制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2003-01-26
初出
「闇黒日記」平成14年12月18日

戰後の神社神道

本記事の概要
現代の神社神道は、「傳統を否定しない」と云ふ立場に基いて、戰前の國家神道を敢て引繼いでゐる。ところがこの神社神道は、寧ろ傳統から斷絶された現代の多くの思想家よりも自由主義的な主張を行なつてゐる。

國家神道は誤であつた、と云ふのは現代の「定説」であるやうですが、今の神社本廳は飽くまで國家神道を引繼ぐものであると云ふ立場を採つてゐます。國家神道が誤であつたとしても、少くとも明治の先人が近代に適應しようと努力した結果である事は否定出來ないからであります。國家神道は、結果として失敗に終つた譯ですが、失敗だつたからと言つて戰後の日本人は國家神道を全く顧みようとしてゐません。

明治以前の日本人の思想や觀念を基に、何とかそれを近代に適應させようとした結果である國家神道には、それなりに合理的な側面もあります。もちろん、巧くいかなかつた側面もあります。しかし、曲りなりにも國家神道は明治以來昭和二十年まで、日本人の精神的な支柱として機能してきたのであつて、戰爭に負けたからと言つて綺麗さつぱり捨ててしまつて良いものではない――さう云ふ譯で、G.H.Qが日本の改革を進める中で、神道界は敢て國家神道を引繼いだ。

その後の神社神道が、戰前以來の體制を引繼ぎつつ、意外な事に、優れて近代的な思想的態度を示してゐる事は、本の紹介で紹介した『現代神道研究集成(9)神道と國家』が良く示してゐると思ひます。神道關係者が冷靜に論理的な説得を續けてゐる事は、意外なやうですが、事實です。寧ろ、神道を良く知らない右翼關係者の方が、神憑り的な事を言つてゐたりします。

非合理的である筈の神道を信じてゐる人が論理的な説得をしてゐるのは、意外な事に、合理主義を信じてゐる筈の革新的な多くの日本人に納得されません。彼らは、神道關係者の論文を讀みません。讀まずに、批判します。或は、讀んでも、論旨を見ず、字句を見て、或は、結論だけを見て、非難します。どつちが合理主義なのか、容易に解つたものではありません。

それはともかく、失敗であつたものであつても、それ以前のものを引繼がうと努力した結果であつた國家神道を、形式的に引繼いだ現代の神社神道は、個人的な感想かも知れませんが、日本の傳統を正しく引繼がうとしてゐると思ひます。

inserted by FC2 system