初出
Yahoo!掲示板/「闇黒日記」平成13年5月12日
公開
2001-06-24
最終改訂
2007-01-04

「言論の自由」と云ふ事

1

  1. 言論の自由があるから言論が發せられるのではない。好き勝手を言ふ者はいつの時代でもゐた。それを咎めるのが昔は國家であり、今は世論であるといふだけの違ひである。そして世論の方が當てになるかといふとさうでもないといふのは常識である。
  2. 言論の自由がある今の方が、發言者が國家により殺される事がないといふメリットがあるといふが、發言者は何を言つても安心なのだから眞劍みをなくし、無責任になるといふデメリットがある。
  3. (3)の樣な事を言ふと「御前は殺される方がいいのか」と詰問される。しかし殺されたくないといふ人間の臆病さを正當化するのが言論の自由の本質である事がはしなくもその詰問で明かになる。言論の自由は積極的な自由ではなく消極的・防衞的な自由なのである。

2

日本人にとつての「言論の自由」は、「あいつの文章は皆で無視しよう」と云つた自由だ。「村八分にする自由」「眞綿で首を絞める自由」は、多くのネットワーカが滿喫してゐる。

一方、「議論をする自由」「批判をする自由」は、日本では「言論の自由」に含まれないもののやうだ。議論にしても批判にしても、誰かを村八分にする際の絶好のチャンスとしか看做されてゐない。

リンクをするのに許可を取らなければならない國だからウェブに自由がないのも仕方がないのかも知れないが、窮屈な話だ。

3

日本人は、議論をすると、決つてテーマを見失ふ。「話のすり替へ」で、相手を惡者にしてしまふ論法が、「極めて有效な論法」として、ウェブの掲示板や「ブログ」で一般的に受容れられてゐる。

多くのネットワーカが、論者の人格の良し惡しを根據に議論の是非を決定しようとする。困つた事に、「論者の人格」の良し惡しは、自分の贔屓であるかどうかに基いて決定される。日本に於て、感情は論理に優先する。

日本人にとつて、ウェブも「言論の自由」も有害なものらしい。一般にどんなメディアであれ一定のルールに則つて議論する事は可能であるが、秩序ある議論をする事が自分に不利になる日本人に議論は出來ない。日本人は、力づくで相手に自分の意見を押附ける事を大變に好むし、その爲には秩序が存在しない方が便利である。

4

不當に腹を立てさせられた時、嫌がらせしてきた相手を思ひ切り罵る言論の自由くらゐ、認めていただきたいものである。一方、嫌がらせの積りも何もない批判を、不當な攻撃と極附けられ、中傷されるのは、眞つ平御免である。

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