初出
野嵜健秀 (nozakitakehide) は Twitter を利用しています」2013年02月17日
公開
2014-03-09

篤胤とキリスト教

支那で出たキリスト教關係の本を參考にしてゐるけれども、篤胤はキリスト教の信仰の核心部分を日本に移入しようとは考へてゐなかつた。神道の神學確立の爲に理論を借りただけだ。

昔から神道人は、自前で神學を理論化しようとしなかつた。代りに、あつちこつちの思想や宗教から理論を借りてきて、神學の權威づけをやつた。神道神學の歴史では、餘所の思想・信仰から理論を剽竊したり、文獻をでつち上げたり、と云ふのが矢鱈多い。

神道五部書は外宮の神官が自分のところの權威を高める目的で捏造したものである事がはつきりしてゐる。古事記ですら僞書説があるくらゐで、神道の文獻には怪しいものが非常に多い。

篤胤がキリスト教の本を參考にした事について、深い意圖があつたのでないかと臆測を逞しうしてみたり、妙に合理的な解釋を試みたり、といつた事をする人がゐるけれども、神道の「傳統」の中に置いて見てみれば篤胤はそんなに大した事はしてゐない。

結果として篤胤の文書が維新の際には國學關係者に強い影響力を持つたわけだが、だからと言つて篤胤を無闇に高く持上げる必要はないし、また餘所の國の本からネタを拜借してゐるからと言つて篤胤を滅茶苦茶に貶める必要もない。今だつて、強い影響力を發揮する文筆家が思想的にはそんなに大した深みを持たないとか、海外の思想家の理論をそつくりそのまま受賣りしてゐるだけとか、ざらである。

捏造の文書が多いのは神道に限らない。キリスト教でも結構有名なものがある。佛教の經典なんかは支那で作られたものが非常に多い。宗教の世界では捏造の文書なんて當り前だ。パクりも多い。

剽竊の類とは話がまた違ふが、マタイ、マルコ、ルカの共觀福音書が「同じ文獻から派生して出來たものらしい」と云ふのも知られた事實である。。

そのジャンルでは何が常識であるのか、を知らないで、思想家や文獻を單獨で採上げて、何々は凄いとか何々はダメだとか評價してみても、とんちんかんな批評にしかならない。注意が必要だ。

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