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天皇論

Re: 何が昭和の日だ!!!

Date: Sat, 13 May 2000 04:10:34 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

Newsgroups: fj.soc.politics, japan.jiji

References: 1 , 2 , 3

"K. Yoshimatsu" wrote:

> 吉松です.

>

> shunさんとかdomusさんの言ってるとおりに昭和天皇を記念する日であるのなら

> ば反対です.

>

> ですが、ニュースによると、これは天皇ではなくて時代だと聞きました.昭和

> の時代であるのならばあっても悪くは無いでしょう.戦争ばっかり考えないでそ

> のあとの出来事を記念すべきもんではないでしょうか。いろいろな技術、バブル

> の時代、戦後の復帰. 先進国の仲間入り.

>

「天皇ではなくて時代」を記念する日であるならば反對です。

平安時代や江戸時代を記念するなんて事が異常であるならば、

昭和と云ふ時代を記念するなんて事も異常である筈です。

「天皇制」に反對する人におききしたいのですが──

昭和天皇個人を崇拜する事のどこがいけないのでせうか。

個人崇拜の禁止を押しつけるのは惡い事ではないでせうか。

「昭和の日」が軍國主義復活に直結する理由なんてないと思ひますけれども?

或は、日本の民主主義とは、そんなに根の淺いものなのでせうか?

「天皇-統帥權-軍國主義」と云ふ聯想ゲームは好い加減、止めにした方が

良いと思ひますけれどもねえ……。


Re: 何が昭和の日だ!!!

Date: Wed, 17 May 2000 19:31:45 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

Newsgroups: fj.soc.politics, japan.jiji

References: 1 , 2 , 3 , 4 , 5

今晩は。ちよつと遲くなりましたが、反論を。

DOI Koji wrote:

>

> In article <391C572A.60B7CEF@par.allnet.ne.jp> T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp> writes:

>

> > > shunさんとかdomusさんの言ってるとおりに昭和天皇を記念する日であるのなら

> > > ば反対です.

> > >

> > > ですが、ニュースによると、これは天皇ではなくて時代だと聞きました.昭和

> > > の時代であるのならばあっても悪くは無いでしょう.戦争ばっかり考えないでそ

> > > のあとの出来事を記念すべきもんではないでしょうか。いろいろな技術、バブル

> > > の時代、戦後の復帰. 先進国の仲間入り.

> > >

> >

> > 「天皇ではなくて時代」を記念する日であるならば反對です。

> > 平安時代や江戸時代を記念するなんて事が異常であるならば、

> > 昭和と云ふ時代を記念するなんて事も異常である筈です。

>

> 「平安時代の日」ぐらいあっても悪くないのでは。「建国記念の日」など

> よりはセンスいいと思いますけどね。だれか異常だとか言っている人がいるのですか?

> 私は聞いたことがありませんが。

相對的に「惡くない」では、積極的に「良い」理由にはならないと思ひます。

> みどりの日でも昭和の日でも、趣旨が漠然としている点ではどちらも大差ないですね。

> 自民党の議員さんたちも他にいくらでも急ぐべき仕事はあるだろうに、

> つまらん仕事をしたものです。

昭和天皇の誕生日である事を根據に、昭和天皇を敬ふ主旨で4月29日を「昭和

節」とするのならば、筋は通ります。

> > 昭和天皇個人を崇拜する事のどこがいけないのでせうか。

> > 個人崇拜の禁止を押しつけるのは惡い事ではないでせうか。

>

> 論理がなっていない。

> 「昭和天皇の崇拝に反対すること」は「個人崇拝の禁止の押し付け」になんか

> なりませんね。

なります。

土井さんは、私の言つた「個人崇拜」と云ふ言葉を意圖的にねぢ曲げてゐます。

私は「昭和天皇個人を崇拜する」の意味で「個人崇拜」と言つてゐるのですが、

土井さんはそれを「昭和天皇を個人が勝手に崇拜する」の意味に變へてしまつて

ゐます。

「昭和天皇の崇拝に反対する」人達は、「昭和天皇を個人が勝手に崇拜する」の

は構はない、と言ひます。しかし、私は「昭和天皇を國民が皆崇拜すべきだ」と

主張してゐるのです。

豫め申上げておきますが、「崇拜すべきだ」と云ふ言葉の裏には、「しかし崇拜

しない人は崇拜しないだらう」と云ふ意味がこめられてゐます。言換へると、私

が「國民は天皇を崇拜すべきである」と主張するのは、「内心、天皇は崇拜出來

る存在ではない、と考へるのは自由だが、それでも國民は皆、天皇を崇拜してゐ

るかの樣に振舞ふべきである」だと云ふ意味なのであります。

「天皇崇拜に反對する人」は、「内心、天皇を崇拜する人」を輕蔑してゐます。

それが私には許し難い。私は「天皇を崇拜せよ」と主張するが、「内心、天皇な

ど崇拜出來ない」と思つてゐる人を輕蔑する氣はない。なぜなら、私だつて「天

皇も人だから、常に名君ばかりではなく、時として惡い天皇も出現する」と云ふ

事を承知してゐるからです。だから、「天皇を崇拜する振りをせよ」と主張する

のです。

もちろん、天皇の事を崇拜出來ないのなら、しなければ良いではないか、と云ふ

批判を食らふのは承知であります。だが、殺人を禁止しても人殺しは出現するの

だし、盜みを禁止しても泥棒はなくならない。いつの世にも殺人者や泥棒はゐる

ものだから、警察なんか無くしてしまへ、と云ふ事にはならない。天皇なんて崇

拜出來ないからと云つて、天皇を崇拜してはならない、と云ふ理由にはならな

い。

戰後、天皇は人間宣言をして人となつたが、それで日本人は戰前より良くなつた

かと云ふと、全くならない。戰前の日本人だつて、もちろん天皇は人だと承知し

てゐたが、恰も天皇は神であるかのやうに振舞つて、それで立派な事をたくさん

やつた。ならば日本人は、内心崇拜出來ない天皇を恰も崇拜してゐるかの樣に振

舞ふ方が、内心崇拜出來ないからと云つて崇拜しない態度をとるよりも増しなの

であります。


Re: 神の国っていって何が悪い

Date: Wed, 17 May 2000 21:05:44 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

Newsgroups: fj.soc.politics

References: 1

森總理は神道政治連盟國會議員懇談會の結成三十周年記念祝賀會で「日本の國、

まさに天皇を中心としている神の國」と發言したのであります。ならば當然この

「神」とは、神道の神樣でなければなりません。キリスト教の神樣である譯があ

りません。そして、日本が神道の神樣の國であるべきだと云ふのならば、我々は

この神道の神樣が、いかなる存在であるべきなのかを考へねばなりません。

古事記を見れば明かですが、日本の神樣と云ふものは、ストリップを見て喜んだ

り、大暴れをして地上に追放されたり、擧句の果てには龜卜をやつてみたりする

存在なのであります。神樣が占ひで事を決めてゐるのですよ。日本人の、或は神

道の神樣と云ふのは、絶對の權力を握つてやりたい放題の事をする存在ではない

のです。神樣でさへ占ひで事を決めるのだから、現人神の天皇も祈願をしたり五

穀豊穣を願つたりするだけの存在であるに決つてゐます。

言ひ方を變へますと、西歐の神樣(God)は絶對的な存在で、人間である天皇にさ

う云ふGodみたいな神樣になつて貰つては困る譯です。だから野黨の連中は寄つ

てたかつて森總理の發言を叩く譯です。だが、上に述べたやうな、シャーマン的

な存在としての、神秘的ではあるが絶對的な權力者ではない日本的な神樣みたい

な天皇は果して困つた存在か。

森總理の肚を探つてみたり、勝手に森總理を右翼反動と決めつけてみたりして

も、野黨にとつて、或は日本人にとつて、メリットはありません。却つて、拙い

批判をする事で野黨は評判を落してはゐないか。先日の石原都知事の「三國人」

發言と同樣、森總理の「神の國」發言も、「左翼の言葉狩り」と云ふ印象しか國

民に與へてゐないのではないか。或は、左翼の非論理性は、左翼の印象を惡くし

てゐます。

戰前の天皇を中心とした軍國主義は惡いものだ──だから天皇を稱へてはなら

ぬ、と云ふのは、感情論でしかありません。「軍國主義」と云ふ用語を見れば解

る通り、根本的な問題は軍隊にあるのであり、天皇は瑣末な問題です。歴史的な

流れから見て、日本が近代化する際に、天皇を國政の中心に据ゑたのは必然的な

事でありました。それが軍國主義と云ふ袋小路に入り込むのも、止むを得ない事

でした。

後進國が西歐の近代を受容れる過程では、必ず傳統と近代の間に衝突が起る。日

本は傳統的な天皇を先頭に押したてて、近代化の道を邁進した。そして、近代化

の恩恵をもつとも蒙るのは軍隊です。明治から大正、そして昭和にかけて、日本

の軍隊は天皇と共に、近代化の先頭に立たざるを得なかつた。軍國主義は後進國

が近代化する過程ではまり込む、一つの道であります。ナチズムも、ファシズム

も、或はスターリニズムも、近代の中心地である英米佛ではなく、その周邊の、

近代化の遲れた地域で生じたものです。

ナチズムやスターリニズムと日本の軍國主義の間には、根本的な違ひがありま

す。それが日本の民主化を妨げてゐるのだから、見過す事は許されません。ナチ

ズムもスターリニズムも、獨裁者個人の強烈な信念が國民を衝き動かしたもので

あります。しかし日本の軍國主義にはそれがありません。ヒットラーは『我が鬪

爭』を書いてユダヤ人狩りを行つた。スターリンはレーニン主義に基いてプロレ

タリア獨裁の體制を築き、大肅清を行つた。日本の天皇は何をやつたか──戰

前、昭和天皇が大演説を行つて國民の士氣を鼓舞したと云ふ記録はありません

し、軍國主義の思想書を書いた譯でもありません。昭和天皇の著書と云へば、植

物の研究論文位です。

昭和天皇が政治的な發言をなさつたのは、敗戰の時だけです。日本の近代化の先

頭を切つてゐた軍隊は、アメリカの軍事力の前に潰滅して近代化の限界を思ひ知

らされました。近代化の袋小路の終端で、日本軍は近代化から脱落した。日本の

誤つた近代化の、最後の尻拭ひを昭和天皇はなさつたのです。そして、戰後、ア

メリカから頂戴した最先端の近代に喜んだ日本人は、かつて近代化の先頭に立つ

てゐた天皇をスケープゴートとする事で、古臭い戰前の近代化を忘れようとした

のであります。天皇は、近代化の最先端であると同時に、もつとも古めかしいも

のでもあつたから、「過去を捨てる」象徴としては最適の生贄であつた譯です。

さて、天皇を切捨て、アメリカからの御仕着せの近代を受取つた日本ですが、當

然その近代なるものは外來のものに過ぎません。戰前の日本は傳統的な天皇を近

代化の先頭に押したて、近代を血肉化しようと足掻いたのですが、戰後の日本は

御仕着せの近代を御仕着せと認識せず、それを血肉化する努力を怠りました。未

開人がコーラの瓶を得て、それが何か全く理解しないままありがたがるのと同

樣、戰後の日本人は近代の本質を理解しないまま、近代を利用してゐるだけで

す。

フルシチョフが「スターリン批判」で個人崇拜を排撃した時、フルシチョフの觀

念には絶對者としての神が存在してゐます。絶對者を崇拜するキリスト教の代用

品として共産主義が登場したのだから、共産主義に於ては絶對者のやうに個人を

崇拜するのは許されない。だからフルシチョフはスターリンが個人崇拜を強要し

たとして、スターリンを批判した譯です。

一方、日本人が天皇を個人崇拜する、と言ふ時、天皇を絶對者として信仰する、

と云ふ意味は本來存在し得ません。にも拘らず「天皇制」に反對する日本人は、

天皇を崇拜する時には絶對者として崇拜すると云ふ意味が發生すると思ひこんで

ゐる。否、「天皇制」論者や天皇支持者でさへ、そこを勘違ひしてゐる。天皇は

神だ──と言つた時、その神が、日本の人間的な餘りに人間的な神道の神樣であ

るのか、西歐の絶對者としての神樣なのか、日本人には區別がつかなくなつてゐ

ます。

森總理の「神の國」發言を支持したり、容認したり、或はそれに反對したりする

日本人の中に、さう云ふ區別をはつきり附けてゐる人はゐません。そもそも森總

理自身がはつきりとした區別をしてゐないと思ひます。そもそも、神の概念にき

ちんと區別を附けよう、と言へば煩がられるだけですから、どうにもなりませ

ん。

だが、さう云ふ、物事にけぢめをつけないまま感情的に罵り合つたり、肝腎な點

を曖昧にしたまま水掛け論を延々續けたりする事は、近代化以前の日本人がやつ

てゐた事と何ら變らないのであります。明治維新以來、天皇を中心に進めた近代

化を投捨てて、安易に御仕着せの近代化に縋つたのが惡い、とは言ひません。大

東亞戰爭敗戰後、日本人がアメリカの御仕着せの近代化に縋つたのは、戰前の近

代化が全く失敗に終つた結果です。とは云へ、戰前の近代化の努力は、御仕着せ

の近代の中で全く近代化の努力をしない戰後よりは増しでした。


Re: クリスチャンと天皇( Re: 何が昭和の日だ!!!)

Date: Wed, 17 May 2000 21:15:52 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

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References: 1 , 2 , 3 , 4 , 5 , 6 , 7

杉山真大 / Sugiyama Masahiro wrote:

>

> #宗教&文化にも振ります

>

>  記事<8fofbk$ivd$1@nw041.infoweb.ne.jp>で、Dr.H (fwht8953@infoweb.or.jp)氏

> 曰く...

>

> >杉山真大 / Sugiyama Masahiro wrote in message

> >news:8fieup$jri$1@fu.bekkoame.or.jp...

> >> まるで「建国記念の日」みたいですね。

> >> #クリスチャンの学校では「建国記念の日」に登校して集会とか講演会を開いて

> >> #いるし、市民団体も集会を開いていますが、決して「祝って」はいませんね。

> >

> >話は変わりますがどうしてクリスチャンは「建国記念」を否定するんでしょうか?

> >戦前ならいざ知らず、現在では天皇の存在がクリスチャンの障害になっているとは

> >思えないのですが。

> >建国記念の神話と聖書の神話が相容れないからなんでしょうか?

>

> それが主因じゃないでしょうか?建国記念の神話と言っても実際には神道と言う

> 一宗教の教義と言うか神話が根拠になっているのですから。考え様によっては神

> 道の押しつけと映る訳です。

> ___________________________

> | しかも神道でも明治以降に既成された国家神道の色が

> | 濃いですしね。昭和天皇の大葬は記憶に新しい

> ヘ_ヘ | http://www.bekkoame.ne.jp/~mtcedar/

> 〜′ ̄ ̄(=-Д-=)< 「余計者の妄言」「茨城・現在掲示板」始めました

> UU ̄ ̄ U U | http://coolweb00.cool.ne.jp/mtcedar/Opinion/

> | http://www.aichi.to/~0yen/man/nagaya.cgi?room=091

> 杉山真大 |

>  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

神道は先祖崇拜の國民感情だと、ヴァティカンも認めた事があるさうですが。

福田恆存の「クリスト教徒に反省を促す」より

……元來、神社神道は宗教ではない。少くとも西洋人の宗教概念とは全く異るも

ので、日本人の自然感情、生活感情に深く根を張つたものである。戰時中にも政

府は学生に靖國神社參拜の禮を「強制」した事があるが、文部省は「神社は宗教

に非ず」と言ひ、ヴァティカンも先祖崇拜の國民感情としてそれを認めた事があ

る。それは宗教心の芽ではあるが、宗教ではない。が、この芽を根絶しにした

ら、日本人の宗教感情は育たないのである。戰後、その根絶しを夢中になつてや

つた結果が今日の荒廢を生んだのだ。


Re: クリスチャンと天皇( Re: 何が昭和の日だ!!!)

Date: Thu, 18 May 2000 12:19:08 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

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Yamaguti Sin'iti wrote:

>

> 記事<39228D78.636AF8C1@par.allnet.ne.jp>での,

> T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp> さんの次の記述に関して:

>

> >> 神道は先祖崇拜の國民感情だと、ヴァティカンも認めた事があるさうですが。

>

> (1)先祖崇拝の国民感情だから宗教ではない,という論理は成立しません.

> それもまた宗教であります.

それはさうでせう。だから福田さんの文章を引用したのです。

> (2)バチカンの見解は全キリスト教徒のそれを代表するものではありません.

全キリスト教徒の見解を代表するものではないからヴァティカンの見解は間違ひ

だ、と云ふ論理は成立しません。

しかし、ヴァティカンは、少くともカトリックの見解を代表してはゐませんか。

> >> 福田恆存の「クリスト教徒に反省を促す」より

> >>

> >> ……

>

> (3)靖国神社などを代表的施設とする国家神道は,いわゆる神社神道とは異なる

> 教義体系をもっています.そもそも靖国神社においては崇拝の対象は先祖の御霊

> ではなく,英霊(戦死者)であり,戦死者を出した遺族がかってに自分のとろこで

> 祀ることはできないのです.

國家神道やその他の神道を、餘り嚴密に區別すべきではないと思ひますけれど

も。

神道は曖昧なものですから。

ただ、もし國家神道がそのやうに嚴密なものだとするのならば、もつと鷹揚な一

般的な神道の形に改めれば良いだけでせう。

> (4)「荒廃」をいうなら,戦後はじめて荒廃が生まれたのではなく,既に戦前

> からあり,かつ戦争によってそれは頂点に達したというべきです.

確かに、戰前から荒廢は進んでゐたでせう。

しかしその荒廢は大東亞戰爭の時點がピークで、戰後は段々良くなつてゐる、と

云ふ譯ではないでせう。

寧ろ、戰後、荒廢はますます非道くなつてゐます。

> (5)福田恆存の見解にいう「神社が宗教でない」「宗教心の芽ではあるが、

> 宗教ではない」は,とりようによっては神道をバカにしているといえます.

「とりようによっては」さうなりますね。

ただ、神道の教義はキリスト教の教義よりも體系化などの點で劣つてをります。

それに、神道の國日本は、キリスト教の西歐に負けたのです。

負けは負け、と認める謙虚さは必要だと思ひます。

キリスト教に比べて神道は或面では劣つてゐます。それでも日本人はこれからも

神道に基いてやつて行かねばならぬ、と云ふ事を、日本人は意識しなければなら

ないと思ひます。戰前の和魂洋才が失敗したからと云つて、和魂を捨てて洋魂を

とる譯には行きません。神道の弱點から簡單に日本人は脱却出來ません。神道と

云ふが、それは日本の文化であり、神道の弱點は日本人の弱點そのものでありま

す。

神道の最大の弱點は、非論理的である事、正邪善惡を嚴密に分たぬ事です。キリ

スト教はその點、明かに神道に勝つてをります。キリスト教徒ほど、正義と云ふ

事、善と云ふ事にこだはる人間はゐません。そして、正と邪を嚴密に區別するキ

リスト教の傳統があつたからこそ、西歐には科學が發達した譯です。

日本の神道には、なぜかは解らなくとも守らなければならぬ事がある、とする、

近代以前の「封建的」な、或は未開人のタブーと同じ觀念が存在し、そこには論

理性が全くありません。もちろん、日本の神道は、寛容であると云ふ長所もあり

ます。しかし長所は短所の裏返しなのであり、神道は正邪善悪と云ふ事に關して

だらしがない、と云ふ事にもなります。そして、その「正邪善悪と云ふ事に關し

てだらしがない」事は、キリスト教徒には許し難い事です。

キリスト教徒が何を思はうと勝手だ、日本人の間で「正邪善惡と云ふ事に關して

だらしがな」くたつて構はない、と云ふのが、一般的な日本人の考へです。だ

が、日本人が本當にさう云ふ考へでやつて行きたければ、日本は再び鎖國して、

西歐文明を拒絶しなければなりません。そして、國家神道以前の封建社會に日本

を戻さねばなりません。もちろんそんな事は出來ません。日本は西歐を拒絶出來

ないから、開國して、明治維新を果たしたのです。

一方で、日本人は數千年の間、「正邪善惡と云ふ事に關してだらしがない」文花

の中に生きてきました。今更急に西歐人のやうに、正邪善惡を峻別する文化に鞍

替へする事は出來ません。だが、日本は開國して、西歐の近代を受容れてしまつ

たのだから、夏目漱石の言つたやうに「上滑りにすべつて行くしかない」、せめ

て正邪善惡を峻別するキリスト教精神を理解する努力だけは續けて行かなければ

なりません。

それは、神道の最大の弱點を克服する努力にほかなりません。日本人は神道の弱

點を見据ゑ、排外主義にも拜外主義にも陷らぬやう努めて行かねばなりません。

そもそも神道は我々日本人のものなのです。日本人の中で神道の缺點を缺點と認

識し、改めようとする努力は必要な事です。他人の信ずる神道を「バカに」する

のではなく、自分達の神道の缺點を認め、改善して行かう、と私は言ひたいので

あります。


Re: 何が昭和の日だ!!!

Date: Thu, 18 May 2000 12:43:47 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

Newsgroups: fj.soc.politics, fj.soc.history, japan.jiji

References: 1 , 2 , 3 , 4 , 5 , 6 , 7

domus wrote:

>

> タケちゃん <kastumi@mud.biglobe.ne.jp> wrote in message

> news:8fomg5$l48$1@meshsv230.tk.mesh.ad.jp...

> > "domus" <artist2u@pc.highway.ne.jp>

> > wrote in message news:8fn027$dm5$2@news01.highway.ne.jp

> > > 昭和天皇に関する私の印象は、国家の最高責任者として然るべき時に然るべき

> > > 身の処 し方を弁えない無責任で度胸の無い男と言う印象です。言い方を変えれ

> > > ば「生死の美学」を弁えない男と言っても良いでしょう。一般人ならば兎も角、

> > > 国家の最高権力者として君臨した男が、生き恥を晒して天寿をまっとうしてしま

> > > うとは何とも情けないの一語に尽きます。

> >

> > 何を勘違いしてるのか?

> > 昭和天皇が、占領軍に対して命乞いをしたと言った様な記録が、有りますか。

>

> 誰か天皇が命乞いをしたと発言したのですか?

> 私は自決をする度胸が無かったと言った覚えはありますが。

それは、昭和天皇は默つて死ねば良かつたのだ、と云ふ事でせうか。自分の思ひ

通りに昭和天皇がなさらなかつたから、と云つて、昭和天皇を非難するのは間違

つてゐると思ひますけれども。

> > 私の認識では、陛下は自身の命と引き換えに国民の命の保障を、嘆願したと聞き

> > 及んでますが。

>

> 真偽の程は定かではありませんが、天皇がマッカーサーに謁見した際、密室でその様

> な会話が為された言う噂は確かに耳にした事は有ります。それでマッカーサーはその

> 時どう応えたのでしょう。

ここは資料が今、手許にないのでパスします。

> > 又、最高権力者と仰るが本当に権力が有ったと認識されてますか?

> > もし、天皇に最高権力が有ったとの認識なら、それは間違いです。

> > 今もそうですが、当時も陛下の意向は国事行為には反映されません。

> > 昭和天皇が唯一権力を、使われたのは・・・・

> > そう貴方も御存知の「耐えがきを耐え、・・・・」です。

>

> 天皇機関説的解釈をされておりますが、1935年の帝国政府の国体明徴声明により天皇

> 機関説は完全に葬り去られたと私は理解しております。若し1935年以降も天皇機関説

> が有効であるとするなら、その根拠をお示し下さい。

>

> 1937年、文部省が作成した「国体の本義」によれば、

> 「天皇は外国の所謂元首・君主・主権者・統治者に止まらせる御方ではなく、現御神

> として肇国以来の大義に随って、この国をしろしめ給ふ」のが日本の国体であって、

> その政体は、「中世以降の如き御委任の政治ではなく、或いは又英国流の『君臨すれ

> ども統治せず』でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもな

> くして、一に天皇の御親政である」と言い切っております。

> 貴殿はこれを事実無根と退けられますか?

その手の「事實」はどうでもよろしいのではないですか。なぜなら、それは事實

でも何でも無いからです。

「天皇機關説」も「國體の本義」も、所詮「天皇はどうあるべきか」と云ふ「べ

き」論に過ぎません。イデオロギーと事實とは嚴密に區別されるべきではないで

すか。

> > > そんな無責任男を新体制下で主権を手にした国民が何の人物評価を下す事も

> > > 無く「象徴」に自動的に祭上げてしまう節操を疑います。現象徴天皇制は発足当

> > > 初から汚れた制度と言わざるを得ません。どうせ象徴に据えるならもう少し気の

> > > 効いた人物はいなかったのでしょうか。(この時点で適切な処置が取られていれ

> > > ば或いは私の象徴天皇制に対する評価も幾分変わったかも知れません。)

> >

> > これも、事実誤認でしょう。

> > 占領軍が、天皇制を有る程度残した方が得策と考えての事でしょう。

>

> 占領軍が結果として天皇制存続を容認した(但し天皇側からのマッカーサー抱込み工

> 作が無かったとは言い切れない)事は事実ですが、日本がサンフランシスコ平和条約

> により主権を回復してからも、国民は昭和天皇に戦争責任が有るか無いかの論議すら

> しなかった訳ですから、「そんな無責任男を新体制下で主権を手にした国民が何の人

> 物評価を下す事も無く「象徴」に自動的に祭上げてしまう節操」を疑われても仕方が

> 無いでしょう。

昭和天皇がマッカーサー抱へ込み工作をした筈がありません。そんな御人ではあ

りません。昭和天皇は御自分の信念に基いて行動したのであり、その信念から見

て天皇の行動が無責任であつたとは言へません。人は他人の信念によつて裁かれ

るべきではなく、その人固有の信念にどれだけ忠實であつたかによつて裁かれる

べきであります。

或は、天皇の信念に間違ひがあつた、と云ふ事ならば、當然責任を追求するのは

お門違ひと云ふ事になります。

> > > この天皇にしてこの国民ありと言うことなのでしょうか。

> >

> > 何故日本民族を、そこまで卑下するのか。

>

> 私は戦前実際に実権を持って陸海軍を立派に統帥していらした大元帥昭和天皇に対し

> (ひとたび戦争に負けたからと言って)恰も天皇は元々軍部の傀儡であったが如き発

> 言をして天皇を無能者呼ばわりする事こそ、正に天皇を冒涜した無礼千万な態度だと

> 考えます。

>

> 戦前の天皇の権能を過小評価して卑下しているのは一体どちらなのか良く御考えいた

> だきたい。

>

> 戦前の国体を直視せず、曲げて評価するその態度こそ、正に日本民族の歴史を否定す

> る態度であり、ひいては日本民族卑下に繋がるのではござらぬか?

「戦前実際に実権を持って陸海軍を立派に統帥していらした大元帥昭和天皇」

が、戰爭に負けた途端「身の処し方を弁えない無責任で度胸の無い男」に成下つ

てしまふ、と云ふのが理解出來ないのですけれども。戰前も戰後も、昭和天皇は

一貫して國政から一歩退いた所に身を置いてをられた、と考へた方が、筋は通る

と思ひますけれども。

> > おたく何処かの国の、工作員か何かですか。

>

> 天皇(制)を批判すると直ぐに非国民か外国人扱いするその悪い癖が出るのはどうし

> てなのでしょう。

さうですね。右翼も左翼も、愛國心に基いて、國を良くしたい、と云ふ觀點から

正反對の事を主張するものです。排外主義も、拜外主義も、同じ日本人のもので

す。

> > ちなみに私決して極右では有りません、どちらかと言えば少し左寄りです。

>

> ちなみに私は決して左ではありません。正真正銘の天皇制を批判する自由主義者で

> す。(天皇制を批判する人間は皆共産主義者だと思い込んでいるであろう貴殿にはそ

> ういう立場が存在する事すら恐らく想像できないでしょうが。)

自由主義者にも、右と左とゐます。しかし、「天皇制を批判する自由主義者」

は、間違ひなく左です。「天皇制」と云ふ用語は左翼用語であり、左翼用語を平

氣で使ふのは左翼だけです。

#同じ社會主義の中にも、右派と左派が存在しますね。自由主義者だから右、と

云ふ事にはなりません。

> > しかし、こんないい加減な記事を目にすると・・・・

>

> 自分の意見にそわない意見は皆いい加減だと決め付けるその狭量な物の見方は改めた

> 方が宜しいと思いますよ。老婆心乍ら。

ならば、自分の信念に基いて一貫した行動をとつた昭和天皇を、御自分の信念と

は異なる信念を抱いてゐるからと云つて「無責任で度胸の無い男」だ、と決めつ

けるのは、止めておいた方がよろしいのではないでせうか。

ではでは。


Re: 天皇は廃止するしかない

Date: Thu, 18 May 2000 13:07:58 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

Newsgroups: fj.soc.politics, japan.jiji

References: 1

反論です。

"ichiro,s" wrote:

>

> 「神道政治連盟国会議員懇談会」というものがある。政教分離を大本とする

> わが国憲法に照らして、国権の最高機関のメンバーによるこんな組織構成がよ

> くも許されているものだと思う。その会長が綿貫民輔、元小渕派会長である。

1.神道が宗教であるか否かは諸説あります。必ずしも政教分離の原則に反すると

は言へません。

2.現行憲法は絶對的に正しいものである譯でもありません。憲法の定める政教分

離が、絶對に正しいものであるかどうかは、誰にもわかりません。そもそも、民

主主義の國アメリカでは、議會に於て證言をする時などに、聖書に手を置いて宣

誓をするのですが、それは間違つてゐるのでせうか。

> 国憲無視も平気になったせいか、国を代表する森首相がこの会の三十周年記念

> 祝賀会に出席、「日本は天皇中心の神の国である」ことを高々とブチ上げ、こ

> の種の台詞が堂々と云えるようになった今日まで、みずからも三十年間同志と

> して頑張って来た感激を噛みしめた。「君が代」の強制があり、「昭和の日」

> の制定があったのは三十年間も頑張ってきた成果だったのだ。

政教分離の原則ですが、現行憲法の規定では

第20條[信教の自由]

(2)何人も、宗教上の行爲、祝典、儀式または行事に參加する事を強制されな

い。

(3)國及びその機關は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

とあります。しかし、

(1)信教の自由は、何人に對してもこれを保障する。いかなる宗教團體も、國か

ら特權を受け、または政治上の權力を行使してはならない。

と云ふ規定は、首相が「神道政治連盟国会議員懇談会」に參加する事を禁ずる根

據とはならず、むしろ、「信教の自由」としてその行動を保障するものであると

思はれます。

>やがて憲法改悪

> によって「天皇絶対性」への復帰を目指す。「天皇の御ために命を捧げよ」と

> いう森教育改革の足音が、ずんずん大きくなっていく。

「天皇絶對制」は困つたものなのだが、さうならないやうにする爲には、間違つ

た批判こそ許されぬものだ、と思ひます。

> オランダでは王室の権限を縮小する動きがあるのに対し、日本では逆に天皇

> 崇拝、大権拡大を目指す。世の中がIT革命に突入しようとしているのに、飛

> 脚の時代に戻ろうとする。自民党・神国日本極右思想と公明党・創価学会、き

> たるべき新世紀は新たな神仏習合の時代か。

オランダや諸外國で王權が制限される事、コンピュータが發達する事は、「天皇

制」の問題と關係ありません。批判の根據が「聯想ゲーム」では困ります。

> 始め「神の国」発言を取り消すかのように伝えられたが、案の定「誤解を与

> えたことを陳謝」でチョン。誤解など誰もしていない。皆正解をしているの

> だ。恐らくは極右あたりから「陳謝などはもっての外」などと猛烈な激励が

> 飛んだのであろう。

臆測を根據にしてはならないと思ひます。それこそ、「猛烈な激励などない」と

斷言されたら終りです。ましてや、皆誤解をしてゐるのだから、「正解をしてい

る」と言張つても役に立ちません。

> 十七歳少年達は「人を殺して何が悪いのかわからない」と云って司法試験の

> 難関を突破したオッサン達を悩ませているそうだが、森首相の言い訳もこれら

> 酒鬼薔薇レベルとなんら変わりがない。森首相の平然傲慢な態度こそが日本の

> 子供達に教育上非常に悪い影響を与えるのである。

「傲慢な態度」に「傲慢な態度」で當つても、意味がありません。論理的に批判

すべきです。

> 天皇を徒らに温存するからこうなってしまう。天皇を置くことは、長い目で

> 見て百害あって一利なし。天皇を廃止する憲法改正に大賛成!

論理が飛躍してゐます。自動車事故をなくす爲に自動車を廢止すべきだ、と云ふ

主張と同斷です。或は、殺人事件をなくす爲に、人間をこの地上から存在しない

やうにすべきだ、と云ふ論理と同じです。天皇をなくせば事は解決する、と言ふ

のは間違つてゐます。天皇の正しいあり方をこそ、議論すべきです。天皇をなく

せば、天皇を「温存」する以上に問題が起こります。何でもかんでも切捨てれば

よい、と云ふ發想こそが、現代社會の荒廢を生んでゐるのであります。


Re: クリスチャンと天皇( Re: 何が昭和の日だ!!!)

Date: Thu, 18 May 2000 17:37:55 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

Newsgroups: fj.soc.politics, fj.soc.culture, fj.life.religion, japan.jiji

References: 1 , 2 , 3 , 4 , 5 , 6 , 7 , 8 , 9 , 10

Yamaguti Sin'iti wrote:

>

> 記事<8fvmpa$ap9$5@nw041.infoweb.ne.jp>での,

> "Dr.H" >fwht8953@infoweb.or.jp> さんの次の記述に関して:

>

> >> 神社や神道を宗教と同列に考えるのは違和感があるもの。

> >> 七五三で神社に子供を連れていったけど私は神道を信仰している意識はない。

> >> 初詣にしてもそう。

>

> 初詣や七五三に出かける人には信仰意識がない人が多いのは事実ですが,

> だから神道が宗教でないとはいえません.

> 仏教でも,明確な信仰意識を持つ仏教徒というのは日本では多くありませんが,

> だから仏教は宗教ではない,といえないのと同じです.

> 「違和感がある」というのは,宗教というとキリスト教的一神教か新興宗教

> をイメージしているからではないですか?

神道は宗教の萌芽であるとは思ひますが、佛教やキリスト教と肩を並べられる程

御立派な宗教では無いと思ひます。

> #私自身は仏教徒として,神社で礼拝行為などをすることは決してありません.

> #結婚式も仏式でやりました.

一般の日本人は、クリスマスを祝ひ、除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べ、

年が明けたら神社に參拜し、では何教徒なのかと問はれたら、「無宗教です」と

言つてみたり、「教科書によれば日本人は佛教徒です」と答へてみたりするもの

です。さう云ふ、宗教に對するだらしない態度は「神道的」です。

> >> #信仰心という面で宗教と言えるのか?

>

> 宗教を成立させる必要条件は,広い意味の「神聖」観念です.

まさに神道信者の神道信者たるゆゑんが、「神聖」と「禁忌」の觀念の所有であ

ります。

> >> #教典はあるの?古事記、日本書紀がそう?

>

> 文字化された教典の存在は宗教の必要条件ではありません.

> 国家神道の場合は,軍人勅諭,教育勅語がそれに相当しそうですが.

しかしながら、體系化された本格的な宗教に、教義を明確に表現した教典は必須

です。キリスト教にもイスラム教にも佛教にも、教義を論理的に闡明した教典が

多數存在します。殘念ながら、神道に存在するのは古事記、日本書紀の他には、

祝詞、宣命の類だけです。しかも、いづれも體系化の域には達してをりません。

江戸時代の終りになつて、漸く本居宣長や平田篤胤、山崎闇斎らの「近代的」な

神道が出現します。だが、彼等の著作は(學者の著作であるにも拘らず)極めて感

性的なものです。

軍人敕諭や教育勅語は、確かに神道最大のシャーマンであり現人神である天皇の

言葉であり、神道の教典に加へられるべき存在ではあります。しかしながら、い

づれも徳目の列擧に過ぎず、道徳的な觀點から見れば、キリスト教の聖書に格段

に劣つてをります。

> >> 宗教ではなくてどちらかと言えば日本の風習でしょう。

>

> 宗教と風習とは対立矛盾するものではなく,重なり合うものです.

> 宗教が風習を形成することはよくあります.

トインビーによれば、宗教と文化・民族は不即不離のものです。神道もまた、日

本の文化・日本の國民と不即不離のものです。然るに、「神道」は極めて原始的

な段階に留まつてをります。しかし、日本人に朝鮮民族や支那民族の血が多數入

り込んでゐるやうに、日本人の宗教觀には儒教と佛教が入り込んでゐます。ここ

で申上げたい事は、儒教や佛教もまた日本人と不即不離のものであるならば、日

本人と不即不離の神道と云ふものは、原始的な「神道」ばかりではなく、そこに

流入した儒教や佛教も含めた極めて曖昧な日本人の宗教觀全體を指して言はれる

べきでありませう。即ち、儒佛神を融通無碍に行つたり來たりする「宗教的にだ

らしない態度」そのものが神道であると言ふべきではないか。

> >> 戦前(戦中?)一部過激派(右側の)が神道と対立するものとして創価学会やキリス

> >> ト教、仏教を扱い自ら神道を宗教と同列に格下げしてしまったことに問題の根はあ

> >> る。

>

> 逆だと思います.

> 帝国憲法で制限付きながらも「信教の自由」を定めた以上,キリスト教徒などが

> 自らの信仰の対象を持つが故に,天皇を神として崇拝することを潔しとしなかった

> ことに立腹した国家は,天皇崇拝を強制する口実として「神道は宗教ではない」

> と言いくるめたのです.ここに問題の根本があります.

どちらが上とか下とか言つてゐるからをかしいのではないですか。體系化と云ふ

點で、或は道徳的な觀點で、神道がキリスト教に劣る事は明かですが、一方で、

他者に對する寛容と云ふ點でキリスト教は神道に劣ります。文化・宗教そのもの

に優劣はありません。格上げも格下げもありません。ある點ではすぐれてゐる

が、ある點では劣つてゐる、と云ふだけの話です。

しかし、「天皇崇拜」を拒絶する爲に、キリスト教は神道を一人前の宗教だと認

めてしまつて良いものでせうか。「天皇崇拜」に抵抗する爲に、クリスチャンが

宗教を利用してゐるやうな氣がします。

>もうひとつは,神社神道

> にみせかけながら,内実はそれとは質的に異なる国家神道を創り上げたこと.

私は逆に、神社神道と國家神道の内實は全く同じものだと見ます。むしろ、兩者

は表面的に別物であるだけだと考へた方が良いと思ひます。宗教としての本質に

差はないが、國家神道は形式的に政治と結び附いた爲に神道の弱點をさらけ出し

た。

> 右翼が創価学会,キリスト教,仏教を攻撃したのは事実ですが,それらの宗教と

> 対抗するために神道を宗教として扱うようにと主張した事実を私は知りません.

> 彼等は露骨に,キリスト教や浄土真宗を国家が禁教とするよう主張した事実は

> あります.国権を発動すれば,国家神道がわざわざ宗教をなのって在来の宗教と

> 同じ土俵で信徒獲得を競う必要はないのです.

> 実際,ひどい場合には,逮捕されるだけではすまず,教派神道(大本,ひとのみち)

> は神殿を爆破されたりしました.

話は逆だと思ひます。クリスチャンの側が強硬に「天皇崇拜」を拒絶した爲に、

國家神道の側も強硬な態度をとらざるを得なくなつた。國家神道は「宗教的にだ

らしない」神道なのだから、キリスト教を無闇に彈壓なんかしません──出來ま

せん。宗教彈壓なんて、神道の信者である(即ち正邪善惡を峻別しない、非キリ

スト教徒としての)日本人の、最も好まざる事です。

神道の信者が、自分から進んで敵に苛烈になる事は、道理から云つてあり得ない

事です。クリスチャンは、正邪善惡を峻別するから、常に敵に對して苛烈にな

る。十字軍を見れば明かです。ただ、西歐のクリスチャンが正邪善惡を峻別する

と云ふ事そのものに好い加減ではないのに對し、日本のクリスチャンは何が正し

くて何が間違つてゐるかを論理的に判斷しない。日本のクリスチャンは、ただ自

分達キリスト教の教義をごり押しする。言換へれば、西歐の(本物の)クリスチャ

ンは、他人にも苛烈になるが、まづ自分に對して苛烈になる。しかし、日本のク

リスチャンは、他人にだけ苛烈になる事を學び、自分に對して苛烈になる事を學

びませんでした。


Re: 何が昭和の日だ!!!

Date: Thu, 18 May 2000 18:12:14 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

Newsgroups: fj.soc.politics, japan.jiji

References: 1 , 2 , 3 , 4 , 5 , 6 , 7

DOI Koji wrote:

>

> In article <39227511.22547259@par.allnet.ne.jp> T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp> writes:

>

> > > 論理がなっていない。

> > > 「昭和天皇の崇拝に反対すること」は「個人崇拝の禁止の押し付け」になんか

> > > なりませんね。

> >

> > なります。

> >

> > 土井さんは、私の言つた「個人崇拜」と云ふ言葉を意圖的にねぢ曲げてゐます。

>

> いや、意図的にではありません。まさかあなたのような主張をおおまじめに

> 開陳できる人がいるとは想像できなかったというだけのことです。

「論理がなっていない。」のならば、當然私の發言のどこがどう具體的に「論理

がなっていない」のかを、土井さんは説明出來る筈ですね。でも、土井さんはそ

の説明をなさらず、私の發言を鼻で嗤ふ事でごまかしてをられます。

「説明が出來る」と仰るのならば、實際に説明をなさらなければなりません。

> > 「昭和天皇の崇拝に反対する」人達は、「昭和天皇を個人が勝手に崇拜する」の

> > は構はない、と言ひます。しかし、私は「昭和天皇を國民が皆崇拜すべきだ」と

> > 主張してゐるのです。

>

> なぜでしょうか。合理的な理由が示せないのであれば、単にあなたの好みの

> 押し付けでしかありません。そんなものには省みる価値を感じられません。

日本人は、西歐人のやうに、絶對者である神を戴く民族ではありません。偉い人

を尊敬して自分を省みる民族です。西歐は「人の上の神」を信ずる文化であり、

日本は「人の上の人」を信ずる文化です。そして、日本人は「人の上の神」を信

ずる西歐を受容れたが、數千年以上も「人の上の人」でやつてきたのだから、一

朝一夕に「人の上の人」を捨てて、西歐のGodを信ずる譯には行かない。

だから日本人は、「人の上の人」を信じて何とかやつて行かなければならない。

もちろん「人の上の人」は、人だから、必ず間違ひをやらかす。「人の上の人」

は必ず轉ける。だが、だからといつて安易に「人の上の人」を捨ててしまつて

も、「人の上の神」を日本人は信じられないのだから、日本人は信ずるものを無

くしてしまふ。信ずるものを無くしてしまへば、人は自分を省みる根據を失ふか

ら、増長し、傲慢になる。それでは困る。

日本人は明治以來、尊敬すべき「人の上の人」として天皇を敬つてきた。だがそ

の天皇が轉けてしまへば、日本人は「人の上の人」は轉けるものだと云ふ事を目

の當りに見てしまふ。あの天皇でさへ轉けるのならば、ほかのいかなる「人の上

の人」を持出しても、いつか確實に轉ける、ならば「人の上の人」など最初から

信じないのが利巧だ──さうして日本人は信ずるものを失つて、自分を省みる事

がなくなり、傲慢になる。

> > る存在ではない、と考へるのは自由だが、それでも國民は皆、天皇を崇拜してゐ

> > るかの樣に振舞ふべきである」だと云ふ意味なのであります。

>

> なぜでしょうか。合理的な理由が示せないのであれば、単にあなたの好みの

> 押し付けでしかありません。そんなものには省みる価値を感じられません。

天皇は轉けるべき存在であり、事實として天皇が轉けたとしても、それでも日本

人は天皇を「人の上の人」でやつて行かなければならないのだから、一度選んだ

「人の上の人」を轉けさせないやうに扱つて行かなければならない。

私の好みで結構ですよ。私は、人間が何も信じないで傲慢になるよりも、何かを

信じて謙虚になる方が、好みなのですから。

> > 「天皇崇拜に反對する人」は、「内心、天皇を崇拜する人」を輕蔑してゐます。

> > それが私には許し難い。私は「天皇を崇拜せよ」と主張するが、「内心、天皇な

> > ど崇拜出來ない」と思つてゐる人を輕蔑する氣はない。なぜなら、私だつて「天

> > 皇も人だから、常に名君ばかりではなく、時として惡い天皇も出現する」と云ふ

> > 事を承知してゐるからです。だから、「天皇を崇拜する振りをせよ」と主張する

> > のです。

>

> 「振り」をすることにどういう理由があるのでしょうか。

> わたしにはナンセンスな主張としか思えません。

天皇は一度轉けたのだから、即座に信じろと言つても無理ですね。しかし、信ず

る振りをする事は出來ます。そして、信ずる振りをする事は、信ずる事に繋が

る。

ニーチェが「神は死んだ」と叫び、以來、近代の西歐にGodは「不在」となりま

した(象徴的な表現ですよ、事實としてニーチェが神を殺した譯ではありません)

。しかし、「神の死」によつて西歐に齎された精神的荒廢に對して、西歐は反省

せざるを得ませんでした。

ベケットは「ゴドーを待ちながら」を書きました。Godotとは、Godの事です。登

場人物は、いつかGodotが現れる事を信じて、待つてゐるのですが、いつまで經

つてもGodotは來ない。それでも登場人物は、Godotなる存在はいつか來るものだ

として、待ち續けてゐます。

T.S.エリオットは「カクテル・パーティ」を書きました。これはGodの不在證明

であり、同時に、Godの存在證明であります。1時間もあれば讀めますから、ぜひ

讀んで下さい。この作品は一見、家庭内劇であり、愛情のなくなつた夫婦の話で

す。エリオットは、愛情なんてものは最初から存在しない、ただ愛し合ふ振りを

するから、愛情が生れるのだと言つてゐます。非常に示唆的です。

森鴎外の「かのやうに」と「興津彌五右衞門の遺書」も讀んで欲しいと思ひま

す。

> > もちろん、天皇の事を崇拜出來ないのなら、しなければ良いではないか、と云ふ

> > 批判を食らふのは承知であります。だが、殺人を禁止しても人殺しは出現するの

> > だし、盜みを禁止しても泥棒はなくならない。いつの世にも殺人者や泥棒はゐる

> > ものだから、警察なんか無くしてしまへ、と云ふ事にはならない。天皇なんて崇

> > 拜出來ないからと云つて、天皇を崇拜してはならない、と云ふ理由にはならな

> > い。

>

> 崇拝するべきだという主張の理由にもなっていませんね。

> 天皇崇拝論者・国旗国歌崇拝論者によく見られる、間抜けな論理飛躍の例が

> ここにも見られます。

私としては、眞面目に論理を展開してゐるのですが、馬鹿馬鹿しくなりますね。

詰らない口喧嘩に墮するのは嫌なのですが、「間抜け」と決めつけられては、こ

ちらも默つてはゐられません。

どこがどう間違つてゐるか説明出來ないのならば、「間抜け」などと負け犬の遠

吠えをしてゐないで、尻尾を丸めてさつさと逃出せ、と言ひませうか。悔しかつ

たら、どこがどう云ふ理由で「論理飛躍」であるのか、正しい論理展開は如何な

るものなのかを、きつちり説明して下さいね。それが出來ないのであれば、公衆

の面前であなたは私を侮辱したのだから、謝罪して下さいね。

> > 戰後、天皇は人間宣言をして人となつたが、それで日本人は戰前より良くなつた

> > かと云ふと、全くならない。戰前の日本人だつて、もちろん天皇は人だと承知し

> > てゐたが、恰も天皇は神であるかのやうに振舞つて、それで立派な事をたくさん

> > やつた。ならば日本人は、内心崇拜出來ない天皇を恰も崇拜してゐるかの樣に振

> > 舞ふ方が、内心崇拜出來ないからと云つて崇拜しない態度をとるよりも増しなの

> > であります。

>

> ナンセンス。あたかも戦前の日本人のほうが戦後の日本人より立派なことをたくさん

> やったようにいっていますが、それはあなたの思い込み。別の言葉で言えば、

> 単なる懐古趣味でしょう。

あなたのやうに、自分の觀念に溺れて、他人の事や正しい歴史を見ないよりは増

しです。

いやいや、自分に都合の惡い事は皆「間抜け」と決めつけるあなたは、戰前に生

きてゐたらきつと、國家に都合の惡い事を言ふ人間を皆「非國民」と決めつける

國粹主義者となつてゐたでせう。即ち、戰前も戰後も、日本人は全く變つてゐな

い譯です。ただ、國粹主義から民主主義にイデオロギーだけ入替へただけです。


Re: 何が昭和の日だ!!!

Date: Thu, 18 May 2000 18:35:22 +0900

From: T Nozaki <noz@par.allnet.ne.jp>

Newsgroups: fj.soc.politics, japan.jiji

References: 1 , 2 , 3 , 4 , 5 , 6 , 7

何だか憤懣遣る方ないので、しつこいやうですが、もう一件投稿いたします。

なぜに憤懣遣る方ないかは、以下の土井さんの機械的な「反論」を見れば明かで

せう。土井さんの先ほどの投稿から、土井さんの文章だけを拔出したものです。

「なぜでしょうか〜」以下、同じ文章が2囘出てきますが、原文のままです。コ

ピーアンドペーストしたのが明かで、土井さんが私に反論する際に手を拔いた事

が如實に現れてをります。即ち、反論にもなつてゐないと云ふ事です。

DOI Koji wrote:

> > > 論理がなっていない。

> いや、意図的にではありません。まさかあなたのような主張をおおまじめに

> 開陳できる人がいるとは想像できなかったというだけのことです。

> なぜでしょうか。合理的な理由が示せないのであれば、単にあなたの好みの

> 押し付けでしかありません。そんなものには省みる価値を感じられません。

> なぜでしょうか。合理的な理由が示せないのであれば、単にあなたの好みの

> 押し付けでしかありません。そんなものには省みる価値を感じられません。

> 「振り」をすることにどういう理由があるのでしょうか。

> わたしにはナンセンスな主張としか思えません。

> 崇拝するべきだという主張の理由にもなっていませんね。

> 天皇崇拝論者・国旗国歌崇拝論者によく見られる、間抜けな論理飛躍の例が

> ここにも見られます。

> ナンセンス。あたかも戦前の日本人のほうが戦後の日本人より立派なことをたくさん

> やったようにいっていますが、それはあなたの思い込み。別の言葉で言えば、

> 単なる懐古趣味でしょう。

論理的に反論されないと議論が出來ません。土井さんは眞面目に議論する氣がな

いやうですが、それではNetNewsの意味がありません。土井さんには眞面目に反

論していただきたいものです。

それにしても、「崇拜しないで良い」と云ふ事を否定すれば、必然的に「崇拜せ

ねばならぬ」と云ふ事を、土井さんは理解なさつてゐないやうです。「天皇制反

對論者」によく見られる、間拔けな勘違ひの例、とでも申上げませうか。

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