キリスト教とストイシズム
- ヨーロッパには、「殺さなければならぬ」とニーチェが思ひ詰めなければならないくらゐ強力な神樣(God)がゐた。けれども、日本には、「私は人間です」と宣言して神樣でなくなつてしまふ神樣しかゐなかつた。日本では「眞劍に神を否定する」なんて事は誰も出來ない。
- 日本では、「眞劍に否定しなければならない強力な敵」は何一つ存在しない。存在し得ない。右翼は左翼を、左翼は右翼を、アンチはターゲットを、非常に氣樂に見下す事が出來る。
- キリスト教は完全に他律(神樣が見てゐる)だが、日本人は基本的に自律(ストイック)だ。一神教のキリスト教の弊害は隨分指摘されたけれども、一方でストイックの日本人の生き方にも問題はないわけではない。どちらにも問題はある。
- キリスト教の問題は、キリスト教の連中が自分逹で勝手に反省してゐればそれでいいのであつて、現實問題、吾々日本人には關係がない。日本人は自分逹のストイシズムの問題を考へてゐれば良い。「自分で自分を律する」生き方は、完遂出來れば實に見事だが、多くの場合、中途半端なものに終る――と言ふより、人間は不完全だからストイシズムは徹底され得ない。この時、ストイシズムへの不信が生ずるわけだが、それをどのやうに解決するか。
- キリスト教において、人間が自分で自分を律し切れなくても責任は神にはなく、神に從へなかつた自分にあるものとされる。神は「完全なもの」と定義されてゐて、その神に人間が從へなくても、人間が惡いのであつて、神は依然として權威として健在だ――となると、「神への不信」と云ふものは論理上、生ずる事がない。キリスト教の神は、定義からして「完全なもの」で、逆に、不完全なものは神ではあり得ず、人間が勝手にでつち上げたものでしかない。だから何んなに神を攻撃しても神の權威は搖らがない。そこで執拗に神の權威を破壞しようと試みられたため、西歐では人間の爲の思想が異樣なまでに強力なものに鍛へ上げられた。
- キリスト教社會において、神の搖るがぬ權威に對抗しようと人間が努力すればする程、人間は自意識を強め、自分もまた恰も神のやうに強力な權威者として振舞ふやうになる。キリスト教の他律の考へ方を否定する人間は、自律の考へ方を持たねばならないが、その時ストイックの缺點を必然的に背負ひ込む事になる。「自分で自分を律する」ストイックの發想は、「自分で自分を甘やかす」態度=怠惰へと流れ易い。日本人のストイックの態度には、さうした甘つたれ思想が必ず附いてまはる。この問題は何うしても考へなければならない。右翼の人がこの問題を眞劍に考へてゐるか何うか。
- 日本人は、神を持たないが、代りに「尊敬する人」を持つ事は出來る。「福田恆存信者」とか「松原正信者」とか云ふ奴だ。松下幸之助でも坂本龍馬でも、「尊敬する人」として舉げられる人は澤山ゐる。けれども、「尊敬する人」も、飽くまで人であり、權威としては脆弱だ。日本では最大の「尊敬する人」であつた天皇ですらも、大東亞戰爭敗戰後は權威でなくなつた。
- 自分を律する爲の權威が、「内部」にあればそれは自分自身と云ふ事になるが、自分自身くらゐ信用出來ないものもない。「外部」にあれば「尊敬する人」がそれだが、人と云ふものはやつぱり不完全だから、何時までも頼つてゐるわけには行かない。となると、何で以て自分を律すれば良いのか。
- 理窟の上では、キリスト教の神と云ふものは、自分を律する爲に用ゐるべき權威として、兔に角無敵であり、完璧ではある。が、クリスチャンならざる吾々日本人には、キリスト教の神樣を「利用」する習慣はないし、さうさう簡單に身に附けられるものでもない。となると、現代の日本人は大變困つた状況に陷つてゐる、と云ふ事が言へよう。
- 「否誰も困らない、私は日本人だが、ちやんと自分を律してゐる」と、反論する日本人は間違ひなくゐるわけだが、しかしその人は、自分で自分を許す傲慢を免れてゐるか・自分で自分を誇る倨傲を免れてゐるか。反省する機縁はあるか。實際に反省してゐるか。或は、「自律し得る自分」以外の人は何うか。