制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成二十二年七月二十二日
公開
2010-11-27

ヨゼフ・ロゲンドルフ「ヒューマニズムとカトリシズム」より

雜誌「カトリック思想」にヨゼフ・ロゲンドルフは澤山論文を書いてゐる。

1947年秋季號にロゲンドルフは「ヒューマニズムとカトリシズム」と云ふ文章を寄せ、近代の「俗化ヒューマニズム」が、カトリックと決して無關係のものでない事、カトリックから出てカトリックから絶縁し、結果として生命を失つたものである事を指摘した。全文を通して讀んだ讀者は、近代のヨーロッパの一見「非宗教的」な思想が、實は盡くカトリックに基いてゐる事を――少くとも、カトリックの人はさう主張してゐるし、それにはちやんとした理由もある――看て取れよう。ロゲンドルフの論文には、話の流れがあり、讀めば解る説明になつてゐるのだが、今は全文を轉載する餘裕が無いし、許可も得てゐないので、以下には一部分を拔出して掲出するに留める。

この文章が、後述する單行本・文庫本の類に再録されてゐるか何うかは確認してゐない。興味のある讀者は、何らかの方法で元の雜誌を探し出し、全文を通讀されるとよろしいと思ふ。

又、ルネサンス人文主義者が古き傳統から離脱したとはいい條、それは完全な離脱ではなかつた。グラープマンもジルソンも、對スコラ哲學攻撃の矛先は、實際には、ここから分裂し墮落した後日の唯名論唯名目論に向けられたものであったと説き、且、ヴァラやエラスムの如き代表的人文主義者をも含めて、いかにトマス・アクイナスを高く評價する人々の多かつたかということを現している。然し更に見るべきは、當時代の氛圍氣がカトリック的文化に全く浸つていたこと、そしてヒューマニズムが、他からは受けたこともないほどの靈感をそこから受け取つたことである。「人間の創造的活動力は當時絶頂を極めていた」とベルジャエフはいつている。「全西歐文明は古代に源を發する正統(カトリック)キリスト教の有する文化の上に根をおいていた……」更には、反人文主義的とあれほど蔑視される中世の禁欲主義すら、人心調節の役割を帶び、あの訓育をほどこして、書記ヒューマニズムを活かしたのであつた。「中世は人間の力を安全に保護し、ルネサンスの絢爛に至る道を備えた。人は中世の體驗を、中世の準備を經てこの開花に到達し、かくてルネサンスの有する眞に偉大なる一切のものは、キリスト教的中世に結ばれたものなのである。」

ヒューマニズムは傳統的キリスト教なくしては存在し得ず、これなくしては不具となりやがて消え去るほどにも、これと親しく近いものなのである。「ヒューマニズムとは、根本的に寄生蟲である」とT・S・エリオットはいう。「苟も存在するがためには、それは何かしら他の心的態度に依らねばならぬ。」而してこの「何かしら他の心的態度」を、この國の現代人文主義者たちはまさに今とりいれつつあるところなのである。彼等はもはや「純正人文主義者」ではない。實存主義、リベラリズム、社會主義、共産主義あるいは虚無的な辨證論の陣營の内に、彼等はその勢力を分散した。これら「心的態度」の一つ一つを宗教にまで昇格せしめようと彼等は無注になつて努めている。丁度過去四世紀にわたつて、合理主義者、觀念主義者、プロテスタント等の先驅者が努めた如くに。人文主義的人間は、宗教的基礎からの絶縁が招き出しそこに彼をつきおとしたあの孤獨の淵には堪えられなかつた。彼は擬似宗教を、摸擬教會を作り出す。「ヒューマニズム轉じて宗教となることは、即ちルネサンスの生んだ悲劇のやま、現代とよばれる一時代の終焉である。」(ベルジャエフ)

現代歴史の結實は、ただに俗化ヒューマニズムが今いつた過程を辿ったことを示すのみならず、更に、其事は明澄さを以つて、この展開が終に何處に到達するかを指示するものである。何となれば、俗化ヒューマニズムは、傳統的キリスト教に抗つて身を引いたすべての異端が併せ持つ三つの特徴を明らかに示しているからである。即ち、カトリック教理(ドグマ)の全般から二三の教理(ドグマ)を拾いあげたこと、その教理(ドグマ)を殘る教理(ドグマ)全般に對立せしめたこと、第三に、これは一際目立つことであるが、かく拾いあげた教理(ドグマ)が正に教理(ドグマ)であることを意識していない點である。すべての異端は一つの點において共通する。即ち勝手に拾いあげた教理(ドグマ)をカトリックの教理(ドグマ)的全構成及びこの全構成の論理的前題から引きはなすこと、それである。彼等は、この作りあげた教理(ドグマ)を自明の眞理であると宣明する。しかし實際においては、彼等は自身の氣分若くは時代の氣分と、客觀的良心及理性とを混同しているのである。次の時代が新しい氣分を伴つて訪れれば、彼等の教理(ドグマ)はすたるのである。初期改革者逹の創案した教理(ドグマ)が、その反對者逹によつて潰され取つて代られてから既に久しい――「信仰」のみの教理(ドグマ)は文化プロテスタンティズムのとなえる「善業のみ」の教理(ドグマ)に屈し、「聖書のみ」の主義は高等批評主義の「理性のみ」に屈服した。

現代人文主義者は、彼の思想は如何なる教理(ドグマ)をもつてはいないと叫ぶであろう。が、事實はもつているのだ。そして彼の打ちたてる教理(ドグマ)というものは、時の推移と共に、人々には理解しにくいものとなつていくのである。

自身、ホヰットマンのヒューマニズムからカトリシズムに轉向した改宗者、G・K・チェスタトンは、キリスト教的ヒューマニズムについて、現代の如何なる文人の筆をも凌駕する一書をあらわしている。「永遠の人」という題名からして、彼自身と同じく現代世界の渾沌に直面して立つカトリック人文主義者逹の樂天思想をあますところなく示している。「The Thing」という一卷におさめられたエッセイの中で、彼チェスタトンは、俗化ヒューマニズムに對するカトリック的所見を次の如くにのべる。

事實、現代世界は、現代の動向と相共に、カトリックという資本によつて生きているのである。それは、キリスト教の古き寶庫から、いまだ殘されている多くの眞理をひき出しては使い、使い果たしていく。この寶庫の中には、キリスト教によつてみがきをかけられた古代異教の眞理も、もちろんふくまれているのだが。それなのに、自分自身では、一向に新しいものなんぞつくり出してはいない。新奇さというものは、當然の廣告みたいなもので、レッテルとか名稱だけの問題だ。あるいはこうもいえよう、全く消極的なものなのだ――と。將來までもひきつづき、たしかにもち越していけそうな新鮮味は、何一つ生み出してはいないで、そのかわりに、到底背負つてはいけない古いものをあちこちつまみあげている。というのは、現代の道徳理想の二大特徴は次のようなものなのだから――第一、それは、古代若くは中世の手から借り出したか、かすめとつたかして來たものであること。第二、それは、現代の手の中で、おそろしく早くしぼんでいつてしまうこと。(犬養道子譯)

ヨゼフ・ロゲンドルフの著作は、アテネ文庫に『キリスト教と近代文化』『カトリシズム』が、アテネ新書に『ヨーロッパの危機』が入つてゐる。歿後に南窗社から『一卷選集』も出てゐる。是非讀まれると良いと思ふ。ただ、ロゲンドルフは、雜誌に掲載されたまゝ埋もれてゐる文章が非常に多い。

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