公開
2011-07-08

國旗・國歌と云ふ事

日の丸・君が代の「教育現場での強要」について、2011年に入つて裁判で「合憲」の判斷が下されるやうになつてゐる。都立高校などでの式典で、國旗掲揚・國家齋唱の際に職員に起立を命ずる事は「合憲」である、と云ふのだ。今の憲法が私は嫌ひだし、今の憲法の體制下で樣々なをかしな事態が生じ、樣々なをかしな發想が普及してゐる事に對して、常識的に考へて正しいに決つてゐる事が違憲とされるやうな事が多々生じれば寧ろ良いくらゐに思つてゐるのだが、取敢へず最高裁判所は學校での國旗掲揚や國家齋唱で職員が規律ある態度を取るやう命令するのは「合憲」だと認めた。

そもそも、日の丸・君が代の問題が生じてゐるのは、全て人々の勘違ひによるものであるが、改めてその事を指摘せずにはゐられないと云ふのは、やはり世の中、相變らずをかしいのである。

日の丸・君が代を「強要する」――それを反對派の人々は怒つてゐるのだが、實は「誰が誰に強要してゐるのか」を考へると、怒る方がをかしい、と云ふ事は餘りにも明かであつた。いや、そもそも、日の丸・君が代とは「誰のものか」――この事を餘りにも多くの人が考へない。反對派の人も考へない。彼等が一番惡質で、その邊を考へない事に據つてをかしな勘違ひを平然とし續け、をかしな主張を何時までも何時までもえんえん續けてゐられてゐる。

簡單に考へてみよう。日の丸・君が代は、韓國人のものでも、臺灣人のものでも、中国人のものでも、フィリピン人のものでも、アメリカ人のものでも、ロシア人のものでも(以下略)あり得ない。誰が何う考へても、日本人のものである。これは、世界の全ての人間が、その通りだ、と認める事實である。

ところが、この事實を、日本人の日の丸・君が代反對派の人は、解つてゐる筈なのに、解らないふりをしてゐる。彼等は、日の丸も君が代も、自分のものではない、と、激しく主張する。けれども、では彼等は何人なのだらう。日本人だ。日本人以外の何者でもない。日本人の日の丸・君が代反對派の人と言つてゐるのだから、日本人に決つてゐる。ところが、繰返すが、彼等は自分が日本人である事を完全に閑却して、日本人ではないかのやうな顏をして、振舞つてゐる。彼等が詐欺的であるゆゑんである。

ジョージ・オーウェルによれば、愛國心とは、自分では世界で一番だと信ずるが、それを他人にまで押附けようとは思はない、或種の物の見方である。日本人が、韓國人に・臺灣人に・中国人に(以下略)日の丸・君が代を「自分のものとして受容れよ」と強要した――それはオーウェル的な愛國心の立場から言へば、明かに誤つた態度だ。けれども、日本人が、日本人に、日の丸・君が代を「自分のものとして受容れよ」と強要したら――否、それはそもそも「強要」になるのだらうか。

日の丸・君が代反對派の人は、日本人が、日本人に、日本人のものである日の丸・君が代を「押附け」る事を、「明かに押附けである」と言ふ。ところが、それは誰が何う考へても押附けではない。押附けになり得ない。自分自身のものを自分自身のものと認識する、それは誰が何う考へても正しい認識をするだけの事であつて、強要になり得ない。それを「強要と認識せよ」と日の丸・君が代反對派の人は言ふのであるが、私にしてみればさう云ふ嘘を押附ける方がよつぽど惡質だ、と云ふ事になる。

日本人が、日本人に、日本人のもの・日本人だけのものを、日本人だけのものと認識するやう教へるのは、全く正しい事だ。そして、日の丸・君が代は、誰が何う考へても、最う疑ふ餘地なく、日本人だけのものだ。それを、日の丸・君が代反對派の人は、「いや、違う、日の丸・君が代は日本人のものではない」と言張る。だが、そんなのは通らないだらう。世間でも、世界にも通らない。ただ、日の丸・君が代反對の「理論」の中だけで整合性を持ち得る、即ち、日の丸・君が代反對派の人の自己滿足の爲だけに役に立つ「理窟」にしかならない。

日の丸・君が代反對派の人々は、日の丸・君が代は軍國主義と直結してゐる、日本の軍國主義に迷惑し、日の丸・君が代を憎んでゐる人は、アジアに澤山ゐる、と言ふ。なるほど、それは事實であらう。だが、その事實が何うだと言ふのだ。さう云ふ事實があるから、日本人は日の丸・君が代を「自分のものではない」と「言張るべきである」と云ふ事になるのか。日の丸・君が代反對派の人は、日本人は日の丸・君が代を「自分のものではないと言張るべきである」と絶叫してゐる。しかし、そんな事をすれば、アジアの人々は、却つて「日本人は無責任だ」「日本人は自分がやらかした過ちを忘れる國民だ」と思ふ事になるのでないか。

何うも日の丸・君が代反對派の人々は、「アジアの人々と一緒になつて、現代の日本人は過去の日本人を非難すべきである」と思ひ込んでゐるらしいのだが、過去の日本人と現代の日本人とを嚴然と區別する彼等の「理窟」は、「日本人としての責任」を囘避し、自分だけはいい子にならうする、たちの惡い「日本人的本能」が働いてゐるやうに思はれる。そして實際、彼等は屡、「ずるい優等生」になつて、「劣等生」たる「ウヨ」を差別して快を貪つてやる、と云ふ發想すらも示す。

過去の日本人と現代の日本人とを區別するなんて事は出來ないのであり、日本人は過去から現在まで繋がつてゐるし、諸外國の人々から見れば全部一緒である。過去の日本人に「戦争責任」があるならば現代の日本人にも當然あるので、ならば吾々は「戦争責任」を「自分のもの」として引受けなければならない。ならば、「戦争責任者のもの」であつた日の丸・君が代は當然吾々現代の日本人のものでもあるわけで、自分のものとして引受けなければならない。反對し、嘲笑を加へてゐれば良いと云ふものではない。「自分のものとして引受ける」覺悟を持つ事によつて初めて反省でも何でもする事は出來る。日の丸・君が代反對派の人は、さうした覺悟を持ちたくないから、必死になつて「日の丸・君が代は自分逹のものではない」と言張つて、責任逃れをはかつてゐるわけだ。

餘りにも、戰前・戰中にあつたものを、戰後の日本人は否定――と言ふより、それらから今の日本人は目を逸らして許りゐる。自分のものではないかのやうに言ひ過ぎる。「自分のものではない」ならば、それらの長所を言ふだけではない、短所を言ふ事も、眞摯には出來ない。考へる事すらも出來ない。過去に吾々が持つてゐたものを、適切に批評し、價値判斷出來ないならば、過去に連なつて生きてゐる現代の人間が過去を乘越える事は出來ないし、進歩する事も出來ない。こんな當り前の事すらも、現代の日本人は氣附く事が出來ない。多くの日本人が、吾々はすつかり先進國の人間となつた、吾々は過去と訣別し、完全に現代の日本人になつた、と決め込んで、安心し切つてゐる。だが、吾々は過去から目を逸らしただけに過ぎない。そして、敗戰は過去から目を逸らすのに最都合の言ひわけを提供したのである。

私は斷定するが、日の丸・君が代反對派の人々は、過去の日本を反省などする氣がないし、ただただ現代の日本人を稱揚して天狗になりたいだけである。彼等が私や「ウヨ」を非難するのは、彼等が天狗になるのに甚だ不都合だからである。「ウヨ」がゐる限り、彼等日の丸・君が代反對派は、「現代の日本人は素晴らしい」と(彼等の定義に從つて)言ふ事が出來ない。彼等はそれが嫌で嫌でたまらないのである。彼等は、自分逹に都合良く世の中を改變したい――日の丸・君が代とともに「過去の日本人」を切り捨て、「現代の日本人」だけで小さな世界を作りたい。そして、その小さな世界の中だけで、彼等は天狗になつてゐたいのである。

バカな話だ。

そして、實は斯うした「現代の日本人だけの小さな世界」を作つて、その中に閉ぢ籠つて自己滿足してゐたい、と云ふ發想は、教育界を支配してゐるのであつて、日の丸・君が代の問題はその一端が表はれたに過ぎない。「過去の日本」を切捨てて、「現代の日本」を禮讚する――さう云ふ現代的な翼賛體制は、戰後の早い時期に確立され、現在まで只管強化され續けてゐる。それに對する反動として、日の丸・君が代の教育委員会等からの「強要」と云ふものが出て來たわけだが、出て來るのは出て來るなりの理由があるので、即ち正當性があるわけである。それを日の丸・君が代反對派の人は認めないわけだが、事實は事實として認めるべきであり、事實を事實とありのままに認めない態度は排除されねばならない。

この「事實を事實としてありのままに受容れない」態度は、餘りにも當り前の正しい態度として、意外にも戰後の教育では一般的であつた。歴史教育に於いて漸くさうした態度の問題は指摘され、平成の御代になつて盛に言爭ひが行はれてゐるのだが、しかし全ての日本人が、意外にも原則としてこのをかしな態度を「正しい態度」として受容れたままなのであつて、それでゐてその態度を非難してゐるから議論は常にねぢれたままとなり、論者の主張は激越化する。

言ふまでもなく、憲法からしてをかしいのであり、國語の表記からしてをかしいのであつて、歴史觀や戰爭觀だけで話が濟む問題ではない。要は「戰後民主主義體制」それ自體の「自己完結性」がをかしいのであり、「現代の日本人」の井の中の蛙としての自己滿足がをかしいのであるが、しかし、斯う云ふ指摘が激しく拒絶され、指摘した人間の人格への攻撃にまで轉化する現状がある。日本がまともになる時代が何時か來ようとはとても思はれない。

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