公開
2007-02-09

小林よしのりの愚かなスローガン

數年來、小林よしのりはアメリカのイラク攻撃を非難し續けて來た。ブッシュ政權を擁護し、自衞隊のイラク派遣を支持する保守派を、世に言ふ「コヴァ」は「親米保守」と罵り、侮辱を加へ、自らは「反米保守」と稱して胸を張つた。小林とその支持者は、「親米保守」に樣々な非難を浴びせ、イラク戰爭の正義について問詰めを行なつて來た。彼等は居丈高に言つた、「なぜ親米保守は答へないのか」。

「諸君!」2007年3月號で、田久保忠衞氏が反論を試みてゐる。田久保氏は、「親米保守」と罵られた一人だが、「反米保守」がブッシュ政權を非難する爲に當てつけでサダム・フセインを英雄として祀り上げてゐる事實を指摘し、それは正しいのかと反問した。


「春秋に義戰なし」と云ふ格言を山本夏彦は好んだ。山本も愚かだから、この愚かな格言を「正しい」と信じたのである。事實は「春秋は義戦だらけ」である。山本は勘違ひをしてゐた。

大東亞戰爭で日本は「大東亞共榮圈」がどうたらかうたらと大義名分を主張したのであつた。アメリカが日本に反撃した時、彼等は民主主義の擁護を大義名分としたのである。アメリカが勝つた。日本が負けた。だからアメリカの正義が通り、日本の正義は通らなかつた。もし日本が勝つてゐたら、「大東亞共榮圈」の主張は今でも生きてゐただらう。正義は相對的である。「義戰」の正義も相對的である。

イラク戰爭で、アメリカは再び民主主義の擁護を唱へ、「テロリズムとの戰爭」を唱へた。アメリカは「義戰」を戰つたのである。今、イラクでアメリカは苦しんでゐる。「義戰」の大義名分が怪しくなつて來た。だが、相對的な正義だから、長持ちしない事もある、それだけの話だ。それを大袈裟に騷ぎ立ててゐるのが小林ら「反米保守」である。


ブッシュ政權の正義が正義として通用しなくなつて來た。ブッシュ大統領らが誤つた主張をして來た證據が盛に提出されてゐる。「反米保守」の小林らは勢ひづいてゐる。「我等の主張は正しかつた!」。

アメリカの議會では民主黨の勢力が伸張してゐる。共和黨の内部にも、ブッシュ批判を口にする議員が現れ始めた。「コヴァ」等は小躍りしてゐる。

イギリスのブレア「親米政權」が支持を失つてゐる。日本でも安倍政權が支持率を落してゐる。「反米保守」は勢ひづいてゐる。「親米保守」は「間違つてゐた」。「コヴァ」らもまた勢ひづいてゐる。「そら見ろ」「ブッシュ等は嘘吐きだから信用を無くした――ざまを見ろ!」。

――馬鹿馬鹿しい話だ。アメリカの民主黨の議員は、或は、ブッシュ批判を口にする共和黨の議員は、何人であらうか。論ずるまでもない。アメリカ人だ。アメリカで、イラク派兵に反對する動きが出てゐる。ブッシュ政權批判が噴出してゐる。さて、ブッシュを批判してゐるアメリカ人は、何人か。アメリカ人はアメリカ人である。

アメリカの輿論が、イラク派兵賛成から、反對に切替はりつゝある。輿論が切替はつたら、次は何うなるか――民主主義の國、アメリカでは、政權が交替する。ブッシュ政權が倒れる、さうすれば、今度は民主黨政權が誕生するだらう。さて、その時、「反米保守」の諸君よ、君たちは、再びアメリカに反抗するか。


ブッシュ政權の正義に「反米保守」は反對した。正義は相對的だから今、ブッシュの正義は瓦解しつゝある。ブッシュの正義に反對した小林よしのり等「反米保守」の主張も、當然一種の正義である。「親米保守」の田久保氏が指摘する通り、彼等がフセインを賞揚しても、それはブッシュを相對化したに過ぎない。「反米保守」も「親米保守」も、下らない正義の爭ひをしてゐただけであつた。

「親米保守」「反米保守」の論爭は、實に空しい論爭である。小林が叫んだ「反米保守」「親米保守」なるスローガン――我々はこの愚かなスローガンに目を曇らされた。「反米保守」? 小林よしのりやその信者(即ち「コヴァ」)等は、自らを「反米保守」と稱した――しかし其の實、彼等は「反ブッシュ」に過ぎなかつた。今や「反米保守」「親米保守」の色分けは、全くのナンセンスと化した。と言ふより、そもそも「反米保守」なる主張は成立つてゐなかつた。「反米保守」は、「反ブッシュ」の主張を「反米」にすり替へる事で、辛うじて「反米」の主張が成立つかのやうな顏をし得ただけである。

ブッシュ政權の正義は風化しつゝある。ブッシュ大統領は支持を失ひつゝある。ブレア首相も安倍首相も、支持を失ひつゝある。ここで、「反米保守」等は「いい氣味だ」としか考へられない。ところが、我々は一つの事實に氣附いて良い。イギリスの政權も日本の政權も、アメリカの政權が支持を失ふと、同じやうに支持を失ふ。ブッシュ大統領の「神通力」が通じなくなつたと「反米保守」は喜ぶ。ところが、イギリスも日本も、その政局はアメリカの政局に左右されてゐるのである。

全くもつて馬鹿馬鹿しい話である。「反米保守」を稱した「反ブッシュ」の小林等は、ブッシュの誤と云ふ瑣末な事實を指摘して好い氣になつてゐるが、アメリカの影響力それ自體を排除しようとして結局アメリカの新たな輿論と一致しつゝある。「反米保守」は、アメリカの輿論が反ブッシュに傾いても、「親ブッシュ」に意見を變へようと思はない。

「反米保守」は結局のところ反米ではない。冷靜に考へれば、餘りにも當り前の話である。我々はこの事實を受容れざるを得ない。ところで、「反米保守」が反米でないと判明した時點で、彼等の「親米保守」に對する非難は全くのナンセンスと化す――と言ふより、はつきり言へば「反米保守」の非難が誤であつた事實も判明するのである。「アメリカの影響力が存在する事實を認める」――それが「親米保守」の立場である。「親米保守」は、アメリカの輿論が切替つても、兔に角「アメリカべつたり」で日本は何とかやつて行かねばならぬと承知してゐる。「反ブッシュ」に過ぎない自稱「反米保守」どもの淺薄な態度と、「親米保守」の態度とは、根本的に違ふのである。

ブッシュの正義が、所詮正義で、如何に沒落しようとも、現時點でアメリカの軍事力と日本の軍事力とでは絶對的な差があるのであり、この事實は覆ひ匿しやうがない。この事實を認め、飽くまで「アメリカべつたり」の立場を當座とり續けよと「親米保守」は政治的に主張してゐる。政治的な主張とは、飽くまで生存を最優先に考へる主張である。生存しなければ、「善く生きる」事も出來ないから、政治は必要であるのだが、その政治の場で善事をなさうと言ふのが小林よしのりである。勿論、政治の場で善事はあり得ない――政治に於てあり得るのは相對的な正義だけである。正義を善事と取違へてゐる愚かな連中と「親米保守」は違ふ。違ふ筈である。


「アメリカの絶對的な優位」? 「コヴァ」等は反論するであらう。小林よしのりは日本國が核兵器を持つべき事を主張してゐる。日本が核を持つ――さうすれば「日本はアメリカと對等である」。これは小林の淺はかな主張であるが、淺はかだと解らない。彼は自分の主張は正しいと信じてゐる。しかし、他人が見れば、小林の主張は淺はかである。何故淺はかか。

日本が核を持たうとすれば、アメリカは本氣で日本を潰しにかかる。だから小林の主張は淺はかなのである。核兵器を持てれば對等――しかし、持たせてすら貰へなければ。

この事を小林等は考へられない。否、考へる事自體を彼等は――「國辱」だか何だか知らないが――罵倒と嘲笑を浴びせる事で封殺しようとする。小林等は主張するのである。アメリカは日本が核を開發するのを默つて見てゐるに違ひない。しかし、其處までアメリカを舐めて良いのであらうか。

アメリカをなめてはいけない。

ブッシュ叩きをして小林等は安全であつた。彼等「反米保守」は、アメリカを罵倒して、アメリカから反撃されなかつた。だからアメリカをなめてゐる。しかし、アメリカは、民主主義の擁護と云ふ正義を振りかざして、敵を壓倒する國家である。小林等はさう云ふアメリカの正義を罵倒し、嘲笑する。それで小林等は勝つた積りである。けれども、アメリカが口で反論せず、軍事力で「反論」したら何うなるか。

小林等「反米保守」は勇ましい事を言ふ。正義の爲には死んでも良いと。實に勇ましい。しかし、正義は相對的である……。

大體、日本が核を持つたところで、アメリカは日本に手を出さなくなるなんて事はない。潰す積りになれば、アメリカは何時でも日本を潰しにかかる。日本人が熱狂的である以上に、アメリカ人は熱狂的である。日本を敵と認識すれば、渠等は何んな手を使つてでも日本を潰さうとするだらう。そこでコヴァ等が正義の議論をしかけてみても、アメリカ人は洟も引つ掛けまい。

アメリカ人は、「民主主義を守る」と云ふ正義の爲には命を捨てても良いと、心底思つてゐる。彼等の民主主義への信仰は侮り難いものである。民主主義の國アメリカを守るべき事は、全アメリカ人を支配する絶對の教義である。自國を守る事にすら議論が起る日本と違つて、アメリカ人はアメリカと云ふ民主主義の守護者を守るべき事を疑はない。アメリカは民主主義の守り神である――この事は、アメリカ人の正義でしかない。だが、その正義をアメリカ人は信じてゐる。彼等の信念は強力である。

彼我の間で、正義は理論上相對的である。けれども、正義と云ふものを信ずる度合で、我は彼に劣る。そして、この正義を信ずる信念の差が、彼我の決定的な差である。日本はアメリカに勝てない。日本が核を持ち、いざとなればアメリカに一矢報いようと考へたところで――さて、我々日本人は、「日本は核を持つべきである」と全員で意見を一致させられるであらうか。

我々は核を持つて守るべき、日本の正義を所有してゐるか。

實に愚かしい話であるが、「大東亞共榮圈」の主張と同じで、小林よしのりは相變らず正義と言ふものを知らないでゐるのである。アメリカの正義を小林は非難する。ところが、小林自身、如何なる正義を信じてゐるか。そもそも正義を持つてゐるか。生ぬるい「日本的ヒューマニズム」以上のものを、彼が所有してゐるとは信じ難い。「和の精神」等と言つて見ても意味のない事である。

生きるとか死ぬとか、日本人は實に抽象的に論じて來た。「それが本氣であるかどうか」が日本人の判斷の基準であつた――慥かに、それは一面で意義のある事である。ところが、「本氣」説を持出す當の本人が、下らない理論的な「正義論」を展開するのである。「反米保守」がブッシュの正義を一々檢證して見せる。その「反米保守」は、核保有の議論では途端に「覺悟」の話をし始めるのだ。支離滅裂である。

その支離滅裂を彼等は怪しまない。となれば彼等は何を基準に物を言つてゐるのかと云ふ話になる。否、その「基準」たる正義が、日本人の中には決定的に缺落してゐるのである。我等日本人は何を信じてゐるか。これは「親米」「反米」等と云ふ皮相的な現象論と違つて、極めて重大な問題であるが、政治主義的「反米保守」にはそもそも問題として認識されもしない。

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