初出
「闇黒日記」平成十七年四月三十日
公開
2005-05-02
最終改訂
2006-02-26

谷沢永一『聖徳太子はいなかった』(新潮新書)

聖徳太子と云ふ歴史上の人物が「創作された」事の檢證と「創作された」理由の説明と、さらに檢證や説明に關聯した餘談・教訓の類とが混在してゐて、「トンデモ本」のやうに混亂してゐる本だけれども、トンデモ本ではない。

『聖徳太子はいなかった』の結論は題名通りだが、その論據と主張としての否定論の全體像とを端的に知りたければ、「二十一の章」の後半、百九十七ページから二百一ページに聖徳伝説検討史批判史が要約されて書かれてゐるし、「二十二の章」に谷沢氏の推測を含めた結論が書かれてゐるから、其處だけ讀めば良い。

一往「聖徳太子はいなかった」説の論據を簡單に纏めておくと。

太子が「ゐた」とする説の論據は大したものではないのであり、その否定論も分量としては大したものにならない。


なほ、聖徳太子が「ゐた」か「ゐなかつた」かについて、學會では現時點では結論が出てゐない。

谷沢氏の餘談から

本書は、新書なので新書一册の分量があるが、否定論そのものだけでは足らないので、餘談が大量に突込まれてゐる。何と言ふかやつつけ仕事つぽいが、それはそれで面白い。適當に引用したり突込みを入れたりして置く。

その一 憲法

以下、皇太子親肇作憲法十七条なる日本書紀の記述から派生して、谷沢氏が述べてゐる事。pp.82-83

現在、当今の世をはばかって、明治憲法、という仮称で呼ばれているもの、正しくは、大日本帝国憲法、であるのだが、この憲法もまた、憲法としてのあるべき形態と機能とを十全にそなえていた。この憲法が、公に厳粛な儀式をもって発布されたことは周知である。国民の各層に向けての浸透もまた申し分なかった。さらに重要なことは、明治にあっては理論的反体制の大立者、中江兆民が、憲法を一瞥して、ふふ、と苦笑し、ぽいと投げすてたと伝えられ、そのエピソードに多くの人が、拍手喝采したという一幕があったことである。その報道を聞きつけた官憲が、中江邸に踏みこんだという話を聞かない。大日本帝国憲法は、すくなくともその当初においては、理念と志向における反対派をも、懐に抱いてゆく姿勢を示したのである。

それに比較して日本国憲法は、反対派を絶対に許容しない硬直した制圧のもとに出発した。マッカーサーがかつてフィリッピンに下し与えた憲法の、その草案にひとはけ加えたのが、日本国憲法である。GHQの高官が、英語で書かれたこの文書を、我が国のかたちばかりの委員たちに交付し、ただちに諾否を決せよと迫ったあと、しばらくベランダに出て、太陽光線の恵みを受けよう、と言ったと伝えられる。原子爆弾の効果を忘れるなという脅迫であろう。憲法草案をめぐって、議会では若干の応酬はあったけれども、日本国憲法は、反対派を許さない雰囲気のなかで成立した。宮沢俊義が一夜にして新憲法肯定にまわった処世はよく知られる。

我が国民の政治意識の伝統には、憲法あるいはそれに類するものを、改訂したり廃棄したりの記憶がない。それでは、新しい法への転換に際して、いかなる方式をとったのか。その手段は決まっている。つまり、棚上げ、である。ほとんどの政治的処置は何かの棚上げであった。

その二 聖典

p.167 メモ。

伊藤仁斎が『大学』を、これはニセモノだ、と記したような方向で、バイブルに表向きケチをつけた人があるとは聞いたことがない。D・H・ロレンスの『アポカリプス』(邦訳昭和9年)は、のち、伊藤整および福田恆存のすぐれた評論を派生したけれど、ロレンスにしても、ヨハネ黙示録から演繹(おしひろめて考える)したのであって、これをバイブルから除いてしまえと言ったのではない。いずれにせよ、宗教の聖典にかんしては、触るな、という声がどこからか聞えてくる。

ソ聯の科學啓蒙書を飜譯した『おもしろい暦の科学』(教養文庫)には、新約聖書の記述がでつち上げである事、キリストが實在しなかつた事が書かれてゐる。宗教を否定するマルクシズムの國家であつたソ聯では、さう云ふ説も平氣で主張されてゐた事が窺はれる。

外部リンク

反論:田中英道『聖徳太子虚構説を排す』(PHP研究所)

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