公開
1999-05-14
改訂
2012-04-23

我々だけの日の丸君が代

參考リソース

1 序説

日の丸君が代法制化の議論が死者が出て泥縄式に出現した。日本国では理念でなく事件が変革を惹起する。日の丸君が代賛成派も反対派も、事件が起きるまで動かうともしなかつたのである。

法制化を支持する者は過半数を越えるといふ。若い人に日の丸君が代に対する反感が強いといふのが、教育の「成果」である事は言ふまでもない。反対せよと教へこんでおいて調査を行ふのだから、まるで「出来レース」みたいだが、これが民主主義といふものである。さういふ八百長をやつておいて依然、日の丸君が代に賛成する意見が多いといふのは、やはりこの問題は民主教育といふ名の「洗脳」では片がつかないといふ事を示してゐる。

2 旋律の問題

読売新聞の調査の結果によると、日の丸については国旗と認める意見は多かつたやうであるが、君が代を国歌として認めないといふ意見も相対的に多かつた。これはイデオロギー云々の問題、軍国主義を連想させる云々の問題とは関係なく、日の丸はデザインとして優れ、君が代は音楽として優れてゐないといふ印象が強いが為に生じた結果である様に思はれる。

日の丸は白地に赤で小学生にも描けるといふ点では、シンプルなデザインといへる。一方の君が代については次のやうな意見がある。

いよいよ日本も独立国として列強の仲間入りをすることができるのは嬉しいことです。さつそく専任相がきまつて、やれ外務省の引越しだ、やれ外相官邸だとにぎやかなことで、これまた結構なことでせう。

ところがこの新しい門出を迎へたはずの私たちの国では相変はらずあの古い国歌が案外平気で使はれてゐるのは一体どういふわけでせう。ただわけもなく歌つてゐるのか、あるいはおしつけられていやいや歌つてゐるのか、それともあの歌を本当にいい気持ちになつてゐるのか、いづれにしてもあんまりみつともいい恰好とはいへません。

歌詞のことは一応問題外にして、まづあのノロノロとしたテンポです。あれで普通の速度で歩き、活動し物を考へる人間にはとても堪へられるものではありません。小学一、二年くらゐの生徒がこの歌を指定されたテンポで歌はうとするには「君が」といふ一言のために、小さな胸をはち切れさうにふくらました上で、「キィミィガァ──」と歌はねばならず、そのつぎの「代は」といふたつた一言にまたいつぱい息を吸ひ込んで「ヨオ──ワ──」とやらなければなりません。これではみてゐても可哀さうです。

歌としてなによりも大切な言葉とふしとのくつつき具合も、こんなにまづくできてゐるのは世界ひろしといへども君が代の右に出るものはないでせう。(後略)

「『君が代』御免蒙りたし」(『私の音楽談義』(芥川也寸志著・1956年6月1日第1刷発行・1956年6月30日第2刷発行・青木書店)所收)

これは共産主義の宣伝専門の出版社から出た本に収められた短文で、本自体全体に当時の素朴な共産主義の臭ひがするが、仮にも作曲家の書いた音楽的な面からの批判である。

芥川はこれに続いて、日本の音楽のことなど知らないドイツ人エッケルトが編曲した事を述べ、だから「音楽の体裁さへ具へてゐないのが現在われわれの聴いてゐる国歌なのです。それを国歌として有難がつて聴き、また歌ふことこそまさに未開の象徴です。」と書いてゐる。音楽の体裁どうかうと言はれても私には訳がわからないが、作曲家が君が代の事を音楽的にすぐれてゐないといふのだから、素人がさう思ふのは無理はない。

事実、君が代を国歌として歌ひたくない理由として、歌ひにくい、歌つても昂揚感がない、といふ事を挙げる者も多い。ならば旋律だけ歌ひ易く改めよと言へばよいと思ふのだが、欠点を改めよといふ意図で彼らは発言してゐるのではない。ひとつの欠点をもとに全体を破棄せよと彼らは言ふのである。

確かに君が代はだらしなく歌へばだらしない歌にきこえる──しかしそれはどんな歌にでも当嵌らないだらうか。勇壮なマーチでも演奏の仕方によつては間延びしてきこえよう。サッカーの試合前に君が代を歌ふと選手が戦意を喪失するといふ──ならばきく、そんな歌をどうして軍国主義の時代に歌ひえたらうか。さうした観点から言へば、軍国主義に君が代が利用されたといふのも怪しくなる。

君が代も「いつぱい息を吸ひ込んで」真剣に歌へばよい。君が代で戦意を喪失するサッカー選手など、二流の選手なのである。芥川もまた、歌の事など何も知らないで音楽家面してゐるだけの偽物に過ぎない。そもそも国歌はサッカー選手の戦意を昂揚させるためにあるのではない。

芥川は君が代がドイツ人エッケルトが編曲した事だけを強調してゐるが、エッケルトは国歌らしく和声を付けただけなのである。作曲者は日本人林広守であり君が代は本質的に日本的な歌である事を述べておく。芥川は西欧人の目を以て君が代をくさしてゐるだけにすぎない。

3 詞の問題

君が代については山田孝雄の『君が代の歴史』(宝文館出版)が詳しい。この本は君が代の和歌の発生から変遷を──平安・鎌倉・室町・江戸の各時代にいかに受けとめられてゐたか、明治以降君が代がどのやうにして国歌の地位に就いたか、を詳述した便利で優れた一冊である。本書によれば、君が代の成立の歴史は以下の通りである。

上来君が代の歌の古代から今代に至るまでの沿革を略説した。之を通じて見るに、この歌ははじめは恐らくは

我が君は千代にましませ
さされ石の巖となりて苔のむすまで

といふ形であつたらう。それが又

我が君は千代にましませ
さされ石の巖となりて苔むすまでに

といふ形として伝はつたのであらう。さうしてそれが、稍久しく世に行はれてゐるうちに

我が君は千代に八千代に
さされ石の巖となりて苔のむすまで

となつたのであらう。この「千代に八千代に」といふ形の行はれた時代は光孝天皇の御時(一千五十年前)以前であつたらう。古今集に「読人知らず」とあるに照して見ると、それは某々個人の作といふよりも一般民衆の間に自然に育つて来たものといふべく、而してそれは少くとも今から一千二百年位も前に生じたと見らるゝものである。

かくしてこの歌は古今集には賀歌の筆頭に録せられ、天慶年中には和歌体十種に神妙体の第一として掲げられ、和漢朗詠集に祝歌の首にあげられ、深窓秘抄の巻軸に載せられたのはその古歌であるのとその意味のめでたさとによつたものであらう。さうして平安朝の末頃になると、首句が形をかへて

君が世は千代に八千代に
さされ石の巖となりて苔のむすまで

となつたらしい。さて首句が君が代とあると「千代にましませ」とはいひ難いから第二句は専ら「千代に八千代に」となつて「ましませ」とは云ひ難くなり爾後この形のみとなつた。

しかしてから鎌倉時代以後この形の歌が神事にも仏会にも宴席にも盛んに用ゐられて、上下一般の通用となり、現代まで引き続いて行はれてゐる。……

世の中にはどこで覚えたのか、君が代の「君」は天皇を指す、と言ひ切る馬鹿が多い。君が代が天皇礼讃の歌である事は明かだ、といふものもゐるが、それは以上の引用を見れば明かに間違ひである。

さて山田博士はこの歌を、昔から民衆が歌ひ続けてきてをり「これが国歌となつたのは自然の勢といふべく人為の力によつたものでは無いと思はるる」と述べてをられる。君が代を歌ひ続けてきたのだから君が代が国歌でよいといふ意見なのであるが、事実君が代容認派(擁護派ではない!)もまた、何となく君が代でよいと思つてゐるだけなのである。

山田博士は君が代が「本来年寿を賀した歌であつて、それは上下一般に通用した歌であつた。それが、汎く用ゐらるゝに及んで本来の意味を稍離れて汎く祝賀の意を表するものとなつたのである」と、君が代がめでたい歌である事を強調してをられるが、さういふ意識は今の日本人にはなくなつてしまつた。

我々は君が代を、解釈でしか論じられないのであつて、例へば「君」が何を指すかといふ、為にする議論しかさせて貰へない。その歌そのものの性質といふのは日本人の感覚から抜け落ちて、記号学的、意味論上の問題にしかならない。

かういふ古い歌は、当然現代人の視点思想から解釈してはならないのであつて、歴史的な観点からのみ正しく理解できる。「君」は天皇であるといふのは現代人的な故事つけであり、歴史的には特定の人物をささない二人称である。ただし君が代が宴席やめでたい場で歌はれたといふ点から考へて、お互ひの長寿を願つたと考へればそれは一人称複数的な意味合いを持つともいへるのである。「君」と互ひに言ひ合つて祖先は互ひの長寿を願つたのである。

4 結語

君が代論争は、即ち現代の日本人が本来の日本人の感覚で君が代を理解出来ない事が原因である。君が代は本質的に日本人の精神にかなつた歌であり、その旋律も詞も日本的なものである。君が代は歌であり、それを評価する視点が多数ある事から問題を紛糾させてゐる。日の丸は視覚的なデザインだけを論じる事が可能で、だから現代人的感覚からも受入れられるといふだけで肯定される。

国旗国歌の問題といふのは即ち国家のアイデンティティの問題であり、国家のアイデンティティは国家の歴史にしかその支柱を見出しえない。ならば国旗国歌もまた歴史にその支柱を見出すべきであり、歴史以外の何者もそれを否定しえない。ただ日本人は自らの歴史を忘れてゐるのである。

日の丸君が代が大東亜戦争時代に国威発揚に利用されたのは事実である。しかし日の丸君が代があつたから日本人が戦争を起こしたのではなく、日本人が戦争を起こした時、長い歴史を持つ日の丸君が代に頼つたのである。日の丸君が代だけに敗戦の責任を押しつけるのは不当であらう。旗や歌に罪はないし、それに意味を持たせるのは人間である。

最後に、日の丸君が代は我々日本人だけの為にあるものであり、他のいかなる外国人の為にある訳ではない事を強調しておく。中国東南アジアを日本が侵掠して失敗したからといつて、日の丸を捨てる理由にはならない。君が代の「君」が天皇を想起すると言ひがかりをつけるのは論外である。

君が代の意が「天皇支配の永続を祈願するもの」であるなどといふ馬鹿な発言はふざけるのも程がある。そんな歌を日本人が千年以上も歌ひ続けるはずがない。第一明治政府は君が代を国歌と決めもせず、そこに天皇礼讃の意味を付加などしてもゐない──もしさうしてゐれば、今に至つて君が代論争など起つてはゐないのである。

1999.4.24

追記

4月29日付読売新聞朝刊に、團伊玖磨氏、中村正則氏、小林節氏の対談「『日の丸』『君が代』どう扱う」といふ対談が載つた。小林氏の意見が法制化賛成派、中村氏の意見が反対派、團氏の意見もまた反対派である。

小林氏は歴史的な立場から日の丸君が代は国旗国歌としてふさはしく、教育現場の混乱を収めるには法律で定めた秩序が必要だとする。中村氏は反権力の立場から国旗国歌の法制化に反対し、また上から押しつけた秩序では教育現場の混乱は収まらないとする。両者の意見は日の丸君が代の問題に関心を持つ日本人の二つの典型である。

そして團氏は「全くの放任がいいと信じてゐる。だが、それには子どもが君が代を歌ひたくなくなるやうな教育をしてはいけない。さういふ前提で放任といつてゐる。」と言ふが、実は君が代が嫌ひで、「……僕は子どものころ、君が代が嫌ひだつた。陰隱滅滅としてね。今でも、君が代を旋律、歌曲として採点すれば十点満点で二点だ。ただ、音楽には色々なものが付帯してゐる。国民としてのディグニティー(威厳)とか、愛国心とか、個人的な回想とか。現行の君が代は長さや出来からいつても、ほかにより良いものはさう簡単にはできない。」とも言ふ。君が代に対する音楽家の評価が低いのは昔も今も変はらないといふ印象だが──團氏の様な存在が一番の困りもので、要するに八方美人なのである。

右も左も議論といふが日本国ではそれは所詮結論の先延ばしに過ぎない。或は賛成派は話を進めるために議論するのであり、反対派は話を進めないために議論をするのであり、中立派を装ふ八方美人は両方の顔を立てるために議論をするのである。

日本人は議論をしても何も決められないし、御上が決めれば正からうが間違つてゐようが皆、進んで従ふ。しかし議論せよといひつつ日の丸君が代を法制化したならば、議論好きの教師どもは誰も従はないだらうし、ならば教育現場は何も変はらない。

野中官房長官は1999年3月「4日、日の丸君が代の法制化問題で、学習指導要領に基づく学校での『掲揚・齊唱』指導の方針は、従来と変更がない」(=教育現場での国旗掲揚・国歌齊唱を義務づけない)(読売新聞3月5日)事を述べてゐる。野中氏が今回法制化を首相に進言したさうだが、ルール違反がなされてもそれを罰しない法律など守られる訳はない──自動車のスピード規制など、罰則があるのに誰も守らない位である──それを承知で野中氏はなぜ法制化を主張するのか。

スピード違反が議論の対象にならないのは、それを定めた法律に罰則規定があり、スピード違反そのものが悪い事だといふ意識が植付けられてゐるからである。もちろんスピード違反は道徳的に悪ではない。国旗国歌の問題も道徳問題ではないが、それらを尊重する事は道徳的なのであり、それらを定着させるには罰則規定が一番役に立つのである。

ちなみに野中氏は自民党の中で反日的傾向を有する人物であるが、罰則規定なき日の丸君が代の法制化はさらなる混乱を惹起するのが目的であるのか、ただの怯懦によるのか。このままでは日の丸君が代は国旗国歌として骨抜きにされてしまふ。文化を守る事に国家は努力すべきだし、その際為政者は勇気をもつて国家権力を行使すべきである。

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