公開
2001-09-05
最終改訂
2001-11-16
超近代の思想
日本を斬る!
天皇論:メモ
1
私は天皇を身近に感じた事がない。天皇は遠い存在である。
もちろん、戰前の日本人にとつても、天皇は遠い存在であつたらう。
しかし、この「遠い」と云ふ言ひ方の意味は、戰前の日本人と、私とでは、意味が異る。
戰前の日本人にとつて、天皇は手のとどかぬ高みに坐す存在であつた。
一方、私にとつて、天皇は單に、縁遠い存在である。これは、若い日本人にとつて、共通の感覺であらう。
天皇は過去の存在であり、現在に生きる日本人とは接點すら見出され得ない、とされる。
それゆゑ、現代の日本人は、天皇に關心を持たないし、天皇を必要としない、と云ふ結論が簡單に下される。
2
我々日本人は、業績ではなく、印象や評判によつて、屡々人の價値を決定する。
明治時代の先人は「復古」の名の下に、天皇を戴き、日本の近代化を實現した。その結果を見ずに、現代の日本人は「復古」的だと言つて天皇を否定する。印象に目を眩まされてゐるのである。
「天皇を無くしさへすれば日本は近代化する」と信じてゐる連中は、天皇の下で日本が近代化した事實を忘れてゐる。
「天皇の爲に戰つて死んだ人間がゐるから、その責任を天皇は取らなければならない」と云ふ論理は成立たない。「Aの爲に犠牲が出たら、
常に
Aは責任を取らなければならない」と云ふ論法が眞理であるならば、この世は存在すべからざるものとならう。
3
「天皇がゐさへすれば良いのだらう?」と云ふ唯物論、「天皇は崇めたい奴が勝手に祀れば良い。しかし、崇めたくない一般人は崇めなくても良いぢやないか?」と云ふ隔離政策、に、私は滿足しない。
それらの意見は所詮「天皇を認めるのではなく、自分の理論で天皇の存在を規定してゐるに過ぎないものである」と云ふ事に、私は氣附いてゐるからである。
今假に、この手の論法を、「天皇放置論」と呼ばう。この「天皇放置論」は、結局のところ「天皇廢絶論」と同義である。
放置されれば消えてしまふものを、敢て放つておくのは、その存在を否定する事である。夏の盛り、日當りの良い路上に駐めた車の中に、故意に幼兒を置去りにするのは、殺人である。
「消えろ」ではなく「放置されれば消えてしまふものならば、消えるのが當然なのでせう」と言ふのは、寧ろ惡質なのである。自己の責任を囘避しつつ、同一の結果を齎さうとしてゐるからである。
「あんたがやりたいのならば、勝手にすれば良いぢやないか」は、實は、相手の行爲を否定してゐる言葉である。
4
「天皇を無くせ」では、天皇がゐなくなつたら、我々日本人は、何をよりどころにすれば良いのだらう。
「天皇に代るもの」を用意出來たとして、それが再び失敗したら、日本人はどうすれば良いのだらう。
「天皇に代るもの」は、天皇よりも素晴らしい存在であらうか。
「據り所など要らない」と考へる事は出來ない。據り所もないのに堂々としてゐられる人間は、狂人である。もつとも、正氣の惡人よりも、狂氣に陷つた善人の方が、現代の日本人はお好みのやうである。
5
僕は天皇制といふ政治形態の護持者ではなく、天皇の護持者である。
「天皇制」に反對する人は屡々、敵對者は「天皇制護持」を主張してゐるものと思ひ込む。そして彼らは屡々、敵對者に「天皇制護持論者」と云ふレッテルを貼る事で、「天皇制」批判を完了したとすら思ひ込む。「天皇制」と言ひたいだけなのではないかと、小一時間問詰めたくなる。
「天皇制」なるものは、イデオロギーであり、特殊な天皇の認識方法でしかない。現實の天皇のあり方と、「天皇制」によつて説明される天皇の姿とは、必ずしも一致しない。だが、
イデオロギーと現實との間には屡々懸隔がある
と云ふ事を忘れて、「天皇制」と云ふイデオロギーによる説明を事實そのものだと信じ込む人が、殘念ながら昨今、極めて多い。
「天皇制」に反對する人は屡々、事實を説明するのに
倫理的豫斷目的意識
の入り込んだ或方法しか認めない。そして、敵對者による主張を、
倫理的豫斷目的意識
をもつて批判して平氣である。イデオロギーを信ずる人間には、イデオロギーを信じない事が主觀的な事であるやうに見えるらしい。