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「南京虐殺」 at 2000 07/03 11:41

讀賣新聞の朝刊で、岡崎久彦氏が南京虐殺に就いて書いてゐました。「自虐的」になるのは止せ、と云ふ、例の主張です。この手の主張はもう結構です。「自虐派」の連中が「俺達は自虐派ではない」と言つてゐるのだから、自虐的ではないのです。

「平和主義」を國是とする日本國で、日本の軍國主義を一方的に斷罪して見せるのは「愛國的」であり「國粹的」です。「日本國憲法の精神」に則つて發言してゐるのですから、連中は體制側の人間です。私の事を「エセ右翼」呼ばはりするのだから、「南京虐殺あつた派」こそが眞性右翼なのでせう。

日本人の軍隊が虐殺など出來る筈はありません。ちよつと考へれば、誰にでも理解出來る事です。

或特定の個人が「南京虐殺」を指示したと云ふ事は考へられません。後で責任を取らされるかも知れない事を、日本人が指示する譯はないからです。

インターネットの掲示板で他人を罵倒する人間がゐますが、彼等は匿名で、責任をとる必要がないからさう云ふ眞似を出來る。いざ匿名の「假面」が剥がされさうになると、どんなに卑劣な手段を使つても、その「假面」を守らうとします。日本人は無責任が大好きです。責任をとるのが恐いのです。

軍部の人間であつても、日本人であるならば、まづ責任囘避を考へるでせう。後々責任を取らされるかも知れないのに、「南京虐殺」の指示を出せるやうな人物は日本にゐません。

一方的な大量殺人をするのに、人間はそれを正當化する必要があります。何の理由も無く人を殺せるのは狂人だけです。

ヒットラーはユダヤ人を虐殺する爲に、ナチズムを必要としました。スターリンやポル・ポト、毛澤東が虐殺をする爲には、共産主義の理想が必要でした。彼等を「狂つてゐた」と考へ、納得するのは、非常に樂な事です。しかし、寧ろ彼等は合理的に物事を考へてゐたのであります。彼等は虐殺をも合理化したのです。或は、合理化もせずに虐殺を出來る人間はゐません。

では、南京虐殺を行ふ際、日本人は如何なる根據で合理化を圖つたか。日本人は果してイデオロギーを信じてゐたか。

「あつた派」はここで天皇を持出すものです。戰前、日本人は天皇の爲ならば何でもやつた、と云ふのです。私にはそれが全く信じられない。昭和天皇が「人間宣言」をしただけで、日本人は「天皇は神ではない」と信ずるやうになつたのです。一朝一夕に、「洗腦」は解けません。日本人は戰前から、天皇が神でない事を知つてゐたに決つてゐます。「天皇陛下萬歳」と叫びつつ皇軍の兵士が突撃した事實は、その兵士が天皇を神だと心から信じてゐた證據にはなりません。「あつた派」の人間は、安易に「證言」を信ずる傾向がありますが、人間の言葉には屡々表裏がある事を何故彼等は無視するのでせうね。もちろん、無視した方が自分の主張にとつて都合が良いと感ずるからです。閑話休題。

假に日本人が天皇を信じてゐたとしても、その天皇に累の及ぶ可能性があるのを考慮すれば、安易に虐殺の指令など出せなかつたに決つてゐます。天皇を信じてゐたならば、天皇に責任が行かないやうにする爲、誰かが自分の責任になるやうに名前を出して、虐殺の指示を出した筈です。現在に至るまで、「南京虐殺」を行ふやう命じた具體的な個人の名が擧がらないのを見れば、誰もそんな指示など出してゐないと云ふ事は解ります。

「具體的證據」など不要です。「僞の證據」でも澤山出した方が勝ちだと「あつた派」は言ひますが、そんな馬鹿な話はありません。幾ら澤山UFOの寫眞が提示されても、それが「UFOは宇宙人の乘り物だ」と云ふ事の證據にはならないやうに。論理的に物事を考へる努力を怠るから、「南京虐殺」は「あつた」のだと考へるやうになるのです。

「あつた派」は、眉唾物の資料しか提示しませんし、「敵」を默らせる爲に卑劣で犯罪的な手法を屡々使ひます。しかしそれは、「あつた派」が詐欺師の仲間である事を自ら證明してゐるのにほかなりません。詐欺師が何を言はうと、信用されませんし、信用する人間は馬鹿です。

「南京虐殺」なるものはあり得ません。日本人に出來るのは、闇討か、路地裏でのリンチか、その程度の事くらゐに決つてゐます。大々的に虐殺をやらかすなんて眞似は出來つこない。

まあ、犯罪的な手段で敵を默らせようとする「あつた派」の人間が徒黨を組めば、虐殺の一つや二つは出來さうな氣もしない譯ではありませんが。事實、戰前、日本共産黨ではリンチ事件が起つたくらゐですし、左翼ならば人殺しは平氣で出來るでせう。

ハムとO157とお中元 at 2000 07/04 18:14

ハムやソーセージからO157が檢出されたとして、埼玉縣はメーカに製品の囘收を命じました。が、本日、埼玉縣は新聞に「お詫び」の文章を掲載し、調査にミスがあつた事、囘收命令が間違ひであつた事を認め、メーカや消費者などに迷惑をかけた事を謝罪しました。

しかしながら、この「お詫び」を讀んだ消費者が、敢てハムやソーセージをお中元で贈らうとするものでせうか。また、贈られた側はどのやうに感ずるでせうか。

誰かに訊けば、「贈りたくない」「贈られたらなんか嫌な氣になる」と即答されるのではないかと私は想像します。そして、それが當然だと思ひます。

これを按ずるに、保健所や縣を非難する人間は、メーカの身方ではないのであります。彼等はメーカの潔白が證明されたから喜ぶのではなく、保健所や縣が間違ひを認めたから快哉を叫ぶだけなのです。

他人が正しい事をしてゐたのを知つて喜ぶ人間はゐません。他人が間違ひをやらかしたのを認めたのを見て人間は喜ぶものです。そして人間は、正しい側を見捨てます。自分にとつて一錢の得にもならないのならば、當然のやうに見捨てます。人は、正義の爲に進んで不利益を蒙る、なんて馬鹿な眞似はしないのです。

人間とは嫌なものです。

宇都宮徳馬氏死去と猪木正道氏の「空想的平和主義」批判 at 2000 07/06 12:28

「宇都宮軍縮研究室」「軍縮問題資料」の宇都宮徳馬氏が1日、亡くなつてゐました。どう考へても社民黨か共産黨のシンパでしかあり得ない平和主義者の宇都宮さんですが、昭和51年まで自民黨に所屬してゐたさうです。

平和主義者のくせに保守陣營の内部に入り込んでゐた宇都宮氏は、自分がかつて自民黨にゐた事をどのやうに自己批判したのでせうか。

「保守派」の大ボス・猪木正道氏は「正論」8月號に「空想的平和主義からの決別を」と書いてゐます。しかしこの猪木氏、かつては「護憲派」で平和主義を信奉してゐました。

かつて「日本こそ眞先に核兵器を製造し所有する特權を有してゐるのではないか」と書いた清水幾太郎氏を批判して、猪木氏は「空想的軍國主義」の所産と斷じ、「舊大日本帝國的な軍事大國に逆戻りするのは、ごめんかうむりたい」と書いたものです。昔「空想的軍國主義」を批判した猪木氏が今「空想的平和主義」を批判する――全く漫畫的な話です。

今「自戒しつつ、憲法改正に着手せよ」と主張する猪木氏は、昔「占領軍が作つたからいけないといふ人もあるやうだが、これはとんでもない話で、誰が原稿を書いたにしても、よいものはよい。日本にほんたうの革命が行はれるまで、あの憲法を精讀することだ。あの憲法の前文や、第二章、第三章、及び第十章のあたりを熟讀玩味すれば、第二次大戰でわれわれ日本人がおかした罪はまざまざと想起され、おのづから嚴肅な精神さへある程度體得できる」(「革命と道徳」)と書いたのです。

宇都宮氏は右から左に、猪木氏は左から右に乘りかへて、平氣でゐます。日本人にとつてイデオロギーとは簡單に乘換へられる便利な乘り物に過ぎないのです。思想が現實を變へる事は、日本ではあり得ません。現實が思想を支配するだけです。

ならば日本で、何かイデオロギーを信奉するのは馬鹿の極みと云ふ事になります。右顧左眄して、時流に阿る發言をしてさへゐれば世の中を渡つていける。日本は小利巧な「現實追隨主義者」の天國です。

かつての自民黨は、保守政黨ではありませんでした。宇都宮氏のやうな平和主義者も參加した、右と左の相乘り政黨でした。今、「神の國」發言をした森總理を批判する手合は、やはり右と左の相乘り政黨である民主黨支持に囘つてゐます。今の民主黨は昔の自民黨によく似てゐます。

そして日本人は、「五十五年體制」の復活を願つてゐるのです。保守と革新の對立や、保守2大政黨の交替等、日本人の誰も望んでゐない。日本人は、保守と革新の間の區別を曖昧にしたい――いやいや、保守派を名乘る人間が革新陣營の攻撃を受け、やむなく革新的な政策を實現するのを望んでゐるのでせう。「保守派の敗北」を見ながら、ざまを見ろ、と言ひたいだけなのではないですか。その「保守派」が本物の保守派ではなくてもどうでもよい。とにかく形式的に「保守派」が負けるのを日本人は見たいだけなのではないですか。正邪の區別なんて、日本人にはどうでもよいのです。近代の日本に於ては、「革新的」な方が「正しい」に決つてゐるのですから。日本は明治以來、進歩主義の國です。

時流に乘つて、周圍に阿つて、「右傾化」の最先端にゐようとする事も「進歩主義」だし、「右傾化」の流れに逆らつて平和主義に固執するのも「進歩主義」なのです。「反近代の思想」なんてものを持つてゐる日本人は滅多にゐません。絶對的な價値觀なんて、日本人は持てません。だから日本人は救はれないのです。

煙草の僞造品について at 2000 07/09 22:12

JTは僞造品が出囘つた事について、日本の流通の仕組みを知らない人間による無謀な犯罪で、僞造場所は外國だらう、と云ふ事を言つてゐる。煙草の販賣數に關して、JTの管理は徹底してゐると云ふ。

煙草は國家公認の麻藥ですから、當然きちんと管理しなければなりません。いはば犯罪すれすれの行爲を堂々とやらかしてゐるのですから、言ひ譯する爲にも管理が必要である譯です。

もつともJTは、社員の管理が全く出來てゐませんから、何を言つても信用なりません。JTは社員が就業時間中にウェブの掲示板で他人を誹謗しまくつてゐても見過す會社です。

もしかして、JT社員がアルバイトで密賣に手を貸してゐたりするのではないですか。「アリバイ作り」の爲に、わざと稚拙なやり口をとつてゐるのではないですか。まあ、そんな事はないでせうがねえ。

でも、匿名で協力してゐる社員はゐるかもしれませんよ。匿名ならば何をしても良いと勘違ひしてゐる社員ならば、JTには確かに約一名ゐますからねえ。それもネットワークの管理を擔當する部署邊りに。

「貴乃花と魁皇に土、役力士の勝ちっ放しは曙と栃東」 at 2000 07/11 20:46

讀賣新聞社のサイトの見出しから。

この「勝ちっ放し」と云ふ表現、間違つてゐますね。「〜放し」は「〜したままで、放つておくさまを表す」(岩波國語辭典)言ひ方です。曙と栃東が、相手をぶん投げたか押出したかは知りませんが、とにかく勝つた後、禮もせず引上げたのならば「勝ちっ放し」は正しい言ひ方となりますが、相撲協會がそんな事を許す筈がありません、そんな馬鹿な事があつた筈はありません。

新聞は「無敗」と言へば良い所を、わざと變な表現にしてゐるのです。困つた事です。ひよつとして、強い力士に惡いイメージを持たせたいのでせうか。いやいや、單に記者が日本語を知らないだけなのでせう。

試驗を突破して入社した筈の記者諸君が、どうしてこんなに日本語を書けないのか、不思議です。それとも、新聞社に入ると、記者は途端に日本語を書けなくなるのですか。

感想 at 2000 07/14 05:38

雪印の食中毒事件をはじめとした乳製品の問題について。

問題が一時期に噴出したのを見れば、人災と云ふよりは天災に近いものである事が明かなのではないか。それにしても、いつも愛飮してゐるくせに、いざ問題が起きるとすぐに他社の製品に切替へてしまふ。消費者と云ふものは冷たいものだ。私など、食中毒事件が起きてからも毎日雪印チーズを齧りながら「ネットサーフィン」してゐる。

そごうの倒産について。

税金をこんな所に使はれては堪らないと云ふ輿論が通る事で、却つて税金が使はれると云ふ皮肉。輿論と云ふものがいかに感情的で非論理的であるかを良く現してゐる筈だが、國民がそれに氣附く筈もない。人間は氣附きたくないものには氣附かないものだ。

森總理が新聞記者と「冷戰状態」になつてゐた事について。

「神の國」だのなんだのと言つたからと云つて、森總理は國粹主義者で、軍國主義復活を狙つてゐる、と考へてゐる國民が結構ゐるらしい。明かに、マスコミの宣傳に踊らされてゐるのである。しかしながら、ヒットラーがマスコミを操作したのと正反對に森總理はマスコミを遠ざけたのである。森總理はファシズムからは遠い立場にあると言はざるを得ない。寧ろ、自分達の力を自覺し、大衆煽動を自らやつてのけるマスコミ自身の方が、ファシズムには近いのではないか。そして、獨裁者を熱狂的に支持するやうに、國民はマスコミを熱狂的に支持するのである。日本で一番の「權力者」はマスコミである。

「モラルハザード」 at 2000 07/15 22:58

昔は、爲政者が正直でない事も、個人が正直であらうとすべき事も、當然の事でした。しかし今は、政治家や企業が「クリーン」でなければならない一方、個人は「權利」を主張する事で惡質な嫌がらせや嘲笑をする事が許される。

金儲けにいそしむ商人にとつて「正直」は看板以上のものではありません。しかし日本は商人國家だから、信用をかちとる爲の看板としての「正直」を標榜する事が美徳だと日本國民は信じてゐます。日本人にとつて、金の絡まない正直は「正直」ではない。或は、守錢奴にも「モラル」があるのださうです。呆れた「モラル」です。

「正直者は馬鹿を見る」 at 2000 07/15 22:59

それにしても、正直者を馬鹿だと言つて嗤ふ連中が、一方で政治家や企業が「正直でない」と罵つて平然としてゐるのだから異常です。この手の連中は「科學以前の心」しか持つてゐないのだし、理屈で批判しても通じません。

「南京虐殺」は「あつた」と主張する連中はデマを流すのが大好き at 2000 07/16 09:53

「南京虐殺」は「あつた」と主張する「軍團」の一人で、Yahoo!掲示板で有名な左翼論者omegatribesと、その取卷きの一人georgea_00が最近行つた問答を引用しよう。

<引用 Yahoo!掲示板「>政治 > 政治 > 政党、団体 >zakk_2000君と政治を語ろう」より>

1816 件目 そうなんですよ>オメガさん

georgia_00 2000年7月15日 15時1分

多分、本質が出てるのでしょうね。

それと、複数の人間と連絡を取り合いながら

ストーカー行為を行っているような気配がしますね。

多分、No_Z連合変態でしょうね。

これは omegatribes さんのMsg 1814に対する返信です

1817 件目 やっぱりそうなんですか

omegatribes 2000年7月15日 15時8分

>多分、No_Z連合変態でしょうね。

No_Zの異常さ、陰湿さはよく知っています。掲示板仲間からメールのやり取りで聞きました。

これは georgia_00 さんのMsg 1816に対する返信です

</引用>

「掲示板仲間からメールのやり取りで聞きました」と書くなど、「複数の人間と連絡を取り合いながらストーカー行為を行っている」のは自分達だと云ふ事を自白してゐるやうなものである。しかしomegatribesは自分の「ミス」に氣附かない。毎度の事ながら、「南京虐殺」は「あつた」と主張する連中の頭の程度はこれほど非道いのか、とがつかりさせられる。

zak_k、omegatribesをはじめとする「南京虐殺あつた派」は、Yahoo!掲示板や2ちやんねるで私に關する惡い噂を流してゐる。「南京虐殺あつた派」は、反對派に關するデマを流して、反對派を默らせようとする卑怯者の集團である。デマゴーグが「南京虐殺はあつた」と主張するのである。當然「南京虐殺はあつた」と云ふのはデマである。

しかしまあ、陰濕な事をやつてゐるくせに、omegatribesはよくもまあ平氣で「No_Zの異常さ、陰湿さはよく知っています。」だなどと言へたものです。渠等は自分を罵るべき言葉で以て、敵を罵るのです。厚顔無恥だから、平氣で支那や東南アジアの人間に媚び諂ふ事が出來るのです。

平和主義と酸つぱい葡萄 at 2000 07/16 10:54

道を歩いてゐる時に、何かの宗教の人が近づいてきて、「あなたは罪深い人間です、悔改めなさい」と言はれたとします。あなたはそこで、すぐに悔改めますか。もちろん、素直にその場で悔改める人間が日本にさうは澤山ゐないでせう。自分が罪深いと思つてゐないからです。

しかし、「お前達は戰爭犯罪を行つた、反省しろ」と言はれて、日本人は實に素直に反省しました。

それにしても、「戰爭に負けた、だから戰力を抛棄する」と云ふのは、理屈ではないですね。何が「だから」なのか、全く理解出來ません。戰爭で負けた、だから次に戰ふ時に負けないやうに軍事力を充實させよう、と云ふのは理屈です。前者の「だから」は、理屈ではありません、科學以前の考へ方に基いてゐるのです。

高い所になつてゐる葡萄を取らうとして、ついにとる事の出來なかつた狐が、「ふん、あの葡萄は酸つぱいのだ」と言つた、と云ふお話がイソップの寓話にあります。これは一般に負け惜しみをからかつてゐるのだと捉へられてゐますが、精神的な合理化が極めて非論理的である事を示してゐるものとは言へないでせうか。そして、未だにこの手の「合理化」で世の中を割切る人間が減らないのです。

大東亞戰爭が終つて、つるし上げの「座談會」に出席した小林秀雄は、「俺は馬鹿だから反省しない、お前達は利巧だから、たんと反省するが良い」と言放ちました。小林秀雄は、小林よしのりのやうに「ゴーマンかました」譯ではありません。アウグスティヌスが「懺悔録」でやつたやうな反省を、日本人が出來る筈がないと見拔いてゐただけです。凡人が「懺悔録」を書いた所で、自分はこんなに反省してゐるのだぞ、お前達も反省しろ、と云ふ非常に押付けがましいものになるだけです。最初に書いた「悔改めよ」の人にも、その手の押付けがましさを見て取るから、普通の日本人は即座に悔改めたりしない譯です。

然るに、日本人は戰後、敗戰を「たんと反省」し、戰爭放棄・平和主義を信仰するやうになり、却つて傲慢になりました。平和主義者がいかに押付けがましい態度をとつて來た事か。

「南京虐殺あつた派」が、反對派に對して冷酷な態度をとるのも當然です。渠等は、自分達が「悔改めた」人間であると自負してゐます。反對派は、不正直な惡人である、と思ひ込んでゐます。渠等は「信者」なのです。十字軍が異教徒を殲滅したやうに、「南京虐殺あつた派」は「なかつた派」にどれほど暴虐非道な行ひをしても許されると信じてゐます。

渠等は「科學以前」の人間であります。「南京虐殺」が「あつた」とするならば、「南京虐殺あつた派」自身が「犯人」です、さうに決つてゐます。「南京虐殺あつた派」は、自分の正義を信じ、敵に對して苛烈です。虐殺をやらかす資格があります。

日本人は「だから」とか「證據」とか云つた言葉に弱い。理屈にあつてゐなくても「だから」と云はれると納得するし、「證據」を見せられると信じてしまふ。理屈と言はれたら理屈に決つてゐるし、證據と言はれたら證據に決つてゐるのだと、日本人は思ひ込む。

理屈にしろ證據にしろ、自己申告は當てにならないのであり、客觀的に吟味されねばならないと云ふ事を、日本人は理解しない。「南京虐殺あつた派」は、「なかつた派」に對して論理的な反論は絶對にせず、執拗な嫌がらせを徹底的にする。それで「勝つた」積りになる。仲間同士で敵の陰口を叩き合つて、嬉しがる。

日本人は「科學以前」の世界に住んでゐるのだなと、私はつくづく思ふ。朝日新聞が自由主義史觀の惡口を書く事で、自由主義史觀研究會に參加する人間は増えた。然るに、「南京虐殺あつた派」が私に對する私怨で以て私の惡口を書立てれば書立てる程、私の事を宣傳してゐるのだと云ふ事を、渠等は理解しない。

私はYahoo!から追出されたが、追出した連中はゐなくなつた私の事を未だに氣にせずにはゐられないでゐる。「死せる孔明、生ける仲達を走らしむ」と言ふ。連中、私をそんなに「孔明」にしたいのか。

默殺されないだけ、私は幸福なのかもしれない。

そごうと雪印、どつちに腹が立つ? at 2000 07/18 02:35

毎日新聞のサイトで、「そごうと雪印、どつちに腹が立つ?」と云ふアンケートが行はれてゐます。どつちかに必ず腹を立てねばならないらしいのだが、私はどちらにも腹が立たないので、困つてしまひました。

毎日新聞は、「背景は違いますが、大手企業への国民の信頼を大きく傷つけた点では共通しています。」と書いてゐます。しかし、私はそごうも雪印も未だに信頼してゐます。

新聞ごときに、さう云ふ私の判斷を否定する權利があるのですか。少くとも毎日新聞は、「どつちにも全く腹が立たない」と云ふ私の主張を誌面に反映しては呉れません。

この世に絶對に倒産しない會社はありません。この世に手拔きを好まない人間はゐません。私は自分を省みて、そごうも雪印も非難しかねます。そもそも、赤字續きで經營危機に陷つた事のある毎日新聞が、どうしてそごうを非難出來るのですか。毎日新聞は、自分が一度も手拔きの記事を載せた事がないと断言出來るのですか。

私はそごうや雪印には全く腹が立ちません。しかし、毎日新聞には非常に腹が立ちます。國民を煽動する事で、言論そのものの價値を傷つけてゐるからです。

http://www.mainichi.co.jp/eye/gong/index.html

海の日と二千円札 at 2000 07/19 05:09

理由さへあれば、何でも實現しない物はないと云ふ良い證據。

「海の日」にしろ、二千円札にしろ、安直です、發想が貧困です。休めれあ良い、お祭ツぽくて樂しげならば良い――そんな思ひつきで出來たのが、海の日であり二千円札なのではないですか。しかし、「馬鹿げてゐる」と云ふ事は、「休める」日、「樂しい」お札を廢止する理由にはならないらしい。

人間、休みがないよりは休みがあつた方が良いものだし、樂しくないよりは樂しい方が良い――なるほど、それはさうです。しかしそれを認めてしまふのならば、自分が「愚民」であると呼ばれても默つてゐるが良いのです。自ら進んで馬鹿になつておいて、馬鹿と言はれて怒るのは身勝手です。

まあ、日本國民がさう云ふ事をきちんと理解出來る人間ばかりだつたならば、「海の日」も二千円札も制定されたりはしなかつたでせう。

そして私は、もう日本國は駄目だ、と書きたいが、恐らく日本國は未来永劫、こんな非論理的で好い加減なまま、何とかやつて行くのでせう。そして、何とかやつて行けるからと云つて、日本人は誰も論理的にものを考へようと努力せず、永遠に安心してゐる事でせう。

論理の塊みたいな國民の國の軍隊が日本を占領して、日本人を徹底的に改造すればよいのです。さうすれば否が應でも日本人は論理的なものの考へ方をせざるを得なくなります。そんなお人好しの「侵掠國家」が、この世にある譯はありませんが。

沖縄サミット at 2000 07/21 07:11

本日、二十一日から主要國首腦會議(「沖縄サミット」)が始まります。

アメリカのクリントン大統領が、「中東和平交渉の爲にサミットに不參加」とか言はれたり、二十日の日米首腦會議をキャンセルしたりしました。その爲、アメリカは日本を輕く見てゐるのではないか――さう云ふ論議が一部で起つてゐるやうです。

そんな事、當り前の話ではないのですか。強國のアメリカが、どうして弱小國の日本を尊重しなければならないのでせうか。

アメリカにしてみれば、日本は切捨てても構はない國です。クリントン大統領は今囘のサミットに参加し、取敢へず日本の面子は立てました。しかし、「世界の警察官」を以て自認する正義の國・アメリカが、正義などどこ吹く風、世界中で金を荒稼ぎする商人國家・日本を本氣で信用し、本氣で保護したいと思つてゐる筈がありません。

日本は、さう云ふアメリカから離れて自立する事など出來ません。日本人は、直情徑行的に、反米感情を燃上らせます。しかし、幾ら悔しくとも、日本はアメリカに敵はない。何をされようとも、日本はアメリカに従ふしかない。アメリカへの反感をむき出しにして、アメリカから切捨てられたら、日本は終りです。

そんな事はない――と言ふ人は多いと思ひます。左翼も右翼も、今は皆反米です。しかしながら、アメリカが世界中に「日本と貿易するな」と言つたら、一發で日本の經濟は破綻するのですよ。日本は經濟で成立つてゐる國だから、經濟の破綻は即「國の破綻」です。

日本は何を言はれようと、どんな態度をとられようと、アメリカに從つて生延びる他ありません。平和主義に殉ずるのも、「國家のプライド」に殉ずるのも、似たやうなものです。そもそも國家の最大の使命は、イデオロギーを守る事ではなくて、國民を生延びさせると云ふ事にあります。生存は共同體に屬し、正義は個人に屬するものです。そこを履違へてはいけません。

サンデープロジェクト感想 at 2000 07/23 13:26

テレビ朝日の「サンデープロジェクト」を見た。

ITに關して――

日本では、中年のをぢさんをばさんがPCを持つても、自分でPCを驅使して何か出來るやうになると云ふ事がありません。或は、そもそも渠等がPCに觸つてゐる風景は滑稽でしかありません。

都會に出てきたお上りさんと同じやうな雰圍氣を、PCに觸る日本人は皆持つてゐます。日本人の精神そのものが前近代的なのではないですか。日本人は、PCに觸る事は出來ても、PCを使ひこなす事が出來ません。

構造改革やら何やらをやつても無駄です。「情報ハイウェイ構想」は日本が元祖だと、國粹主義的な言ひ方をして威張つても駄目です。日本人は精神からして「科學以前」なのですから。

沖縄の米軍基地に就いて――

冷戰が終つて、米軍基地の存在意義は失はれた、と云ふ言ひ方をする日本人がゐます。米軍基地は日本にとつて何の意味があるのか、と言ふ日本人がゐます。私にしてみれば、その手の言ひ方をする事自體が、愚かしいとしか思へません。

冷戰が終つたからと云つて、アメリカには敵がなくなつたのですか。米軍は日本の爲に存在するのですか。

アメリカが沖縄に基地を置いてゐるのは、日本の防衞の爲などではない――そんなのは當り前の事です。今更そんな事を言立てても仕方がありません。今頃になつて氣附いたかのやうな顏をして、驚いて見せるのは馬鹿です。

アメリカの軍隊は、アメリカと云ふ國の爲にあります――そんな餘りにも當り前の事實に、なぜ日本人は氣附かないのですか。さう云ふ當り前の事實を忘れるから、異常極まる物の考へ方をして、日本人は平氣なのです。

「冷戰が終つた、だから沖縄の米軍基地は不要になつた」――この「だから」と云ふ言ひ方は、「科學以前」の物の考へ方に基いてゐるとしか言ひやうがありません。單純に、「冷戰が終つた」から何でも價値が變更される、と思つたら大間違ひです。

冷戰が終つて、確かにソ聯は消滅しました。それは事實です。しかし、冷戰が終つたからと云つて、アメリカの敵が無くなつた譯ではありません。或國にとつて、他國は全て假想敵國です。日本人は「和を以て尊しとなす」民族だから、さう云ふ防衞に關する常識がありません。

しかしアメリカは、今でも防衞に關する常識を持つてゐます。或は、冷戰が終つただの時代が變つただのと云つた基準で、防衞問題を考へません。渠等は常に、「最惡の事態」を基準に、自らの安全を守る事を考へる。

アメリカ本土で敵を迎へ撃つよりは、國外で迎へ撃つ方が、アメリカにとつては都合が良い――だからアメリカは國外に基地を持つのに決つてゐます。

アメリカ人は正義を重んずる國民だから、「安保條約でアメリカは日本を守る責任がある」とは言ひます。だが、「責任がある」と云ふ事は「義務がある」と云ふ事とは違ふ。自分の都合で日本に戰力を抛棄させたから、仕方がないからアメリカは日本を守るかのやうな言ひ方をしますし、言行を一致させようとしますが、いざと云ふ時にアメリカが日本を見捨てる事は大いにあり得る。

アメリカにとつて大事なのは、日本ではなくてアメリカ自身です。誰だつて、他人よりは自分の方が大事です、大事に決つてゐます。アメリカが身勝手なのではない、人間が身勝手であるだけです。アメリカが身勝手なのは當り前の事です――それなのに、日本人はアメリカを責める。

日本人は、自分が勝手に身勝手でないだけなのに、それを棚に上げて、他人の身勝手を罵る。いやいや、日本人だつて相當な身勝手です。アメリカにしてみれば、日本は日米安保條約で國防をアメリカにやらせておきながら、貿易では荒稼ぎし捲る實に身勝手な國だと云ふ印象しか持つてゐません。

何度も言ひますが、現在アメリカは正義感から日本を守ると云ふ約束を履行してゐますが、約束は必ず守られる筈のものではありません。アメリカは安保條約を反古にする事があり得ます。そして日本は、安保條約を反古にされて、アメリカに見放されたら終りです。

アメリカの身勝手を責めて、アメリカから切られたら日本國は潰れます。日本人は、自分の立場を自覺するがよろしいのです。國際社會は弱肉強食の實力社會です。弱い立場の國が強い立場の國を責めるのは無理があります。日本は弱い立場にあるのだし、アメリカは世界最大の強國です。

アメリカは寛容の精神を今は發揮してゐます。しかし半世紀前、アメリカは日本を徹底的にやつつけたではないですか。日本は何を思ひ上がつてゐるのですか。

今や、右も左も反米ですが、またぞろ日米戰爭ですか。もう一度アメリカと戰へば、今度こそ日本はお終ひですよ。生存の爲には、下手な正義感など發揮せぬがよろしい。何をされても、強者には從ふしかない。それが弱者の「生きる爲の智慧」です。

――それにしても、石原批判をする連中が石原と同じやうに「NOと言へる日本」とやらに憧れてゐると云ふのは、いかにも滑稽です。しかし、強國に「NO」を突きつけるべき日本の事を平氣で「情けない國」呼ばはりする邊り、現在の「國粹主義者」は精神分裂症氣味です。田原総一朗は一體何を考へてゐるのでせうか。

教育改革國民會議の諮問に就いて at 2000 07/27 10:33

森喜朗總理の私的諮問機關「教育改革國民會議」の三つの分科會が二十六日、それぞれの審議の報告書を纏め、森總理に提出した。

第一分科會は「日本の教育のおかれた厳しい環境を考えたとき、教育基本法に触れることなく改革の論議を行うことはもはやできない」と云ふ總括を行つてゐる。

報告書では、戰後の教育は「人間が希求するものと現実の姿とを混同し」てゐたと分析、「人格のできていない人間は本来、高等教育を受ける資格がない」「教室で道徳を教えるのにためらう必要はない」と主張、小學校で「道徳」、中學校で「人間科」、高校で「人生科」の設置を求めてゐる。

學校が人間教育の場であると云ふ主張は誠に素晴らしい、御立派なものです――そんな教育を出來る教師が揃つてゐれば、ですが。無理ですね。そんな理想的な教育を出來るものですか。

教育で可能なのは、知識の傳達のみ。道徳教育なんてものを一生懸命やつてみた所で、全うな人間は簡單に出來ません。

道徳だの人間科だの人生科だのと云つた、名前だけはありがたさうな「教科」を作るのには大反對ですね。さう云ふ科目を作ると云ふ事は、他の科目を教へる時間を減らすと云ふ事です。多分、國語がまた減らされるのではないですか。さうすると、妙に思想的なくせに、他人の言ふ事も正しく理解出來ない非論理的な人間が矢鱈と「量産」される結果となるのではないですか。ならば、止めた方がよろしい。

國語の時間を増やした方がずつと有益です。文章を正しく讀取る能力、論理的な思考能力を鍛へさせた方が餘程日本人の爲になります。變に悟り切つた人間を作る事にばかり日本人は戰前も戰後も熱中してゐますが、中谷宇吉郎の言ふ「科學的な心」を養成した方が良いと思ひます。科學にしろ數學にしろ、ものを考へるには言葉を正しく使ふ必要があるのですから、國語力さへ人間は身に着ければ良いのです。ほかのものは全て後囘しでよろしいのです。「生活科」なんてものは即刻廢止すべし。

某所の投稿を孫引き at 2000 07/29 19:10

<引用>

「人権派は氏ね!」というような短絡Jウヨは、きっと近代的責任概念を 少年のうちから身につけることの出来た、西洋人なんでしょう(苦笑)

厳罰化できるほど、日本は個人に責任を押し付けるような国じゃないのは お国柄を理解している愛国者ならわかるだろうに。。。

</引用>

左翼が「俺の愛國心を理解して下さい」だつて。自稱左翼が「俺は國粹主義者なんです」と白状してどうするの?

「俺は左翼だ。右翼の國粹主義者は馬鹿だ」と言ふ人間に限つて、非道く「國粹主義的」で「愛國的」な言動を繰返すのはどう云ふ譯だらう。

ドイツで原子力全廢が決る at 2000 07/31 13:15

<引用 讀賣新聞朝刊>

ドイツ政府と同國電力業界は原子力發電を平均三十二年間で全廢する方針で合意した。

</引用>

讀賣新聞はドイツのこの方針を、批判的に報道してゐる。「無責任」だと云ふのである。原子力發電を止めても電力の需要がなくなる譯ではないから、ドイツは外國から電氣を買はなければならない、ドイツが依存するとしたらフランスの電氣である、そのフランスは電力供給の八割を原子力發電が占めてゐる、結果としてドイツは「外國に原子力發電を輸出した」に過ぎない――さう云ふ批判がドイツ國内にあつた事を讀賣新聞は紹介し、「的を射た批判」だと言つてゐる。私もこの批判が正當なものだと思ふ。

だが、この批判を正當だと認めるのならば、讀賣新聞は「戰爭放棄」が「戰爭の輸出に過ぎない」事を認めねばならないのではないか。私は讀賣がいまだに「戰爭は嫌なものだ」と云ふキャンペーン記事をえんえんと連載し續けてゐるのに疑問を持つのである。

「それとこれとは話が別」――日本人はかう言つて、一貫したものの見方をしない事を正當化する。そして、個別の問題にそれぞれ異つた態度で望む事を、日本人は誇る傾向がある。異る問題の解決には異る理論が要請されるものだ――非常に俗耳に入りやすい論理だ。だが、そこには大きな間違ひがありはすまいか。

必要な理論は異るかも知れない、だが、理論を採用する人間の側の態度は一貫してゐなければならない。「それとこれとは」云々と主張する人は、理論と、態度とを混同してゐるのだ。

ドイツの「原發全廢合意」を批判する時に、讀賣新聞は現實主義の立場をとつてゐる。一方で「戰爭の悲慘さ」を宣傳する際に讀賣新聞は理想主義の立場をとつてゐる。

私は讀賣の現實主義と理想主義の間に梯子を見出し得ない。だが讀賣は、この二つの主義の間を平氣な顏をして飛移る。讀賣新聞のかう云ふ態度に、私は知的不誠實を見出す。

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