公開
2005-06-20
改訂
2018-02-21

遠山茂樹他『昭和史』(岩波新書)

舊版

昭和史
昭和30年11月16日第1刷発行・昭和30年12月5日第3刷発行
遠山茂樹・今井清一・藤原彰著
岩波書店・岩波新書(青版223)
表紙

『昭和史』論爭

マルクス主義全盛の時代であつた當時、唯物史觀に基いて執筆された本書は、ベストセラーとなり、讀書會のテキストとしても使はれる等、汎く世間に受容れられた。

一方、龜井勝一郎が「現代歴史家への疑問」を文藝春秋昭和三十一年一月號に發表、本書を痛烈に批判した。それに對して遠山氏等が反論を行ひ、和歌森太郎、浅田光輝といつた人々が加はつて、數年に亙つて論爭が展開された。これを『昭和史』論爭と呼ぶ。

龜井勝一郎の發言は、昭和34年に纏められ、中央公論社から刊行された。現在は『現代史の課題』(岩波現代文庫学術143)で讀める。

竹山道雄の『昭和の精神史』(「心」に連載、昭和31年5月に單行本化)は、『昭和史』を直接批判したものではないが、同時期に刊行された。「マルクシズムに基いた歴史學」に批判的である。

堀米庸三が『歴史と人間』で論爭を概觀・總括してゐる。

清水幾太郎が「無思想時代の思想」(『精神の離陸』竹下書店)で論爭について觸れてゐるので引用する。

かつて方々で話題になった『昭和史』(一九五五年)という本は、暗く充実した昭和年代をいかにも貧しく仕立て上げた書物であるが、その貧しさも、その狙いも、悪玉としての天皇思想と善玉としてのスターリン主義との闘争のドラマとして昭和年代を取扱っているところから来ている。それは、読者に向って、日本の近代化の魂からロシアの近代化の魂に乗り換えることを要求する。事実、この要求に従って一方から他方へ乗り換えた読者もいるであろうが、そういう乗り換えというか、転換というか、それを可能にするような同質性が両者の間にはあるのである。この同質性のために、「左翼天皇制」というような表現が自然に生まれもしたのであり、また、戦前および戦中、スターリン主義から天皇思想への転換――謂わゆる転向――が大量的に行なわれ得たのである。

しかし、宗教的にしろ、世俗的にしろ、こういう個人崇拝と必然的に結びつくような思想のシーズンが終ってしまったというところに、大衆社会時代の特徴の一つがある。悪玉としての天皇思想は敗戦によって骨抜きになり、その後の資本主義の立ち直りのプロセスを通じて、それみずから、大衆社会の一要素になってしまったし、善玉としてのスターリン主義の方も、第一に、その姿を強く浮かび上らせて来た背景としての悪玉の影が薄くなったことによって、第二に、資本主義の立ち直りによって、第三に、ソヴィエト自身におけるスターリン批判――スターリンそのものの悪玉化――によって、第四に、安保闘争におけるスターリン主義者たちの不可解な行動によって、急速に悪玉と同じ運命を辿ることになった。永久的か、半永久的か、その辺は何とも言えないが、少なくとも当分の間、包括的で暴力的な思想体系というものは、それに特別の職業的な利益を持つ人間以外の大衆にとっては、意味も必要もないであろう。それでも未練のある人は、アフリカヘ行ったらよかろう。

とにかく、大衆社会に住む普通の人間にとって、思想というものの機能が新しくなって来ているにもかかわらず、思想を職業とするものの大部分が天皇思想やスターリン主義に似た形式においてしか思想というものを考えることが出来ないでいるのである。以下、若干の気づいた点に触れておくことにしよう。

新版

本書は内容が書き改められ、大幅に増補されて、昭和34年に新版が刊行された。

昭和史[新版]
昭和34年8月31日第1刷発行・昭和36年4月20日第5刷発行
遠山茂樹・今井清一・藤原彰著
岩波書店・岩波新書(青版223)
表紙

[新版]でも基本的な方針は變つてゐない。

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