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殺人について ( 哲学 ) - 闇黒日記@Yahoo! - Yahoo!ブログ
2007/7/26(木) 午後 9:13
公開
2019-03-14

殺人について

伊藤真先生の何とか言ふ憲法に關する新刊が集英社新書で出てゐて立讀みした。伊藤先生の參考書は、參考になる所が多いので結構持つてゐる(大方讀んでゐない)。

で、伊藤先生は護憲派で、新刊も護憲の本だが、なぜ先生が護憲派であるかと言ふと、「戰爭は良くない」と云ふ大前提を認める限り、今の憲法の第9條は「良い」條項である事になるからだと言ふ。伊藤先生が「戰爭は良くない」と言ふのは、一般に「人が人を殺すのは良くない」と云ふ事を先生が信ずるからだ。


ところで、ケルゼンと云ふ學者がゐて、俺はその何とか言ふ著書を讀んだのだが、法的に殺人は二種類あるのださうだ。 その一つの殺人は(廣義の)法によつて禁止される。それは共同體の構成員が他の構成員を殺して、共同體の秩序を亂した場合だ。これは「許されない」事と屡々定められる。

ところで、この許されざる殺人を犯した構成員に對して、共同體はどのやうな態度をとるか。過去に於ては、殺された人の關係者(家族・親類或は全體の共同體よりは狹いコミュニティの構成員)が、殺人者を殺す「義務」を屡々負つた。或は、復讐・敵討ちを「權利」として許された。歴史の一時期以降、共同體の特定の構成員(公務員)が專門に殺人者を特定し、探し出して殺す役割を負ふやうになつた。何れにせよ、法は共同體の秩序を維持する爲に、殺人によつて秩序を破壞した構成員を殺す事を定める事がある。この殺人は、法によつて義務とされる殺人である。

法的に、殺人はこれらの二つの殺人に分けられる。


ケルゼンの本では、このやうな「廣義の法」の規定が、過去の狹い範圍の共同體で存在する事が認められるのなら、現在の廣い範圍の共同體、即ち國際社會でも認められねばならない、と云ふ論理が展開された。國際法が「あり得る」事の主張である。法の執行者が定められてゐる國内法と違つて、法の執行が不確實な國際法であつても、それは依然として一種の法である――さう云ふ主張である。

或國家が、國際社會の秩序を亂して侵掠戰爭を仕掛けた。この時、その國家の戰爭は「許されない戰爭」である。國際社會は、報復の爲、この戰爭を仕掛けた國家に對して制裁を加へる事が、國際法的に認められる。即ち、侵掠された國や、侵掠された國を支持し侵掠した國の行動を支持しない國は、自衞戰爭や制裁の爲の戰爭を行ふ事が許されて來た。

勿論、さうした戰爭は、義務ではなく權利として侵掠された國に認められた戰爭であるが、義務であつても權利であつても構はない。過去の社會でも、復讐は屡々權利であつたが、權利としての復讐を認めた掟もまた廣義の法に含まれるとケルゼンは説明してゐた。


伊藤先生は、法律の專門家であるが、法の下で區別されるこれら二つの殺人を區別しない。昨今は、共同體の秩序を維持すると云ふ名目で行はれる「許される殺人」であつても一概に「殺人は惡」と看做す發想の下、忌避される傾向が強いが、伊藤先生の發想もまさにそれであつた。

法に關して、ケルゼンも專門家なら伊藤先生も專門家であるが、その主張は「殺人にも、許されない殺人と、許される殺人がある」「殺人は何時いかなる場合にも例外ナシに惡」と云ふ相容れない價値觀に基いてゐる。かかる「價値觀の相違」が根本にある場合、議論をしても水掛け論にしかならないやうに思はれる。ところが、さう云ふ價値觀を法よりも上位のものと認めるとしたら、そんな法の專門家が法を論ずるのはナンセンスでないか。


ところで、ケルゼンは、法は即座に法の秩序であり、法の秩序は即座に國家の秩序であり、國家の秩序が即座に國家である、と云ふ事を言つてゐる。言換へると、國家と云ふものに實體はなく、秩序立つた法の下で共同體がその秩序を維持して行く過程だけが「ある」、と云ふ事だ。

「國家が○○した」と、恰も人がするみたいな言ひ方をするけれども、そんな「人」のやうな國家は存在しない。ただ「何かが行はれた」時、その主體として國家と云ふものを考へる事があるだけである。公務員・官僚・閣僚……が活動して國民の生活に關與し、また國民自身が活動してゐる訣だが、それで全體として社會が成立つてゐる。構成員全體の活動の結果として共同體が「ある」かのやうに感じられるのだし、現實には結果等と云ふものすらなく、日々、活動が繼續されてゐるに過ぎない。

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