- 制作者(webmaster)
- 野嵜健秀(Takehide Nozaki)
- 公開
- 2001-09-05
神道と天皇について
1
- 日本の神道は統一された教義を持たない。
- 全ての神道者は、各自の説を、自らの責任に於て奉じ、信ずる事が許される。
- 日本の神道は、自由主義と似たところがある。
- ただ、現代の日本で採用されてゐる政治理論としての自由主義と、神道の「自由主義」とは、必ずしも一致しない。
- 神道の「自由主義」には、重要な制約がある。
- 各自が諸説を述べる事は構はないが、その説は常により高貴な存在の者に對して、恥ぢるところなきものでなければならないのである。
- 自分勝手は神道に於て許されないのであり、それが現代日本の自由主義と異る點である。
- もちろんこの神道の「自由主義」にも缺陷はある。上の者に對して恥ぢるところなき言動が要求されると言つても、それを守るか守らないかは本人の心掛け次第でしかない。
2
- 神道は、相對主義の日本人の仕來りを説明する、極めて良く出來た理論ではある。
- 日本の神道では、常に上位の存在が要請される。その上位の存在の者の威厳が、下位の者に節制を要求する。
- ところが、上の者が轉ければ、下の者を制約する「壓力」はなくなる。これが神道の弱みである。
- 神道は相對主義のベストの理論であるが、相對主義である以上、絶對主義程の強さを持ち得ない。
3
- 宗教として見た場合、神道の本質はアニミズムである。汎神論である。
- 山川草木のみならず、人もまた神たる。具象・抽象、區別無しに、神たる。
- ここに、信仰形態が無數に生ずる機縁がある。そして、同時に、教義の統一のあり得ぬ理由がある。
- 土俗的な信仰と「國家神道」との間には、數限りない階梯がある。直接は結び附かない。しかし、兩者は、教義を持たない神道の中に許された、個別の教義に基く信仰である。
- 神道は、統一された教義を持たぬがゆゑに、對立する個別の信仰を、等しく神道の中に含める。
- 豐臣秀吉の崇拜者と、豐臣氏を滅ぼした徳川家康の崇拜者とは、互ひに相容れぬ筈である。しかし、豐國神社も東照宮も、神社である。
4
- 「自由主義」的な信仰形態を容認する神道は、それゆゑ、内部の對立が避けられない。そこに、地上に於ける神道の最上位の存在としての天皇が存在する意義を生ずる。
- 對立する神道者は共通して尊崇する天皇の下に集合し、異る説の所有者が神道と云ふ全體の統合を維持するのである。
- 天皇は、皇孫として皇祖を祀る、地上最大のシャーマンであり、極めて高貴な人である。が、天皇は神の子孫であり、人の間では神として振舞ふ。「現人神」たるゆゑんである。
- 政治に於て、「天皇の名」が屡々「惡用」された、と云ふ事になつてゐる。しかし本來、政治家は、政策を天皇の名で實行する時には、天皇の名にふさはしかるべき内容を、既に成立させてゐなければならない。
- 天皇の名によつて、物事が淨化されると考へるのは、誤りである。天皇にふさはしかるべく、日本人は言動を正しうすべく努力しなければならない、と云ふのが神道的發想である。
- 戰前の日本では、この發想が必ずしも普及してはゐなかつた。それゆゑ戰爭中、神道關係者は屡々、軍人・政治家の言動に反對した。大東亞戰爭中、もつとも「自由主義的」な態度をとつたのは、實は神道關係者である。
- とは言へ、この神道的な發想は、戰前、戰中、必ずしも巧く機能してはゐなかつた。それは事實ではある。
- だが、だからと言つて、この發想・この機能を殺してしまつて良いものだらうか。
- 實際のところ、日本人が曾て放恣に全て流れなかつたのは、不完全ながらもこの神道的な制約が有效に働いてゐたからではなかつたか。
5
- 戰後、天皇と云ふ、日本人の道徳に於る「重し」がなくなつてしまつた事で、日本人の相對主義は、自分勝手の一般化に決定的な役割を果すやうになつた、と言へる。
- 天皇の名の下に、慥かに政治的な誤は多數なされたであらう。しかし、天皇を失へば、日本人の道徳は消滅する。
- たかが政治的な誤ごときの爲に、日本人の精神的支柱たるべき天皇を廢絶するのは、本末轉倒である、と私は考へる。何の後ろ楯もない自律等、人間には不可能である。
- 殊、抽象的なイデオロギーは、日本人の道徳にとつて何の役にも立たない。日本人は千年以上の間、具體的な上位の人と云ふ道徳的「重し」によつて、自らを律してきたのである。その上位の人の中で一番重要な存在である天皇は、日本人の道徳的な「重し」として、決定的な存在である。その決定的な存在を失へば、日本人は自律をすべき根據を失ふ。
6
- 千年以上、日本人は天皇を戴いてやつてきたのである。今更おいそれと天皇の代りとなる存在を拵へる事は出來ない。出來たとしても、代用品は所詮代用品に過ぎぬ。
- 本質的に革新が出來ぬのなら、保守的な態度を取るのが當然の事である。そして、道徳に容易な革新はあり得ない。道徳が保守的であるのは道理である。
- 道徳は政治と對等の存在であり、道徳的な立場からの提言を、「俺は政治を優先させる」と言つて、切つて捨てる事は許されない。