初出
野嵜健秀(@nozakitakehide)/2010年12月07日 - Twilog
公開
2023-02-20

ミルトンの自由主義

ミルトンは、良書と惡書の區別なんて人間には出來たものではないから、區別しないで自由に選擇できるやうにすべきだ、と主張したさうなのだけれども、その目的は結局人格の陶冶なのであつて、墮落や怠惰を推奬したものでない事には注意が必要。

エロ本を規制するなと叫ぶ人逹が、エロ本を讀んで快樂を得る事だけを考へてゐるとしたら、ミルトンの意圖を無視してゐる事になる。エロ規制に反對してゐる人は、エロ同人誌と古典とを比較して、良し惡しは判斷出來ない、と本當に思つてゐるのか。

或は、良書か惡書かは決められないからと言つて、古典もエロ同人誌も區別せず、滿遍なく澤山の本を讀んでゐるか。所謂名著やアニメ或は漫畫に、全く同じ基準で接し、批判する事が出來てゐるか。

表現の自由なる權利だけが守られても、それを享受する人間の精神がをかしくなつてゐたら何の意味もなくなる。


みんな自由自由と言つてゐるが、何の爲の自由かを誰一人考へてゐないし、考へては行けないとまで言ふ人がゐる。


と言ふか、「良い・惡いは神樣によつて決つてゐる」と云ふのに反撥して「私は自分で良い・惡いを考へる」と言出したのが近代であるのですが、それが結局「良い・惡いは私が決める」と云ふ思想に至つてしまつて、近代の發想そのものが反省されるやうになつてゐるんです。反近代の思想。

「私が良いと考へた事」と言ふより、「何かを良い・惡いと考へる私」そのものが、最早批判の對象にならねばならないわけです。

「我思ふゆゑに我あり」と言つて、「我」だけは疑へない、としたのが近代的な發想なのですが、それは果して本當か――「我」と云ふものは疑はれねばならないのでないか。

さう言ふと、多くの人が、なら中世や封建時代、或は「天皇制」の時代に戻るのか、と言つて、嘲笑を浴びせて呉れるのですが、勿論、近代を經たと云ふ歴史的事實はあるのであり、こちらも單純に「昔を今になすよしもがな」なんて言つてゐるわけがありません。

と言ふより、すぐ「反動」呼ばはりする方が頭の構造が單純なのであつて、だから福田恆存も「反近代」ではなく「超近代」でなければならない、と指摘したわけです。

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