瞬間

「闇黒日記」と「瞬間」のどつちが良いと思ひますか。アンケート實施中。囘答は色々な方法でどうぞ。

6月21日現在、「闇黒日記」16票。「瞬間」6票。「瞬間、闇黒日記。」1票。「瞬間日記」2票。「瞬殺日記」1票。「闇」1票。「あんこくにっき」1票。「一瞬先は闇黒日記」1票。「行殺日記」1票。「闇の奧」1票。「闇黒日記,或いはその瞬間」1票。「ネタ帖」1票。「悪即斬」とか「瞬天殺」とか「天昇龍閃」とかそれぞれ1票。

取敢へず、出てきた分は全部1票扱ひ。「はらたいら篠沢教授に全部」式の投票は「1票」扱ひ。

3000點、と言はれても。

平成13年6月20日

誰も「もつとまともなHTML文書にしよう」と言はないのか。

國語を大事にしたいのなら、コンピュータ上の國語の表現にも氣を配るべし。國語問題協議會は「IT時代」の國語を本當に守りたいのか。老人達は何もわかつちやゐない。

平成13年6月20日

平成13年6月20日

メモ。「恣意的」

恣意
自分の思ふまま。思ひついたままの考へ。氣任せな心。自分勝手な考へ。

実は私は恥ずかしながら、「恣意的」と云う言葉を20年以上の間「(物事を、)自分(や自分の論理・主張)に都合のいいように(解釈する)」というような意味に理解していました。例えば「生物学者は、事実を恣意的に解釈する傾向があるように思われる」など…

でも、実際には「その場限りの、気ままな」という意味だと知らされ、大変恥ずかしい思いを致しました。

そこで質問ですが、私が「恣意的」だと思っていた意味を表す的確な表現(熟語)はあるのでしょうか?

何日待つても、誰も答へてあげないので、私が囘答。

我田引水
物事を、自分の利益になるやうに引きつけて言つたりしたりすること。
御都合主義
定見を持たず、その時その時の状態に應じて都合の良いやうに行動するやり方。

この邊りの言葉が當て嵌まりさうな氣がしますけれども、他にもつと適切な語がありましたら御一報を。

平成13年6月20日

メモ。「御教授下さい」

教授
  1. 學術・藝事を教へ授ける事。
  2. 大學及び舊制の高等學校・專門學校で、講義・研究する職(の人)。
教示
教へ示す事。

掲示板で「御教授下さい」とありましたが、「御教示下さい」と言ふべき。

平成13年6月20日

メモ。「すべからく」。

須らく
當然。爲すべき事として。

漢文訓讀では「須」を「すべからく〜べし」と二度讀みする。非常に奇妙な表現だが、「須らく」は、「〜しなければならない」「〜するのが良い」と云ふ意圖の文章である事を、文章のはじめの部分で豫め示す「豫告語」として便利であるがゆゑに生殘つたのではないか、と高島俊男は推測してゐる。『お言葉ですが…(2)』213ページ以下

「すべからく」を「すべて」の意味で用ゐるのは間違ひである。高島氏は「すべからく」の行く末を嘆いてゐるが、呉智英は「すべからく」を「すべて」の意味で使つてゐる人間を嘲笑つてゐる。


呉氏の「スベカラク=全て」批判が、どの本に載つてゐたものなのかを失念。御教示下さい。

平成13年6月20日

formのinput要素(ボタン)上で「ID/NAME検索」。

――出來てしまふんだな、これが。「移動テスト」も出來る。


と云ふか、「ID/NAME検索」の結果窓で「ID/NAME検索」してどうするんだ>俺。

平成13年6月20日

どのバージョン使ってるか聞いたときに「最新版です」と答える奴の面倒は見るだけ無駄。

A
HTML、どのバージョン使つてる?
B
最新版です。

平成13年6月20日

メモ。「隗より始めよ」。

  1. 賢者を得たいならば、まづ私から用ゐよ。
  2. 言出した者からまづ行への意。

「戰國策」/『新釋漢和』

平成13年6月20日

メモ。「すなはち」。

言換へれば。とりもなほさず。
(「……すれば」の形の句を受けて)その時は。(下の内容が上の條件の當然の歸結である事を示す))
そこで。そして。

『岩波國語辭典』

平成13年6月20日

月刊「日本」と云ふ、全く賣れてゐない保守派の雜誌があつて、かつて松原先生の夏目漱石論の一部が掲載されたのだが、廣告が非常に面白い。保守派の雜誌なのになぜか朝日寫眞ニュース社が廣告を出してゐて、軍艦旗まがひの朝日新聞社の旗のマークが拜めたりする。

しかし、ヲタの人には、表紙をめくるといきなりアニメイトの廣告が目に入つてくる事の方が衝撃だらう。右翼雜誌にナデシコの繪が載つてゐるのは、何とも言へない違和感がある。


と云ふか、月刊「日本」は、まだ出てゐるのですか。

平成13年6月19日

ここのところ、HTML,CSSと勉強をしてきて気づいたコトがあります。
それは、Webページそのものが、実は、人間そのもの(良く似ている)というコトです。

「文は人なり」「HTMLは人なり」

平成13年6月19日

ぷろふま移轉。(21日豫定)

某方面御用達となりつつあるFAS-NET。いつの日か、CSSコミュニティが共倒れにならなければ良いが。小泉さんはFAS-NETを支援して下さい。笑ひ。

平成13年6月19日

澁い記事がいつぱい。

平成13年6月19日

政治の話も、HTMLの話も飽きちまひましたよ。面白い話はないですかね。

平成13年6月19日

もじらぶらうざでは表示がうまくいかなかつたりしますけれどもお洒落なデザイン。

Personnel - 初心者のためのホームページ作成講座 -が秀逸。HTMLの定義のための覺書を參考にしてゐるやうですが、title要素の記述の仕方などに獨自の見解を示してゐます。

平成13年6月19日

「千と千尋の神隠し」について。

この世界で千尋が生き延びる条件はただふたつ。
町の中心を占める巨大な湯屋を支配する
湯婆婆という名の強欲な魔女のもとで働くことと
名前を奪われて、人間世界の者で無くなることだった。

駄目アニメのキーワード・生き延びるがまたしても出現。

人はパンのみにて生くるにあらずとか、善く生きるとか云つた事を、なぜ日本のアニメ制作者は考へないのかね。


日本のアニメは文化ぢやないよ。文化以前だよ。

平成13年6月19日

Macromedia Flash Player がインストールされていません、だつて。

ネタ仕入元:2001/06/19 @ [Lognote - SiR]

平成13年6月198

侍魂はネタに頼り過ぎ。

平成13年6月19日

うちでも使つてみました。XHTML非對應なのと、「imgのheightとwidthを書け」と言つて呉れるのが、當方でのみ問題。

ネタ仕入元:2001/06/17(Sun) @ [更新履歴 - Final β Laboratory]

平成13年6月18日

侍魂が詰らないのは、落ちが言ひ譯だからである。

平成13年6月18日

 だが,もしこのコラムを読んだ人が,私の許可なしに,下線を引いた言葉に私の主張に反対するWebサイトへのリンクをはるとしたら? それがどんなに腹立たしいことか,私にはよく分かる。

u要素を使ふな、emとかstrongとかを使へ、等とつつこんでみたりして。

平成13年6月18日

中學・高校・大學の頃のプリント類を整理してゐたら、擔任教師の書いた秀逸なテキストが發掘されて讀みふけつたり。


中學の頃に書いた日記の文體が、現在と全く變らない事に氣附いて鬱。

平成13年6月17日

ユーザにPDF文書の閲覧を強いると、ウェブサイトのユーザビリティは約300%低下する可能性がある

大ざっぱに見積った數字が無意味で素敵。

平成13年6月17日

HTML 4.0(1)仕樣書の邦譯を斬る

平成13年6月17日

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

これほど嘘で塗り固められた文章も珍しい。しかし、「日本國憲法」前文が「トンデモ」である事を、殆どの日本人が氣にしない。


「日本國憲法」を擁護するのに「日本國憲法の精神」を持出すのは、自家撞着と言ふべきだが、日本人は自家撞着の誤りを犯して平氣である。もし平気でなかつたら、自分の信念が崩壞するからである。

平成13年6月17日

 イザヤ・ベンダサン(=山本七平)のこの著書のでたらめさ、無責任さ、無神経さについては、たとえば浅見定雄氏の著作などで、徹底的にそのウソが暴かれていると思うが、仮にも文部大臣がその辺の経緯を全くご存じなく、いまだにこのウソ本を有難がっているというのには驚いてしまう。あの本は「トンデモ本」なのだ。そんなものを下敷きに日本の未来を憂慮するなこの馬鹿者

松原正氏が、「ユダヤ人が日本人の事を本氣で心配する筈がない、あの本は日本人が書いたに決つてゐる」と述べた事があります。『日本人とユダヤ人』のユダヤ關係の記述が出たら目であるのは當然の事です。イザヤ・ベンダサンは、日本人を「標的」としてゐるのであり、日本人を批判する爲にその對極としての「ユダヤ人」を「捏造」してゐます。

『日本人とユダヤ人』において、「ユダヤ人」に關する「知識」が「間違つてゐる」のは當り前であります。著者の狙ひは、ユダヤ人を日本人に紹介する事にありません。「ユダヤ人」と云ふ對照的(で珍妙)な存在を作り上げる事によつて、日本人がいかに珍妙な存在であるかをあぶり出しにする事が、ベンダサンの狙ひであつた筈であります。

ですから、「ユダヤ人」に關する「知識」が「トンデモ」である事は、『日本人とユダヤ人』が「トンデモ本」である證據にはなりません。問題は『日本人とユダヤ人』がどこまで的確に日本人の急所を衝いてゐるか、であります。


例によつて急いで斷つておくが、松原氏は山本七平氏を必ずしも高く評價してゐる譯ではない。山本氏が『論語の読み方』を、松原氏は批判する。

孔子は言つてゐる「古の學者は己の爲にし、今の學者は人の爲にす」。昔の学者は自分を救ふために學問をやつた、しかるに今の学者は「人の爲に」學問をやる。朱子によれば「人の爲に」とは「人に名を知られるために」といふ意味だといふ。「人に名を知られるために」學問をするのだから、當然讀者に喜ばれるやうな本を書く。讀者が實利を引き出したがつてゐるのだから、「すぐに役立つ」かのやうに見せかける本を書けばよい。すなはち著者の頭の上の蝿などどうでもよい、讀者の頭の上の蝿ばかり氣にして、あるいは氣にしてゐるふりをして、文章を綴ればよい、さういふことになる。

『論語の読み方』で山本氏もその種の誘惑には勝てなかつた、と松原氏は批判してゐる。

『日本人とユダヤ人』も『論語の読み方』と同樣、讀者に媚びた實用書でしかない、と云ふ側面を持つ。その文脈で『日本人とユダヤ人』は批判されるべきである。

しかし、『日本人とユダヤ人』に出てくる語句が、議論の際の「符牒」として便利であり、政治的なスローガンとしても極めて便利である事は、一應念頭に入れておいて良い。そして、さう云ふ「用語の利用」と、「用語の元の主體を支持する事」とは異るものである事を、我々は常に一應考慮すべきである。

『日本人とユダヤ人』の用語をひつぱつて來た事は、遠山氏がベンダサンの「信者」である事の根據とはなりません。それを認めたら、「神の國」と發言した森總理や「三國人」發言をした石原氏が即「國粹主義者」である、と云ふ事もまた認めなければならなくなる。

しかし、「××と言つた、あいつは○○だ」式の人物評價が一般に通用する、と云ふのはをかしいと思ふのですがねえ。

平成13年6月17日

焼肉を食った。

いいないいな。

平成13年6月16日

大學入試などにおける現代文の問題では、文中に出現してゐる何らかの根據に基いた囘答のみが常に要求される。いかなる場合にも、感性に基いた囘答が強要される、と云ふ事はない。大學入試に讀書感想文は出題されない。全て「文章をよく讀んで答へよ」である。國語の問題で問はれるのは、判斷力であり、感性ではない。

作者自身が正しい囘答を出せない現代文の問題は有り得る。だが、作者に正しい囘答をさせようとする方が間違つてゐる。「自己申告は必ずしも當てにならない」と私は常々言つてゐる。作者は、考へてゐる事を、文章に表現しないでゐる事が出來る。「作者は何を考へてゐるか」は、必ずしもわからない。だから、受驗生に囘答させる譯には行かない。

しかし、「作者が言つてゐる事を正しく判斷せよ」と云ふ事は、讀者に要求し得るし、受験生にも要求し得る。國語の問題で要求されるのは、「書かれてゐる事を正しく讀取る」「書かれてゐる事から判斷出來る事を述べる」と云ふ事である。これは、訓練次第で誰にでも出來るやうになる。だから入試問題になり得る。


數學の問題の方が、餘程センスを要求されると思ふ。幾何の問題で、ヒントなしに補助線を圖に書き入れられる人間がゐる、と云ふ事の方が、私には驚くべき事であるやうに思はれる。

平成13年6月16日

部屋のかたづけをしてゐたら、反古の中から教科書に載つてゐたと思しき「論爭の持つ意味」なる中村雄二郎の文章(のコピー)が出てきた。非常に興味深い内容の文章を、私は中學だか高校だかの頃に教はつたのである。


「論爭と論戰は違ふ」と中村は言つてゐる。

論戰とは、言論におけるたたかひである。それは、反對のことを言ふ者を打ち負かすために書くのであつて、眞なることを言つたり、見いだしたりするために書くのではない、と云ふアランの定義を引いて、中村は「論戰」とは「ロゴスによる説得」ではなく多くの者を味方につけ、衆をたのんで力で相手を威壓することだと説明する。

……事實、さういふ場合に、相手には一言もさしはさむ餘地を與へず、一人で長談義をして相手をくたびれさせるといふやり方がとられることは、きはめてしばしばみられるところである。

また、そこから議論はしばしば感情的なものになる。そして、それがこじれると、お互ひどうし、その考へ方や言ひ分は、ロゴスに導かれるべきものとして客體化されてゐないから、相手の考へや言ひ分を否定することは、相手の人格、更には相手の存在そのものを否定することになりがちである。論爭がどろ仕合になり、意見の對立が事柄の眞理・眞相をそつちのけにして憎み合ふ關係になることもまた、往々にしてみられるところである。

しかし、論戰ではない、對話や、更には自己内對話としての思考と結びついてゐる論爭と云ふものが、ほかにある筈だと、中村は言ふ。

我々は日常生活においても、何かを自分の意見として示すとき、それは既にそれとあひいれない主張を否定し拒否してゐるといふ意味で、少なくとも潛在的には他人との論爭的關係のうちに置かれてゐる。すなはち我々にとつて、論爭は避けることのできない必然的な事柄である。だからこそ、我々は論爭を、對話にもまして自覺的に行はねばならないことになる。

論爭は、はじめから意見の對立が明かである。相手と協力しあつて問題を解決する努力よりも、自己の主張を押通して相手を屈伏せしめる努力を、論爭時に人はするものである。その爲、相互の主張が平行線をたどることが多いし、意見の對立が感情的な反撥や敵對心を伴ふことも、全く當然である。だが、「不毛な論爭」で終らせるよりも、論爭を通して雙方が何かしら有意義な結果を得た方が良いのではないか。そこでどうすれば良いのか。中村は二つの事を擧げてゐる。

一つは、互ひに自ら感情的になるのを抑制し、感情的な要素を退けて、ディアロゴスに近づくことである。もう一つは、感情的な言葉の投げ合ひによつて、問題になつてゐる事柄の眞理・眞相を見失ふことがないやうな、感情の訓練を積むことである。

そして、人は遊戲する存在である(ホモ・ルーデンス)と中村は言ひ、惡口の應酬を樂しみ、感情的な言葉の投げ合ひを意識的に行へば、却つて感情による束縛から理性は解放される、と中村は考へる。この「逆説的」な中村の提言は、案外當つてゐるやうに思はれる。慇懃無禮な態度が、却つて相手を苛立たしめる事は、我々の屡々經驗するところである。

そして中村は、論爭とは互ひの意見をすり合せる事ではない、と言つてゐる。我々人間は各自が互ひに異る存在であり、コミュニケーションによつて自他の相違を(と云ふ事は詰り、自分はどのやうな存在であるかを)知る。もちろん社會では、他者との融和、協同も重要である。それは大前提である。ただ、それと同時に、他人とは異る自己の道を見出す事、自覺的に生きる事が、人間にとつて重要であるならば、我々は他人や自然との相違や對立の認識がもたらすものに、いつそう留意すべきである。

他人や自然との相違・對立をとほして、我々は、自己のなんたるかを知るだけではない。我々は更に、他人や自然との關係において、自分の考へを鍛へ、自分の生き方を確かなものにしてゆく。

經驗は、自己の内部乃至は外部の他人との對話によつて培はれる。そして對話は、自分と異る存在と自分との間でのみ成立する。異質な存在との交渉・觸れ合ひ、即ち嚴しい現實との觸れ合ひは、人生において必ず生ずるし、人はそれを乘切つて行かなければならない。

したがつて、他人や自然を含めての他者との對話を拒否することは、自己閉鎖的になることであり、經驗を拒否することになる。ここからまた、我々は自分と同質のもの、親しいものとだけかかはつてゐる場合には、自己の現實性を失ふことになる。

自分の嫌ひなものに接するのも人生經驗である。しかし、その嫌ひなものと折合をつけてうまくやつていく事だけが、人間のすべき事なのか。嫌ひなものと激しく對立する事も、人間らしいのではないのか。

小利口にうまく立囘つて周圍との摩擦を囘避するのも人生ではある。しかし、對立を惹起こしてでも自己を貫きたい、と思ふのも人間である。この二つは選擇肢であるべきであり、一方の道を安易に閉ざすべきではない。中村はさう言ひたいやうである。私はこの中村の主張に贊成である。それが自由と云ふものである。


今の國語教科書にも、このやうな深みのある文章は殘つてゐるだらうか。インターネットでは論爭が盛んだが、この中村の文章は極めて示唆的である。惡しき功利説に荷擔し兼ねない文章ばかりが生延びないやうに願ふ。

『哲學入門』(1973年) ※ただし孫引き。

平成13年6月16日

ワープロで文章を書くよりも秀丸 + ATOK14 + 自作タグ辞書で HTML で書いた方がずっと速くできる自分に鬱。ページレイアウトもワープロやなんかを使うより CSS でやった方が簡単だ、とか思ったり。病んでるなァ。

Wordでは、段落のスタイルを「見出し」とか「標準」とかに指定して、あとは[書式]-[スタイル]で「見出し」や「標準」のフォントやら段落やらを設定する、と云ふのが常識、ですよね???

HTML文書もWord文書も、全く同じ感覺で私は作つてゐます。笑ひ。


餘談ですが、Windows用のワープロ文書は環境(と云ふか、デヴァイス)依存です。Wordの作表機能なんかを使つてぴしっと作つたレイアウトも、プリンタドライヴァが變はつた瞬間にがたがたになり(得)ます。文書作成を自宅でやつて、印刷だけ會社でやらうとする人は要注意。出力用のドライヴァを組込んで作業しませう。


さらに餘談ですが、私は「テーブルでレイアウト」をWordで散々やりました。

平成13年6月16日

堀之内(多摩)の中古本屋に遠征。漸く「ルリルリでいこう2」を保護。

平成13年6月16日

http://www.personaware.com/にアクセスするとhttp://www-6.ibm.com/jp/pc/prod/ha/pw110.htmlに飛ばされるやうになつたみたいだ。

平成13年6月16日

IT戦略会議・IT戦略本部合同会議(第5回)、「資料7:情報バリアフリーの推進について」は要注目。

マークアップ及びスタイルシートは適切に使用すること

「正しいHTML」「正しいスタイルシート」普及の爲、政府はCSSコミュニティの面々に資金援助をして呉れないかねえ。

平成13年6月16日

所で、昔の「言葉 言葉 言葉」 : こんな所に永久保存されてゐる。って、NOT FOUND になっちゃふのですが。

日本文学・テキスト情報バックナンバーのカヴァページ(?)はあるんですが、バックナンバーの文書が消えてゐますね。


「昔の言葉 言葉 言葉」は、今もウェブの某所で健在だつたりします。

平成13年6月16日

最近のアクセスログの中に、UA 名を IE8.9.3 for PC-8801MC という値が設定されているものがありました。実際に PC-8801MC を利用しているとはさすがに考えにくいのですが、ちょっと面白かったです。

# 8.9.3 は sendmail のバージョンかなぁ。:)

「やくざ」?

:P

平成13年6月15日

正しく讀めますか。

平成13年6月15日

欲しいもの。

平成13年6月15日

以前書いた記事の増補。

平成13年6月15日

う〜ん。ぱげの上下端にあるナビゲ〜ションリンク部分を position:fixed で表示位置固定にしたろかとおもったけど、やめ。ちと MacIE5 で具合わるし。

そもそもこのナビゲ〜ションリンク部分がdiv要素であるべきで無いのではなからうか。これはリストではないだらうか。

kotobaseekでさへlinkbarクラスのdiv要素のような時には、……、半角空白や全角空白や「/」や「|」なんかを使っている、と云ふ話ですが、J-COM@NetHomeのKSmiracle Directoryでは改善されてゐます。と云ふか、早いところALLNETの舊サイトから引つ越し先にURIを變更してやつて下さいまし。

平成13年6月15日

http://ftp.mozilla.org/pub/mozilla/nightly/2001-06-14-12-reply_perf/なんてディレクトリが出來てゐて、ちよつと心ひかれたが、trunkのバイナリで我慢。

平成13年6月15日

65囘も神樣に喋らせた「つはもの」がゐたらしい。

平成13年6月15日

うち邊りではメールなんてさつぱり來ないんです。


闇雲日記とか、瞬殺とかいつた「代案」が出てゐるんですが、どうしたら良いのでせうか。


平成13年6月15日

なぜ人は人を苛めたいのか。

その背景には人間の權力慾があると、開高健は言つてゐるさうだ。「敵を倒した瞬間から敵と同じ内容體系への變質が始まる」(昭和54年2月25日『紙つぶて』谷沢永一)

平成13年6月15日

  1. 本質のみを伝えるというのは舌足らずとは違うし、精緻に描くというのは饒舌と分離できるものだ。
  2. 文字をインデントしてみたりいろいろと表示方法に工夫をこらしてるのもうっとうしい。
  3. 文字による情報は視覚的であるべきではない。文章で絵を描くなということ。
  4. もちろん、すぐれた解釈者は限られたテキストを精緻に読みこむことで、原作者と同程度ないしかなりの近さで世界を共有することはできるけれども。

2、3は、HTML文書の作成にも當て嵌まる。1、4は、掲示板(や「ウェブ日記」)での議論にも當て嵌まる。

平成13年6月14日

Endoさんを批判するのではありません。

と思っていましたが、上の段落の記述(「ぢらい」とつづるのが正しい)は実は間違っていました。「地」という漢字には、もともと「ち」という読みと「じ」という読みの2つがあり、「地雷」の「地」は「ち」が濁ったものではなく、もともとの読みである「じ」をそのまま使っているので、「じらい」とつづるのが正しいようです。参考までに、昭和61年7月1日内閣告示第1号の『現代仮名遣い』での該当箇所を以下に示します。

〔注意〕次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであって、上記(1), (2)のいずれにもあたらず、「じ」「ず」を用いて書く。

じめん(地面) ぬのじ(布地) ずが(図画) りゃくず(略図)

(昭和61年7月1日内閣告示第1号『現代仮名遣い』より)

この『現代仮名遣い』の記述を信じてゐ(て、時として物凄い居丈高に講釋なさ)る方が非常に多いのですが、大嘘ですので、騙されないで下さい。

「地」のもともとの読みは「ち」「ぢ」であつて「ち」「じ」ではありません。文部省の言つてゐる事は眞赤な嘘です。次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであって、は、事實でも何でもないものを「既成事實」であるかのやうに見せかける欺瞞的な文言であり、「これは定説です」の類の、論理的な批判を封ずる爲に封ずる恐るべき決めつけであります。

文部省は國民を騙してゐます。そして、國民は文部省に騙されて平氣です。文部省も文部省なら、國民も國民です。


それはそうですが何か勘違いがある気がするので書き込んでおきます。引用で略されている「上記(1),(2)のいずれにもあたらず云々」の(1)(2)とは、

5 次のような語は「ぢ」「づ」を用いて書く。

  1. 同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」
  2. 二語の連呼によって生じた「ぢ」「づ」

の(1)(2)のことです。

「地面」「図画」などは上記(1)(2)にあたらないので(元の読みがどうであれ)「じめん」「ずが」と表記する、ということです。

次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであってとは元々の読みが「めん」「が」と濁っているということです。

"5"の基準となる理屈は良く解りませんが、別に間違いは言っていないと思います。

「現代仮名遣い」と云ふものが、「現代仮名遣い」の原理を述べたものであるやうな顏をしつつ、實は歴史的假名遣をいかに書換へるかの原則を示したものでしかない、と云ふ事を失念してをりました。「現代仮名遣い」においては、「じ」「ず」「ぢ」「づ」の音韻は「じ」「ず」に既に統一されてゐる、と云ふのが大前提であります。そこで、「じ」「ず」「ぢ」「づ」と歴史的假名遣で書かれてゐた全ての語は、現代語の音韻に従って「じ」「ず」と書くべきだ、と云ふことになつたのであります。しかしながら、「ぢ」「づ」と書く歴史的假名遣の原則を殘すべき一部の語が例外としてなぜか設定され、その例外規定の中でこれは例外ではないと駄目を押されてゐるのが「じめん」「ぬのじ」「ずが」「りゃくず」なのでありました。

さう云ふややこしい(と云ふよりも、原則のあるやうで實は無い)書き方をされてゐる「現代仮名遣い」の規定ですが、この規定を「『じめん』の『じ』はもともとさう讀む筈のもの」と言換へ、恰も「定説」であるかのやうに「正かなで『じめん』を『ぢめん』と書くのは誤り」と決めつけた人がかつてYahoo!掲示板方面にゐたのであります。上の文章における私の「假想敵」はそいつであります。


「H13-06-15」に、護民官閣下のつつこみが。

此れッて、字音仮名遣の正統性を主張してゐる文章ですよね。

字音假名遣である、と云ふ大前提の大前提を失念してをりました。字音假名遣は歴史的假名遣とはまた別の話。

平成13年6月14日

J-COM@NetHomeになつてから、夜11時すぎのWWW/FTPサーヴァへのアクセス速度が遲くなつてしまつて困つてゐる。

Freewebのサーヴァの方が速いッてのはどう云ふ事? 「瞬間」最新版もFreewebに移動しろッて事?

平成13年6月14日

MacOS Xから採用された巨大&リアルなアイコンは、美しいことを除けば機能的には退歩しているような気がします。特にリスト表示で小さくなると、何のアイコンやらわからなくなるんですよね。ドックの中に並んだアイコンを見ても、やけくそ気味にデザインされたMozzilla(mの一文字)が一番わかりやすいな。いくら撮影技術が進歩しても航空写真が地図の代わりにはならないでしょ。それと同じこと。

やけくそ気味は良かつたですね。スプラッシュスクリーンでもじら君が燒いてゐるものの正體が漸くわかりましたよ(大違)。

平成13年6月14日

取敢へず、頭の惡さうな言葉の略し方をするのはやめませうよ。あと、ツールバーのボタンも何とかしませうよう。

平成13年6月14日

人權の議論で、人間について論ずるのでなく、權利について論じてしまつてゐる人は、澤山ゐるやうに思はれる。權利を擁護しようとして、「人間疎外」に陷つてしまつては、元も子もなくす。

平成13年6月14日

平成13年6月14日

消えていくサイトもあれば、生れてくるサイトもある。

平成13年6月14日

HTML関係の文書を抹殺決定。思想的に今のオレと相容れない。単なるギャルゲー感想文日記サイトになってしまう。

と云ふ譯で、緊急にローカルに保護。obsolete、と書いておく、と云ふ手もあるやうな氣がしますけれども。もうしばらく延期との由。めでたい。


T.M.NWeb Page Tipsは、この一連のリソースは非常に古いものであり、また誤った解釈・舌足らずな解説も含んでいるため、学習目的での参照は薦めない、と云ふ註釋附きで公開が繼續されてゐる。

平成13年6月14日

自分のやつてゐる事は、過去の所業の縮小再生産ではないか、と考へて憂鬱な氣分に。

平成13年6月14日

HTMLって、いわゆる「ほーむぺーじ」を記述するのに向いてる言語とは思えない。見映えをCSSなりなんなりで調整するにしても、基本は見出し-段落の構造で記述せにゃならんわけで。「見出しにする」やら「強調する」やらが目的でなく「でかくして右の方に置く」というような物理的なこと自体が目的なときには div id=とかspan id=が氾濫するはめになる。それだったらむしろ、その手のレイアウトを主眼に据えた言語で記述出来るべき。

どつちなのかな。

  1. 「ほーむぺーじ」を記述したいのに、HTMLやCSSではうまく出來ないぞ、と云ふ「HTML原理主義批判」。
  2. 「ほーむぺーじ」を記述したい奴の「デザイン優先」と云ふ考へは間違つてゐる、と云ふ「ウェブデザイン優先主義批判」。

「私は繪を見て貰ひたい」「私は音樂を聽いて貰ひたい」と云ふ希望を實現する爲には、先づ言葉で人に自分の繪や音樂を賣込まなければならない。WWW或はインターネットがその「賣込み」の爲のメディアであるならば、より良い「賣り文句」を書く事は大前提であり、「はじめにテキストありき」の考へ方は間違つてはゐない筈。

平成13年6月14日

氣違ひが異常な行動をとるのは、迷惑だが仕方の無い事だ。しかし、常人が異常な行動をとるのは、より迷惑であるし、許し難い事である。

そして、世の中、常人が異常な行動を取る事の方が多い。


能力を持たないのは罪ではない。持てる能力を使はないのが罪なのである。

平成13年6月14日

あのね、ここだけの話なんだけどね。私の自作したISO-HTMLバナーはコピー自由、改變自由、貼りつけ自由なんだよ。誰か使つて呉れないかな。

平成13年6月14日

「tableでデザイン」をされると、マイユーザスタイルシートを適用しても讀みやすくなつて呉れない、と云ふデメリットが生ずるんです。

平成13年6月14日

「私は初心者です」理論を主張する人が、「私は激辛の評価をする人間です」理論(?)を受容れないのは謎。


先に切り札、見せた方が負け

平成13年6月14日

もじら組のHTML文書も、Bugzilla-jpのHTML文書も、まだ斬つてゐなかつたつけ。


もじら組のHTML文書は割とまともな方なので、餘り文句をつける氣にはなりません。

http://www.mozilla.gr.jp/ を HTML4.01 Transitional としてチェックしました。
48個のエラーがありました。このHTMLは 95点です。タグが 19種類 199組使われています。

デフォルトのスタイルシートの種類が指定されてゐないのが痛いくらゐですか。

「tableによるデザイン」と云ふ「問題」は、既に何人かの方が指摘してゐます。

「tableでデザイン」がNetscape Navigatorのデフォルトスタイルに全面的に依存した「實裝依存」の代物である事はPC Tipsで鏤々述べました。その「實裝依存」の「tableデザイン」を率先してもじら組が使つてゐると云ふ事は、Mozilla BrowserがNavigatorの單なるエミュレータとなる事をもじら組が願つてゐるのではないか、と推測する隙をギャラリーに與へてゐるやうなものです。しかし、その推測が「邪推」であるとも言切れないやうな印象を與へる言動をするスタッフがゐるみたいです。もつとも、そのスタッフは、隙を隙だと思はない(許りか、寧ろMozilla Browserを良くするものだと思ふ)でせうから、私に何を言はれても聞入れないでせう。


ばぐじらのソースは是非とも見直して貰ひたいもの。leftだのrightだのと云つたclass名があるのも美しくありませんが、pとnoscriptの入れ子關係に間違ひがあるのは明かに問題。あとは、「トピックス」の中はulとpで記述するよりもdlで記述した方がすつきりするやうな氣がします。

Bugzilla-jpのCGIの吐く、非常に美しくないHTML文書にも文句を言ひたい。「文字コード」を指定するmeta以前に2バイト文字を使つたtitleを記述するやうにしてゐるけれどもそれは變だとか、そもそもCGIならHTTPヘッダで文字コードを指定しろとか。


異樣なまでに迅速なつつこみ。ありがたうございます。

Content-Typeにcharset書いてありますぜ。

「charsetの情報を無駄にダブらせて送るな」とか、抵抗してみたりして。


追試。

あれれ、ソースを表示してみよう @ CGI の小部屋でBugzillaのCGIがどんなデータを吐いてゐるかをチェックしたら、こんな結果になつたよ。

1: : HTTP/1.1 200 OK(LF)
2: : Date: Wed, 13 Jun 2001 19:16:30 GMT(LF)
3: : Server: Apache/1.3.20 (Unix) tomcat/1.0 PHP/3.0.15-i18n-ja(LF)
4: : Connection: close(LF)
5: : Content-Type: text/html(LF)
6: : (LF)

charsetが出力されてゐないよ?


テストは續く。

HEADとGETで挙動が変わると言う噂。

ていうか、ソースにはしっかりprint "Content-type: text/plain; charset=EUC-JP\n\n";とかかいてありますぜ。

うぐう。

……。

「そーすか」とか言つてみたりして。(落ち)


Proxyでチェキ。


まとめ。

お早う鯨〜。


なんでブラウザでHTTPヘッダが見られないんだよう。

當該「ウェブページ」(Microsoft用語)のHTTPヘッダをInternet Explorerからチェック出來るやうなスクリプトは作れませんかねえ――とか言つて話をMakotoさんに振つてみたりする。

平成13年6月14日

XML宣言で激しくEUC-JPを主張してゐるえすともさんのサイトを文字化け表示して呉れるうちのInternet Explorer 6 Preview Releaseくんの擧動は正しいのでせうか。


.htaccessにDirectoryIndex index.cgi index.htmlとか書いているのでトップページの実体はindex.htmlではなくてindex.cgiです。CGIなので、Content-Type: text/html;charset=EUC-JPとか出力してるんですが、駄目っすか?

もじらくんでは何の問題もないのですが、IE6くんで化けらつた状態です。

それにしても、code要素の角が丸い。


化けなくなりました。

平成13年6月14日

gooのパロディ。

I love ISO-HTML!

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