初出
「闇黒日記」平成13年6月16日
公開
2001-06-21
最終改訂
2005-06-21

『哲學入門』

「論爭と論戰は違ふ」と中村雄二郎は言つてゐる。

論戰とは、言論におけるたたかひである。それは、反對のことを言ふ者を打ち負かすために書くのであつて、眞なることを言つたり、見いだしたりするために書くのではない、と云ふアランの定義を引いて、中村は「論戰」とは「ロゴスによる説得」ではなく多くの者を味方につけ、衆をたのんで力で相手を威壓することだと説明する。

……事實、さういふ場合に、相手には一言もさしはさむ餘地を與へず、一人で長談義をして相手をくたびれさせるといふやり方がとられることは、きはめてしばしばみられるところである。

また、そこから議論はしばしば感情的なものになる。そして、それがこじれると、お互ひどうし、その考へ方や言ひ分は、ロゴスに導かれるべきものとして客體化されてゐないから、相手の考へや言ひ分を否定することは、相手の人格、更には相手の存在そのものを否定することになりがちである。論爭がどろ仕合になり、意見の對立が事柄の眞理・眞相をそつちのけにして憎み合ふ關係になることもまた、往々にしてみられるところである。

しかし、論戰ではない、對話や、更には自己内對話としての思考と結びついてゐる論爭と云ふものが、ほかにある筈だと、中村は言ふ。

我々は日常生活においても、何かを自分の意見として示すとき、それは既にそれとあひいれない主張を否定し拒否してゐるといふ意味で、少なくとも潛在的には他人との論爭的關係のうちに置かれてゐる。すなはち我々にとつて、論爭は避けることのできない必然的な事柄である。だからこそ、我々は論爭を、對話にもまして自覺的に行はねばならないことになる。

論爭は、はじめから意見の對立が明かである。相手と協力しあつて問題を解決する努力よりも、自己の主張を押通して相手を屈伏せしめる努力を、論爭時に人はするものである。その爲、相互の主張が平行線をたどることが多いし、意見の對立が感情的な反撥や敵對心を伴ふことも、全く當然である。だが、「不毛な論爭」で終らせるよりも、論爭を通して雙方が何かしら有意義な結果を得た方が良いのではないか。そこでどうすれば良いのか。中村は二つの事を擧げてゐる。

一つは、互ひに自ら感情的になるのを抑制し、感情的な要素を退けて、ディアロゴスに近づくことである。もう一つは、感情的な言葉の投げ合ひによつて、問題になつてゐる事柄の眞理・眞相を見失ふことがないやうな、感情の訓練を積むことである。

そして、人は遊戲する存在である(ホモ・ルーデンス)と中村は言ひ、惡口の應酬を樂しみ、感情的な言葉の投げ合ひを意識的に行へば、却つて感情による束縛から理性は解放される、と中村は考へる。この「逆説的」な中村の提言は、案外當つてゐるやうに思はれる。慇懃無禮な態度が、却つて相手を苛立たしめる事は、我々の屡々經驗するところである。

そして中村は、論爭とは互ひの意見をすり合せる事ではない、と言つてゐる。我々人間は各自が互ひに異る存在であり、コミュニケーションによつて自他の相違を(と云ふ事は詰り、自分はどのやうな存在であるかを)知る。もちろん社會では、他者との融和、協同も重要である。それは大前提である。ただ、それと同時に、他人とは異る自己の道を見出す事、自覺的に生きる事が、人間にとつて重要であるならば、我々は他人や自然との相違や對立の認識がもたらすものに、いつそう留意すべきである。

他人や自然との相違・對立をとほして、我々は、自己のなんたるかを知るだけではない。我々は更に、他人や自然との關係において、自分の考へを鍛へ、自分の生き方を確かなものにしてゆく。

經驗は、自己の内部乃至は外部の他人との對話によつて培はれる。そして對話は、自分と異る存在と自分との間でのみ成立する。異質な存在との交渉・觸れ合ひ、即ち嚴しい現實との觸れ合ひは、人生において必ず生ずるし、人はそれを乘切つて行かなければならない。

したがつて、他人や自然を含めての他者との對話を拒否することは、自己閉鎖的になることであり、經驗を拒否することになる。ここからまた、我々は自分と同質のもの、親しいものとだけかかはつてゐる場合には、自己の現實性を失ふことになる。

自分の嫌ひなものに接するのも人生經驗である。しかし、その嫌ひなものと折合をつけてうまくやつていく事だけが、人間のすべき事なのか。嫌ひなものと激しく對立する事も、人間らしいのではないのか。

小利口にうまく立囘つて周圍との摩擦を囘避するのも人生ではある。しかし、對立を惹起こしてでも自己を貫きたい、と思ふのも人間である。この二つは選擇肢であるべきであり、一方の道を安易に閉ざすべきではない。中村はさう言ひたいやうである。私はこの中村の主張に贊成である。それが自由と云ふものである。

データ

『哲學入門』
1973年
中公新書
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