初出
「闇黒日記」平成二十一年八月三十日
公開
2009-12-06

加藤玄智『太神宮參詣記と敬神尊皇』

加藤玄智『太神宮參詣記と敬神尊皇』(文部省教學局編纂 日本精神叢書四十一)を買つて來たのだが、先日來うちにある『研究評釋坂翁太神宮參詣記』が未讀のまゝである事もあり、甚だ氣がひける状況なので、坂翁太神宮參詣記の原文だけだが取敢ず讀んだ。

――ところで、思想的な發想の人にとつて神道と言ふと即座に尊皇とか「天皇崇拜」とかそんな事を想起する事になる訣だが、それは神道の一面でしかない事實をこそ認識すべきだ。宣長はさかしらごとを排斥したが、神道の精神にはさうした「ありのまゝに物事を見る」態度があるのであつて、それはイデオロギーの類を排除するのであり――フッサールの所謂現象學的な物の見方にも案外近いやうに思はれる。

就中當宮參詣のふかき習は、念珠をもとらず、幣帛をもさゝげずして、心にいのる所なきを内清淨といふ。潮をかき水をあびて、身にけがれたる所なきを外清淨といへる。内外清淨になりぬれば、神の心と我心と隔なし。既に神明に同じなば、何を望みてか祈請の心あるべきや。これ眞實の參宮なりとうけ給はりし程に、渇仰の涙とゞめがたし。

山風時々しぐれて、夕浪立ちさわぐ河の邊に、宮のともがら、垢離をかきて、寒げなる氣色もなし。麻の衣のいやしき賤の女も、身を清めぬればと喜ぶ色あり。花やかなる袂の匂ひ深き人も、膚をあらはにしてはづかしめたる顏も見せず。和光の水は善惡の塵を擇ぶことなく、利物の淵は高低の影を分つことなし。御裳濯河の流、終に伊勢の海に流れ入りぬれば、細流巨海隔もなく、一味平等の法水となる。此ことわりを思ひしりながら、身は彌陀の心水をもあびず、好て濁惡の泥に沈み、心は神明の願海にも入らず、かりに清潔の流を結ぶばかりなり。……。

神道的な態度は案外近代的なものだと私は感ずるのだが、さうした面を見ないやうにする事が「正しい」物の見方なのだらうか。

この「參詣記」は吉野朝の頃に書かれたもので、佛教的な内容も含むけれども、神道の精神をよく表はした文章として加藤氏は非常に高く評價してゐる。


ところで私が神道の信者かと言ふとそれはない。「敬神尊皇」の部分が私にはまるで拔けてゐるので、ならば信仰ではあり得ない。

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