『紋切型辭典』で當サイトの常連さんにはおなじみフローベールの『三つの物語』(村上菊一郎譯・角川文庫)を讀了。本書は「素朴な心」「ジュリアン聖人傳」「ヘロデヤ」の三短篇を收める短篇集。
「素朴な心」と「ジュリヤン聖人傳」は、松原正氏が『人間通になる読書術』で採上げた作品。「ジュリヤン聖人傳」について論じて、松原氏は以下のやうに書いてゐる。
フローベールやティボーデと同樣、パーキンソン(イギリス元保守黨全國委員長)もベギン(イスラエル元首相)も、流血囘避を最優先に考へはしないのである。フローベールはフェリシテの獻身を、悔悛したあとのジュリヤンのそれと同樣に、見事だと思つてゐる。けれども、癩病の男を抱くジュリヤンの見事は殺戮の快をくぐりぬけた男の見事であり、フローベールはそれをも、すなはち殺戮の快をも見事だと思つてゐる。ティボーデの言ふやうに、その雙方が「人間性の兩端」であり、その兩端を「等しく包含することがキリスト教の勝利」だと信じてゐるからである。さういふ手合を、すなはちフローベールやティボーデやパーキンソンやベギンのやうな人間を、この地上から一掃しない限り戰爭を根絶することはできないであらう。
日本人は「安全と生存」が大事だが、キリスト教徒にとつて大事なのは「公正と信義」である。キリスト教徒は、暴力も悔悛も徹底的であれば善だと看做すが、日本人には徹底的である事自體が認め難いものである。しかし、徹底した暴力を經て徹底した悔悛に至つたジュリヤンを聖人と看做すクリスチャンの存在がある限り、「安全と生存」と云ふ日本人の信奉する原理が世界共通の價値觀として認められ、受容れられる事はない。