文章を讀まずにひたすら罵倒し續けるだけの能なしは論外であります。
結局のところ、本氣で議論をする氣が論者にあるのかないのか、が問題なのであります。或は、相手の言ふ事を本気で理解しようとしてゐるのか否かが問題なのであります。
何事も、本氣になるのは道徳的に絶對的な價値を持ちます。
まあ、自分の意見を相手にいかに巧みに押しつけるか、のみが重要な現代に於て、「相手の言つてゐる事を聞いたら、その瞬間に負けるから、豫め耳を自ら塞いでおく」と云ふのが有效な處世術となつてゐるのであり、そこに本氣も糞もありはしない、と云ふのが現實なのでせう。全ては處世術であり、道徳は發言權を認められないのであります。
それでは、議論をするだけ時間の無駄です。人間を裨益しない議論は、井戸端会議と選ぶ所がない。
「限界領域でのバトル」こそが面白い、と信ずる私には、「またーり」とした2ちゃんねるの「面白さ」が全く理解出來ない。匿名なんて、結局のところ、「コミュニケーション拒否」の一形態或は美名でしかないと私は思つてゐる。
多くのメーリングリストや掲示板のフレームにおいて、論者の腰が引けてゐるのを私は屡々見出す。その時點で、どんなに「高度」な内容の議論であつても、「下らねえ議論だな」と云ふ感想を私は抱く。
中途半端の検索結果
の一番最初にリクルートナビ キャリアが出てくるのはなぜだ???
はじめてのWebドキュメントづくりもひつかかつてゐるし。
「頭文字-イニシャル-D third stage」を、例によつてとあるルートより入手、鑑賞。
イニシャルDの世界では、走り屋に惡人はゐないんですねえ。憎々しげな走り屋が、藤原拓海に負けると、妙に好い人になつてしまふ。全篇を通して嫌な奴は、走り屋以外の一人だけ。
嘘臭いが、良い話と言へば良い話です。
「短距離走者」は「学園少女 vol.0」に載ったものではなく、完全な書き下ろしらしい。通りで。幾ら何でも '86年の絵ではない。
「道理で」ですね。
他人の間違ひを指摘する時の、野嵜の嬉しさうな事。
(XHTMLのXHTML文書は)MacのIEだと固まるので実用的ではない。よって却下。 ローカルデータにおいてだけど。
そんなあなたにISO-HTML。
「ISO-HTML養成ギプス」?
NOIRサントラ買つて來た。NOIRどうやら26話らしい。
「霧香=へぼレイ」は既に定説。
馬鹿を罵倒することをポリシーの一つとされている(?)野嵜氏云々。
ポリシーと言ふよりは、趣味。或は嗜好。
「ほーむぺーじ」の宣傳の紋切型。
○○だよ。××もあるよ。興味のある人は見にきてね。
子供に歸つてゐる邊が謎。
ところで
<title>
要素中で<font size="1">
とかしても意味無いです。>MacWire
意味無い
と云ふか、文法違反です。title要素の中では、一切のマークアップが出來ないばかりか、コメントも書けません。
MacWireで
ゐる文書を見つけられなかつたんですが、どれでせうか。晒しもの希望。<title>
要素中で <font size="1">
とかして
Blink.com-あなたのWebブックマークの整理、管理、共有をオンラインで!
KSmiracle Web Directoryを持つ私にどうしろと。
ネタ仕入元:Sat, 06/23/2001 @ [Ill's]
手作業でリンク集を作つた方が、管理し易い事もあるんです。
さて。突っ込み隊(謎)がやってくるのかな?(笑)
あ〜、言っておきますが、あまり多く突っ込み入るようでしたら公開中止します。いや、いじけてるとかじゃなく、正直、一気に修正するだけの気力ないんですよね。自分としてはその程度の企画(?)みたいなもんですので。
でも何かあるんならどうぞどうぞ。
突っ込み隊
と云ふよりはCSSコミュニティの斬り込み隊長と呼ばれる(かどうかは知らないが)野嵜です。こんな魅力的もとい挑發的な事を言はれたのでは、受けて立たざるを得まい。謎。
輕くジャブ。
閑古鳥が鳴ってます
は「閑古鳥が鳴いてます」ではないかと。
全文について 引用は要相談 ただし『転載』絶対禁止
著作權法の規定によれば、引用は無斷で出來る筈。と云ふか、こんな文章をコメントに埋め込むのはいかがなものか。
<meta http-equiv="Keyword" content="ill,Ill's,Illust,Gallery,Pic,Picture,いる,いるず,イル,絵,イラスト,ピクチャー,DID,MPD,解離,同一性,障害,多重,鬱,病,心,不安">
殆どの文書で、こんなキーワードが指定されてゐますが、キーワードと内容の乖離してゐる文書が結構あるみたいです。かう云ふのを「羊頭狗肉」と申します。各々の文書の内容に合はせたキーワードを指定するくらゐの氣配りをしても、罰は當たらないかと存じます。
ネタ仕入元:Re: <short DaIARI> Thu, 06/28/2001 @ [行動記録]
セルフサーヴィス
云々と言つた記憶もあるが、結局自分で斬つてゐるな。
拔き打ち檢査。
http://www.parkcity.ne.jp/~chaichan/ を HTML4.01 Strict としてチェックしました。
23個のエラーがありました。このHTMLは 93点です。タグが 29種類 254組使われています。
ちゃいちゃんgifのimgがbody直下と云ふ事で、減點對象になつてゐますね。
個人的な感想ですが、style屬性で要素に直接スタイルを指定してゐるのは、餘り美しくないかと。
それから、address要素をdiv要素の中身にしてゐるのは、將來ISO-HTML化する布石なのでせうか。
「算數要らない」はさすがに言ひ過ぎではないの? と云ふ御指摘。慥かに「讀書き算盤」と申しまして、算數は必要ですね。
犬の事を「ポチ」だの「カメ」だのと呼ぶのが日本人ですからねえ。「トランプ」も「ホームページ」も仕方がないんですかねえ。
私には、「日本人はこんなにも凄まじい惡事を行つたのです」と云ふ言ひ方自體が自慢に見えてしまふ。
「『南京大虐殺』なんて言ひ方をして、巨大な惡事であつたかのやうに見せかけるべきではない、あれはただの弱い者苛めだつた」と言つたところ、「野嵜は自虐的だ」と云ふ「批判」を受けたので、上の「自慢」と云ふ私の感覺は、根據のない事ではないと思ひます。
「南京大虐殺」で何人死んだ、とか云つた事を眞面目な顏をして議論してゐる連中は、本當に人間なのか、と私は疑ふのであります。死者の數を平氣な顏をして勘定するのは、おぞましい行爲です。
戰爭で死んだ人を弔ふのに、「あんた達が一生懸命やつた事は間違ひだつたんだよ」(意譯)と云ふ言葉が適切だらうか。「あんたの死は無駄死にだ」と言はれて喜ぶ人間が、どこの世界にゐるだらうか。
「二度と戰爭はしません」と言ふのは、戰爭で死んだ人々に對する嫌みだとしか、私には思へないのである。
大東亞戰爭で死んだ人々の爲にも、我々は平和主義など、認めてはならない。
今日のトンデモサイト。
ZAB23647氏は、萬葉集の寓喩
なるものを、どのやうにして發見したのでせうね。電波を受信したのではないでせうか。
私見
を述べたければ、それなりの根據を示して欲しいものです。根據ナシの決めつけ、決めつけで話をした擧句、「これは私見です、私見だから反論不可」と逃げる一方、反論した人間を居丈高に罵るのは襃められた態度ではありません。私見は飽くまで假説であり、説得力のある根據を示せなければ、誰にも眞實と認められないのであります。
素人らしい卑俗に過ぎた見解と獨斷の連續で、ZAB23647氏の主張は讀むに堪へない。
- Q:
- 最近、前のとは別にホームページのスペースを借りたんですが、ある人から「ページが文字化けして読めない」といわれます。でも自分ではちゃんと読めます。みんなもちゃんと読めるらしくて、その人だけ読めないといいます。なんでですか?
その人だけ読めない
、と云ふのが氣になります。その人は、5.x以上のInternet Explorerを使用し、エンコードの「自動選択」をオンにしてゐる可能性があります。日本語を含む全ての言語から適切な言語を選擇しようとするので、確率的に適切でない言語を選擇してしまふ可能性が高くなる、と云ふIE5の「障礙」が、その人のところでは發現してゐるのかも知れません。
HTML文書の自己申告が「嘘吐き」だつた場合、多くの人のブラウザで文字化けが發生し、一部の人が頑なに使ひ續けてゐる、「自己申告を無視する」昔氣質(?)のブラウザで、讀める形にレンダリングされる、と云ふ事はあり得ます。
果てのHTML文書をすべてISO-HTMLに書きかえる夢を見た。が、完了直前に目が覚めた。これは書きかるべきだという暗示なのか、それともやめとけということなのか。
きつと、電波が命令してるのです。電波に逆らつてはいけません。
書換へたら貼つてやつて下さいまし。
自意識過剩かもしれませんが、2ちやんねるに野嵜健秀を名乘る投稿者が出たら、基本的に全部僞者だと思つて下さい。
假名遣を見ると一發で僞者であるのがばれるあたり、2ちやんねらーのレヴェルが知れますが。
原稿用紙では同じやうに改行であつても、本質的に區別されるべきものが等し並みに改行として表現されてゐるに過ぎない事がある。
會話と地の文との關係によつて、或改行を、「單なる強制改行」と「段落の切れ目」とに區別する事は可能である。
下の場合、會話文の直後は強制改行であると見るべき。「と」、で受けてゐるのだから、會話とその直後の地の文は一續きの段落である。よつて、この強制改行はbrで表現されるべきだと言へる。
ダルトは、木製のスプーンでスープを一口、口に運ぶ。
「あ、結構いけるやん。これ、何のスープ?」
と聞いてみるが、おばちゃんは他の客の相手で忙しいらしく、こっちの話を聞いているふうではない。
「と」で會話を受ける場合、その會話文と地の文が一續きの段落であると云ふ意識があるから、下の例で作者は會話文の直後に強制改行を入れてゐない。
まあ、なんて優しいのかしら、とえり子は思ったのだけれど、紫蘭恭之介の影に隠れるようにしていたまみちゃんがするするっと不機嫌な顔を出して
「紫蘭先生はえり子ちゃんに甘すぎるわ、ご飯だったら仕事場で残り物お食いになればいのにわざわざ出迎えにでるなんて、えりこちゃんだったらタクシーで来させればいいじゃない」と唇を尖らせて言った。
ただ、讀み易さの觀點から、會話文の直前には強制改行を入れてゐるのであらう。出して
とあるから、そこで文章は完結してゐないのであつて、直後の會話文は直前の地の文に含まれるインライン要素であると見る事が出來る。
一方、下の例では、會話文は一つの段落として完結してをり、その直後の地の文とは別物である。
「ぼけないで下さい。あたしですよ、火野――火野蜜子ですよ!」
そう言うと、腰に手を当てて胸を張る。真木教授は怪訝そうな顔をしていたが、突然ぽんと手を打つと少女を指差して叫んだ。
この場合、それぞれ一つのp要素としてマークアップするのが妥當であらう。
話題になってるようだけど…日本語での文章はEnterを押すと<br>が出力されるので正解だと思うよ。だって、『。』よりも少しだけ長く、でも段落ほど長くはない息つぎの間を意識して改行をおこなっているんだから。
私の使つてゐるテキストエディタでは、Enterを押すと、單に改行されるだけですが。
でも、何だか別の文脈がありさう。
brはWordのShift+Enterに相當するものだと思ふ。
以下の文章は、shelarcyさんを斬つてゐる譯ではありません。
むしろ、理科と算数は論理と抽象的なことを学ばせるための恰好の材料になると思います。そういった意味で、低学年での理科と算数はそれ自体を習得させることよりも、論理的な考え方・抽象化するという考え方を学ばせることに焦点をおいて教えるのが正解だと思います。
…つまり、「どの教科の時間を減らして、どの教科の時間を減らせばいい」という考え方自体正しくないと思います。それらの教科を通して総合力を身につけさせることが重要。かといって、総合科目へを乱発する姿勢には感心しない。NIE(教育に新聞を)だけで十分です。「総合科目というものを作ることが総合科目というものを新たに押し付ける」ということを理解してないようでは、「統一宗を押し付けることによって宗教・思想をまとめることができる」と考えたインドの王と同じです。何のために歴史を学んでるのだか。
いや、抽象的な思考は、思考する爲の言葉がしつかりしてゐない段階では不可能なので、理科も算數も後囘しで構はないと思ふのであります。
それから、新聞は「第四權力」と稱せられ、いまや民主主義國の「世論」を左右する最大の權力者となつてゐます。その新聞を教材として用ゐるのは、「統一宗を押し付けることによって宗教・思想をまとめることができる」と考えたインドの王と同じで
はないですか。恐るべき新聞或はマスコミの獨裁的支配をNIEは強化し正當化するものであり、私はNIEに大反對です。
昔は、新聞を子供に讀ませない親が澤山ゐたさうであります。事故、人殺し、汚職、その他の犯罪を小學生に見せたくない、知らしめたくない、と云ふ常識的な考へ方があつたからです。小學生に新聞を讀ませる事に、私は反對します。
新聞に欺されてはいけません。大東亞戰爭以前、日本人の戰爭熱を煽つたのは新聞です。どうしてみんな、新聞を信用するの? 新聞は國を誤る。NIEは國を誤る。
そもそも、國語は綜合的な科目となり得る教科だと思ふ。何も國語を嫌つて、わざわざ新しい科目を創造する必要はないと思ふ。みんな、何でそんなに國語を嫌ふの?
私は「誰かの文章に觸發されないと文章が書出せない」と云ふタイプであります。それで、shelarcyさんの日記を「出し」にした譯で、上の文章も、shelarcyさんを斬つてゐるのではないのであります。
つつこみはセルフサーヴィスで。
ネタ仕入元:せっかくの WWW なのに… 2001-06-28 @ [行動記録]
なんでタグを大文字で書く(書きたがる)人がゐるんでせうね。私なんか、5年前から全て小文字で書いてゐます。
それにしても、br、hrはHTMLでもXHTMLでも「空要素」ですよ。
公開調査「もとい」の件。
06/27/2001 日記ノート。 @ 言語美術研究所に續いて、「もとい」 H13-06-26〜27 @ 何かの日記にて囘答あり。
これらの調査結果を當方でまとめて言葉を疑へのコーナにぶち込んだら、「手柄の横取り」ですね。調査結果は纏めたいが、何もしてゐない私が纏めて良いものか。どうしたものやら。
XML Base および XML Linking Language の公開について (W3C 勧告)
XML BaseとXML Linking Language (XLink) Version 1.0が6月27日附けで勸告になつてゐる。
ここ數日で、中村雄二郎と宮崎市定の本を集め捲つたので、讀む積り。
ヨーロッパの多くの国ではファシストに言論の自由はないわけで、それに比べれば日本の国家主義者の皆さんは十分に言論の自由を謳歌してるわけだ。
日本の國家主義なるものがファシズムとかけ離れた存在である事が、國家主義者に「言論の自由」が與へられてゐる理由の一つ。もう一つの理由は、國家主義を敵視する民主主義の側が、日本では民主主義と全然關係のない曖昧な存在でしかない事。
日本人は誰も自由などと云ふものの價値を信じてゐない。自由の價値を本當に理解する爲には、キリスト教を知らなければならないが、日本人がキリスト教を本當に理解する事は出來ない。
ユダヤ人を抹殺しようとしたナチズムに言論の自由は與へられない、と屡々言はれる。しかし、ナチスの首領であるヒトラーを擁護する小説を、ユダヤ人は書くのである。
國家主義をタブーとするだけの日本人よりはスタイナーの方が、餘程言論の自由を謳歌してゐると言へると思ふ。
それにしても、今の日本人は「臭いものに蓋」と云ふ言葉を忘れたのだらうか。國家主義的な教科書を今、叩き潰した處で、一時凌ぎにしかならない。扶桑社の教科書が潰れても、恐らく次にはもつと強烈な右翼的教科書が出現し、その次には「完璧」な國家主義的教科書が教育界を席捲し、最後に日本は再び軍國主義に戻るだらう。何が軍國主義を齎したのかを考へないで、ただ考へない事が再發を防ぐと思ひ込むのは、却つて再發を誘発するものである。
そもそも、カルトよりも恐ろしいものがある、と云ふ事に、日本人は氣附きたがらない事が問題。
人間は、知的怠惰と云ふ事をこそ恐れなければならない。
中学生に選択の自由はないわけで、ある特定の政治的意図をもって採用される教科書に対して、それを使う側である中学生は原則として異議申し立てができないんだな。
「從來の歴史教科書には左翼的な意圖が存在する」と云ふのが、「つくる会」の教科書が作られた大前提であります。
實際のところ、左翼の教科書ばかりと云ふところに右翼の教科書が投入されるのは、バランスを取ると云ふ意味では歡迎すべき事。その右翼の教科書が、前宣傳の割にろくでもない出來であるから問題である譯で。
しかもその問題點が、右だ左だと云ふ以前のところにある事が、話をややこしくしてゐます。即ち、右であるから今囘の「つくる会」の教科書が駄目である譯ではなく、執筆者の知識が間違つてゐるがゆゑに駄目であると云ふ事に問題があるのであります。左翼も、そこをわざとごつちやにして、自分達に有利に話を進めようとしてゐる。そこに右翼のつけ入る隙がある。
「つくる会」の教科書の批判をしたいのならば、イデオロギーから離れるべき。
HTMLにもバージョンが存在する。『HTML4.0』レイヤー機能をもったいわゆる『Dynamic HTML』を含むものがある。しかし、この『Dynamic HTML』は、Microsoft社とNescape社の2大ブラウザを所有する双方の会社が、独自の方法で『Dynamic HTML』を開発してしまったため、ブラウザによって文法の記述が違うと言う問題をはらんでいる。そのため、2つの記述をそれぞれのブラウザ用に用意しなければならない。しかも、低いバージョンのブラウザではこれを見ることが出来ないため、企業サイトなどでは、『Dynamic HTML』を使わずに『HTML3.2』に準拠した汎用的なHTMLの記述を選ぶべきだろう。
ISO-HTML準據のHTML文書なんて、企業には受けさうな氣がするんですがね。駄目ですかね。互換性と云ふ點では、ISO-HTMLは最強です。全てのブラウザで、ISO-HTML準據のHTML文書は見る事が出來ます(斷言)。
i18n對應してゐないHTML 3.2よりも、i18n對應のISO-HTMLの方が餘程増しです。HTML 3.2に本氣で準據したければ、そのHTML文書では日本語を使はないで下さい。
斬るのはセルフサービス とのことで 2001年6月27日 @ ねこめしにっき
「新しい歴史教科書」の感想・印象が書かれてゐる。幾つか矛盾點が指摘されてゐる。
"Alice in Wonderland"("Alice's Adventures in Wonderland")を『不思議の國のアリス』と譯してゐる本が非常に多いが、『不思議な國のアリス』ではなぜ駄目なの?
『不思議な國のアリス』で讀んだ人間である私は、『不思議の國のアリス』に違和感を覺えるのであります。
「さとみかん」での表記が「闇黒日記」に戻つてゐるし。
「タブブラウザ、タブ拔きで」。
変な言い掛かりかもしれないが、昨今の理系離れが根本的な原因になっていると思うのであって、和製ビル・ゲイツ育成に2400億円の血税投入なんてクソタワケた無駄金を使う暇があったら、国語の時間減らして理科と算数の時間を増やせと何度も言ってるだろ!!
糞戲けてゐるのは岡野氏。昨今の理系離れの根本的な原因は、論理的な思考の出來ない人間が増えてゐる事にある。人間の思考とは即ち言葉による思考であるから、國語の時間を減らせば理科も算數も、アセンブラのプログラミングも、人間は出來なくなる。
国語教育を軽んじすぎではないでしょうか? 今の時代、「書足以記名姓而己(読み書きは自分の名前が書ければそれでいいのだ)」じゃぁ人としてなにかマズい気が。
とは言え、文学作品の読解偏重の現在のカリキュラムは改善されなければならないと思います。論述、討論、発表の技術あたりが、別途科目として成立させるのでない限り、現状では国語教育の範疇にあってよいはず。
とりあえず、減らすべきなのは、「国語」ではなくて「学級会」とか「ゆとりの時間」とか「必修クラブ」あたりかと。
小澤さんに贊成。と言ふより、理科と算數なんか教へないで良いから、小學校の低學年では國語を徹底的に教へるべきだと思ふ。言葉もわからない子供に、理科だの算數だのと云つた抽象的な内容の學科を課すのは異常。抽象的な思考力は、事前に具體的な知識が與へられてゐなければ出現し得ない。日本人はその邊を根本的に勘違ひしてゐる。その勘違ひを、日本人らしくやらかしてゐるのが岡野氏。
「生活科」なる意味不明な學科は即刻廢止すべし。子供の頃から譯のわからないものを教へられたら、人間は道理を理解出來なくなる。
「つくる会」の教科書が大して良いものではない事くらゐ、こちらも承知である。しかし、日本には言論の自由があるのだし、扶桑社にも營業の自由はあるのではないか、と私は言つてゐるのである。
「つくる会」の教科書を徹底的に彈壓しようと主張する手合は、自由主義を否定してゐるのだ、と私は言つてゐるのである。
「つくる会」の教科書を支持する人間が「皇國史觀」の持主であると言ふのならば、「つくる会」の教科書に反對する連中はマルクス主義者なのであらう。「アカ」と呼ばれたくないのなら、左翼は敵に「皇國史觀」と云ふレッテルを貼り捲るのはやめるが良いのである。
インフォシークで「新しい歴史教科書」を檢索したところ、一つの社会、一つの人間集団としての深い内省にもとづく良心的決断が、特定の言説や活動をタブーとする
のは良い事だ、と主張してゐる人がゐるのを發見した。
特定の言説や活動をタブーとする
のは、軍國主義の日本で當然のやうに行はれた危險な事だが、深い内省にもとづく良心的決断
なる曖昧なものを根據とする事によつて、大變にありがたいものに變貌するらしいのである。ものは言ひやうである。
皇國史觀を罵る星川は、半世紀以前に生きてゐたならば、逆に皇國史觀こそが社會的良心的な思想であると主張し、自由主義を徹底的に彈壓する憲兵となつてゐたであらう。
思想的封じ込めも人食い獣の射殺も、しなくてすめば理想的だが、きれいごとばかりでない人間社会が、どこで一線を引くかというけじめの問題だろう。
軍國主義の日本國の憲兵が右の立場から思想的封じ込め
の範圍を決定したのに對し、星川は左の立場から思想的封じ込め
の範圍を決定してゐるに過ぎない。憲兵も星川も、思想を統制せよ、と叫んでゐる事には變りがない。
全體主義を憎む潔癖症的な「民主主義者」が、屡々とんでもない全體主義的發想をするのは、奇妙な事だが事實である。人は自分を否定すべき文句でもつて他人を罵るのである。民主主義の名の下に、全體主義を招來せよと主張する星川を警戒せよ。
「自由民主主義者」を自稱し、すべて政策は「全員一致」で決定せらるべし、と斷言したDu_Yuanが、同じ口で少數意見の尊重を主張したやうに、星川もまたもちろん、これが正しい〈公〉だと押しつけられるものでもない
、と言拔けをしようとしてゐる。Du_Yuanも、星川も、自分の主張が矛盾を孕んでゐる事實に氣附かない。救ひやうのない馬鹿である。
「全員一致」が理想ならば、少數意見は存在し得ない筈であり、「少數意見の尊重」は無意味である。底拔けの御人好しであるDu_Yuanは、この理屈を全く理解しようとしなかつた。
「正しい」と云ふ事が押しつけられないのならば、當然特定の言説や活動
が間違ひであると云ふ事を押しつける事も不可能であり、ネオ・ナチだらうが皇國史觀だらうがタブー
として排撃する事も不可能である。底拔けの御人好しである星川は、この道理を絶對に理解しようとすまい。
「正しい」は押しつけられないが、「正しくない」は押しつけられる、と、左翼は屡々信ずる。正義は相對的だ、と主張する人間は、屡々自分の正義が絶對的なものだと信ずるが、それでは自分の言つてゐる事に矛盾が生ずるので、「正義」を「不正義」と言換へて、それで矛盾が解消されたと思ひ込む。さう云ふ「心理學的合理化」は眞の合理主義とは全く別物なのだが、兩者を同一視する人間にはそれがわからない。結局のところ、自分で自分を欺き續けたいだけなのである。自己欺瞞の無限ループ。
人は、理解したくない事は絶對に理解しようとしないものである。さう云ふ人間が「言論の自由」を主張する。思想の自由なくして言論の自由なし。自ら自己の思想を制限する「意識せざる思想統制論者」が、どうして「言論の自由」を主張出來るのか。考へなしのする事は常人の想像を絶する。
ひさびさの更新。
羯南居士は、儒教の智仁勇の三者は一の誠字に縮まるべきをいひ、
此に至りて吾れ儒道の奥義は全く一の信仰より出つるを知る、此に至りて吾れ修身の法は元と感情に出てゝ而して道理に入ることを知ると断じ、法律は論理より来り道徳は情操より出つといつた古人の語を点出し、更に三浦梅園が理窟と道理との区別を説いた一文を引来つた後に、今の世は実に理窟の時代にして道理の時代にあらす、理窟の時代は親をも訴ふに至る、況んや友をや又況んや他人をや、理窟の時代は何事も法律に訴ふに至る、況んや言を食むをや又又況んや人を陥るゝをや、今の心理を学ふものは理窟を探るのみ、今の教育を司るものは理窟を訓ゆるのみ、今の教育の社会には理窟ありて道理なし、論理ありて情操なし、学芸ありて信仰なし、口能く之を言ふ者ありて而して身能く之を行ふ者は即ち無し、鳴呼是れ誠なきなり、教育社会猶ほ然り、況んや其の他をやと叫ばれてゐる。
PC Tipsを整理したよ。大變だつたよ。
無計劃な記事垂れ流しはやめよう。
レガシーなもじらくん(Netscape Navigator 4.77で確認)の「ソースの表示」は、「"」(クォーテーションマーク)の「閉ぢ忘れ」を警告して呉れるんですねえ。
さう云ふ譯で、二本足の學者の記述を直して下さい>高尾さん。meta name="keywords"
の行の尻尾です。
もじらのNightly Build。mozilla-win32-installer-sea-talkback.exeが再び公開されなくなつてゐる。
滝川さん@Dr.Moo's Labの投稿が、何だか凄い事になつてゐる。
スマートタグのほーむぺーじ。
infoseekが人に斷りもなしにデザインを變更してゐるので追隨。
infoseekも以前に比べれば隨分センスの良いデザインになりました。
言ひ間違ひを訂正する時良く使ふ「もとい」。これが實は辭書になかなか載つてゐない。「元へ」は載つてゐるし、「もとい」とも言ふ、とはあるが、肝腎の「もとい」が項目として立つてゐる辭書が手許にない。そこで「もとい」の正しい歴史的假名遣の表記がどのやうなものなのか、について、確かな事が言へない。
例によつて色々な方法で御囘答を頂戴出來れば、と。
貼つて呉れ給へ。
かづさつさんとこの正式名稱が「(´д`;) - うへぇ」になつたさうな。
うっへり。
十二都市十二妹物語……?
http://ftp.mozilla.org/pub/mozilla/nightly/latest-0.9.2/
「斬つて呉れ」と言はんばかりのサイトですね。と云ふか、これ(---sh121---)は何ですか。
TITLE要素を抜き出す機能が欲しいとの事ですが、この始点アンカー作成でTITLE要素は抜き出すので、これでコピーした文字列から要らない文字を削るって言うのじゃ面倒でしょうか、野嵜さん。
手間をかけずにtitleとURIを拔き出してアンカーにしたいのであります。kotobaseek作成用に。
日本人ほど、文章の良し惡しについて鈍感な人種も無いと思ふ。
でなければ「日本國憲法」なる駄文の塊を、日本人は半世紀以上もありがたがつておしいただき續けたりはすまい。
ネタ仕入元:6月23日(土) おもろい @ [Tatsu71/日記/今日の日記]
野嵜さん(誰)に斬られそうな内容。
最近はセルフサーヴィスとなつてをります。
一應お約束に從つて。
http://ill.lunar.to/tips/index.html を HTML4.01 Transitional としてチェックしました。
13個のエラーがありました。このHTMLは 48点です。タグが 20種類 49組使われています。
文學と政治主義 第一章 大岡昇平と大江健三郎 政治主義の成れの果て 電子テキスト
松原先生の文藝評論。
HTML文書のtitleをクリップボードにコピーするscript希望>Makoto樣。
ITPro ニュース:Webの画面表示も保護対象に。著作権侵害で初の司法判断
KSmiracle Web Directoryはヤバいかな?
ネタ仕入元:ZSPC:ウェブデザイン関連ニュース
はらたいらさんに3000点!!
、らしい。
氏名を募集中。應募してあげて下さい。
もじら組の掲示板より。
BAROQUEのカウンタが2199だつたんですが、これッて「キリ番」ですよね。謎。
堀之内(多摩)の中古本屋に遠征。…堀之内は八王子です(バイト先)。
昔は武州多摩郡堀之内と申しまして……。
>渡邊さん。
http://www.ix.sakura.ne.jp/~wtnbt/kyokai/ を HTML4.01 Transitional としてチェックしました。
180個のエラーがありました。このHTMLは 14点です。タグが 28種類 314組使われています。
「すべからく」の件。續き。
『バカにつける藥』第二章「バカを撃つ」の「もつたいをつけた迷文で珍論を説く 上野昂志の卷」に、『インテリ大戰爭』で叩かれた上野氏と呉氏との論爭(「ガロ」誌上)が再録されてゐる。
上野氏は、書くといふ場の力學
が呉氏はわかつてゐない、と言ひ、言葉の誤用は無知である事もあるが、屡々勇み足によるものであり、呉氏の言ふ「高級表現」に對する憧れ
によるものではない、と述べる。「すべからく」を「すべて」の意味で誤用してゐるのはやはり『すべからく』『すべし』となり得るやうな文脈でなされてゐるのである
、と上野氏は反論する。
呉氏は、なり得るといふ反論や言ひ譯を、豫め十分檢討した上で、私は言つてゐるのだ
、と書いてゐる。續いて、なぜ誤用を咎めるのか、を呉氏は簡單に纏めてゐる。
- 無知は恥づかしいが、それはそれだけのことである。失敗は私にもある。誤字誤用も然り。
- 「須らく」は、「すべし」のク語法による變化であり、意味は、義務・命令・當爲である。非常にわかりやすく言へば、「すべからず」が禁止(するな)なのだから、「すべからく」が命令(せよ)だと思へば、當たらずといへども遠くはない。
- だが、誤用がこの十餘年、特に目につく。それは「須らく」を「すべて」の高尚な雅語だと思つてのことである。そして、この誤用者は、ほとんどスベカラク(上野よ、どうしてこの文章を「すべし」で結べると言ふのだ)。一つは、上野に代表される反權威・反秩序・反文部省の人たち。そして、もう一つは、前者ほど多數ではないが、宮本盛太郎など、前者とは逆に反權威・反秩序・反文部省の人たちに反感を覺えながら、單に、反反權威・反反秩序・反反文部省を對置することしかできない人たち。この二種類である。
- そこには、次の心情が見てとれる。まづ、前者。權威主義的な雅語・文語を批判してゐるつもりのその心の底では、自分が雅語・文語をつかひこなせない妬みがとぐろを卷いてゐる。この人たちが權威批判をするのは、自分が權威から疎外されてゐるからにすぎない。次に、後者。この人たちは、戰後民主主義の中では、本來は權力に關はる立場にゐながら、言論界ではしばしば少數派の悲哀を味ははされてゐる。言つてみれば、アメリカにおけるプア・ホワイトである。プア・ホワイトの妬みの構造は、前者と類似してゐる。つまり、前者も後者も、心情的に、自分が正統になりえないことの郡合のいい大義名分として、反正統を唱へてゐるのである。
- といふやうなことも、やはり省みれば、誰の心の中にもスベカラク存在する(上野よ、これはどうだ)。だから、これについても、單純な無知無學よりねぢれてゐる分だけ卑しいが、私のみが石もて打つことはできない。
- しかし、民主主義は、この卑しさを制度的・構造的に生み出し増殖させる。それは、平準化=「易しさへの強制」の逆説である。漢字は難解であり權威主義的であり、特權階級にのみ奉仕するものだとして、民主主義の名において、易しさへの國家權力による強制が行なはれた。當用漢字制度などの漢字制限である。「須く」も、この一環として、國家權力によつて抹殺されたのだ。
- それでも、國家權力によるどんなに理不盡な蠻行があつたとしても、結果的に、易しさの實現が成功し、ひいては、あらゆる權威が消滅する社會が到來したのなら、それはそれでかまはない。だが、現實に到來したのは、漢字制限による言語表現の混亂と、それに乘じて、反權成を大義名分にする權威亡者の跳梁だけであつた。
- ここにこそ、民主主義の究極形がスターリニズムとファシズムであることが、はつきりと現はれてゐる。
よたろー樣、木村貴樣に、呉智英さんの「スベカラク」批判の在處を教へていただきました。ありがたうございます
「すべからく」の件。
このあたり、岸田自らが立脚する「唯幻論」そのものという感じであるがもっとズサンな所は他にもある。岸田はケンカについて、こう言う。「日本人のけんかというのは、すべからく『怨みを晴らす』という形」。意味不明の日本語だ。岸田は「すべからく」を「すべて」の高級表現だと思っているのである。「すべからく」は漢字で書けば「須らく」で、意味は「ぜひ(〜をせよ)」であり、つまり「すべからず」の反対語である。早大文学部卒、和光大数授(「教授」の誤植だろうな、単なる)の岸田センセは、本書の中で日本語の動詞の語尾変化についても論じていらっしやるが、「ク語法」(高校古文で習う)については御存知ないらしい。否、センセだけを非難してはいけない。管見の範囲では、評論家・上野昂志、同・川本三郎、演劇家・唐十郎、詩人・鈴木志郎康などが「須らく」を「全て」の高級表現と思い込んで使っている。この四人に共通することは、いわば反権威・反規範主義である。そういった人たちが文法規範に無知であること自体はかまわないとしても、「全て」と平易に言えばすむものを、高級表現だと思って誤用する心は皇室と縁組したがる成金のようで、卑しい。その卑しさがファシズムを生んだとするのが、単純化して言えば、心理学者・フロムの説である。そこまで見すえた時、初めて、個別科学である心理学が、説明原理を支える一柱となりうるのだ。
保守派・右翼の仲間みたいな事になつてゐる最近の呉智英さんとは違つて、當時の呉氏は自分で自分が左翼の仲間だと思つてゐたやうで、どことなく左翼風の相手を見下した樣な文體を用ゐてゐるのもそのせゐだらう。その言ひ分は尤もで、今でも通用する。
もう一つ、呉氏の文章。
'71年頃、『少年マガジン』誌上に「へんな学校」というおもしろいコラムがあった。ここで、「すべからく」という語を「すべて」という意味に誤用していた。「すべからく」とは「為可し」のク語法による名詞化だから、「なすべきことには」「ぜひとも」というような意味であり、「すべて」とは全く無関係。
さっそく、投書。
すぐに、返事。
やがて、単行本が出版されると、サイン本の寄贈を受けた。満足である。
それにしても、「反體制」の側にゐた筈の呉氏は、いまや「正論」にも登場し、「體制側」の人間となつてしまつた譯だが、「轉向」の理由と、どのやうに「轉向」前後の自分に折合をつけたのか、を知りたい。
谷沢永一氏が『「新しい歴史教科書」の絶版を勸告する』(ビジネス社)なる本を刊行したさうである。保守派の谷沢氏が保守派の歴史教科書を斬るのは、保守派にとつては苦々しい限りであらうが、私はさう思はない。
『中學校社會科歴史的分野』教科書は、無知、無學、誤記、誤認、虚僞、捏造、歪曲、粗放、出任せ、虚勢、出鱈目、あてずつぽう、傲慢、思ひ上り、による内容空疎な敍述を、恥知らずで知つたかぶりのハツタリで色あげした愚書であるから、絶版に處せられるやう勸告する。
「和を以て尊しとなす」多くの讀者が眉を顰めるであらう罵詈雑言である。しかし私は、激しく罵る谷沢氏の言ふ事を信用する。谷沢氏は、保守派である自分が同じ保守派を斬るにあたつて、保守派内部からも支持されないであらう事を覺悟してゐる筈である。その覺悟の表れがこの罵倒である筈である。
とはいへ、隨分素早い出版である。『新しい歴史教科書』が出たのはつい先日の事ではなかつたか。谷沢氏が本書を書き飛ばしてゐるのでなければ良いのだが。
5月24日、慶応大學の島田晴雄(經濟學部)、阿川尚之(綜合政策學部)の兩教授とそのゼミ生61人が、神奈川縣横須賀市の海上自衞隊基地を訪れ、自衞隊員と討論會を行つた。海上幕僚監部の吉田正紀一佐は「反自衛隊、反米軍の象徴でもあつた大學生と自衞官を向合はせる事など、以前は考へもしなかつた」と語つたさうである。防衞廳關係者はこの討論會を「歴史的」と呼んださうである。
かつて松原正教授は、新潟縣新發田市の第三十普通科聯隊に、男女九人の學生を引率して體驗入隊をした
。これは「歴史的」な事ではなかつたのだらうか。
「闇黒日記」が清沢冽の日記から名前を戴いたものであるのは周知の事實ですが、「瞬間」の由來がわからん、と云ふ御意見が多數ありました。「瞬間」はキルケゴールの最後の著作から名前を貰つたものです。
闇黒日記だとGoogleで検索したときにトップ
に出てくる、と云ふ非常に魅力的な御指摘がありましたので、内部的な名稱(?)を「闇黒日記」に戻しておきます。さう云ふ譯で、リンクの際には「闇黒日記」でも「瞬間」でも、お好きな方の名稱をご使用下さい、と云ふ玉蟲色の決着。
アンケートの結果報告。囘答期限を區切つてゐないと云ふ時點で、アンケートとしては致命的だつたやうな氣がするのですが、ファイルの切替へを機會に今回のアンケートは終了と云ふ事で。
「闇黒日記」と「瞬間」のどつちが良いと思ひますか。アンケート實施中。囘答は色々な方法でどうぞ。
6月21日現在、「闇黒日記」17票。「瞬間」6票。「瞬間、闇黒日記。」1票。「瞬間日記」2票。「瞬殺日記」1票。「闇」1票。「あんこくにっき」1票。「一瞬先は闇黒日記」1票。「行殺日記」1票。「闇の奧」1票。「闇黒日記,或いはその瞬間」1票。「ネタ帖」1票。「悪即斬」とか「瞬天殺」とか「天昇龍閃」とかそれぞれ1票。
取敢へず、出てきた分は全部1票扱ひ。「
はらたいら篠沢教授に全部」式の投票は「1票」扱ひ。
3000點、と言はれても。
どうも勘定を間違つてゐるやうな氣もするのですが、リンクについてのアンケートのやうな立派なアンケートとは違つて、或意味「人氣投票」ですので、細かい事はお互ひ氣にしないやうにしませう。まあ、豫想通り「闇黒日記」支持派が多數、と云ふ事で。
當方で把握出來た囘答者の方々。どうもありがたうございました。
U-Z樣、l-_-l樣、中村友次郎樣、ペトロニウス樣、ありみかさとみ樣、jokka樣、ヴァンガル樣、けい樣、NiAOU樣、Nishino Tatami樣、闇黒な方樣、satoshii樣、古林寛樣、えちごや樣、カヅサツ樣、木村貴樣、ici樣、INT樣、DDT樣、ろばQ樣、乱土労馬樣、丈倉薙洋樣、ちゃいちゃんパパ樣、近藤和宏樣、くろねこ:はにゃ樣、渡邊樣。北村樣、上野樣、宇野樣。
他に囘答して下さつた方がいらつしやいましたら、よろしければ御聯絡下さいまし。