初出
生き甲斐は必要ないか ( その他文学 ) - 闇黒日記@Yahoo! - Yahoo!ブログ
2007/8/24(金) 午後 10:58
公開
2019-03-15

生き甲斐について

ひろさちや曰。

わたしなんか戦前は「天皇陛下のために死ね」と教わったのですが、戦後になって天皇は、「俺は神ではないぞ」と宣言しました。じゃあ天皇を神と信じて死んだ者は犬死ですか。世の中は、そのときそのときの都合で、いろんな生き甲斐をわれわれに押し付けるものです。

これを受けてYas氏曰。

生き甲斐は、そのときの都合で、社会の側から与えられてしまうものなのだ。仕事が生き甲斐と思い込んであくせく働いている人は、都合よく誰かに搾取されている。

思想はその時の都合で社會の側から與へられてしまふものらしい等と揚げ足を取つてみても仕方がなからうが、この程度の揚げ足取りが可能な文章と云ふのは如何なものか。Yas氏はひろさちやの押附けた思想を「押附け」と思はず、自分のものであるかのやうに看做してゐる。


神田の古書會館で週末恒例の古本市。特に目ぼしいものがなかつたので諸橋轍次『荘子物語』を買つた。その最初の邊を少しだけ讀んだ。

荘子が或時、遊びに行つて、彫陵と云ふ大きな邸宅に入り込んでしまつたのださうだ。そこは本來、無斷立入禁止なのださうだけれども、鵲(かささぎ)が飛んで行つて、弓(弾)を持つて何か獲物を捕まへようと思つてゐた荘子は、欲心を起したのだつた。ところがその鵲が、木にとまつて、何かをじつと見据ゑてゐる。荘子が鵲の視線を辿つて見てみると、螳螂が何かを狙つてゐる。さて何を狙つてゐるのか見てみると、蝉を狙つてゐるのである。

そこで荘子はいたく嘆息して、斯う述べたのだ。

「バカなものだ。蝉は自分の木陰を楽しむことは知っているが、その身が今にもカマキリにやられるということを忘れている。カマキリはまた蝉をとらえようということの利益のために目がくらんで、自分がいまにもカササギの餌になるということを忘れている。そのまたカササギはカマキリをとらえようとして夢中になってはいるが、今にも私の弾のために撃たれ、自分の身がほろびるということを忘れている。すべて世の中のものは目前の利益のために、自分の真なるものを忘れている。これが万物のほんとうの姿であろうか。さても浅ましい愚かなものである」

さうして荘子が悟りを開いたやうな氣になつて歸らうとすると、後ろから「オイオイ、そこにおる者は誰だ。この園は無断では入ることはできないところだぞ」と注意されたのださうである。

諸橋氏は「つまり人間は自分というものが分らぬものらしいのです」と教訓を述べ、「これらの話を書いている点からみますと、荘子はまたたいそう反省の深かった人のようにもみえるのであります」と感想を言つてゐる。個人的には、小説的・散文的に面白い御話だと思ふけれども、まあ、あんまり荘子なる「普通の人」には感心しない。


福田恆存は『生き甲斐といふ事』で、戰前に存在した國粹主義的な生き甲斐が效力を失ひ、それに取つて代つた戰後の平和主義と云ふ生き甲斐もまた效力を失つた事を指摘し、今や生き甲斐が存在しない事に人々が不安を抱くやうになつたと述べてゐる。そこで再び「新たな生き甲斐」が、即ち民族主義が現はれつゝあるが、これもそのうち效力を失ふだらう――と言ふより、そもそも、今の民族主義と云ふ「生き甲斐」は以前の「生き甲斐」程にも魅力が無いのであると論じてゐる。

結局のところ、日本人は「眞に生き甲斐と呼ぶに足りぬもの」――消極的な價値觀――を恰も生き甲斐であるかのやうに思ひ込んで自らを欺いて來た爲に、何度と無く幻滅を覺えて來たのだ、さう福田氏は述べる。これは弱さであり慾の無さを示してゐるのであるが、さうした弱さ・慾の無さは、寧ろ弱點であらう、言はゞ利己心の缺如である。だから今は敢て利己心を否定せず、寧ろ積極的に認めようではないか、と述べてゐる。

昨今(と云ふのは、昭和30年代の話だ)政府や經營者等から生き甲斐や價値觀が盛に提唱されてゐる。福田氏は、それらの唱道の仕方が餘りに安易である、と批判してゐる。容易に飛び附けるやうな「生き甲斐」が蔓延してゐる、そして日本人が餘りに安易にそれらに飛附いてゐる、これは困つた事だ、と言ふのだ。「斷るまでもないが、これは左翼の口癖である逆コースへの警戒心とは全く異る」と福田氏は述べてゐる。左翼の言ふやうな「逆コースへの警戒心」と云ふもの、これもまた安直に言はれ、安直に受容れられる代物である。

福田氏は、生き甲斐は一切要らない、と云ふ主張をしてゐるのではない。話は全く逆で、本當の意味での生き甲斐こそが求められてゐる、と言ふのである。實は福田氏は、「人はパンのみにて生くるに非ず」と言つた時の「パン以外の何物か」は必要であると「骨身に應へるほど痛感してゐる」のであるが、しかしそれもまた、「誰にも解り易い樣に」「誰もが飛び附く樣に」説いてはならないと考へてゐる。

利己心の唱道にしても、それは利己心の充足を突詰める事によつて、利己心を突破する事の唱道に過ぎない。江戸時代、甚だ利己的であつた庶民にしても武士にしても、實に見事で豐かな生き方をした――その豐かな生き方は、即座に豐かな文化である。彼等が「生き甲斐を求める」等と云ふ事はせず、しかし、懸命に生きる活動をする中で生き甲斐を感じてゐた事は、大變重要である。今、「押附けられる生き甲斐」が、我々に豐かな生き方を齎すか。福田氏は、定年でリタイアした日本人の虚しい生活を指摘してゐる。夢をかなえたり、目標を達成したり、と云ふ事を「する」期間においてのみ有效な「生き甲斐」の唱道、これは殘酷なものだ。「立派な事」として頻りに唱道される「公的な生き甲斐」だけでは駄目である。福田氏は、個人の領域で「生き甲斐への通路を見出して置かなければならない」事を述べてゐる。人生、生まれて死ぬだけで基本的には十分で、それ以上は必要ない。とYas氏は述べるのだが、それは單なる天邪鬼で、結局は「公的な生き甲斐」と云ふ觀念の存在を前提とした觀念的な主張でしかない。今の定年後の「無趣味」な老人の生き方を、若い人にまで押附けてゐるだけの事である。


文化について、今の首相も頻りに言つてゐるが、「美しい日本」だなんて「死んだ觀念」に過ぎないのではないか。鑑賞すべき「美しい日本」があつても、生きた日本人は困るだけである。日本人が生きて活動してゐる日本があつて、それが結果として美しいものであるならば、誰も文句は言はない。

「生き甲斐」にしても、御立派なものを用意して貰つたところで、我々はやつぱり困るのである。「生き甲斐」なんて外部にあつても仕方がないのであつて、自分自身が感じられる必要がある。そしてそれは長持ちする事が重要なのだ。人生最後の瞬間に人が空しさを覺えてしまふ原因になるやうな「生き甲斐」ならば、無くて結構だ。

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