初出
「kotobaseek」
公開
2000-07-16
最終改訂
2003-05-25

平和主義の矛盾

戰爭反對は戰後の日本のテーゼ

日本人は「愛國心」を捨てて、代りに「平和主義」をアメリカから戴いた。

アメリカから日本人が貰つたものは「平和主義」に對する信仰だけであり、合理主義ではなかつた。現代の日本人は、理屈を知らず、正義だけを盲信してゐる。「近代以前」に日本人は生きてゐる。

良く言はれる事だが、日本人は「無宗教」なのではなくて、「平和主義」を宗教がはりに信じてゐるのである。日本人の精神は、未だに未開人並なのである。

困つた事である。

平和の爲には暴力も辭さず

「平和主義」にしても反「平和主義」にしても、きだみのるの所謂「云ひ負かし」の爲に利用されるイデオロギー以上のものではないやうに思はれる。

──討論會があるといふとね、出掛けるときから棒の用意をしたり、ひでえ奴は切れ物を懷にして來るので敵はんでさ。

日本人の平和主義者は「云ひ負か」されるとすぐに暴力的な行動に出る。日本人の「平和主義」は所詮付燒刃に過ぎない。

日本の平和論

イデオロギー論爭に決着なし

「從軍慰安婦」も「南京大虐殺」も、「あつた」とか「なかつた」とか主張する勢力が一生懸命「議論」してゐるが、絶對に決着はつかない。イデオロギーなのだから、「あつた」とか「なかつた」と云ふ「主張」は所詮「信念」と同義である。或は「信仰」である。

「あつた」派が「なかつた」派を「説伏」出來る筈はないし、逆もまた眞である。「あつた」と信ずる勢力にしてみれば、どんなに否定的な證據が舉げられようとも「あつた」根據は揺るがない。「なかつた」と信ずる勢力にしてみれば、どんなに肯定的な證據が舉げられようとも、「なかつた」根據は揺るがない。

そもそも、議論になる時點で、「從軍慰安婦」も「南京大虐殺」もグレーゾーンに屬する問題だと云ふ事なのである。「あつた」にも「なかつた」にも故事つけられる問題に過ぎない。ただ單に、價値觀の違ひから、灰色のものが黒く見えたり白く見えたりしてゐるだけである。そして、「歴史論爭」などと言つてみても、所詮は異る價値觀を持つ「あつた派」と「なかつた派」が、一生懸命相手の價値觀を誹謗し、相手の人格を否定してゐるだけなのである。

歴史的なものの見方

灰色のものは灰色のままにしておくのが、本當の歴史的なものの見方と云ふものだらう。無理に「あつた」とか「なかつた」とか、決定しても仕方がない。「あつた」と信ずるのならば、勝手に信じればよからう。子供にも「あつた」と教へ込むが良いのである──本氣で信じてゐるのならば。

私は「あつた派」の人間が眞劍でないのが不滿なのである。「あつた派」の人間は、「敵」は必ず「なかつた派」だと思ひ込む。もし「あつた派」が「歴史的なものの見方」を身につけてゐて、正しく物事を把握出來るのならば、「あつた派」の敵は「なかつた派」だけではない事くらゐわかるだらう。いやいや「あつた派」は、かつて「敵」に向つて「それは誤解だ」と散々言つてきたではないか。「あつた派」が私の事を「なかつた派」だと決めつけるのも「誤解」である。

今日使用を受けてゐる限りではディアレクチカは諸々のイデオロの理論或は偏見の整備裝甲──指摘しておかう。我々市民にとつて見せて貰ひたい大事なことは保守、社會、共産の尖鋭な理論でなく、それらイデオロ下の生活の見本であるやうに思ふ──に專らで、何か他流或は異派との仕合に使ふ打ち込みの祕法のやうな印象を與へられてゐて云ひ負かしと大して違つてゐないやうに思ふのは私一人ではあるまいと。

まとめ

同時に、甚だ困つた事だと思ふのは、「あつた派」にせよ、「なかつた派」にせよ、「敵」をまづ嘲笑する事である。殆ど憐憫して見せる事である。そのやうな態度をとる事が、「言論の自由」の認められた近代的における言論にふさはしい態度なのかと、私は疑ふのだが、世間には疑はない人の方が多いらしい。

「從軍慰安婦」論爭も「南京虐殺」論爭も、馬鹿馬鹿しい騷ぎである。「あつた派」も「なかつた派」も、敵を叩く事に急で、眞實なんてどうでも良いらしい。いづれも「氣違ひ部落」の人間なのである。日本人は未だに「氣違ひ部落」の「英雄」である。

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