原爆と平和主義:メモ
- 兵器がどんどん「非人道的」なものになりつつあると主張する連中に限つて、戰爭を道徳的に惡だと言ふ傾向があるのはをかしい。「非人道的」ならば、非人間的と云ふ事だから、道徳と結び附かないではないか。
- 平和主義者は原子力をなぜ特別扱ひするのか。原爆も通常爆彈も、人を殺すと云ふ點では同じである。どちらも殘虐と言へば殘虐である。
- 福田恆存に言はせれば、殺される人間にとつて、殺され方の違ひは無意味である。死は絶對的なものである。
- 「核アレルギー」は、アレルギー以上のものではない。原發反對に左翼が一生懸命になり、それに多くの「市民」が踊らされるのは異常である。石炭・石油と原子力との間に、なぜ一線を引くのか。石炭も石油も、燃やせば有害なガスを出す。原子力も、有害物質を出す、といふだけの事で、似たやうなものである。單にレヴェルが違ふだけである。レヴェルが違ふ、と云ふ事を過剩に重大視する必要はない。
- 所詮、程度の問題ならば、「原子力は絶對に惡い」と言ふべき理由はない。そして、これらの議論とは全然無關係に、核兵器も原子力を使ふから、と云ふ理由で、原子力發電に反對するのなら、それこそ「坊主憎ければ袈裟まで憎い」である。憎めば良い、と云ふものでもなからう。
- 「原爆は日本が戰爭をはじめたから落された」と云ふ説が眞理ならば、日本人ははじめからアメリカに屈伏すべきだつた、と云ふ事になる。それも眞理だと認めよう。さうすると、今、核兵器を持つアメリカに、日本人は反對せず、核兵器を落して貰はないやうに努めるのが、「道徳的な善事」と云ふ事にならないか。なぜ平和主義者は、核兵器の保有者の怒りを買ふやうな眞似をして、再び同胞の上に核兵器を降らせようとするのか。ひよつとして、一度原爆と云ふ穢れに觸れた日本人は、永遠にその穢れから逃れられぬから、全滅すれば良い、とでも、日本の平和主義者は信じてゐるのか。