制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成13年6月10日
公開
2001-06-24

キリスト教における自由

キリスト教社會でなぜ自由が尊重されるかと云ふと、逆説めくが、自由が大事ではないからである。

裕福な生活を送る事も、親や家族と共に暮す事も出來る、樂な生き方をする事も出來る、にもかかはらず信仰を選ぶ、色々な生き方の中から信仰を進んで選び取る、と云ふ所に、キリスト教は價値を見出す。自由に選べる中から、より不自由なものを選ぶ、と云ふ事が重要なのである。

信仰の道を選んだ者に、自由なるものがどれ程の價値を持つだらう。全うなクリスチャンなら、自由を呉れ等と甘えた事は言はない筈である。イエス・キリストの生き方を見れば、甘つたれた事を言へる筈がない。しかし、日本のクリスチャンは、屡々センチメンタルな事を言ふ。日本のクリスチャンは、實は神道の信者でしかないのである。


日本のクリスチャンにプロテスタントのファンが多いのは異常。神は決して誤りを犯す事はないが、人間は誤りを犯す事がある。ならば、地上に於る神の代行者である教會が誤りを犯すのは當り前なのであり、その教會にプロテストすると云ふのは無意味なのである。

本質的にプロテスタントには怪しいところがあると私は見てゐる。そして、西歐のプロテスタントがカトリックに對抗するだけの勢力を持ち得たのは、本質的にカトリックの功績であらうとさへ思ふのである。教會制度を否定したプロテスタントが教團組織を再構築する際、カトリックの組織を參考にした、と云ふのは餘りにも有名な事實である。しかし、寧ろ、プロテスタントの激しい攻撃と批判を受けても崩れないだけの、しつかりしたカトリックの教義が成立してゐた事實の方が重要であるし、日本人にとつては教訓ともならうと思ふ。

プロテスタントの「抵抗」と云ふ側面を美化し、ロマンを感じてゐるだけではどうしやうもない。


プロテスタントのみならず、科學、或は近代の合理精神と云ふものが、不合理の權化とも言ふべきカトリックの傳統からしか生れなかつた、と云ふ事に、我々日本人はもつと注目すべきである。知識を後世に傳へる事はアラブ人にも出來たし、技術を應用するのは日本人が得意とする所であるが、科學、思想と云つたものをトータルに纏め上げ、近代と云ふ確固たる文明社會にまで仕立て上げてしまつたのは西歐だけである。

或は、2000年に亙つて、攻撃され、批判され、否定され續けて來たにもかかはらず、教義を崩さず、未だに支持されてゐるカトリックを、迷信と決めつけたり、嘲笑の對象としたりするだけで良いのか。私はキリスト教を信じないが、熱心なカトリックファンである。

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