闇黒日記

平成13年3月20日

ずさんな思考がまかり通るところでは、眞理が把握されることはたうていありえない。そこから當然出てくる結論は、「眞理は存在しない」といふことである。『神と哲學』(E.ジルソン)11ページ

平成13年3月20日

tableを用ゐたレイアウトの問題點。

印刷すると、文字が切れる事がある。

平成13年3月20日

凄い。

平成13年3月20日

始めました、と言はれても。と云ふか、シスプリ知らないし。

平成13年3月20日

ただ、僕は、他人を不快にしなければ律せないようなものだと自己を定義して手段を制限したくはない。

誰がさう云ふ定義をしてゐますか。和を尊ぶのが絶對に正しい、と云ふ信念に基いて、和を尊ばない即他人を不快にする事だと決めつけるのは、やめて貰ひたいものです。

の押付けですよ。

不精者だから、もっとラクして(他人を傷つけずに)自分を律することができると思いたい。

自分を律することができないから不精者になるのではないですか。


日本人は平和の事を、「全人類共通の、如何なる場合にも從はねばならない、絶對的な觀念」だとでも思ひ込んでゐるのではないか。

そして、人はそれぞれ信念を持つてゐるし、その信念によつて正邪は變動する(正邪は相對的である)が、信念にも上等と下等の區別がある、と云ふ事もまた事實である。「不精者の信念」が常に下等なものである事は、論を俟たない。

平成13年3月20日

力技。

平成13年3月20日

平成13年3月20日

仏像=目に見える、具体的で分かりやすい。子どもの命=目に見えない、抽象的で漠然として分かりにくい? →じゃあ、新聞一面に子どもの写真でも出せば? 毎晩テレビのニュースで5分間、きょうのアフガン、「また餓死者が出ました」、きょうは誰と誰が凍死したか、てのをやって「一刻も早く緊急援助を」と呼びかけつづければ? けっこう同情心が強く根は純真な日本の人々、実情をみれば、すぐに助けたくなると思うのだが……(この「肌の感覚」でしょう、最後のとりでというか出発点は。日本の人々がひとりあたり百円だすだけで、余裕で全員、助かるんだから。豊かな日本にとっては痛くもかゆくもないことでしょう。あほくさいダム工事や護岸工事より、よっぽどまともな税金の使い道でしょう……)。そしてそういう国が世界にひとつでもあったなら、だれも、「無視するな」と叫ぶために(世界の備品の)窓ガラスを割ってみせたりしないのに。で、今度は窓ガラスのことでさらに叱られてやんの。

嫌な「豐かな國」の論理ですな。日本の人々がひとりあたり百円だすだけで、余裕で全員、助かるんだから。豊かな日本にとっては痛くもかゆくもないことでしょう。だなんて、イエス・キリストが聞いたら、何と言ふだらうか。

イエス賽錢箱に對ひて坐し、群衆の錢を賽錢箱に投げ入るるを見給ふ。富める多くの者は多く投げ入れしが、一人の貧しき寡婦きたりて、レプタ二つを投げ入れたり、即ち五厘ほどなり。イエス弟子たちを呼び寄せて言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、この貧しき寡婦は、賽錢箱に投げ入るる凡ての人よりも多く投げ入れたり。凡ての者は、その豊なる内よりなげ入れ、この寡婦はその乏しき中より、凡ての所有、即ち己が生命の料をことごとく投げ入れたればなり』マルコ傳第12章41節

イエス弟子たちに言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、富める者の天國に入るは難し。復なんぢらに告ぐ、富める者の神の國に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反つて易し』マタイ傳19章23節

(私も含め)日本人は永遠にキリスト教を理解出來まい。

平成13年3月20日

餘所の人に對してきつい言葉遣ひを用ゐるのだから、「身内」にも當然きつい言ひ方をせざるを得ない、と思つてゐるので、屡々「誰にでも」非道い事を言ひます。

しかし、「CSSコミュニティ」の人にきつい事を言つても、許して貰へるので、その點「甘え」があるのは、當方の反省材料。

平成13年3月20日

突然思ひついたProject DOS/V子。

IBM DOS Ver J4.05/V子
長女。Ver 4.07以降、互換性向上。
IBM DOS Ver J5.0/V子
次女。初めてメジャーに。Ver J5.02D/V子が最終形態。
PC DOS J6.1/V子
三女。kkcfunc.sysが古いままなので、setverをかます必要がある(Ver J6.3/Vで修正)。
PC DOS J7.0/V子
末娘。藝術品。新世紀になつてPC DOS 2000と名前を改める。
MS-DOS 5/V子
MS系DOS/V子。OEM專用。COMPAQ版には特殊仕樣が裝備されてゐる。
MS-DOS 6.2/V子
二代目MS系DOS/V子。アップグレード專用。IBM/PC DOS/V子の敵。biling.sysを使用する爲、互換性の問題を生ずる。
DR DOS/V子
Windows 3.1が動かない。
Sony版DOS/V子
こんなのもゐるんです。

そのまんまですな。

平成13年3月19日

全然違ふ。

お願いしろと言う話ではないのですが、本当に正しくする事を第一目的と考えるならば、お願いと言うか頭を下げるのも、作戦の一つではあると思います。私には出来そうもありませんが。(それで志が低いと言われれば、確かにその通りかも知れません)

辛辣な指摘で強制できるのなら、それも作戦として悪いとは思わないんですよ。でも、それが有効な相手は少ないわけで、他の選択肢を考えた方が良いのでは、と言う話です。

私にも出來さうにありません。

そもそも、私に何かを他人に強制する意圖なんぞ、全くありません。前提からして間違つてゐます。


ところで、日本人は和を重んずる民族だとよく言はれる。が、今や日本人は許し合ひを重んずるのである。「許す」とは「緩くす」であつて、緩褌となり果てた吾々は他人に緩くして、その代り他人からも緩くして貰ひたがる。他人のでたらめを許さずして生きるのは窮屈ではないか、他人のでたらめを許さぬとなれば、おのれもまたでたらめには生きられまい、それなら他人のぐうたらを許し、おのれも氣樂に生きるがよいと、當節、大方の日本人はさう考へるやうになつた。新聞や言論人が緩褌の快を貪り、互ひのでたらめを許し合ひ、恬然として恥ぢないゆゑんである。

元禄の昔、伊藤仁斎は「專ら敬を持する」儒者を批判してかう書いた。

專ら敬を持する者は矜持を事として、外面齋整す。故に之を見れば即ち嚴然たる儒者なり。然れども其の内を察すれば、即ち誠意あるいは給せず、己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深く、種々の病痛故より在り、其の弊あげて言ふべからざる者有り。童子問

詳しい説明はしないが、仁斎は誠意すなはち「まごころ」を重んじた儒者である。「敬」を重んずる學者は、とかく外づらにこだはつて心の中を疎かにする、それゆゑ一見嚴しい儒者に見えるが、「己を守ること堅く」、人を責める事深く、かくて他人への思遣りをさつぱり持合はせぬといふ事になる、さう仁斎は言ふのである。

なるほど、敬を持する儒者に限らず、「己を守ること甚だ堅く人を責むること甚だ深」いのは凡人の常であらう。けれども、佐藤直方が言つたやうに、「人の非を言はぬ佞姦人あり。人をそしる君子の徒あり」といふ事もある。つまり、おのれの非を言はれぬために人の非を言はぬ腹黒い手合がゐるし、人の非を論ふ奴のすべてが惡黨とは限るまい。人の非を言ひ、人を嚴しく謗る以上はおのれに對しても嚴しくあらねばならず、それゆゑ他人に嚴しい者が却つて「君子の徒」であるといふ事もあらう。林羅山は書いてゐる。

強ハ人ニ勝ツトイヘドモ、先ミヅカラ我ニカチ私ニカチ慾ニカツヲ聖賢ノ強トス。我ガ私ニカツ時ハ、其上ニ人ニ勝事必定ナルベシ。

もとより「我ガ私ニカツ」のは容易の事ではない。人間は專らおのれの力によつておのれを抑へうるほど強くはない。けれども、このぐうたら天國日本では、克己といふ事の重要はことさら強調されねばならぬ。それゆゑ私は前著『道義不在の時代』においても、「僞りても賢を學」ぶ事の大事を説いた。人間は常に自分で自分を抑へうるほど強くはない。けれども「僞りても賢を學」ばうとする事によつて、すなはち偉人賢人に肖らうと背伸びをする事によつて、吾々は立派になる事ができる。同樣に、「人をそしる君子の徒あり」、他人に嚴しくする事によつて吾々は己に對しても嚴しくなりうるのである。それゆゑ私は人を謗る。他人のぐうたらやでたらめを手厳しく批判し、言ひたい放題の事を言へば、すなはち他人を許さなければ、私自身が他人から許される事は期待できない。さう信じて私は過去數年間、新聞、週刊誌、及び物書きのでたらめを斬り捲つた。が、それは私をさして立派にもせず、また私の振り廻す劍は虚しく宙を斬るのみであつた。すなはち「暖簾に腕押し」であつた。

けれども、私は愚癡つてゐるのではない。斷じてさうではない。私は何よりも愚癡を好かない。理由は簡單で、愚癡ほど非生産的なものは無いからである。「生殺しの憂き目」を見ようと、「暖簾に腕押し」の虚しさを痛感しようと、私は今後も、他人に緩くしてその代りおのれも緩くして貰はうなどとは決して思はないであらう。

『續・暖簾に腕押し』「序に代へて」松原正著・地球社

平成13年3月19日

盲人どもの出づるとき、視よ、人々、惡鬼に憑かれたる唖者を御許につれきたる。惡鬼おひ出されて唖者ものいひたれば、群衆あやしみて言ふ『かかる事は未だイスラエルの中に顯れざりき』然るにパリサイ人いふ『かれは惡鬼の首によりて惡鬼を逐ひ出すなり』マタイ傳第9章32節

平成13年3月19日

形式だけ「正しいHTML」であれば良い、と云ふ譯ではありません。


昔私は、國語に於る「進歩主義」に迎合した右翼と喧嘩をして、散々馬鹿にされたものです。右翼の思想を一般に浸透させるのに不利だから、正字正かなを使ふのは馬鹿なのださうです。


政治主義が私は一等嫌ひなのだが、政治が大好きな連中は、「心構へ」を大事にする「青二才」を徹底的に侮蔑して喜ぶ。


「佛作つて魂入れず」と言ふ。


人、全世界をまうくとも己をうしなひ己を損せば、何の益あらんや。ルカ傳第9章25節


Makoto氏もまた、政治至上主義者の仲間です。

平成13年3月19日

あんたの樣なやり方は流行らないと誰かが笑ふ

いつまでもそんな風に不器用ぢや話にならない


あんたはまだ若いなどと 卑怯な逃げ方をするな

時代を變へてゆくものがあるとすれば それはきつと名もない青春達

「誰の樣でもなく」篠原美也子

平成13年3月19日

四面楚歌

馬鹿に御願ひして「正しい」事をやつていただく?

平成13年3月18日

「まったり」は『廣辭苑』第五版に載つてゐるらしい。嫌な話である。

平成13年3月18日

「支那人」と「中國人」とでは、指す範圍がちがふ

「支那人」は即ち漢人の事であり、「中國人」は漢、滿、蒙、藏、囘その他の種族をふくむ呼稱である。『せがれの凋落 お言葉ですが…三』高島俊男著、238ページ

平成13年3月18日

これを按ずるに、「革命」と「きちがひ」は似たものなのであらう。

平成13年3月18日

痛し
神經に強い刺戟を受けた時の感じで、生理的にも心理的にも用ゐる。
  1. 苦しさを感ずる。
  2. 見る(聞く)に堪へない。
  3. 感に堪へない。なかなか見事である。

『岩波古語辭典』

平成13年3月18日

2ちゃんねらーに、ものは言い様と言はれても困るのですけれども。

或は、「匿名による罵倒は許せるが、實名による罵倒は許せない」と云ふ論理は變です。

平成13年3月18日

それと、正しくHTMLとスタイルシートを用いてWebサイトを構築することはもちろん正義ではありますが、それをもって他のサイトを攻撃する、あるいは自分ほどの知識を持たない人を排斥し、揶揄することを正義だとは思わないってこともあります。

他人の間違ひを平然と見過ごす事は正義に反する行爲である、と私は思ひます。彼の間違ひを正さないのは、我の間違ひを見逃してくれと言ふやうなものです。

互ひに互ひを許し合ひ、誤りを見逃し合つてゐるから、日本人は皆だらしなくなり、日本は駄目になつたのだ、と言ふと、また「電波」呼ばはりですかね。

平成13年3月18日

私の持つてゐる全集。

保田與重郎の全集が、ばらで何册かあります。


小林秀雄の全集を集める人はゐますが、小林秀雄が企畫した創元選書を集める人は滅多にゐません。私は創元選書の大ファンであり、コレクターであります。

平成13年3月18日

無用な争いなんて言つてゐる時點で、あなたは既に「平和眞理教」の信者です。

自分が何かを既に信仰してゐるのではないか、と云ふ反省がないから、馬鹿は安易に他人樣の信仰を茶化せるのである。

平成13年3月18日

「一般の人はスタイルシートなんて使はない」と言ふ人がゐます。しかし、「一般の人はウェブサイトなんて作る必要がない」と私は思つてゐたりします。

ウェブサイトを作るやうな人間は、Cascading Style Sheetsの勉強くらゐしろ、と言ひたい。

平成13年3月17日

kotobaseekがいつの間にか、infoseekに似ても似つかぬ代物となつてゐるのに、今氣附いた。笑ひ。

平成13年3月17日

相變らず、HTMLの書式が出たら目。

※ v1.11を含む旧バージョンには重要なバグがあるので、v1.12に入れ替えてください。

出力するHTML文書が最低である事は、重要なバグのうちには入らないらしい。

平成13年3月17日

えー。id属性には数字で始まる値は使えないというのは見落としがちなので、気をつけましょう。

なほ、「闇黒日記」の別名は「某日記」です。これは定説です。

また、當サイトは、お好きな文書に自由にリンクして結構です。ただし「トップページ」も含め、全ての文書のURIは變更される場合があります。と云ふか、變更されました(されつつあります)ので、どうぞよろしく。

平成13年3月17日

耻を知らないのは困つた事だが、面の皮が或程度厚くないと、人間は生きていけない。

平成13年3月17日

PCのトラブルは、多くの場合、ユーザが「面倒臭い」と思ふ事によつて發生する。

平成13年3月17日

ワンマン運轉をしてゐる都營地下鐵三田線の驛がうるさい。ホームゲートを開け閉てする際、電子音を鳴らすのだが、これが甚だ不快である。

プラットフォームで誰かが事故にあつても、「警告はしましたよ」と言逃れをする爲にああ云ふ電子音を鳴らすのは、客の身を案じてではなく、わが身を守るための放送なのだ、と高島俊男氏なら言ふだらうが、私は言はない。

人は大概、不注意だが、惡いのは自分の不注意ではなく、誰かの不注意である、と常に考へる。ホームで事故に遭つた人は、必ず鐵道の運營者に文句を言ふ。自分の不注意は棚に上げて言ふ。そして、世間はさう云ふ「言ひがかり」を支持して、「御上」の「言逃れ」に耳を貸さない。

不注意な人間を許して、御上や企業を常に許さない、と云ふ世間の風潮が改まらない限り、不快な電子音はなくならない。


先日、大久保驛でホームから轉落した醉つぱらひを救はうとして三人の方が亡くなつた。世間は、救はうとして死んだ人を「英雄」扱ひして賞讃した。

しかし、醉つぱらひを誰も責めようとしないのは、解せない事である。醉つぱらひが、酒を飲んでゐなければ、人死には出なかつたのに。

平成13年3月17日

立場によつて價値觀は異るのだから「正しい」「正しくない」の議論は無意味、と言ふ人がゐる。さう云ふ人に限つて、或立場から他の立場を一方的に斷罪して見せるのだから、氣が知れない。

平成13年3月17日

J-Comに移行。

今後、PC Tipsやkotobaseekは「言葉 言葉 言葉」から獨立します。

平成13年3月16日

本日の買物。

平成13年3月16日

「柵」向のメモ。

谷沢永一『人間通になる読書術』(PHP研究所・PHP新書)
bk1 / ISIZE / 旭屋 / Jbook / BOL / 紀伊國屋 / amazon / eS! / 富士山 / 本屋さん

平成13年3月16日

お金の無い平和な世界が来ますように、だなんて、誰も本氣で思ふ譯がない。

平成13年3月16日

3.3. HTTP

The HTTP URL scheme is used to designate Internet resources accessible using HTTP (HyperText Transfer Protocol).

The HTTP protocol is specified elsewhere. This specification only describes the syntax of HTTP URLs.

An HTTP URL takes the form:

http://<host>:<port>/<path>?<searchpart>

where <host> and <port> are as described in Section 3.1. If :<port> is omitted, the port defaults to 80. No user name or password is allowed. <path> is an HTTP selector, and <searchpart> is a query string. The <path> is optional, as is the <searchpart> and its preceding "?". If neither <path> nor <searchpart> is present, the "/" may also be omitted.

Within the <path> and <searchpart> components, "/", ";", "?" are reserved. The "/" character may be used within HTTP to designate a hierarchical structure.

RFC1738:Uniform Resource Locators (URL)

If neither <path> nor <searchpart> is present, the "/" may also be omitted.とあります。path或は及びsearchpartが附かない場合、尻尾の/は省略可能です。

平成13年3月16日

うちの前が妙に落ちついてゐると思つたら、街燈の電球が切れてゐるのであつた。

直すな。

平成13年3月16日

東京堂書店(神保町)で、福田恆存全集をごつそり買つて行つた人がゐるやうである。また、福田恆存講演集のカセット文庫(第一卷)を買つて行つた人もゐるやうである。

同一人物によるものかは不明。


東京堂には、松原先生の『夏目漱石』の上卷と中卷が置かれてゐる。

平成13年3月16日

現在「言葉 言葉 言葉」で使用してゐるスタイルでは、文字の大きさを絶對サイズで指定してゐない。

ボーダも相對サイズ指定である。その爲、Netscape Navigator/MozillaとInternet Explorerでは表示が異る。しかしまあ、IEはあまりにもアレだから無視してよろしいのではないか知らんと思ふので、問題ナシ。

平成13年3月16日

私は68kの非力なMacでつくっているので、

そんなの知つた事ではないよ、の一言で濟まされさうな臺詞ですね。

ちなみに私はW3C信者じゃないです。一番始めの宣言部分

!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.0//EN"
 "http://www.w3.org/TR/REC-html40/strict.dtd"

の分だけ重たくなるのを始め、ブラウザ側で意味の無い情報は無視無視。省ける終了タグはあるけど、あったほうが、間違いが少ないからつけてますが。

DOCTYPE宣言はブラウザ側で意味の無い情報だから無視すると云ふ方針と、終了タグをあったほうが、間違いが少ないからつけると云ふ方針とは、矛盾してゐると思ひます。

と云ふか、さう云ふ矛盾に無神經でゐられる人間が、人の主義主張をいつちよまへに論評して見せるのはやめませう。信念なき人間に、他人の信念を云々する資格はない。


私など、DOCTYPE宣言は、あったほうが、間違いが少ないからつけるべきだと思ひますし、幾つかの要素(html/head/bodyその他)の開始タグと終了タグは、仕樣上記述しなくとも構はないのだから省略して良い、と考へます。

それにしても、制作者が「ボクはテキストブラウザをメインで使ってま〜す」とか言つてゐるサイトに限つて、文字サイズが固定だつたりするのは笑へます。無駄な努力、御苦勞さん、とか言つてみたりして。

平成13年3月16日

不許可。

Macでご覧の皆さんは当日記がわずかばかり変化したのを実感されましたでしょうか。adramineさんが11ptじゃ読みにくいというものだから"仕方なく"直させていただきました。ちなみにWinな方は従来どおり11pt表示となっております、ええ、javascript制御で余計なソースをさらに増やしてます。<がはははh。

見出しをp class="font10"とかp class="indent30"とかやつてゐるのを直すのが先ぢやないのですか。と云ふか、id名も非道いよ。

それから、body bgcolor="#E6E6E6" marginwidth="20" marginheight="20" text="#000066"と記述してゐますが、アンカーの色も指定した方がよろしいのではないでせうか。


<p class="dp"> </p>と云ふ記述も、餘りよろしくないやうな氣がしますね。

HTML文書の尻尾の、<p align="right"> </p>と云ふ記述も、無意味で素敵。

平成13年3月15日

平成13年3月15日

いまのお話しについて、二つの點でぼくはコメントを發言できると思ふ。一つは、親鸞の『教行信證』は全部なにか昔の人の言葉だとか、過去のお經の拔き書きである、だから獨創はないといつてしまふのは、これはひじやうにいけないと私は思ひます。私はね、これはまたひじやうに大膽な説かもしれないけれども、私は昔から、表現は選擇であるといふ説をもつてゐるのです。表現は選擇であるといふのは、ぼくは文學以外、あるいは言語表現以外のことはわかりませんけれども、現實といふものは、どんな事態だつて、これは無限に複雜なんですよ。それでも言語といふものは、少なくとも單語をとつてみるかぎり、その頂點を議するにすぎない。指摘しえた頂點をつらねて文章をつくるわけです。現實は無限に複雜である。だから、言語表現といふものは選擇なんですよ。そこにいくつかの單語によつて表現されるべき要素がある。どれをとつて表現するかといふことが言語表現なんです。さういふ意味から、ぼくはひろく表現は選擇であると思ふ。古人の言葉を拔き書きしてあるとしたら、それは何を拔き書きしてゐるかといふことが、大事なんです。さういふ關心は、どうも現代の學問、少なくとも東洋の學問にはうすれてゐるんぢやないでせうか。『詩と永遠』26〜27ページ

……。そこで、本の讀み方の問題ですが、本を讀むといふことは、まづ話者なり著者の自覺にあつたことを、掘り起こす事だが、それだけではいけない。ほんたうに本を讀むといふことは、話者なり著者なりの意識の底にひそんでゐて、話者や著者自身も自覺しなかつたこと、それはあるいは話者よりものちの時代、つまりわれわれの時代になつてはつきりする思想感情、それを掘り起こすこと、それがほんたうに本を讀むことだと思ふ。『詩と永遠』63ページ

いづれも吉川幸次郎の發言。

平成13年3月15日

どうもです。

早速入れてみました。

變換に失敗したあと、backspaceを押すと、システムごと落ちましたが、IMEの雛形は出來上つてゐる譯ですね。あとはかな漢字變換エンジンのアルゴリズム策定と、辭書作成が今後の課題ですが、それは私の擔當ですか。


品詞別文法講座やら何やらを買込んであるのに、全然讀んでゐません。正字正かな關係の勉強は最近さぼつてゐます(死)。

平成13年3月15日

それに気を取られたのか、http://thinkman.cup.com/の最後の/を書き忘れてしまった。

仕樣上はそれで問題がなかつたりしますが。

平成13年3月15日

大須に出掛けやうかと思つてゐたのだが、雨が降りさうな氣がするので暫く自宅待機。

「やう」ではなくて「よう」が正解です。

平成13年3月15日

暇もないのに、本棚を購入して組立て。次いで、本を並べる。机の上が少しだけ廣くなる。

平成13年3月15日

職場で、結婚出來るのが、男は18歳以上、女は16歳以上、と云ふのは男女差別ではないのか、と云ふ話をした。

平成13年3月14日

日本人は本當に佛教を受容れたのかどうか。私は疑つてゐる。

平成13年3月14日

私の事を「南京大虐殺捏造派」の連中は「南京虐殺なかつた派」だと思つてゐるのだらうが、それが勘違ひである。

私は、「南京虐殺はあつた」と云ふ主張に反對してゐるだけである。「肯定派」の主張の缺陷や穴を批判してゐるだけである。

或は、「あつた派」の認識は異常だと言つてゐるだけである。

平成13年3月14日

平成13年3月14日

となると、4月14日は當然ブラックデーですな。闇黒の日。それなら許せる(謎)。

平成13年3月14日

小渕總理は、「腦死」となつた時、「政治に空白は許されない」と云ふ理由で、法的な根據なしに解任されました。今、やはり「政治に空白は許されない」と云ふ理由で森總理は退陣を迫られてゐます。

森内閣は「死に體」となつてゐるさうです。ならば、森總理を、法的根據なしに解任する事は可能です。野黨は「臨時内閣」を勝手に作り、森總理を勝手に解任すれば良いのであります。「政治に空白は許されない」と言へば、何でも通る筈です。もしこれが許されないのであるならば、小渕氏を勝手に解任した森總理もまた許されない、と云ふ事になります。


「政治に空白は許されない」と云ふ出たら目なスローガンに、日本人は何で騙されるのだらう。「政治に空白は許されない」から「共産黨政權は許されない」、或は、「政治に空白は許されない」から「自民黨政權は許されない」、と云ふ事になつたら、日本の民主主義は終りである。

平成13年3月13日

『屈折リーベ』の篠菜の喋り方は、『危険がウォーキング』の園部その子の喋り方に似てゐる。

篠菜もその子も、ともに眼鏡。

平成13年3月13日

平成13年3月13日

平成13年3月13日

平成13年3月13日

さう言へば、「鳩丸」参考サイトNotes toward the Definition of htmlのリンクがいまだに改題前のhtml guideのままとなつてゐる事を指摘するのをすつかり忘れてゐました。まあ、全く問題ありませんが。

平成13年3月13日

なんかxhtmlだし。

平成13年3月13日

小説に猫ほど相性のいい動物はいないのではないか。

小説と鳥とは、相性が惡いのでせうか。「鳥小説」と呼べる小説を、私は讀んだ事がありません。

「昼」の正字が出ない。

「晝」ですね。

平成13年3月13日

と云ふか、私は森總理に興味がないので。

私は森總理を擁護してゐません、無視してゐるだけです。そもそも、森總理を責めるなら、法治國家で法を無視して總理大臣になつた事をこそ責めるべきであり、失言だの言葉遣ひだのゴルフをしてゐただのと云つた下らない理由で責めるべきではありません。


違法な行爲を咎め立てせず、合法的な行爲を咎め立てする、日本國民の氣が知れません。

平成13年3月13日

平成13年3月13日

本日の買物。

平成13年3月12日

首相また脱線発言「拾われてきた赤ん坊のよう」と

 森喜朗首相は12日の参院予算委員会で、森政権が自民党幹部の「5人組」による密室協議で誕生したと指摘されていることについて「『密室だ』『密室だ』とマスコミが決めつけて、どっかのガード下から拾われてきた赤ん坊のように言われる。私はきちんとした民主主義のルールで選ばれた」などと反論した。

 質問者の竹村泰子氏(民主)が「そういう境遇で生まれざるを得ない子どももいる。不穏当だ」と発言の撤回を求めると、首相は「好まれてないのに生まれた子どものように言われるのは残念。我が党できちんとした手続きで(総裁に)選ばれた」と説明。さらに「ガード下というのが不穏当かどうかは専門家に聞きたいが、必ずしも不穏当とは思わない。私どもの時代は『ガード下の……』なんていう美空ひばりさんなんかがうたった歌があって、私たちは好んでうたったことがある」。

 これに対して竹村氏は「美空さんとあなたは立場が違う」と切り捨てた。

 首相は昨年9月の衆院予算委でも「(政権が)私生児のように生まれたと言われると大変不愉快だ」と発言。翌日に「今の時代、言葉遣いは慎重にしなければと改めて痛感した」と述べて発言を取り消した。

何と言ふか、竹村氏の方こそ、ガード下に捨てられた赤ん坊私生児を、口に出すのも憚られる「不可觸賤民」扱ひしてゐるやうに思はれるのだが、氣のせゐか?


自分達に理があると見た「善人」は、平然と冷酷になる。或は、ヒューマニストほど、非人間的な人間はゐない。


なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり。己がさばく審判にて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木を認めぬか。視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得んや。僞善者よ、まづ己が目より梁木をとり除け、さらば明かに見えて兄弟の目より塵を取りのぞき得ん。マタイ傳第七章一〜五


イエス、オリブ山にゆき給ふ。夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな身許に來りたれば、坐して教へ給ふ。爰に學者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、眞中に立ててイエスに言ふ、「師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法に斯る者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか」斯く言へるはイエスを試みて訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て」と言ひ、また身を屈めて地に物書きたまふ。彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人いでゆき、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ「をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處にをるぞ、汝を罪する者なきか」女いふ「主よ、誰もなし」イエス言ひ給ふ「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」ヨハネ傳第八章一〜十一

平成13年3月12日

>『歴史とはなにか』(岡田英弘著・文春新書)

Yahoo!掲示板の「歴史修正主義」トピで推薦本にしようと思ったら、すでに野嵜サマにやられてしまいました。本書では、歴史は科学ではない、物語である、というくだりは、私がなんとか苦労して読んでいるリクール「時間と物語」で証明している仮説を、いとも簡単に説明しています。歴史は科学であると主張して「歴史修正主義」批判を行っている人たちは、例の教科書ではなくこちらの方との対決をすべきなのですが・・・。やられた! 投稿者:岡崎敏明  投稿日: 3月12日(月)14時09分05秒

吉川幸次郎と梅原猛の對談『詩と永遠』(雄渾社)を讀んでゐましたら、次のやうな記述が出てきて、やられた!、と思ひました。

哲學がどうであるか問題ですけれども、歴史學は、『日本書紀』にかういふことが書いてあれば、その事實はかういふことであると、すぐその事實にいつてしまふ。あるいは『史記』にかういふ言葉があれば、それはどういふ意味を傳達するものであると、すぐ事實の方へいつて、事實を分析しようとするわけです。ぼくの場合はさうではない。事實はむしろ素材にすぎないのですよ。その事實を話者はいかにうけとつて、いかに消化しいかにそれを表現してゐるか、その言葉のすぐ背後にある話者の心理、それがぼくにとつては問題なんです。ぼくが本を讀むといふのは、さういふ意味なんですがね。といふことは、言葉を字引的な意味ではつかまないといふこと、です。言葉を概念の表象としてはつかまない。すべての言語の代表しようとする事態は、これはあなたたち哲學者の分野だけれども、すべて一囘限り、そのとき限りのものでせう。まづ第一に、行爲の主體である人間が無限に分裂してゐる。「人心の同じからざるはその面のごとし」、顏がちがふやうに人間の心はちがふといふことが『春秋左氏傳』に書いてあつて、それはぼくの好きな言葉ですが、そこから生起する事態はいくらあつても、同じものでないわけですよ。あるいは自然においても、花といつたところで、同じ花は一つもない。ところがそれの表象となる言葉は、元來はひじように不便なものですね。さういふ一囘限りの表象とならなければならないにも拘らず、殘念ながら、概念といふやうな、なにかわかつたやうなわからないやうなものの表象になる。だから、ここにいけてある花だつて、そこに咲いてゐる花だつて、われわれは、花がいけてある、花が咲いてゐるといはざるをえない。ただ、その内容となつてゐる花はちがふわけですよ。つまりは、言語はその單語においては有限の數であるといふ、さういふ宿命をもつてゐる。それを、ぼくは人間の一つの悲劇だと思ふのだけれども……。ただ、さういふ有限の數の單語で無限の事態の表象となると、これは文章といふか、コンテクストといふか、單語と單語の結びつけ方によつて千差萬別の事態を表現しようとする。本を讀むといふことは、そのとき限りの事態の表象として、それぞれの言葉あるいはそれを結び合はせた文章がいかになつてゐるか、それを追求することなんです。そして事態そのものよりも、話者の扱ひ方を追求する。言語はむろん音聲をもつてをります。音声の流れだけれども、ただ、その音聲の流れがいかなる格好にあるかといふことについて、こまかな觀察をしなければならない。……。『詩と永遠』4〜5ページ

平成13年3月12日

平成13年3月11日

平成13年3月11日

解體のすすむInfoseekファミリ。

平成13年3月11日

サッカー嫌ひの私は、ワールドカップなんぞ韓國に呉れてやれ、と言ひたくなりますが。日本は韓國に「ワールドカップの開催について、今囘は讓るから、次囘はうちを應援しろ」とでも言へば良かつたのに。政治では、恩を賣つたもの勝ちだ、と云ふ事に、何で日本人は氣附かないのだらう。

日本と韓國は別の國なんでせう? ワールドカップを、なんで日韓で共催しなければならないの? FIFAは韓國が未だに日本の植民地だとでも思つてゐるんぢやないのか?


それにしても、「鬼畜米英」發祥のサッカーなんて「スポーツ」を、「自稱右翼」が喜んで受容れるんだからねえ。やつぱり鐵扇會は左翼なんぢやないか?

平成13年3月11日

『歴史とはなにか』(岡田英弘著・文春新書)を買つた、と「闇黒日記」で書いたが、本屋に買ひに走つた讀者は皆無であらうと豫想する。しかし、同書は「歴史とは事實の認識過程である」と云ふ、「過程説」に基いた面白い歴史概説なので、一讀をおすすめしたい。實は同書は「看板に佯りあり」で、「歴史とはなにか」ではなくて「或歴史は、いかなる理由で書かれたのか」を扱つてゐる。

平成13年3月11日

「佛教徒の信仰の自由を認めろ」と言ふ事で、異教徒を許す事が教義上許されないキリスト教徒やイスラム教徒の信仰を否定するのは許されるらしい。

日本人は、本當に狹量ですねえ。宗教上の理由で狹量であるのではなく、商賣人であるが故の狹量であるのだから、日本人は救はれません。

平成13年3月11日

歴史的とか美術的とかの価値もさることながら、あれらの遺跡(仏像)は、将来、 アフガニスタンが、大国の利権争いからのがれて、みどりの平和をとりもどしたときに、貴重な観光資源にもなりうるものだったわけで、 なんともやるせないのです。

宗教よりも金儲けの方が大事なのだと。

或は、日本人は「拝金教徒」であるらしい。地獄に落ちるのはどつちだ。

平成13年3月11日

京王9000系のデザインが「駄目」であるやうに見えるのは、窓の上にアクセントが何も無いからではないか。

小田急が多摩センターから橋本に乘り入れて呉れないものか。


橋本にリニア新幹線が乘り入れて呉れれば、全て問題解決。

平成13年3月11日

ahoseekが消滅。

平成13年3月11日

本家「偽」よりも早く新仕樣を實裝したPhase00.15が出てゐる。

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