初出
Yahoo!掲示板(ホーム:藝術と人文:哲學、思想:「ウヨク」について)
公開
1999-07-11
最終改訂
2001-06-01

政治主義と云ふこと

右も左も政治主義

知的怠惰なインテリゲンチャは、安易に「55年體制が崩潰して、右も左もなくなつた」と主張する。しかし、今も右翼と左翼の不毛な論爭は無くなつてゐないのだから、右も左も依然、健在。

そもそも、「政治が一番大事」と考へてゐる時點で、右翼も左翼もそれらのどちらにも與せぬぞといふ中道も政治主義の同じ穴の貉である。しかし日本人は皆、政治許りを氣にして、道徳の凋落は氣にしない。ならば、日本は戰後半世紀經つて、さつぱり進歩などしてゐない。

他人の事であるにもかかはらず、弱者や少數派に同情して、否した積りになつて、獨りでいい氣でゐるのは僞善である。しかし、政治主義に盲ひた人間は、それがわからぬ。政治主義的であつても、眞劍ならばそれはまだ増しなのだが、眞劍でない好い加減な人間が多過ぎる。日本では、右も左も無くなつてはゐないが、質だけは惡くなつてゐる。

道徳と政治の區別がつかない

修身齊家と治國平天下は違ふ。そこに聯關があるかのやうに看做す儒教道徳には、缺陷がある。吉川幸次郎は、「論語」の政治を重視する側面には親しめない、と言つてゐる。

西歐流の「道徳と政治の峻別」と云ふ事は、我々日本人には理解し難い。しかし、政治上の事でも、道徳上の事でも、等し並みに「同情」「同情」でやつて行かうとする日本人のやり方は、だらしのないものだ。

しかしながら、儒教道徳の根本である「論語」にも、道徳と政治を峻別すべき事は既に述べられてゐる。「惻隠の情」と云ふのは、確かに「仁」の重要な要素ではあるが、論語で孔子は、時と場合に應じて「一面の眞理」を語つてゐる事に注意しなければならない。「親は子の爲に匿し、子は親の爲に匿す」と孔子は言ふ。道は爾(ちか)きに在りと孟子は言ひ、伊藤仁齋もこの言葉に注目してゐる。

道は爾きに在り

親子兄弟ほど「敵」として眞劍に憎む對象となりうる存在はない。「骨肉の爭ひ」が「血みどろ」のものとなるゆゑんだが、その爭ひは人間的であり、道徳的である。

一方で右翼と左翼の間の對立など、それこそ表面的でしかない。憎しみの念を持たずに殘酷な事をする。右は左を、左は右を、人間だと思はない。そして、その事實に、右も左も氣附かない。だから淺はかだ、と言ふのである。

そして、左は右の、右は左の弱點だけを見る。右は右の、左は左の弱點を見ない。「敵身方思考」と云ふ奴だが、これは「道」をひたすら遠きに求める事であつて、襃められた事ではないのだが、なぜか「大人の態度」とか言つて誤魔化す癖が日本人にはある。

何事も峻別しない國民性

實際、日本人は「誤魔化す」事に、何ら後ろめたさを感じないらしいのである。物事を峻別するのは、科學の根本にある精神だが、その精神を日本人は持つてゐない。何事も混同して、「それで結構何とかなる」「それで良いぢやないか」で濟ましてしまふ。

日本人は、右翼か左翼か、と云ふ「色眼鏡」を通して現實を見て平氣である。まともにものを見てゐる日本人は日本には何人もゐない。私も屡々自分のかけてゐる眼鏡の存在を忘れる。たまには反省すべきなのだが、日本人は「裸眼」も「色眼鏡」も意識して區別しない。

右翼は「恥」を強調し、左翼は「罪」を強調し過ぎる。しかし、日本人の「恥」と西歐人の「罪」を、日本人は區別しない。西歐人は、徹底的に意識化する。日本人は無意識の世界に住んでゐる。「それで何の不都合がある」と日本人は言ふのだが、都合不都合の問題ではない。

或は、右對左と云ふ觀點よりも、もつと重要なのは、日本對歐米諸國と云ふ觀點であらう。諸外國との外交交渉を考慮すると、諸外國の目指す近代化の方向から日本が外れるのは、非常に不利である。諸外國は、近代的な常識を以て外交を行はうとする筈である。日本が前近代的な態度を見せれば、嗤はれるだけである。外交の場で嗤はれる、と云ふのは、單に不利な立場に立つ、と云ふ意味である。

個人的に

政治的に右であるとか左であるとか言ふのは、それ自體がナンセンスなのである。「右であれ左であれ我が祖國」とオーウェルは言つた。國家は自國の利益の爲にのみ動く筈である。まづ、利益追求と云ふ動機が最初にあつて、その正當化だけが要請される。それが政治である。それが日本人には理解されない。

ならば、せめて、本氣で語つて呉れ、と言ふのである。「本氣」である事、眞劍である事は大事ではないのか。政治的に「正しい」若くは「間違ひだ」と云ふ事自體に意味はないが、本氣で正邪を爭ふのならば、論者の態度は、少くとも人間的と言へるやうになる。

だから右が左を、左が右を罵倒するのは、それがたとへ「無意味」で私のやうに「品のない」ものであらうとも、決して意味がないとは思はない。右同士、左同士の馴れ合ひよりも、右が左を、左が右を罵倒する方がまだしも意味がある。

「愛國心は惡黨の隱れ蓑」

サミュエル・ジョンソンは慥かに愛國心は惡黨の隱れ蓑と言つてゐる。しかし、惡黨の言ふ事は全部間違つてゐるとも言切れまい。愛國心は大前提であり、それを殊更に言ふのは惡黨だ、と云ふだけの事ではないか。

愛國心はイデオロギー以前のもので、右も左も關係ない、誰もが持つてゐる筈のものである。愛國心とは「また自分の國に生れてきたい」と思ふ心だと、福田恆存は言つてゐる。さう云ふ意味の愛國心なら、誰でも持つてゐるだらう。

愛國心がテーゼになつて、國粹主義に行つて貰つては困る。何でも「日本は一番だ」と言つて威張るのは間違ひだ。しかし、貧しくて氣候は最惡で、資源も何にもない、どうしやうもない國でも、その國民は愛國心を持つてゐる。難民は、祖國が嫌ひだから難民になるのではない。そこを日本の左翼は、屡々勘違ひする。

愛國心を一概に排斥したら、單に愛國心の代用品が生れるだけである。共産主義者は、日本を愛する心を失つて、代りにユートピアへの偏愛を抱くやうになる。困るのは、偏愛を偏愛だと思はない精神が生ずる事だ。代用品しか手に入らないと思ひ込んだ人間は、その代用品を絶對視する。それが困るのである。


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