初出
野嵜健秀(@nozakitakehide)/2010年12月02日 - Twilog
公開
2023-02-20

ホリエモンの天皇論について

@takapon_jp 俺は歴史の連續性を日本人全員が重要だと認めるべきだと思ふから、天皇の存在の連續性も日本人全員が重要だと認めるべきだと考へる。

「好きな人たちがタニマチやりゃあいい」とか云ふのは實に尤もらしい「自由主義」の發想だが、そんな自由主義は認められない。なぜなら、何んなに自由を持上げてみたところで、人間は生れも育ちも全く自由にならないからだ。人間は全員、歴史――と言ふより運命の重みを認めなければならない。

堀江の説は、今の日本人の好む説だし、アンチ「天皇制」の連中が擧つて持上げる説だが、實に薄つぺらで、御氣樂なものでしかない。日本人が日本に生れて來た事は運命であり、自由な撰擇の結果ではない。ならば積極的に日本の歴史を受容れる方が、より自由な態度だと言ふ事が出來る。

歴史に反撥するとは、歴史に拘束される、と云ふ事だ。堀江のやうな「アンチ天皇制」の立場の人は、より不自由になる爲に「アンチ天皇制」の立場をとつてゐるに過ぎない。

「俺は天皇信者どもが勝手に天皇を崇拜するのは自由だと言つてゐるんだよ」と堀江等は嘯く。しかしそれは、「天皇を含め、全ての歴史的存在を、全ての日本人はありのまゝに受容れるべきである」と云ふ主張に對する反論とは言へない。

「過去と現在の歴史の連續性を認めよ」と云ふ主張に對し、堀江等は「過去と現在の歴史は斷絶した方が良い」と主張してゐる。だから私は堀江等の主張を認められない。

堀江等は「天皇制は過去の遺物であり、博物館のケースに入れて飾つて置くのが良い」と主張してゐる。

歴史が連續してゐるとは、過去に生きて存在したものが現在も生きて存在し續けてゐる事を言ふのだから、「陳列品」としての「天皇制」なんてものには何の價値もない。天皇は國民の中で生きて存在してゐなければならない。

堀江は「歴史は斷絶しなければならない」「過去の歴史にしがみつきたい奴はしがみついてゐれば良い」と言つて、自分を過去から切離したがつてゐる。けれども、國民が全體として過去の歴史と結び附く爲には、堀江のやうな發想をする人が絶對的に少數でなければならない。

今は堀江的な發想の人が増え過ぎてゐる。彼等は「全體主義」を拒絶する餘り、個人主義的と言ふより獨善主義的な態度に陷る。そして、自分の獨善を獨善と認識する事が出來ず、自分と云ふ個人の自由を「壓殺しようとする」と言つて「敵」を「天皇主義者」と極附け、自分を棚に上げて獨善的だと非難する。

能にしても歌舞伎にしても、既に劇場の中に押込められ、過去の遺物として多くの日本人の生活から切離されてゐる。文化ではなく文化遺産でしかない。堀江等は生きた文化と死んだ文化遺産とを區別する事が出來ない。

既に日本人の生活の中には、傳統的なものは殆ど殘つてゐない。吾々は明治以來、過去の日本的なものを切捨て、西歐文明をただ利用する爲に採用して來た。既に吾々は「國籍だけ日本人」であつて、殆ど「無国籍人」と化してゐる。

表面的に吾々は「脱日本人」を果し、巧みに西歐の文明の利器を操れるやうになつた。けれども、それは、逆に言へば、日本は西歐の植民地化が完了した、と云ふ事だ。表面的には西歐文明に飮込まれた訣だが、しかし日本人の精神の内面には因襲的な日本人的なものが無意識と化して生延びてゐる。

ホリエモンは、自分は「天皇制支持者ども」と違ふ、自分は最う現代人と成りおほせたのだ、と確信してゐる。けれども、そんなホリエモンの精神が何處まで西歐人的に進歩したか。言ふまでもなくホリエモン氏に西歐精神はない――少くとも倫理感や道徳心は、かけらもない。あるのは金儲け精神だけだ。

堀江氏だけを叩く積りはない。堀江氏のやうに「天皇主義者は谷町のやうに自分逹だけで天皇を崇め奉つてゐれば良い」と言つてゐる連中は、皆、堀江氏と同じで、金の亡者であり、自分だけ良ければそれでいいと信じてゐる惡い意味での「個人主義者」である、と俺は指摘したいのだ。

既に個人主義は西歐では過去のものとなつてをり、福田恆存にしても、個人主義を徹底する事は、個人主義を乘越え、日本人が近代化する爲の條件と見てゐた。日本は文化的な後進國だから、個人主義の理解も超克も同時に行はなければならない。

堀江氏に限らない、多くの今の日本人が、外見的に西歐文明への同化が進んだ事から、日本人の精神も西歐文化に同化し、進歩したものと勘違ひしてゐる。けれども、堀江氏のやうな淺薄な主張が、未だに平然と現はれて來るのだから、日本人の精神は依然として後進國的なまゝである、と言つて良い。

實際、日本人の精神の西歐化・近代化が完了してゐたなら、「タニマチ」が何うの斯うの等と微温的な言葉が出て來る筈もなく、過去の歴史を全て否定して革命に走るか、過去の歴史を全て受容れて穩健な保守的態度に積極的に留まらうとするか、そのどちらかの態度をきつぱり取り得たであらう。

俺が日本の「自由」を言ふ連中を信用しないのは、彼等が今囘の堀江のやうに微温的な文言で侮蔑的な捨て臺詞みたいな言葉を發するのを當然と思つてゐるからだ。斯る陰濕な態度こそ如何にも封建的な日本人の典型と呼ぶべきでないか。

斯う云ふ事を幾ら言つても、「俺は頭が良い」と心から信じてゐるホリエモン氏やその他の人々には「馬鹿が何か言つてゐる」みたいにしか受取られない。實に空しい。

日本人は過去に餘りにも澤山の外國の文物を採入れた爲に、文化の斷絶・歴史の斷絶も「變化」としてしか認識出來ない。文物を採入れるだけなら良いが、自分逹がその爲に多くの物を切捨ててしまつてゐると云ふ自覺が日本人には生じない。

それどころか日本人は「自分が如何に切捨てたか」を誇る傾向がある。これは或意味佛教の惡影響とすら言へよう。何でもかんでも捨てさへすればそれで良い、と日本人は考へてしまふ。

ところが、捨てるのは道徳心とか羞恥心とか歴史的觀念とかだけ、最後まで金への執着心は捨てない。

と言ふより、日本人は自分の欲望を正當化する爲に、いろいろ理窟を言つてゐるに過ぎない。

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