瞬間

「あんこくにっき」も「やみくもにっき」もここにはありません。

平成13年6月13日


この手の「言葉の誤用」を指摘されると、物凄い勢ひで怒り出す人が多い(やうに思はれる)が、言葉遣ひを注意された事がないからだらう。困つた事である。

平成13年6月13日

平成13年6月13日

掲示板で困つた發言をする連中は皆、鬱病なんぢやねえか、と思つた私は、恐らく樂天家。

平成13年6月13日

昨日、インターネット紋切型辭典 か行からT.M.Nに65件のアクセスがあつたみたいなのだが、と云ふ事はインターネット紋切型辭典自體にそれなりのアクセスがあつた筈。どこから見に來たのだらう。

平成13年6月13日

iciさん@Noise、ISO-HTMLに轉ぶ。(見事に僞ISO化されたNoise)

平成13年6月13日

さつき、ごみ捨てに出た母親が「歩きながら木や塀に飛びついたり、自轉車に乘つてゐる人に因縁をつけたりしてゐる人が今、家の前を通つた」と、恐がりながら戻つて來た。


コンビニ店員が「萬引をした高校生を警察に引渡したら、親からクレームが來た」と新聞に投書してゐた。この親にしてこの子あり、と云つた觀がある。

さて、昨今「氣違ひの犯罪」が注目を浴び、「氣違ひ」に責任をおつ被せようとする風潮が生じてゐる。しかし、人に責任を取らせる事は屡々問題の本質的な解決にならない。斯る風潮が即座に實行に移らないゆゑんだが、かといつて人は問題の本質的な解決を面倒がつて滅多にやらない。

「氣違ひ」が異常な行動を取るのは理性による抑制が缺落するからだが、「氣違ひ」であつても、きちんとした指導があれば、常人以上のききわけを示すし、異常な行動の抑制をするものである。

高校生も、親がしつかりゐればさうさう萬引きはしない。それと同じで、「氣違ひ」も、周圍の人間がしつかりしてゐれば、さうさう異常な行動を取らない。「世の中が惡い」と云ふ不良や犯罪者の「指摘」は、案外當つてゐる。

平成13年6月13日

あ、熱が38度ある。どうりでしんどい筈だ。

お大事に。私は一日寢てゐたら癒りました。

平成13年6月13日

昨日の「議論」を獨立したコンテンツに再構成するとしたら、「ひらしょーさんを斬る」ではなくて「もりりんさんを叱る」と云ふ題名が附けられるべきであります。「『文章讀解の問題』の題材としてひらしょーさんの日記が採られてゐる」のであり、もりりんさんとの「議論」に「ひらしょーさんを責める」と云ふ意味合ひはありません。ひらしょーさんがお詫びなさる必要はございません。


「CSSコミュニティ」の人の主張も、「不思議マークアップ」を用ゐてゐる人の主張も、マークアップと云ふ觀點を除いた部分(「中身」)に關して、私は差別なく判斷しようとする。だから、ひらしょーさんの發言を「斬つた」のだが、ひらしょーさんの多くの發言は全うであるし、ひらしょーさんの發言は全體としてまともである、と私は思つてゐる。

HTMLとスタイルシートとを區別してゐる事と、全うなものの言ひ方をしてゐる事とは、直接關係がある譯ではないし、CSSリンク集に登録してゐるサイトの中には變な事を言つてゐるウェブマスターもゐない譯ではないが、「不思議マークアップ」を無意識に使つてゐる人々における變な人の割合よりは「CSSコミュニティ」における變な人の割合の方が小さいと思つてゐる。

ただ、「CSSコミュニティ」だからといつて變に贔屓したりはしない、と云ふだけの話。「CSSコミュニティ」を「仲良しクラブ」にしても仕方がないと思ふ。もちろん、「内部」の人間は居心地が必ずしも良い譯ではないが、そもそも「CSSコミュニティ」自體、それほど結び附きが強い譯ではない、曖昧な集團なのだから、「内部」と「外部」とをはつきり區別する事もなからう。

平成13年6月13日

中學・高校・大學の入試で出題される「國語」或は「現代文」の長文讀解の問題は本當に解けるのか、と云ふ疑問を持つ日本人は非常に多い。だが、「國語」「現代文」の長文讀解の問題は確かに解けるのである。

「受驗テクニック」は案外馬鹿に出來ない。受驗の「國語」で要求されるのは、日本語の文章を正しく讀み解く能力である。

平成13年6月13日

>XとYと云ふ相反する主張がある時、Xが非である事を述べ、
>Yを支持すると表明した時、その人はYを推奬してゐます。

私はそうは思いません。
例えばXとして「春が好き」、Yとして「春が好きではない」を考えた時、
ある人が「私は花粉症だから春が好きではない」とYを支持したとしても、
その人は「他者がYを支持しなければおかしい」という結論を出してはいません。

その例はをかしい。

ある人が「春を好きになる理由はない」と言つて「私は、夏、秋、冬が好きである」と言つた、と云ふ例を出すのならば、ひらしょーさんの主張と關聯が見出せるが、私は花粉症だからなる理由が提示されたこの例は、ひらしょーさんの主張と何の聯關もないものとなつてゐる。はつきり言つて「それとこれとは話が別」である。

ある人が「春を好きになる理由はない」と言つて「私は、夏、秋、冬が好きである」と言つた場合、その人は「夏、秋、冬を支持しなければをかしい」と言つてゐるも同然である。


もりりんさんは、「ひらしょーさんと私の議論」と云ふ文脈を無視するが、さう云ふ「一般論」化をされても困る。


別の切り口から「ひらしょーが偏見はお互い様だろうと開き直ってはいない」
ということを論じたいと思います。
ひらしょーの意見は
「私はこういう理由でAを支持する」
「AとBのどちらが正しいとも言えない。」
です。後者を言うために、βを挟んでいます。
このβは、「Bを支持する人には”理由がない”ではなく”理由がある”である」
という意味です。
Bを支持する人の理由が「偏見ではない」か「偏見である」は論述されていません。
野嵜さんが

>言つてゐる本人(=ひらしょー)が「偏見はお互ひ樣だらう」と開き直

っていると結論付けているのは、直後の
「AとBのどちらが正しいとも言えない。」
という文がβに与える意味を無視しています。

Bを支持する人の理由が「偏見ではない」か「偏見である」は論述されていませんともりりんさんはおつしやいますが、が、名→姓派の人もこれと同じ程度に確からしい理由を考えているでしょうこれと同じ程度には「オレの偏見と同じ程度に」と云ふ事ですから、ひらしょーさんは「名→姓」を支持する人の理由を「偏見である」と論述してゐるのであります。


”AだからBである”という文章は”CだからDである”と言い換えができる。後者は明らかに間違いだから前者も間違いである、と云ふ論法を私(野嵜)は用ゐてゐるのではないか、ともりりんさんは疑つた(そして、疑ふ時に人は一種の確信を持つてゐなければならない)が、寧ろその論法はもりりんさん自身の論法であるやうに、私には思はれる。人は自分を否定すべき文句でもつて、他人を罵る。

平成13年6月12日

そもそも、「私見」と「獨斷」とを混同するのはなぜか。その上、兩者の意味をつまみ食ひして、自分に都合の良いイデアに仕立て上げるのはなぜか。

平成13年6月12日

取敢へずでつち上げ。

平成13年6月12日

「”AだからBである”という文章は”CだからDである”と言い換えができる。
後者は明らかに間違いだから前者も間違いである」という論証の結論が
正しいか否かを考える。
1)「”AだからBである”という文章は”CだからDである”と言い換えができる」
という部分には論理的な飛躍がある。
2)「後者は明らかに間違い」
という部分に論者の主観が入っている。
ゆえに上で述べた論証は正しくない。
ここにおいて私は、”AだからBである”という話題と”CだからDである”という話題は
話が別である、とは論述していない。

それでは餘計、もりりんさんの言つてゐる事は異常だ、と云ふ事になります。自己申告ほど當てにならないものはないが、自己申告によつて、自分が異常である事を證明してはいけないでせう。

なぜなら、もりりんさんは今、AだからBであるCだからDである言い換えができるとは、AだからBであるから論理的な歸結としてCだからDであると云ふ結論を導く(或は逆)と解釋してゐるからであります。そんな馬鹿な話はない。そのくらゐは私にもわかる。

そもそも、言い換えができるとはもりりんさんの言ひ方であり、もりりんさんが私の論法をそのやうに「決めつけ」ただけであります。だが、さう云ふ異常な意味での言い換え論法を私は使つた事がない。”AだからBである”という文章は”CだからDである”と言い換えができる。
後者は明らかに間違いだから前者も間違いである
、ではなく、「『AだからBである』の推論と同じ方法で『CだからDである』と云ふ推論は可能である、が、その『CだからDである』と云ふ推論はどう見たつて誤つてゐる、と云ふ事はその『AだからBである』のBを導いた推論の方法自體が間違つてゐる」と言ふ論法を、私は使つてゐるのであります。

もりりんさんのやり方は「論破する爲の愚論をでつち上げて、論破する」と云ふ、低級極まるものである、と云ふ事になります。これは、「それとこれとは話が違ふ」よりも質の落ちる、或は質の惡い「反論」です。もりりんさんの言つてゐるのは「増しな反論」の方であらうと推測したのは、私が御人好しであるからかも知れません。

ひらしょーが第三者に「姓→名」を勧めているのなら態度は同一であると言えるが、
ひらしょーは「姓→名」を支持しているだけであるので態度は同一とは言えない。
ゆえにこの論証は正しくない。

XとYと云ふ相反する主張がある時、Xが非である事を述べ、Yを支持すると表明した時、その人はYを推奬してゐます。この場合、Xの禁止はYの推奬であります。論者が、「Xを支持する理由はない」と言つた時、その論者の論理は「他者がXを支持する」事を否定し、即、「他者もYを支持しなければをかしい」と云ふ結論を導くのであります。

そして、10日〜12日の記事で、私はひらしょーさんの文章の、肝心要の部分、名→姓には惰性以外の理由がないし、を引用してゐます。

もりりんさんの大前提は「『姓→名』の推奬」ですが、私の大前提は「『名→姓』の否定」です。もりりんさんは、「自分に都合良く私の論理展開を歪めてゐる」と言へます。私の結論を否定する爲には、私の大前提を無視してはなりません。

○○が人物Aの個人の偏見であるということからは、
人物Aが「偏見はお互い様だろう」と開き直っているかどうかは論述できない。

重要なキーワード、「だけ」が脱落してゐます。また、「6月10日及び12日の記事」と云ふ文脈を無視してゐます。そして、もりりんさんはオリジナルのひらしょーさんの文章を無視してゐます。

まず第一に他のアジアな国の連中が姓→名のままであること。第二に音として自分は姓→名という名前であるように育っていること。第三に、特に理由がない場合にはより労力の少ない場合が善であるという私の感覚からして、ひっくり返すことに相当な根拠がないならば「敢えて」ひっくり返さない方が善であろうということ。第四に、そもそも「ひっくり返す」という発想が生まれなければ今日の混乱はなかったであろうということ。第五に名前をひっくり返すことが相手の文化を尊重する行為とは思えないこと。第六に西洋人は中国人などの例で姓→名の順の名前があることをすでに知っており、そこで日本人だけがひっくり返すのは無用な混乱を増やすだけではないかと思うこと。第七にどうせ最初にやった奴は西洋かぶれの考えなしだったんじゃねえのとオレが思っていること。以上の理由から姓→名を支持します。が、名→姓派の人もこれと同じ程度に確からしい理由を考えているでしょうから、私は対外的に「こちらが正しい」と主張する気はありません。

これだけ執拗にひらしょーさんが「自分は」「私は」「……と思う」と繰返し言ひ、剩へオレがと強調してゐるのですから、「姓→名」をひらしょーさんが支持するのは、ひらしょーさんの個人の偏見である事は明かであります。

そのあと、ひらしょーさんは、が、名→姓派の人もこれと同じ程度に確からしい理由を考えているでしょう、と言つてゐます。この「推測」に、から、がくつついてゐるのに我々は注目しなければいけません。「AだからB」と言ふ時、確實なBと云ふ結論を導く爲には、Aと云ふ前提條件が確實でなければなりません。しかし、ひらしょーさんは名→姓派の人もこれと同じ程度に確からしい理由を考えている事の確實性を全く證明出來ません。だから、でしょうと云ふ推測の形でしかひらしょーさんは前提條件を記述出來なかつたのであり、にもかかはらず、推測を確實性の要求される大前提に用ゐようとしてゐるのだから、ひらしょーさんはここで開き直っている、と言切れるのであります。

○○が人物Aの個人の偏見であるということからは、
人物Aが「偏見はお互い様だろう」と開き直っているかどうかは論述できない。

もりりんさんは、必要な他の條件を削つて、必要條件の一つだけを抽出し、「これは必要條件であり、十分條件ではない」と言張つてゐるのであります。必要條件を一つだけ拔き出し、結論と直結させると、いかにももつともらしい愚論が出來上るのですが、所詮「愚論のでつち上げとその論破」と云ふ論法でしかないと云ふ事に、變りはありません。


他人の文章を批判する時に、私はこのくらゐの分析はします。他人樣の文章を斬る時に、私が安易なやり方をしてゐる、と思はれては困る。「他人の文章を斬るのは無作法だ」、と云ふ批判をされる事があるけれども、「少くとも私は好い加減な態度で他人の文章を批判してはゐない」と云ふ事だけは納得して貰ひたいものであります。

平成13年6月12日

論理學とは何か、ではなく、論理學を武器としていかに使ふか、と云ふ事を解説した「實用書」であるやうに思はれる。餘り「論理學入門」としては、よろしくないのではないか。

平成13年6月12日

ANIMAXでやつてゐる「ルパン三世」を見た。今囘はストーンヘンジから出土した遺物の奪ひ合ひがテーマ。

話は行當たりばつたり、ネタは詰込み過ぎ、人は無意味に死んでいく。ラストはルパンが「これが遺跡の祕密だつたんだ」と言つて、UFOと「未知との遭遇」してしまふのだが、それでお終ひ、フォローなし。

非道いよ。


今のアニメが低レヴェルである事を指摘する人がゐるけれども、嘆くには當らない。昔のアニメも非道かつた。

平成13年6月12日

今年の夏風邪は、一日寢ると癒るみたいです。


ありがたい事に、Bookmarkして下さつてゐる方から御聯絡をいただいてをります。

それにしても、「瞬間」を閲覽するのに、どこからアクセスする人が一番多いのでせうか。私個人はkotobaseekのてつぺんのアンカーから入って見る事が多いのですが。「別館」のトップページ(どこ?)から辿ってくる人は恐らく皆無。

平成13年6月12日

「人格攻撃はやめろ」と主張する連中が、「あんたの意圖はお見通し」と云ふ態度を取るのは異常。相手の意圖を勝手に決めつけるのが、相手の人格を否定する行爲である事に氣附いてゐないからだ。しかも、さう言はれると「お前だつて相手の人格を否定してゐるぢやないか」と言返すのだから、連中はますます異常。

「『人格否定』否定派」が他人の人格を否定しようとするのは、態度が一貫してゐないから、文句を言はれて當然である。しかし、我々「『「人格否定」否定』否定派」(≠「人格否定派」)が他人の人格を否定しても、その態度は一貫してゐるのであり、その限りに於て、文句を言はれる筋合ひではない。


自分の取る立場に矛盾しないやうな言動を心掛けて呉れ、と云ふ事。

平成13年6月12日

つまり野嵜さんのツッコミはもう「姓→名」「名→姓」に対してではなくてひらしょーの文章の書き方に対してだと思う。だからひらしょーの「言い訳」もなんか的を得ていない。一方、野嵜さんの論法も何かおかしい。「”AだからBである”という文章は”CだからDである”と言い換えができる。後者は明らかに間違いだから前者も間違いである」という論法を多用しているような気がするのだが、これは同じく野嵜さんの意見「”私にとっては”という語を省略することで一般論のように話を進める、というのは好きじゃない」で言うところの「好きじゃない」文章の書き方では?

文章の書き方と言へばさうですが、寧ろ、文章の背後にある論理に私は注目します。私は議論の際、「前提の正しさ」はひとまづ置いておいて、「論證の正しさ」を問題にします。論證の過程に、論理的な飛躍や、誤魔化し、恣意的な判斷、單なる間違ひ、と云つたものがある時、前提が幾ら正しからうと、結論は正しいものたり得ません。

論證の過程に私は興味があるのですから、推論自體の方法を私は否定するやり方を屡々取ります。

「”AだからBである”という文章は”CだからDである”と言い換えができる。後者は明らかに間違いだから前者も間違いである」という論法をもりりんさんは問題視しますが、もりりんさんの言ひたいのは、「それとこれとは話が別」と云ふ事でせう。しかし、AだからBであるの「だから」と、CだからDであるの「だから」と云ふ語に私は注目してゐるのであり、AだのBだのCだのDだのと云つた具體的な事物には注目してゐません。私の論法を否定するもりりんさんの方こそ、「それとこれとは話が別」なのであります。

私は推論の方法自體に問題がある事を指摘し、論者の結論を否定してをります。もりりんさんに限らず、論證の過程に潛む論理學的飛躍の問題を閑却し、表面的で具體的な事物の問題だけに注目しようとする「唯物論」こそ、私の好むところではありません。と云ふか、もりりんさんの指摘に問題のある事は、もりりんさんの文章が疑問文であるのを見れば「自明」であります。「それはいかがなものか?」は論證ではありません。


嘗て「南京大虐殺」論爭で、「南京大虐殺は無かつた」し、「南京大虐殺が假にあつたとしても、問題視されるべき事は何も無い」と言つたところ、「南京大虐殺あつた派」の某氏が「野嵜は矛盾した事を言つてゐる、野嵜は馬鹿だ」と嗤ひました。しかし、嗤つた某氏自身が馬鹿であります。「南京大虐殺」と云ふ問題の「前提條件」も「論證」も間違つてゐる、と私は指摘したのであり、それを理解出來なかつた某氏は、單純に論理學の常識を知らなかつただけなのであります。

論理學の常識を知らない人間と、論理的な話し合ひは絶對に出來ない。

平成13年6月11日

Netscape 6の技術文書。

平成13年6月11日

ウィンドウサイズをリサイズされるので要注意。

「絶版書評」のトップに『私の國語教室』が。

平成13年6月11日

まだ終らない名言シリーズ。


元ネタ、わかるかねえ。

平成13年6月11日

「支那人」と「中國人」に關する資料を頂戴しました。

4月は暇が出來るので、詳しく調べます。

まだ調べてゐません。ごめんなさい。

平成13年6月11日

「段落アンカーを斬る」とか云つた記事を書いたら、非難轟々でせうね。

平成13年6月11日

これは私への挑戰だな。

平成13年6月11日

これは拙いよ、ミヤザキさん。

たくさんへ

「矛盾」は常にはらんでいます。矛盾がないようにと思っていても「矛盾」が生まれてしまいます。

自分はその権利を行使するが、他人は行使すべきではないと読みとれます。

自分の権利を主張したまでのこと。他人は自分が考え、自分の行動をするわけだからどうしてそのような人に僕が申し上げられるのでしょうか?

「矛盾」と指摘なさるたくさん、もしやあなたにもその「矛盾」が潜んでいること、自らを振り返って下さい。

なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て、とイエスは言つた。なんぢらの中、矛盾なき者まづ我を批判せよ、とミヤザキ氏は言ふ。姦淫の罪を犯した女は、罪を許された。ミヤザキ氏もその女と同樣、罪を問はれない筈だと、自分の口で言つてゐる。

イエスはその女が再び罪を犯すであらう事を知つてゐた、と松原正教授は指摘してゐる。ミヤザキ氏は、自分が再び間違ひをやらかす事を豫期しない。


「お前だつて間違へるだらうに」は、言ひ譯にならない。それは引かれ者の小唄である。

平成13年6月11日

「闇黒日記」と「瞬間」と、どつちの方が良い名稱だと思ひますか?


と云ふか、http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlを直接bookmarkしてゐる人は、ゐますか。

平成13年6月11日

ようは、「無かったものを造る」ことだけを追い詰めてしまえば、ヘタクソなアヴァンギャルドになってしまい、珍奇なのだ。

「ほーむぺーじ」の大半はアヴァンギャルドですな。

WWWで流行るもの、汝の名はアヴァンギャルド。

平成13年6月11日

小説を書くリハビリを開始。まづ會話から。

平成13年6月10日

また、國語審議會は、日本名のローマ字表記について、從來使はれてきた「名・姓」の順番でなく、「姓・名」の順で表す事を標準型として提案する考へも固めた。

「姓・名」の順こそが「本來の順」だと主張する邊り、國粹主義の臭氣が漂ふ提言である。朝日新聞が率先して「本來の順」を支持する邊り、日本國の右傾化は末期段階に入つたものと考へられる。

丁度一年前に、こんな嫌みな事を言つてゐやがるのを發見。

平成13年6月10日

CSS關係の某集團で使はれてゐるのは「見出しアンカー」と呼ぶべきなのですかねえ。「ウェブ日記」の世界は難しいですね。ちなみに「瞬間」は「ウェブ日記」ではないので、「段落アンカー」も「見出しアンカー」もありません。

「瞬間」の記事の參照方法ですが、實はhttp://isweb2.infoseek.co.jp/~noz/diary/にリンクを張つて、日附を明記する、と云ふのがベターなやり方だつたりします。

平成13年6月10日

 「両方同じくらい根拠があるならば、(どちらが正しいと主張することの説得力においては) 両方に(根拠が)全くなくても同じだということになります」

のように、括弧内が省略されていたということでどうでしょう。一応私だって考えてます。

議論は、出發點を見失つた瞬間に、混亂に陷る。と云ふ譯で、ひらしょーさんの自己辯護の原點である最初の發言に戻つてみる。

ローマ字表記は名が先か、姓が先か。どっちでもいいが、どっちでもいいとすると向こうの人が混乱するので、どっちかにした方がいい。そう考えれば数の多い名→姓が勝ちだということにもなるが、気分としては音通りの順序である姓→名を押したい。発音は「え」だけど表記は「へ」、みたいなもんだと言われればそうだが、声に出して言われるとやっぱり違和感があるのでオレはひっくり返すのは嫌いなのである。それに、どちらにも同じ程度に根拠があるのであれば、ひっくり返すという動作が伴う分だけエネルギーが余分に必要なわけで、つまりひっくり返さない方が勝ちである。よって国語審議会の決定は歓迎。しかしこんなことで議論をする気にはならない。名→姓には惰性以外の理由がないし、かといっていまさら姓→名に切り換えろというのもムチャな話だ。

最初のどちらにも同じ程度に根拠があるのであればは假定であつて、ひらしょーさんは「どちらにも同じ程度に根據がある」と言ひ切つてはゐない。ただひらしょーさんは名→姓には惰性以外の理由がないしと斷定的に述べてゐる。

「惰性」が屡々極めて強力な根據となる事は、私にとつては自明の事ではあるが、ひらしょーさんにとつては自明の事ではない。寧ろひらしょーさんは、「惰性しか根據がない」事を以て、「『名→姓』が根據薄弱である」と主張してゐる、と言へる。

そして、ここが問題の文章。

 名→姓にも根拠はあるでしょうし、姓→名にも根拠はあるでしょう。しかし、今現在私にはどちらがより正しいという判断を説得力のある形で下すことはできません。よって、両方に同じくらい根拠があるなら、両方に全くなくても同じだということになります。どうせ多数決でしか決まらないタイプの問題ですから、わざわざ根拠をあみ出すのも面倒でしょう。ただ根拠なく好みで私は姓→名にしようと思うだけです。もちろん好みでといいつつも自分が信じる根拠は当然なにかしらあるわけですが、それが名→姓派の根拠よりも高等である自信はないので、それを「根拠ない好み」と言うことで議論を打ち切っているわけですね。つまり、逃げです。

日本語の文章特有の、「主語の省略」がここにある。それが問題なのであります。

「私はどちらが正しいかを説得力を以て主張する事が出來ない」だから「兩者が根據を持つと云ふ事も、兩者が根據を持たないと云ふ事も、私にとつては同じだ」、とひらしょーさんは言つてゐるのだが、ここでひらしょーさんは無意識に「私にとつては」を拔かしてゐる。しかし飽くまで「私にとつては」の議論が、「私にとつては」と云ふ語を抜かす事で、一瞬の内に一般論に轉化してしまつてゐる。換言せば、個人的な「判斷の抛棄」が、一般的であり當然なされるべき事であるかの樣に言ひくるめられてしまつてゐる。

そして、その「判斷の抛棄」を一般的であると云ふ事にしてしまつたひらしょーさんは、安心して自分の好みを滔々と述べ始める。それが欺瞞だ、と私は言ひたいのであります。


だつて、「ほーむぺーじ入門」を書く人と、同じ事をひらしょーさんはやつてゐるんですからね。「初心者だから難しい事は分からない」から「間違つてゐても當然」と開き直り、みんなやつてゐる事だからと言つて「物理マークアップ」を素人に教へ込む「ほーむぺーじ入門」作者と、「自分はどちらがより正しいのかを判斷出來ない」から「根據を提示出來なくても當然」と開き直り、日本人も他のアジア諸國でも「姓→名」だからと言つて「姓→名」を支持するひらしょーさんの態度は同一です。

キーワードは「混亂」。「混亂を避ける爲」と云ふ現状の絶對化が、無謬のテーゼと化してゐる。もし本氣で「混亂を避けたい」と思つてゐるのならば、人は默るしかない。そして、何が本當に「混亂」の原因になつてゐるのかを、考へない人が多過ぎる。ひたすら目先の「混亂」を叩き潰す事のみにしやかりきになつて、混亂の淵源を見ようとしないし、精々罵倒して氣晴らしをするのが關の山である。

第七にどうせ最初にやった奴は西洋かぶれの考えなしだったんじゃねえのとオレが思っていること

オレが思っていることと云ふ「個人の偏見」がおほつぴらに主張され、言つてゐる本人が「偏見はお互ひ樣だらう」と開き直る――これは異常な事ではないか。「俺は偏見を根據に物を言つてゐる、だからお前も偏見に基いて物を言つてゐるに決つてゐる」と云ふ「理屈」が、なぜか日本では通用する。この「理屈」が異常な餘りに異常なものである事を、なぜ誰も氣附かないのだらう。

以上の理由から姓→名を支持します。が、名→姓派の人もこれと同じ程度に確からしい理由を考えているでしょうから、私は対外的に「こちらが正しい」と主張する気はありません。そういう意味での逃げです。考えてないというわけではありません。だって、このネタで議論しても別に得しないんですもの。

そして最後に「私は逃げてゐるのであり、逃げてゐるのだから『逃げてゐる』と云ふ批判を受ける筋合ひではありません」と云ふ、例の「私は初心者です」理論を髣髴とさせる言ひ譯が再び繰返される。

散々相手方の主張に嫌みを言ひ、扱き下ろした擧句、自分の責任を囘避しようとする根性が、ひらしょーさんの文章には顏を見せてゐます。しかし、自虐を根據に相手を自分のレヴェルに引きずり下ろさうとする根性は、極めて卑しいと言へませんか。「俺は謙遜してゐるんだ、だからお前も謙遜しろ、ほら見ろ、お前も俺と同レヴェルだ」と云ふ言ひ方は、極めて傲慢なもので、謙遜と無縁であります。

平成13年6月10日

私は、本當に利益になるのかどうかを全然考慮してゐないくせに、相手を默らせる爲に取敢へず功利主義を主張する人間が大嫌ひなのだ。


「現實的」「現實的」「現實的」。そんなに現實が正しいのかね。「仕方がない」で濟ませれば良いと言ふものなのかね。もし「然り」と答へるのならば、君は沈默するが良いのである。


ちなみに私は、辯解する態度は好ましいと思ふけれども、直ちに自己辯護の内容が正しいと判斷するほど御人好しではありません。

平成13年6月10日

平成13年6月10日

よって、両方に同じくらい根拠があるなら、両方に全くなくても同じだということになります。

「喧嘩兩成敗」ではないのだから、同じと云ふ事にはならないと思ふ。それに、つまり、逃げです。と言はれて、逃げちやいけません。

しかし何も考えないよりはましです。

と云ふ發言と矛盾してしまひます。「考へる方が増し」だが「考へないで逃げる事もある」では困る。

それから、Piroさんとひらしょーさんなら、まともな議論を成立して見せて呉れるかと思つて煽つてみたんですが、やつてみて下さいませんか、駄目ですか。

平成13年6月10日

キリスト教社會でなぜ自由が尊重されるかと云ふと、逆説めくが、自由が大事ではないからである。

裕福な生活を送る事も、親や家族と共に暮す事も出來る、樂な生き方をする事も出來る、にもかかはらず信仰を選ぶ、色々な生き方の中から信仰を進んで選び取る、と云ふ所に、キリスト教は價値を見出す。自由に選べる中から、より不自由なものを選ぶ、と云ふ事が重要なのである。

信仰の道を選んだ者に、自由なるものがどれ程の價値を持つだらう。全うなクリスチャンなら、自由を呉れ等と甘えた事は言はない筈である。イエス・キリストの生き方を見れば、甘つたれた事を言へる筈がない。しかし、日本のクリスチャンは、屡々センチメンタルな事を言ふ。日本のクリスチャンは、實は神道の信者でしかないのである。


日本のクリスチャンにプロテスタントのファンが多いのは異常。神は決して誤りを犯す事はないが、人間は誤りを犯す事がある。ならば、地上に於る神の代行者である教會が誤りを犯すのは當り前なのであり、その教會にプロテストすると云ふのは無意味なのである。

本質的にプロテスタントには怪しいところがあると私は見てゐる。そして、西歐のプロテスタントがカトリックに對抗するだけの勢力を持ち得たのは、本質的にカトリックの功績であらうとさへ思ふのである。教會制度を否定したプロテスタントが教團組織を再構築する際、カトリックの組織を參考にした、と云ふのは餘りにも有名な事實である。しかし、寧ろ、プロテスタントの激しい攻撃と批判を受けても崩れないだけの、しつかりしたカトリックの教義が成立してゐた事實の方が重要であるし、日本人にとつては教訓ともならうと思ふ。

プロテスタントの「抵抗」と云ふ側面を美化し、ロマンを感じてゐるだけではどうしやうもない。


プロテスタントのみならず、科學、或は近代の合理精神と云ふものが、不合理の權化とも言ふべきカトリックの傳統からしか生れなかつた、と云ふ事に、我々日本人はもつと注目すべきである。知識を後世に傳へる事はアラブ人にも出來たし、技術を應用するのは日本人が得意とする所であるが、科學、思想と云つたものをトータルに纏め上げ、近代と云ふ確固たる文明社會にまで仕立て上げてしまつたのは西歐だけである。

或は、2000年に亙つて、攻撃され、批判され、否定され續けて來たにもかかはらず、教義を崩さず、未だに支持されてゐるカトリックを、迷信と決めつけたり、嘲笑の對象としたりするだけで良いのか。私はキリスト教を信じないが、熱心なカトリックファンである。

平成13年6月10日

俺もこの手の「お言葉」が好きだねえ。

平成13年6月10日

速報2 これが次期JIS X 0208の改正ポイントだ! 一目でわかる対応表を公開 小形克宏の「文字の海、ビットの舟」――文字コードが私たちに問いかけるもの

平成13年6月10日

PCを蹴る時は、HDDのアクセスランプが點燈してゐないのを事前に確かめる事。


今使つてゐるPCもモニタも、苛めた事はありません。

平成13年6月10日

「愛國心」は右翼の專賣特許だと思つたら大間違ひ。フランス革命當時、國王支持の右翼に對抗する左翼のフランス人は「俺たちは王を愛するのではない、國を愛するのだ」と主張したのである。『愛國心』(清水幾太郎著・岩波新書)を讀む。

現存制度を擁護する事によつて愛國的義務を果さうとする立場も、現存制度に攻撃を加へる事によつて愛國的義務を果さうとする立場もあり得る、その際、兩者は互ひに相手を國賊、非國民、賣國奴と罵つてはならない、各自が合理的と判斷した方法を選ぶ事を許すのが民主主義である、と清水は述べる。

近代の愛國者は、愛國心を獨占せぬことを以て重要な資格とする。自分だけを愛國心の持主と考へ、意見を異にするものを國賊或は非國民と考へ始めるや否や、彼は忽ち未開社會のメンバーになる。彼は、民主主義が愛國心に與へた合理化のコースから脱落してゐるからである。彼はその内部に潛む原始人の魂の壓力と誘惑との前に膝を屈してゐると見なければならぬ。

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