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「日本軍がやつた」と言ふ知的怠惰 ( 軍事 ) - 闇黒日記@Yahoo! - Yahoo!ブログ
2007/12/28(金) 午後 10:24
公開
2019-03-18

「日本軍がやつた」と言ふ知的怠惰

俺は右翼でないけれども、「日本軍」を惡者にしてそれで何でもかんでも濟ませてしまふ風潮は肯んじ得ない。

例の沖縄戰で「日本軍が自決を強制した」と云ふ言ひ方、あれは曖昧な表現で、實に好い加減だと思ふけれども、なぜか誰一人疑はうとしない。批判の對象は常に「自決を強制した」の部分のみであり、その主體が「日本軍」である事を全ての論者が疑はない。

沖縄で當時「自決の強制」を誰かが「した」のかと言へば、それは「した」に決つてゐるのであり、疑ふ餘地はない。ところが、では、その「した」のは誰、となると、これが常に「日本軍」なのだ。こんな異常な話はないのだが、「自決の強制があつた」と主張する人は全員、何の疑問も持たない。

例の「南京大虐殺」にしても、當然の事ながら、當時、南京に限らず、支那で殘虐な行爲が「あつた」事は事實で、議論する必要もない。ところが、その主體は誰かと問へば、返つて來る答はやつぱり「日本軍」である。


さて、ここで俺は、「日本軍」と云ふ主體はあり得るのか、と云ふ疑問を呈したい訣だが、過去にYahoo!掲示板で言爭ひをした經驗から言ふと、斯る疑問を呈する事夫れ自體が日本ではタブーであり、許されざる行爲であると看做されてゐる。

少くとも、南京で虐殺が「あつた」と言ふ人は、その行爲の主體が果して「日本軍」であり得るのか、と問ふ事を、それ自體として道徳的惡事と看做す。のみならず、そのやうな疑問を呈する人間は「人間ではない」と勝手に極附け、「人間ではないのだから差別してもそれは差別ではなく當然の事である」と心から信じ切つて、罵聲を浴びせ、ありとあらゆる方法で嫌がらせを行ひ、人格を否定し、ウェブ上から抹殺しようとする。人間を人間と看做さないのは殘虐行爲に走る機縁であり、「南京大虐殺」が「あつた」と主張する人間は虐殺に走る危險性のある人間である――現實にさう云ふ人間が日本人の中には極めて澤山存在する訣で、ならば日本人は過去、支那で支那人を人間と看做さず殘虐な事をやつたに違ひない。だが、その「日本人」と「日本軍」とは、果して完全に一致する概念か。當り前の話だが一致しない。では、「日本軍」とは何か。


沖縄で「強制の事実」が「あつた」と言ふ人もまた、「南京大虐殺」が「あつた」と言ふ人と同じく、何であれ自説に疑問を呈する人間を人間扱ひしないであらうが、しかし、矢張り「日本軍」とは何かと俺は疑問を呈したい。

なぜこんな事を言ふかと言へば、我々は安易に「日本軍」と言ひ、「日本軍」なる抽象的な概念を「惡人」と看做す變な事をし續けて來たが、こんな變な事を變だと思はなければ、變ではない當り前の事が變な事として片づけられ、封殺されてしまふからだ。「論者を人間扱ひしない」と云ふのは、言ひ方を變へれば「言論を封殺して平然としてゐる」と云ふ事であり、大變危險な事だが、危險極まる事を放置しておくのは言ふまでもなく危險である。そして、この種の事は、危險だからと言つて放つておかないと危險に卷込まれる訣で、自家撞着も甚だしい事態にしかならないのだが、今さら默つたところでしやうがない。俺は既に粘着されてゐて、默れば默るだけ損なのである。


「南京大虐殺」に關して、南京攻略の司令官、松井大將は、かの「東京裁判」において、「虐殺を命令した」としてではなく、「不法行爲を防止しなかつた」との理由で有罪となつた。これは誰が何う見ても明かに「軍が命令して兵士に虐殺を實行させた」ものでない證據である。(事實、松井大將は南京攻略前、兵士に對して、不法行爲をしないやう通達を出してゐる)軍上層部もまた然り、天皇が命令したとか云つた説を言ふ人は完全な××××である。

ところが、現在までに「南京大虐殺」は「日本軍」が「やつた」事になつてゐる。要は「日本兵」と「日本軍」とが混同され、命令される側と命令される側とが一緒くたにされてゐる。被統治者と統治者、勞働者と資本家を混同したら馬鹿であるが、「南京大虐殺」論爭ではその種の混同は當り前の事とされてゐるのだ。

もちろん、沖繩戰の問題でも話は同じで、混亂した最前線の將校が一々大本營に「自決を強制して宜しいですか」と御伺ひを立て、大本營が即座に「宜しい、自決を強制せよ」と命令を出す、なんて、そんな馬鹿な事態は、如何に馬鹿な戰爭であつたとはいへ、無かつた。ある筈がない。ならば「日本軍」が沖繩の人に自決を強制した、と言ふ事は不可能である。

が、なぜか、「日本軍」を主語にすると、全ての論者が疑はうとしないし、疑ひを抱く事を許されないのだ。何なのだらう。


明かに、「日本軍」を「惡い」と「言ふ」事が、それ自體として目的と化してゐるのである。そして、問題は何時でも「日本軍」の問題であり、左翼も右翼も常に「日本軍」を、貶すか、襃めるか、しないではゐられないのである。

が、「南京大虐殺」において、我々は「惡いのは日本軍」と言つて話を濟ませて良いものではない。「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々の冷酷さは、日本人が考へねばならない極めて重大な問題であり、その重大な問題をたかが「日本軍」の問題に矮小化する事は許されない。我々は、「南京大虐殺」は「あつた」、そしてそれをやつたのは我々とは何の關係もない何處かの「日本軍」なのだ、その「惡い日本軍」を罵る事で我々は(なぜか)淨化され、我々の立派さ素晴らしさを證する事が出來る、と、そんな事を考へてはならない。戰中の我々日本人が殘虐であつた事は、戰後の我々日本人が未だに殘虐である事を意味する。この事實をこそ我々は問題として自覺しなければならない。

沖縄縣民の諸氏も、「日本軍」を槍玉に舉げて罵り、侮辱を加へて、快を貪るだけで良いのか――「さうではない、我々は平和の爲に戰つてゐるのである」、そんな事を言ふ人がゐたら、それは欺瞞である。當然の事ながら、親兄弟を殺された事を沖縄縣民は怨んでゐるのであり、日本人に復讐しようとしてゐるのである。だが、復讐ならば復讐だとはつきり言ふべきであつて、平和主義の假面を被つて威張るのは不潔だ。

しかし、沖縄縣民は日本人に復讐すると言ひ難いのである。何しろ沖繩は本土に復歸して、今や自分逹も日本人なのだから。そこで「日本軍」と言ふ。言へば安心だからである。「日本軍」は、今では沖縄縣民と日本人の共通の敵である。しかし、共通の敵を作る事で安心する、と云ふのは、當座、精神衞生の爲に結構な事であるとしても、欺瞞によつて安心するのだから、長期的に見て有害な事ではないか。

ところが、「否、斷じて有害ではない」「日本軍を少しでも擁護しようとする事こそが有害なのである」と、そんな事を言ふ人は大變多いらしい。俺は日本軍を別に擁護も何もしてゐないのだし、日本軍を含むより大きな概念である日本人を全體として疑つてゐる訣だから、日本軍を憎む人々に非難される謂れはない筈なのだが――何うもやつぱり、「日本軍」を憎惡する人々は、自分が「日本軍」とは何の關係もない赤の他人であり、「日本軍」の「惡事」の罪を自分は全く背負つてゐないし、「日本軍」の問題點と自分は全く關係がないと心から信じてゐるのである。


困つた話だ。

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