「神道」と呼ばれる「宗教」が「ある」とされてゐるのが現状ですが、その實態は他の宗教と可なり異ります。
基本的に、神社本廳の下に神社は結集してゐる訣ですが、同時にそれらの個別の神社がそれぞれ宗教法人格を持つてゐ(る場合があり)ます。
創價學會は日本各地に支部を持ちますが、それらの支部は獨立の宗教法人ではありません。しかし、神社の場合、支部的な役割も持つ地域の神社が、それぞれ一つの宗教法人たり得ます。が、それで神社はばらばらかと言ふとさうではない。
靖國神社も現在は獨立の宗教法人です。が、だからと言つて神社本廳と袂を分かつたのかと言ふとさう云ふ訣ではありません。
この邊、神社神道が「特殊な宗教」である所以です。
「神道には教義がない」――これは現在の神社神道がとる一つの立場です。この立場は、飽くまで戰後、神社を統括する爲に設立された「神社本廳の立場」である事に注意する必要があります。
歴史的に、神社はそれぞれ別の神樣を祀つてをり、神社毎に教義を持ちます。神社は、祭神を祀り、地域・國家を鎮護する公共的な祭祀の機關であつた、と同時に、氏子に對しては一定の教誨の活動も行はれてゐたものです。
それが明治以來、神道における祭祀と宗教の兩側面は政策的に分斷され、前者が國家神道として成立し、後者は所謂教派神道として成立する事になります。教派神道では、それぞれ宗教として教義を持ち、布教活動も行はれて來ました。しかし、飽くまで祭祀である國家神道は、宗教としての活動が「出來ない」ものとされ、神道人にも活動の制限が課せられてゐました。
實際、祭祀の機關として、國家神道の神社は國の管理下に置かれてゐました。宮司もまた國家に養成されてゐたものです。しかも、政策のゆれが激しく、神道人の立場は不安定でした。神社の管轄官廳の變轉は、意外と複雜で、定まりがありません。國の側でも結構「持て餘してゐた」と言つて良いでせう。神道人にしても、不自由さとともに、さうした政策の不安定な事は、大變迷惑なものであつて、さうした中での活動は困難を極めてゐたと言ひます。戰前の神道が國家の體制を背後に持つて權勢を奮つてゐた、と想像する人がゐたら、完全な誤です。
改めて言ふまでもなく日本は昭和二十年八月十五日に對米戰爭に負けます。聯合國を代表してアメリカ軍が日本に進駐してきます。占領下で、戰前の體制は破壞され、自由主義國アメリカ流の體制が持込まれる事になります。さうした状況下、神道は自由主義の敵として、進駐軍に睨まれる事となります。
戰後の神社神道が成立したのは、祭祀としての國家神道もまた宗教であると看做したG.H.Qによる「指導」の結果です。或は、國民統合の精神的バックボーンとして存在してゐた神道――と言ふより、神道なる形式で國民の精神的統合が象徴され成立してゐた、と言つて良いでせう――を、日本の政治から拔取る事がG.H.Qの目的であつたと言ふ事も出來ます。
戰後の混亂の最中に國語表記の破壞が「實現」し、既成の文化の解體が進行してゐました。國家神道も當然、破壞の對象となるところでした。神道指令は、一見公正なものですが、國家權力と本意でないにしても微妙に關はり合つて成立してゐた國家神道にとつては致命的なもので、實質的に「宗教彈壓」であつたと言へます。
制度的には最惡の状況下であつたものの、神道關係者にしてみれば、さうした状況を何とか乘切り、文化を後世に引繼ぐ事が重要でした。その爲、機能的に不完全であり、或意味機能不全にすら陷つてゐたとは言へ、まがりなりにも存在してゐた國家宗教と云ふ「宗教組織」を、そつくりそのまゝ遺産として(負の面も含めて)引受け、敢て全面的に明治以來の神道の傳統を維持する方策をとる事を決めます。
戰前の國家神道が、神道のダイナミズムを殺がれてをり、必ずしも評價出來ないものであつた事は、神道人から指摘されてゐます。しかし一方、「政治と結合した國家神道」への反動から、戰後、政治から精神的なものが根こそぎ拔取られつゝありました。さうした状況に對して、神社神道は改めて抵抗の姿勢を示したのだと言へます。勿論、大原則として「政教分離」の建前が導入され、一般にはドグマ化して定着してゐる爲、少しでも――祭祀であつても政治の領域に再び役割を得る事は困難ですが、しかしそれが全く不必要になつてゐる訣でない事實があり、さうした時には何うしても神道の存在が必要になる事になります。
國家神道として組織されてゐた神道界は、戰後、已む無く組織をそのまゝ活かして神社神道へと移行し、神社本廳を中心に結束して戰後の困難な時期を乘切らうとしてゐます。教義を定めなかつたのは、占領期の混亂した状況下で、政治的な内容が這入り込む事を避け、時期を待つ、と云ふ理由があります。さう云ふ意味では現在も神社神道は今が「戰後」であると云ふ認識を捨ててゐないと言ふ事が出來るでせう。
現在の「宗教法人」のあり方は、戰後、G.H.Qの影響下で定められたものです。そこには教團組織を前提とした、プロテスタント的な發想が「ある」と指摘されます。さうした「宗教法人」の定義には、神道が適合しないのは當然ですが、佛教寺院もまた必ずしも巧くは適合してゐません。キリスト教内部でさへ、カトリックは一枚岩ですが、プロテスタントでは個別に教團が存立してゐます。
信者が集つて、組合的な形で教團を形成する――さう云ふ發想が現在の宗教法人法にはあります。が、かうした形での宗教團體の定義は、必ずしも「宗教法人」として登録されてゐる團體の實態とは合致しません。特にそれは神社において言へます。
神社の場合、地域の共同體から國家まで、鎮護の對象に大小があるものの、「共同體の鎮護の爲に設立された祭祀の機關である」と云ふ性格が強くあります。特定少數の信者の利益の爲に設立される教團とは異り、公共の目的で存立してゐる團體である、とすら言へます。
「俺は神道の信者ではない」と主張する事は可能です。ところが、所謂「神道の信者」でない人、クリスチャンや佛教徒であつても、神社に御參りする事は、神社の側からは、全く妨げられません。江戸時代までは神佛習合が普通に行はれてゐたもので、明治以來の兩者の分離は、必ずしも適正な形で行はれなかつたと言へる場合も多いやうです。
明治以來の神道に關する政策は、混亂を極め、一面で國民の統制に用ゐられ、他面、神道そのものの活力を奪つて來ました。けれども、國民の精神的な統合を支へる基盤として祭祀の形態が必要であつた、と見るならば、それに國家神道と云ふ形態が與へられた事は或程度必然であり、一概に排斥する事は出來なかつたし、これからも出來たものではない、と言ふ事が出來るでせう。
既に述べた通り、神社は「共同體の祭祀の機關」と云ふ公益的な性質も持ちます。さう云ふ性質の神社を、政治から排除する目的で、現在の宗教法人のあり方は定められてをり、實際、政教分離の名目で神社への公金支出が非難される等、占領軍の考へた「初期の目的」は或意味達成されつゝあります。が、さうした「徹底した政教分離」が妥當なものか何うかは、實は檢討の餘地があります。
神社が一面、公益性を持ち、共同體の鎮護の目的で長く存在する事を要請されて設立された機關である事は、否定出來ません。「祭祀の機關」である神社が、他の宗教團體と等し並みに「宗教」として扱はれるべきか何うか――戰前、政治と結合してゐた國家神道が、戰後、政治と決定的に分斷されつゝ、同時に政治が必要とする精神的な側面を一手に引受けて、私的團體としての神社本廳として成立してゐる事は、政治と祭祀のあり方について、重大な問題を投掛けてゐる、と言つてよろしいと思ひます。