制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十年十月三十一日
公開
2008-12-01

默示文學とキリスト教――或は現代思想とキリスト教

歴史を終末の破局と審判の相の下に、普遍的かつ全体的なものとして捉えた黙示文学は、今日のキリスト教神学のみならずマルクス主義の主要な思想的源泉として、今なお生命力を保持している。本書は、黙示文学の起源と歴史的連関を様々な角度から検討し、さらに後代への影響を辿る。また実存理解においてグノーシス主義と共通するとのユニークな解釈を提示する。

黙示文学は、今日、神学の議論のまととなっている。それは、黙示文学の遺産が生命力を保っているからである。しかも、黙示文学はキリスト教以降の様々な世界観の中でも発言を求めている。つまり、宗教的なよそおいを取り払ってもなお残る要素が、黙示文学の中に明らかに存在するのである。

もちろん、誰もが黙示文学の遺産に支えられて生きていることを意識しているわけではない。また、この遺産のことを口にする人でも、口にするのがおこがましいほどに、黙示文学について無知であることもしばしばである。

……。

昔、マルクス主義はキリスト教の鬼子であると俺はYahoo!掲示板で指摘した事があるのだが、その時、例の元國營企業社員Fがしやしやり出て、淺はかにも「マルクス主義は宗教を否定するからキリスト教とは無關係だ」と言放ち、自分が誤つてゐる事にも氣附かないで、好い氣になつて俺を侮辱したのだが、俺はその事を何時までも忘れない。無知な人間ほど自分の淺薄な解釋に固執するものだが、その「淺薄な解釋」は大抵大變簡單で明瞭な内容である。Fは今でも淺薄皮相の物の見方を持ち續けてゐる事だらうし、自分の淺薄な物の見方を反省する謙虚な態度を身に附けられないでゐる事だらう。少くとも、キリスト教やマルクス主義に關する知識を新たに身に附けようとだけはしてゐない事だらう。自分は完璧な知識を持ち、完璧な解釋を出來るやうになつてゐると、Fは當時、既に思ひ込んでゐた。斯う云ふFのやうな、皮相な物の見方と固定觀念の奴隷になつた人間が、日本では大きな顔をしてゐるから注意しなければならないが、彼等は自分が威張つてゐると自覺する事も出來ないから、全くもつて困りものだ。

ベルジャーエフでも知つてゐれば、マルクス主義とキリスト教の關係は疑ひやうもないのだが――しかし、そもそも資本主義とか民主主義とかも、キリスト教と繋がつてゐると云ふ事を、多くの日本人が氣附かないでゐるのでないか。

『とある魔術の禁書目録』(電撃文庫)で、宗派が岐れた理由として「宗教に政治が入り込んだから」と簡單に言つてゐたのが俺は氣に入らなかつた。宗教絡みで日本人が氣附き得るのはこの程度の事でしかない。日本人は宗教に關して甚だ鈍感である。

ディルタイの『世界觀の研究』(岩波文庫1221)を讀んでゐるのだけれども、價値觀・世界觀と言ふものは、人が生きて行く間に「氣分」として形成される。價値觀・世界觀は、生活の結果として成立し、生活の場は歴史的に形成されてゐる。よつて價値觀・世界觀は歴史的に形成されたものである。キリスト教社會において、人の生活は一つの形式をとり、その中で一つの「氣分」が形成される。キリスト教社會の世界觀・價値觀である。キリスト教社會で歴史的に形成された近代社會において、マルクス主義も誕生してゐる。マルクス主義がキリスト教社會の所産であり、キリスト教社會の世界觀・價値觀を繼承してゐる事は間違ひない。ところがFにはそれが解らない。Fが典型的日本人だからである。Fは、「キリスト教」と聞いて「キリスト教の宗教的側面」しか認識出來ない――しかも、甚だ知識的・記號的な認識である。「氣分」としてのキリスト教社會的世界觀・價値觀の存在を、Fは認識すら出來ない。だからこそ、マルクス主義とキリスト教社會の關係を、Fは認識出來ないし、それを指摘されると「トンデモ」だの「電波」だのと思つてしまふ。

inserted by FC2 system