制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
闇黒日記 平成十七年七月十八日
公開
2020-11-28

「人の上の神」を持たない日本人

我々日本人は、「人の上の神」を持たない。ただ、「偉いなあ」と思ふ人を見て、その人に從つたり、その人の眞似をしたりして、自らを律するだけである。日本人は「人の上の人」をしか持たない。

だから、屡々日本人は、論者に據つて言はれた事と、言つてゐる論者の人格とを混同する。言はれた事を評價するのに、言つてゐる論者の人格が良いものか何うかを一々吟味する。人格が氣に入らなければ、どんな事が言はれてゐても、それに「説得力」を認めない。

ところで、人格を問題にする事は、何處まで許されるのであらうか。神と人とは違ふ――神は完全であり得るが、人は決して完全たり得ない。ならば、文句をつけようと思へば、人格には幾らでも文句を言へる。人格を判斷基準とするならば、或論者に據つて言はれた事を「認めない」とする事は、常に可能である。

「人格を認めるか、認めないか」は屡々恣意的である。その結果、「人の主張を認めるか、認めないか」もまた恣意的になる、と云ふ事が屡々ある。否、話は逆である。或論者の主張を認める自分の態度が恣意的であるからこそ、その論者の人格を問題にするのである。論者の人格が何うであるか、は、ただ單に、自分がその論者の主張を端から受容れない理由をもつともらしくでつち上げるのが目的である。

さて、「物事を受容れる・容れない」を、さう云ふ風に恣意的に、自分の好きなやうに決める、と云ふのは、道徳的には如何なものであらうか。それは、「自分が判斷基準である」と決める事にはならないか。それは餘りにも傲慢であるやうに私には思はれる。

「人の上に神を戴く文化」の長所は、人が傲慢の罪に陷り難い事である。西歐と日本とで、慥かに文化は違ふ。だが、「人の上に人を戴く文化」だからと言つて、日本人は「傲慢になつて良い」と云ふ事にはなるまい。主觀的な判斷の域を越えた、客觀的な正しさを認めるのは、寧ろ傲慢の罪を免れる爲にも必要な事である。客觀的な事實は、我々の主觀的な主張を屡々否定する。客觀的な事實が主觀的な意見を誤とする時、私はそれを認めざるを得ない。

人が何かを「正しい」と「する」と云ふ事を、日本人は考へる。だからこそ、日本人は屡々「誰かが決めた『正しい』事」を「求めてゐない」と言ふ。しかし、人の外部に「正しい事」が「ある」と考へる思考法を、日本人は學んで良い。プラトンのイデア論にしても、キリスト教の事效論にしても、千年以上の傳統がある。日本人には、さう云ふ思考法は所詮、附燒刃にしかならない。だが、何も學ばず、「我々の流儀」に安心し切つてゐるよりは、附燒刃の知識であらうとも、持つてゐた方が増しである。

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