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野嵜健秀(@nozakitakehide)/2010年06月20日 - Twilog
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野嵜健秀(@nozakitakehide)/2010年09月23日 - Twilog
公開
2011-10-14
改訂
2017-06-21

平和主義者の平和的でない批判

1

平和な世界を希求するのは、我々が澤山の事柄についてそれぞれ異る意見を持つてゐても、互ひを許し合へる程、本質的に異らない――言はば均質な意見しか持てないやうになるのを望んでゐる、と云ふ事だ。

自分の意見の正しさを確信してゐる人間がゐる限り、人と人とは異見を對立させ續けるし、窮極的には爭ふ事になる。

「けれども戰爭だけは行けない」と平和主義者は主張する。だが、彼等は屡々「戰爭さへしなければ何をやつても良いのだ」と勘違ひしてしまつてゐる。「戰爭さへしなければ、何んなに陰濕な個人攻撃を仕掛けても良いのである」と多くの平和主義者が信じ――實踐してしまつてゐる。

平和主義者は屡々、議論における「敵」を「戰爭主義者」と認定し、その自分定義の「戰爭主義者」に對して、鄙劣極まる嫌がらせを執拗に續ける。さうして、自分は大變良い事をしてゐるのだ、と本氣で信じ込む。

私の知る限り、氣に入らない人間を潰す目的で嫌がらせを始めるのに、その相手を「人間としてまともでない」と云ふ事にして、自己正當化しようとする人が結構多い。嫌がらせをする時點で當人こそが人間としてまともでないのは自明だが、その手の人間は自分が何んな人間か自覺がない。

「人を批判するのはをかしな人間のする事である」と思つてゐる人が「嫌がらせは立派な人間のする事である」と勘違ひしてゐる事は極めて多い。

「人を批判するのは陰險な人間である」と思つてゐる人が、その批判をしてゐる人に對して陰濕な嫌がらせを仕掛けるのは、不思議な話のやうに思はれるのだが、結構良くある話である。

2

日本の平和主義者の人の場合、正義なんてものは意味がない、生命や財産を守る事だけに意味がある、と信じてゐるんです。さうなると、正義を唱へてゐる人がゐても、正義なんて無い、と頭から極附けてしまふ。私にはこのやり方が大變氣に入らない。正義を信ずる人間の方が人間として普通だからです。

人は全て地上の生の爲に戰つてゐる――と云ふ物の見方も私には嫌なものに思はれる。それでは人間の爭ひも動物の爭ひも變らないからだ。「だから戰爭なんて愚かな事なんだ」と平和主義者は言ふが、そんな愚かな事をえんえん續けてゐる人間を動物と區別すべき理由を平和主義者は絶對に提示しない。

全て人間は自分の生命や財産を守る爲に――或は私的な欲望の爲に戰ふものである、と云ふ見方に私は與し得ない。さう云ふ見方をする人だからこそ――ウェブの論爭でも、ただ相手の論者を叩きのめす事だけに熱中する事になるからだ。生命を超えたものへの視點がない、と云ふ事は、寧ろ警戒すべきだ。

3

私には、平和主義とか人權思想とか、自由とか民主主義とか、戰後「信じなさい」と言はれ續けて來たものが、なぜか相對化もされず、ただただ頭から信じられ續けてゐる、と云ふのが變な事のやうに思はれます。「現代仮名遣い」もまた。

中国だのアメリカだのを激しく罵倒する――と云ふのも、私には理解し難かつたりする。今の中国の日本に對する態度も、連中にしてみれば當然のもので、理解する事は出來る。その上で、日本の不利益になると言ふなら、それは日本の都合で反撥してゐるのだと云ふ事は、日本人は十分意識しておいた方が良い。

あと、平和主義者の問題は、彼等が一國平和主義の範圍内で異端狩をやる事。同國人の非平和主義者に、恐ろしく高壓的な態度をとり、非人間的な攻撃を仕掛けて、根絶やしにしようとする……國内で、言葉で爭ふなら、戰爭ではないから「何をやつても良い」んです。そして平和主義者に非ざる者は人に非ず、と云ふ發想。

戰爭の非人間性を憎んで戰爭に反對する――と云ふ論理は解る。けれども、さう云ふ反戰主義者が、人間性の重要さを理解し、尊重してゐるかと言ふと……何うもさうは思はれないのだ。反戰主義者の人が自分に同調しない人を「戰爭主義者」と罵る時、その「戰爭主義者」を反戰主義者の人は人間扱ひしてゐない。

4

俺が言ひたいのは、其處まで戰爭を憎むなら、戰爭を何千年もし續けてゐる人間に絶望したら良いではないか、と云ふ事。人間は信用しながら人間のする事は信用しない、と云ふ矛盾。

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