「あんこくにっき」も「やみくもにっき」もここにはありません。
凄えといつたら、ねこら対策秘密力研究要塞本部基地も凄えです。
名言シリーズ。
美夕TV。CVは岸田今日子さん。
不思議マークアップ。それは、ウェブを蝕み、
滅びへと導く妖しの「もの」。
いつの頃か、
彼らは闇の世界へと封じられた。
だが、闇からはぐれ出た不思議マークアップは、
今もウェブに隠れ住み、
TransitionalとStrictのはざまにうごめいてゐる。
不思議マークアップを、
再び闇の世界へと歸す、監視者。
それが、美しきValidator、W3C子。
その素顏を、誰も知らない――。
決め臺詞。CVは長沢美樹さん。
不思議マークアップよ、闇へ!
名言シリーズ。
美夕OVA。CVは納谷悟朗さん。
かつて、マークアップとオーサリングは一つの存在だつた。
彼らは遠い記憶の淵に封じられた。
獨占を狙つたユーザエージェントがそれをなさしめたのだ。
假に、それらをウェブデザインと言はう。
今、彼らは眠りより醒め、結集の時を迎へた。
JavaScriptとウェブデザインと、ユーザエージェントが集ふ最後の夜。
そこに、一人の少女が紛れ込んだ時、
物語は始まる。
サーヴィス終了。景氣の惡い話。
次囘もサーヴィス、サーヴィスぅ。
2001年5月30日 @ 人間城の主な日々→異体字 2001年5月31日 @ ねこめしにっき→Cocoa ってみた。2001年5月31日 @ ねこめしにっき
Mac凄え。お調べして下さつたお二方に感謝。
ありみかさんの調査は、プログラミング的な側面から使用方法を。
言語美術研究所さんも調べて下さつてゐます。ありがたうございます。
こちらは、國語學的見地からの考察。
苦笑。
■いい加減日本マーケットが危うくなってきたので、案6:ディズニー映画「水戸黄門」。舞台は宇宙。王子が助さん覚さんとロボットに乗って悪者懲らしめに行脚。
ディズニー映画「水戸黄門」別案。ミトは一見小學生なのに子持ちの宇宙海賊。息子は宇宙パトロールの女の子とラヴラヴになった擧句、ラストで王女樣に。
私は面白い本を探したい時、面白かつた本の註や參考文獻の欄を讀み、そこから新しい本をたぐつてゆく。自分では「ネットサーフィン」ならぬ「ブックサーフィン」と呼んでゐるが、これが私の發明なら特許を出願したい。註や參考文獻は、書物のリンク集である。
……と、木村さん。私の讀書法もまさにそれであります。
しかし、この手の讀書しかしないと、偶然良い本にぶち當る、と云ふ經驗をさつぱりしなくなります。「ヒモ附きでない本」限定の「舊刊」批評「ちよつと良い本」を作りはじめたら、2册で行詰ると云ふ體たらく。
『人間通になる読書術』書名索引を作成しました。御利用下さい。
ささやかな自慢。私は「相互リンクして下さい」と云ふメールを貰つた事がない。
こちらの方がオリジナルなのですか。
WindowsCE Software Contest 2001 審査結果発表! (WindowsCE FAN Review)
片山さん、アプリケーション / ツール部門賞【部門大賞】の受賞、おめでたうございます。
巨大リンク集。
TMNは文化だった。正確に言うならば、文化になり得る存在であった。
全くです。(謎)
思ひ立つて別館の記事を再編集。しかし、やつてゐる事は、2年くらゐ前に書いた文章の整理と、當時の主張の再生産でしかない譯で、不毛極まる。
はつきり言つて、天皇だとか憲法だとか、教育問題だとか、「南京虐殺」だとか、「從軍慰安婦」だとか、詰り、時事問題や政治問題であるが、さう云ふ事柄に關する文章を批判されたり賞讃されたりしても、餘り嬉しくはない。
HTMLの議論も、「原稿用紙の使ひ方」や「活字の組み方」に就いて言爭つてゐるやうなもの。HTMLには深入りし過ぎたのかも知れない。
ところで今回初めて野嵜氏のさまざまな文章を読んだが、たとえば富塚真弓なんていう、70年代後半に週刊マーガレットを熱心に読んでいたオレみたいな奴以外にはアクチュアリティに欠けるであろう漫画家について正面から論じた文章は新鮮で面白かった。
「少女漫画家論」くらゐしか、襃められて嬉しい文章を書いてゐないので、ありがたい御言葉であります。とは言へ、あれも2年以上前の文章である譯で。
不毛な議論の例。
Port5は、強制バナー廣告がないので、轉送量の制限さへなければ、CSS關係者にはおすすめなのです。
教えられなかったことは「知らない権利」であるという認識がある
、と云ふのはウェブの常識だが、考へてみれば現在の教育は、この「權利意識」を助長するのがテーゼとなつてゐる。何とも嫌な話。
D.D.がこの文書を讀んでゐないとは言はせない。
ホイールマウスのホイールでMozilla browser(Nightly Build)のアンカーポイントをクリックすると、[Open Link in New Window]するとは今迄全然氣附かなかつたよ。
どうでもいいが MacOS X 標準の TextEdit には「旧字体」というメニューがあることを今日知った。なるほど面白い。ただし RTF で実現してる機能らしくて、その結果を他のアプリケーションにコピーしてもダメだったりする。
興味をひかれる記事。
定番中の定番、Political Correctも含まれてゐない譯ですし。
最近、KS miracle Web Directoryのindex.htmlから削つたリンク先に、全然行かない。「何か」が今、どうなつてゐるのか、全くわからない。
「コーランを破つた日本人は許せない」と言ふアラブ人と「コーランを破つたくらゐであんなに怒るアラブ人は怖い」と言ふ日本人とは、永遠に理解し合へない。アラブ人も日本人も、自分の物差しで相手を計つて、疑はない。宗教の問題は、民族が自分たちの尺度で相手を計らうとする所に出來する。
しかし、コーランの教へを絶對的な眞理と信ずるアラブ人と、絶對的な眞理を信じようとしない相對主義の日本人が戰つたら、どちらが勝つであらうか。日本人は、絶對者を戴く分文化を、本質的に理解出來る筈はないが、皮相でも良いから理解する努力をしなければならない。
今週は【第11回】「女はつらいよ 〜恐怖の脅迫電話〜」。氣骨のある記者である。
Dのつく人の發言の本質は、單なる「揚げ足取り」でしかないので、彼の事はもう無視してやつて下さい。まあ、本當に「彼」なのかは知りませんが。肩を落して力無い笑ひ。
PC Tipsというページで、タイトルにはPCとあるが、8割以上くらいをHTMLに関する文章が占めている。内容的には非常に役にたったし、面白かったのだが、なにぶんこの作者が「これでもか!」ってほどひねくれ者だから読みつづけているとブルーになってきた。昔のインターネットによくいた人種である。しかも人のページのソースとか細かい細かいことにケチをつけておいて、「読みにくい」だのなんだとさんざんけなしておいて、自分はめちゃくちゃ旧かなづかいでえらく難しい漢字をやたらと使うのではっきり言ってこっちのがめちゃくちゃ読みにくいのである。この作者が嫌うblinkやmarkieやMIDIやflashと同じく、完全なイヤガラセとしか思えない。しかもわかってやっているからタチが悪い。
「物理マークアップ」が読みにくい
と云ふ事と、正かなづかひが読みにくい
と云ふ事とを、一緒くたにしてはいけない。不正な記述と、體系的な記述とを読みにくい
と云ふ言ひ方で括りたければ、本来のマークアップとはもっともっと有意義であるべきものです。
等と言つてはいけない。默るべきだらう。
しかるに世間には、古式でもなく、發音通りでもない、妙な一種の假名遣をする人がある。すなはち「見へる」「無ゐ」「あらふ」などの類である。「見える」「無い」「あらう」と書けば、發音通りでそして古式にも合するのに、わざわざ讀みにくく書くとは、氣の知れぬことである。
現に著者自身のごときも、若い時分に古式を正式と確信して、かなり研究も積み、實行にも勉め、すこぶる頑固な態度を取つてゐたことがあるために、今では發音通り説に贊成する急進論者でありながら、なほ實際においては、ある程度まで古式を守らねば氣の濟まぬ感情を存してゐる。
と云ふ中途半端な堺であるが、その堺の言ふわざわざ讀みにくく書く
その書き方とこそ、blinkやmarkieやMIDIやflash
は對照すべきものである。
たつ氏に問ひたいが、たつ氏は、事実上の標準
でありさへすれば良いと考へてゐるのか、一貫した體系的なものが良いと考へてゐるのか。
丸きり正反對のものと一緒くたにされて、正字正かな派の私にとつて、たつ氏の發言は完全なイヤガラセとしか思えない
。しかし、たつ氏はその邊りの事が全くわかつてゐないで、善意から發言してゐる積りだから、タチが悪い
。人は自分を否定すべき文句でもつて、他人を罵る。
ウェブのユニバーサルデザインとは、「誰でもわかるやうに、内容の質を落せ」と云ふ事ではないだらう。だから、私は「言葉 言葉 言葉」の略字略かな版を作る積りはない。
少し気になることがあって書き込ませて頂いたのですが、「畧」は俗字ではないでしょうか。
『新釋漢和』(吉田賢抗編)にも畧は俗字
とありますが、うちの師匠が「畧」を使つていらつしやるので、「畧」と書いてゐます。
あれれ、「嵜」が『新釋漢和』に出てゐないよ。
昨日、BOOK OFFで買つて來た『妙高は噴火するか――妙高火山の生ひたちを探る――』(早津賢二著・1990年7月15日初版第1刷發行・新潟日報事業社出版部)を讀終へる。表紙は災害の啓蒙書によくある安つぽい代物だが、中身は上質の火山學入門書。今の妙高火山の姿から説き起して、過去へと遡るスタイル。戰前の創元選書には良く入つてゐたこの手の書物も、今では地方の出版社くらゐしか出版しない。
- ファッキントッシュ
- とくに意味・意図は無い。語感のみ。
1993、4年頃、「Fackintosh」Tシャツを着た大學生を早稻田で目撃しましたよ。證據ナシ。
唐木順三の「外國人のみた日本」(唐木順三文庫7『中世から近世へ』昭和48年5月20日初版第1刷發行・筑摩書房)にも、略字略かなの文獻から引用する際に、表記を正字正かなに改めてゐるとおぼしきものがありますね。
- PC
- Personal Computer, つまりパソコンのこと
- NEC PC-9800シリーズの略称
- Prestressed Concreteの略称
- Precast Concreteの略称
3, 4は冗談であるが(土木/建築用語である)、かつてはPC-9800シリーズのみがPCでありパソコンだったのだという、昔懐かしい話である。
ちよつと待てい。PC-98は「98」。「PC」と言つたら、IBM PCに決つてゐる。「The PC」と呼んで下さい。
「BOOK OFF橋本津久井街道店へ行くと雨が降る」と云ふジンクスは、今囘も破られず。
ところで、ここでは同じ意味だからといって、正かなづかいを旧かなづかいと書いては怒られるんですよね?
「正かなづかひ」と「舊かなづかひ」とは意味が異ります。「正」と「舊」の字に、認識の差が表れてゐます。「舊かなづかひ」と言ふ人は、そのかなづかひが過去のものであり、「現代かなづかい」のやうに「整備されてゐない」ものだ、と云ふ認識を持つてゐるものであります。私は、橋本進吉や山田孝雄、時枝誠記らによつて整備され、體系化された「歴史的假名遣」の事を「正かなづかひ」と言ふのであります。
「現代かなづかい」の文章を書いてゐる人が、自分の文章を正かなづかひに直されるのを、どうしてそんなに嫌がるのか、不思議。中途半端な潔癖症とでも言ふべきか。「現代かなづかい」を使ふ人間が、何を信奉してゐるのか、私には全く理解出來ない。
「匿名批評の嚴しい戒律」と題して、谷澤永一が書いてゐる。平凡社のPR雜誌に出た語調は甚だ勇ましい
匿名時評を批判したもの。
覆面して暗闇から人を撃つ場合には、文壇や學會の符牒を用ゐず、人事問題や、勢力關係を我が黨派に利せんとする世俗的效果を狙はず、係累なき健康な讀書人の視座で理解できる論法を驅使し、一篇の短文で問題にケリをつけるきめ手にしぼつた凝縮表現が肝要。堀米庸三が假に不勉強だとして、堀米が當該論文で述べようとした論旨そのものがそのためいかにヲカシクなつてゐるかを内面的に剔抉して見せぬ限り、匿名批評は讀書人の良識に相渉るをえぬ、學會ボスへの嫉視の發作にとどまるだらう。匿名氏は私心を捨てよ。
もちろん、雜誌の匿名批評と、ウェブの匿名掲示板とは、メディアが違ふ。が、いづれも覆面して暗闇から人を撃つ
ものであるし、一篇の短文で問題にケリをつけ
ようとするものである譯で、谷澤の言ふ「戒律」は同樣にあてはまるだらう。暴言の言捨てや獨斷による決めつけではなく、單純明快な論理展開が、匿名批評には必要。惡口を言ふばかりが匿名の能ではあるまい。惡口を言ひたければ、反論を受ける用意もしておくべきだ。
上の谷澤の文章は、昭和50年11月25日のもの。
Windows 3.0で標準添付だつたリバーシの、アップデートプログラムなるものが存在する事實を、御存じの方は非常に少いだらう。が、Microsoft謹製で、ちやんと存在するのである。ただし英語版。Walnut CreekのCICA MS Windows CD-ROMに、1992年か93年頃、慥かに收録されてゐた。日本語版Windowsにも導入可能だつた。
「イケてるデザイン」と云ふ言ひ方は、嫌ひ。
ISO-HTMLでは
del
/ins
要素はbody
要素直下にしか書けず、 内容は%text;
のみです。 見出し要素の扱いに似ています。
何か變な仕樣ですが、さうとしか解釋出來ませんね。Another HTML-Lintが違ふ解釋をしてゐますが。
ISO-HTMLでdel/insの正式な仕樣は未確定、と云ふ事なのかも。ユーザガイドを見ても、delとinsの解説は載つてゐないし。
<!ELEMENT BODY - O ((%block;)*,(H1,DIV1)* ) +(DEL|INS) >てなわけで、内容は
%text
のみですがbody
の子孫なら何処でも置けます。
ごくごく簡単なDTDの説明を復習。納得。AHLの擧動は正解みたい。
完了
……時枝は、我々が音声や文字によって意味を理解するという経験をもとに言語を把握しなければならないというところから出発して、さらに音声や文字によって意味を理解するという主体的活動そのものが言語であるという。
何如なる人によっても語られもせず、読まれもせずして言語が存在してゐると考へることは、単に抽象的にしかいふことが出来ない。即ち「我」の主体的活動をよそにして、言語の存在を考へることは出来ないのである。自然はこれを創造する主体を離れてもその存在を考へることが可能であるが、言語は何時何如なる場合に於いても、これを産出する主体を考へずしては、これを考へることが出来ない。更に厳密にいへば、言語は「語ったり」「読んだり」する活動それ自体であるといふことが出来るのである。具体的な言語経験は、音声によって意味を思ひ浮かべた時に成立し、文字によって思想を理解した即座に成立するのであるから、言語が実にこの様な主体的活動自体であり、言語研究の如実にして具体的な対象は実にこの主体的活動自体であるといってよいのである。言語が主体的活動の外では考えられえないという主張から、主体的活動そのものが言語であるという主張に移行する際、時枝は後者は前者を厳密にいい直したものだといっている。しかしこの移行はじつはおかしい。主体がなければ言語はないという命題と、言語が主体のみによって成り立つから言語は主体的活動そのものだという命題は別個の命題であり、表現の厳密さの度合いに還元されるべきものではないからだ。「言語過程説」はこうしたごまかしを認めることで成り立つのである。
人は自分を否定すべき文句でもつて他人を罵る。柴田氏は、自分がごまかしをしてゐるのに、ごまかしをしてゐるのは時枝だ、と言つて罵つてゐるやうに思はれる。
柴田氏の引用した時枝の文章は、原本で10ページから14ページに至る長い長い段落の一部である。更に厳密にいへば
は、直前の一文を嚴密に
言つたものではなく、それ以前の長い長い段落で述べられてきた事を嚴密に
言つたものであると、我々は見るべきだらう。柴田氏は、引用を不適切な形で利用してゐる。
言語過程説を批判する手合は、時枝をはじめとする「言語過程説派」を「お前らはソシュールを正しく理解してゐない」と言つて批判する、或は、批判した積りになる。しかし、彼等こそ、言語過程説を理解しようとしてゐないのではないか。
国語学会(http://wwwsoc.nii.ac.jp/jpling/)
いまだにちやんと作られてゐる。
言語過程説、認知文法理論、等に關する文章、が掲載豫定。今のところ殆ど空ッぽ。
恐ろしく理路整然とした文章を讀む夢を見た。「議論の文章は『〜い』を使つた推測では駄目で、『〜る』を使つた斷定でなければならない」toka云ふ一節しか覺えてゐないのは殘念。形容過多の文章を咎め、「である」を積重ねた文章を襃めてゐるらしい。
寢ても醒めても、頭が休まらず。
こんな夢を見たのも、寢る前に『紙つぶて(完全版)』を讀んだせゐ。フロイトの『夢判斷』そのまンま。