制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十一年八月十五日
公開
2009-12-05

神道信者の論理とアンチ神道

神社神道の本としては、神社本庁が出してゐる本が基本圖書であるべきで、だから集めて讀んでゐるのだけれども――神道を非難してゐる人は、神道關係者が言つてゐる事は當然のやうに讀んでゐないだらうけれども、神社本庁の規定とか宣言とか、さう云つたものは全部無視して、臆測と惡意の解釋だけで極附けてゐるんだらうと思ふ。

臆測と惡意の解釋を「するのが當然」と思つてゐる人ならば、他人の言つてゐる言葉の斷片を捉へて、自分に都合の良いやうに=相手に不都合になるやうに、意圖を歪曲して傳へるけれども、さう云ふ普通に考へて「やつてはならない事」も、彼等にとつては「當り前の事」に感じられる。今の神社神道の事も「歪曲して傳へる」のが「當然」と考へてゐる人々は、「神道を潰せさへすればそれで良い」し、「どんなに惡質なやり方をしても、結果として神道を潰せるならば自分は正義である」と、心から信じてゐる。

「價値觀を理由に自分の行爲を正當化する」態度は、狂信的なものだが、客觀的事實として「相手が信仰を持つてゐる=相手が信者である」ならば、主觀的に自分が狂信者であつても自分は惡くなく相手だけが惡い事に出來ると、彼等は心から信じてゐる。この種の「言ひ訣さへ出來れば、自分の態度は、どんなに惡くても、惡くはないと言張れるし、惡くないと言張れるなら惡くないのは事實である」と云ふ思ひ込みを「出來る」やうに日本の社會が出來てゐる事は、日本の社會の――或は、日本の文明の深刻な缺陷だと思ふ。

戰前の國家神道は、國家の「利用する側」と、神道關係者の「利用された側」とがあつて、「利用する側」は案外信仰なんて持つてゐなかつたのだが、敗戰で兔に角「利用する側」は、最う「利用」が出來なくなつた――と言ふより、利用すべき理由を失つて、神道を放り出した。一方で「利用された側」である神道關係者は、しかし、敢て近代以來の神道の體制を引繼いで、「利用する・されるの關係を排除した場合」の、あるべき神道の姿を摸索し、當座・間に合はせの形態ではあるが(急拵へである事は神道關係者が一番自覺してゐる事だ)、今ある神社神道の體制を再構築した。その際、極めて興味深い事に、現代の神道の原理を「まこと」に求めてゐる。これは小野祖教氏の發想に基いてゐる「概念」だが、他の宗教で云ふ「眞理」の類だと言ふものの、「それを知りさへすれば濟はれる」とか云ふものではない。神道神學ではさうした眞實を「求める」と言ふよりは、ありのまゝのものを認める事を重視するし、それに「奉仕」すべき事を言つてゐる。斯うした態度は、學問的な態度に近い。と言ふより、現代の神社神道は、神職でないインテリが體制を作つた關係もあり、相當に洗練された思想を持つてゐる。小野氏や葦津珍彦は、神道の信仰を持つた人であるが、神職ではない――神職との接觸は多く、祭祀の内容を詳しく知つてはゐるが、祭祀に直接關つた人ではない。が、戰中は國と、占領期間中はG.H.Qとやりとりを行ひ、そこで強力な理論的立場を獲得した人である。さうした人々が、民主主義體制の下で神道を生延びさせる爲に戰略的に採用したとは云へ、信仰の原理として「まこと」なる概念を用意した事は、大變に興味深い。小野氏は戰後に「急造」された神道ではあるが、十分體系的に説明できてゐるものと自信を持つて述べてゐる。

小野氏や葦津氏の發言を通して判るのは、明かに現代の神道が、現代的なセンスを持合せてゐる事で、同時にそれが古代以來の態度と關聯を持つてゐる事だ。宣長は漢意のやうな「さかしら」を排除したと言ふけれども、それが學問的態度であるのか、神道の信仰的態度であるのか、區別はつけ難い。それと同じで、現代の神社神道の基く態度も、物事をありのまゝに認める態度であるが、學問的であると同時に、信仰的でも或と言はざるを得ない。「アンチ神道」の人ならばその「信仰的」側面だけを極端に誇張して惡意で極附けるところであるが、神道の立場からはさうした惡意の解釋もまた「さかしら」であつて拒絶すべきものであらう。私には、現代の神道が示す態度は、好ましいものにしか見えない。或は、神道の態度を私は好意的にしか解釋しようと思はない。惡意による解釋は、歪曲であるし、歪曲である時點で、學問的にも信仰的にも認められないものとなる。もちろん、政治的に「有效」か否かと云ふ發想をしかしない人もゐる訣だけれども、私はさう云ふ發想そのものを拒絶すべき事を學んでゐる。ところが、世間にはさう云ふ發想をありがたがり、さう云ふ發想をしない人間を憎惡する政治主義者=政治の狂信者が大量に存在する。その中には極端な「活動家」がゐて、Kirokuroや「義」、或は「福田恆存をやっつける会会長」のやうな人々だが、彼等には宗教的な信仰がない事は論ずるまでもなく――そもそも學がない。學と言つても、學歴のやうな目に見えるものは全く意味がなく、本質的な意味でのである。歐米において、文化は、即、教養であるが(culture)、生き方としての文化と、生き方としての教養とが、イコールである事は、先進國よりも寧ろ後進的な社會における方が、維持されてゐよう。そのcultureとしての「學」を、持つてゐない人が、日本には多いし、さうした人が「活動的」になると、これほど困つた事もない。ところが、さうした人々には自分逹が如何に迷惑な存在であるかが理解できないし――誰かに自分の存在を迷惑に感じさせる事に意義がある、「自分の存在を迷惑と感ずるのは、その人が惡人だからである」とすら思ひ込んでゐるから、たちが惡過ぎる。斯うした「學のない」人間、一切の倫理的な觀念を持たない人間が、「増加してゐる」と云ふのが現代の日本の問題である訣だが、實際は、もともとさうした人間が日本には多いのであつて、それゆゑに日本では問題が問題として自覺されて來なかつた。

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