初出
野嵜健秀(@nozakitakehide)/2010年11月20日 - Twilog
公開
2017-06-25

立場がない人

「右」とか「左」とかいつた事を、今の政權を何うするかとか、さう云ふ議論に「利用する」のなら意味はないけれども、洋の東西で文化が如何に異るか、違ひを探る――西歐の思想に於る二つの潮流を見出し、それを受容れた筈の日本で何うして話がをかしくなつてゐるのかを考へるのに用ゐるならば、意味がないとは思はない。

或は、誰でも自分の立場を省みるには何らかの基準なり物差なりが必要である事は確かであり、左とか右とかの立場と云ふものを發想の軸に持つて來て、そこから何うずれてゐるとか、逆に自分の立場からさうした標準は何處がをかしいとか、さう云ふ自主的な判斷をする事はあり得る話だ。

逆に、「右とか左とかそんなものはない」みたいな事を言つてしたり顏をしながら、個別の物事について場當り的に「もつとも良いと思はれる現實的な判斷」をしようとするなら、それは民主と自民の泥仕合みたいな事態を生じさせるだけでしかない。


アメリカの民主黨と共和黨にしても・イギリスの勞働黨と保守黨にしても、現實の状況に應じて個別に判斷する事もあるけれども、結黨の理念に基いて一定の傾向の政策を實施してゐる。

政黨が理念に基いてどのやうな傾向の政策を採用するか、大體判つてゐれば、國民も今の状況でどちらに政權を任せるべきか、判斷出來る。日本のやうに、右も左もしつちやかめつちやかで、如何に巧い事言はうかと競爭してゐる状況では、國民も無黨派層になつて樣子見するしかない。

「右」とか「左」とか、正義とか、さう云ふ事は、意識して行動する事が重要なのであつて、無視したり・ない事にしてしまつたりしては、却つて世の中の現状をわかりにくくしてしまふ。さう云ふものが「ある」と認識出來る事で、極端に陷る誤を免れる努力が初めて可能になる。無意識にへんな方向に流れてしまふのが一番怖い。

日本人は「私は右である、右だから何うする」「私は左である、左だから何うする」と言つて、どんどんどんどん極端な方に向つてしまふ。「私は右の立場だから、反省して、極端に右には行かないやうにしよう」みたいな事を、なかなか考へる事が出來ない。

人によつては「私は右でも左でもアリマセン」と、實におきらくに自分を定義してしまふ。「右でも左でもありません」がご自慢の人もいつぱいゐるが、何を威張つてゐるのだらう。ただの日和見に過ぎないものを。

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