- 公開
- 2001-09-05
- 最終改訂
- 2007-01-04
自由主義:メモ
自由の根據
- 「臣民の自由」と「國民の自由」とでは、後者の方が上等と屡々信じられてゐるが、何うだらう。天皇と云ふ目に「見えるもの」に基いた自由が、目に見えない「自然權」とか云ふ言葉に由來する「自由」に劣るとは考へられません。
- 「天皇から臣民に與へられた自由」と言ふと、「臣民はその自由をいつか天皇に返さなければならない」やうに思はれますが、「天賦の自由に天皇が御墨附を與へた」と解釋すれば「その自由は永遠に臣民のものである」と云ふ事になります。
自由と制約
- 自由主義は「誰もが自由な事(勝手な事)をしても良い」と云ふ前提に基づくイデオロギーです。ただ「誰もが勝手をやつて良い」と云ふ事になると、他人の横暴で、自分の勝手が完全に奪はれる可能性が、現實問題としてあります。その爲、「互ひに少し自重して、そこそこの自由を確保しよう」と云ふ主張が出て來る。成程、それが巧く機能すれば、人々は互ひに譲り合ひつゝ自由を滿喫できる訣です。が、「好き勝手したい」と云ふ欲望と、「譲り合ふ」と云ふ自制とが、兩立すると考へるところに、此の種の「理論」の危ふさがあります。
- 「國家に自由を奪はれる事はない」と云ふのが自由主義の建て前ですが、その代りに、自由主義の國では輿論なるものが人々を「監視」します。自由主義の國民は、輿論を信頼します。しかし、輿論の方が國家よりも常に當てになると云ふ保證はありません。
自由と平等
- 自由主義と共産主義は、自由と平等と云ふ相容れない二つの理念に基くシステムでありますが、しかし、共産主義程、自由主義は一方に偏してゐない。共産主義は、國民全員が全く平等となる事を至上命題とします。必然的に、個人の自由は、平等の實現の爲には奪はれて當然である、と云ふテーゼが出現します。一方、自由主義は、國民全員がそれなりの自由を確保するのを目的としたシステムであり、その爲には不平等の出來も國民は覺悟しなければなりません。とは言へ、不平等ではあるにしろ、國民は皆、最小限の自由或は自由への可能性を保證されます。
- 自由主義は、多樣性が大前提であります。共産主義は、最終的に、意見が自然に統一される事を命題としてゐます。自由主義は常に内部對立を孕む筈のものであり、共産主義は、内部對立の出來(及び、出來の可能性)を許さないものであります。
自由と自由主義
- 自由は放恣だが、自由主義は制約だと云ふ事。
- 自由主義とは、自由が敗北した姿だと云ふ事。
- 自由は「自由を否定する自由」をも認めなければならない。自由主義が、自らを守る爲に「自由を否定する自由」を否定するのは、自由の敗北に他ならないと云ふ事。