初出
野嵜健秀 (nozakitakehide) は Twitter を利用しています」2013年01月11日/01月31日
公開
2014-03-09

ジャック・マリタン『三人の改革者』


ウェブでは「私の都合が最優先事項」と言ふ人を結構見かけるけれども、神樣(God)が中心と云ふ發想から個人が中心と云ふ發想に移つたのが近代である、と云ふ事は意外と忘れられてゐる。

個人を神聖視する近代の思想は、人格と個人とを混同したところから始まつた。

現代人は、個人個人と餘りに言ふものだから、他の人々との繋がりを斷切つて孤獨に逃避する傾向が強い。それは現代の病弊であると、反近代の思想の系譜に連なる人々は、常に指摘してゐる。

この邊の問題はジャック・マリタンが念入りに論じてゐるのだが、俺が勸めてゐるからと言つて『三人の改革者』(彌生書房)を讀まうとする人が何人くらゐゐるだらう。


近代個人主義とは何なのであろうか。それは誤解であり、意味の取り違いである。すなわちそれは人格に偽装した個性の崇めすぎであり、その分だけ真の人格の価値を下落させたことである。

社会面からこれをみると、近代国家は人格を個性のために犠牲にし、個人には普通選挙権、法律上の平等、言論の自由等をあたえ、その結果人格は孤立し裸にされ、これを支持し保護するいかなる社会的基盤もなく、霊の生命を脅かすあらゆる破壊力――利害や性欲の衝突がひきおこす残酷な相つぐ闘争や物の生産と消費への無際限の要求――に委ねられることになった。近代社会は各人が生まれながらにして己れのなかにもっている一切の貪欲や欠点に絶えることのない官能的刺激と眩惑的で刺激的なさまざまな種類の際限なく押し寄せる誤謬とをつけ加えた。しかも近代社会はこれらに認識の世界での自由な往来を許した。かくして近代社会はこの渦中におかれた人間の哀れな子供たち一人一人に「お前は自由な個人だ。ただ一人で自分を守り救いなさい」と言う。これこそまさに殺人的文明である。

別の観点よりこれをみると、もしも国家が際限のない個人によって組織されなければならないならば、その場合には個人は前述のように一部分にすぎないのだから論理的帰結として完全に社会全体に吸収されてしまうであろう。個人はもはや社会のためにのみ存在し、その結果ごく自然に個人主義はホッブスの君主的専制主義に、ルソーの民主専制にあるいはヘーゲルや彼の弟子たちの国家―摂理、国家―神の専制主義に到達するであろう。

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