公開
2001-11-26

『日本歴史を点検する』

歴史小説の大家二人の對談。

目次

内容

司馬よりも海音寺の方が、知識も豐富で文化の理解も穩當、格が上であるやうな印象を、本書を讀んで持つた。司馬の發言に「その通りです」「そうなんですよ」と海音寺は何度も同意してゐる。一方で、司馬の發言を海音寺が窘める所が何度もある。

年齢がひとまはり違ふせゐもあるのだらうが、海音寺と違つて、司馬には輕薄なところがあつていけない。

學問

海音寺は、所謂歴史學者を批判して言ふ。

人間を知らな過ぎますよ。なにか一つ思ひつくと全部それで解釋しようとするんですからね。

司馬はかう述べてゐる。

日本の歴史学者にマルクス學者が増えて、いまだに續いてゐるのは、朱子學以來の癖が拔けきれないのかも知れませんね。善玉・惡玉、あれでやると歴史が一番わかりやすい。

政治

海音寺は、政治と云ふものも、知らない譯ではない。

しかしどうでせう。學者なら學説の脱皮、進歩、一般人なら修練途上の心境の變化といつても通るでせうが、政治家は民の心を失つてはならんものでせう。獨裁政治の中心だつた政治家が、もう時期が來たからといつて、民選議員の建設に囘つて、うまく行くでせうか。世間は納得しませうか。

學問とか、個人の道徳とかといつたものと、政治とを、海音寺はきちんと區別してゐる。

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