初出
「闇黒日記」平成14年7月7日
公開
2003-01-26
最終改訂
2005-06-21

タレント文化人100人斬り

佐高信がいかに駄目であるかを證明する爲に、『タレント文化人100人斬り』(現代教養文庫)を買つて來た。かう云ふ本の買ひ方は、よろしくないさうだが。

佐高信の「批評」なるもの

山本夏彦氏を罵つて、佐高は言ふ。

「五十歩百歩」という言葉がある。私はこの言葉の大切さを認めつつも、「五十歩」と「百歩」の違いを追いたい。それが批評というものだと思うが、横丁の隠居の山本には、そんなエネルギーは残っていないらしく、面倒臭くなると、すぐに、「五十歩百歩だ」と切り捨てる。

批評とは、「五十歩百歩」の「五十歩」と「百歩」の違ひを追ひかけるものである、と云ふ定義は、佐高の個人的な餘りに個人的な定義だが、その一般的ではない個人的な定義を根據に山本氏を佐高は批判する。そもそも「五十歩百歩」と云ふ言ひ方は、大差のない事――と言ふよりは、本質的に同一の事――を、殊更違ふものであるかのやうに言做すのを嗤つたもので、佐高の「批評」とはそんなに馬鹿馬鹿しいものなのかと思ふが、そんな馬鹿馬鹿しい事に佐高は精力を傾けるのださうである。

と言ふよりは、佐高は、自分のエネルギーを誇つてゐるのである。

佐高は本書で、「タレント文化人」の人格を片つ端から誹謗してゐる。しかし、上の記述を見れば、佐高自身の人格が陋劣である事は明かだ。佐高のする人格攻撃は、根據のないもの、言ひがかりとしか言へないやうなものが結構あり、幾らでも反論可能である。しかし、佐高自身は、自分の人格を否定されても反論出來ない。自分の人格が陋劣である事を、佐高は自分の文章で自ら證明してゐるからである。

佐高の評論が無價値である所以である。

價値のない企業批判

佐高の批評が高く評價される事自體、異常である。

企業を名指しで批判するのは、痛快であるだけで、別に偉い事でも何でもない。金儲けさへ考へなければ、企業を批判する事は可能である。いや、攻撃目標のライヴァル會社を抱込めば、或會社を批判しつつ金を儲ける事も可能である。そして、日本には佐高のやうな左翼を應援する左翼寄りの企業は幾らでもある。と言ふよりも、金儲けをしつつ、物を言はうだなんて、佐高の「批評」のやり方は蟲が良過ぎる。

そもそも、日本は戰後、左翼の國だから、どんなに左翼寄りの事を言つても、一般の國民から總すかんを喰ふ事はない。佐高は、體制を批判してゐるから自分は「反體制」の積りなのだが、左翼的な思想が一般的である日本國で政府や企業を批判するのは、その方が「體制寄り」の行爲である。

或は、左翼の佐高が右翼を批判しても、當り前の話で、全然面白みがない。

佐高信と云ふ人物

佐高は、自分があたかも危險な行爲を行つてゐる勇氣ある人物であるかのやうに宣傳してゐる。しかし、私の見たところ、彼は寧ろ、安全地帶から當り前の事を言つてゐるだけの凡庸な人物でしかない。

佐高は、輿論や國民に媚びてゐる。

追記

……と、以上のやうな事を書いたら、なんか「佐高信者」だか何だかの怨みを買つたらしく、野嵜が佐高を誹謗中傷してゐるかのやうに宣傳されてゐる模樣です。佐高のやつてゐる事に比べて、野嵜の記事がそれほど非道いものだとは思はれないのですが。

「信者」の感覺と云ふものは良く解りません。

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