初出
「闇黒日記」平成13年5月11日
公開
2001-06-24
最終改訂
2001-11-23

『日本の風土と文化』

「表文化と裏文化」『日本の風土と文化』46〜47ページ

今次の大戰で、日本軍の殘虐行爲といふことがよくいはれる。ある程度の殘虐行爲は戰爭にはつきものであり、戰爭そのものの惡しき産物だといへないことはない。だが、ナチスのユダヤ人虐殺ははるかにそのやうな限界を越えてゐる。だれでもそれは戰爭そのものの罪悪であるより、ナチスの、さらにはドイツ民族の殘虐性といふことに想到せざるを得ない。

今次の大戰における日本軍の殘虐行爲は誇大に傳へられてゐるやうでもある。それにどういふやり方が殘虐で、どんなのが殘虐でないかといふ判定はきはめて客觀性に乏しい。私たちのあたりまへの行動でも、ヨーロッパ人にとつては殘虐になることもある。刀で首を切るといふ處刑だつて最高の殘酷な刑になるときがある。死體が完全でないと最後の審判の際、復活できないといふ信仰がある場合などである。

しかし、それにしても日本軍の殘虐行為は常識を越えるものであつた。もつともさういふ行爲の少なかつたといはれるビルマ戰線でも、私の經驗は日本人といふものの性格に絶望的な氣持を感じなければならないほどだつた。權力とか權威とか、集團とか、ともかく背後の力をたのみにしてゐて、しかも相手が無力なときには信じがたいほど暴虐になり、ささへる手がなくなつて個人の意思だけしか頼りにできないときは、これまた信じがたいほど弱く卑劣になる。それはどんな民族、どんな國民でも同じことだらう。しかし、日本人ではその度合ひがはるかに大きいやうに思はれる。それは戰國時代からで、敗軍の落伍者などがきはめて簡單に百姓たちに殺されたりしてゐるのもそのためであらう。かれらは自分で武具も刀も捨てて腑拔け同然になつてしまふ。前々は雀の上の鷹の如く、今はただ猫の下の鼠の如し『朝倉始末記』といふことになつてしまふ。ヨーロッパではさすがにこれほど落差ははげしくない。

ともかく虎の威を借りた、群衆意識をもてるときと、もてないときとの落差が日本人の殘虐行爲の基盤とすれば、それはやはりよく指摘されてゐるやうに、ヨーロッパ市民社會の基礎となつてゐる個人主義の未成熟といふことである。

だが、その説明だけではわからないことがある。日清・日露の戰爭で日本軍の殘虐行爲といふのが少しも傳へられてゐないことだ。報道統制といふこともあらうが、それだけでもないらしい。英人宣教師クリスチーの『奉天三〇年』にも、日清戰爭のときの日本軍は賞贊に價するほど立派であつたが、日露戰爭ではおごりたかぶつたところがあつて、かなり質が落ちてゐたことを述べてゐる。市民社會化するにつれ、道徳は落ちていつたこと、もつとも、明治時代は、よほど人間がましで、大正、昭和と急速に道徳が落ちていつたといふことになる。

中畧。

吉川幸次郎氏などの意見によれば、明治の将軍たちが立派であつたのは、それが下級であつたにせよ、武士出身者で武士道を身につけてゐたからだ。小農民出身者などがかたよつた軍人學校の教育を受け、武士道を貫いてゐたストイシズムを失つたのが昭和の將校たちだといふことになる。かういふ考へ方によれば、明治では兵士たちにも、この上官の武士道精神による感化が及んでゐたといふことになるのであらう。

つまり封建道徳が殘つてゐる間の日本は、立派で、市民社會が進展するとともに墮落したといふことになる。日本の市民社會は、基礎をもたないといふ理由によつて、市民道徳は實現せず、したがつて市民文化もほんたうの意味で發現しないといふ結論を下すのが正しいのではないだらうか。

日本人が立派な行動を取るには古めかしい「封建道徳」が必要である、と會田氏は述べる。しかし、戰後の日本は逆に、さう云ふ「封建道徳」を無くさうとする方向に進んでゐる。それこそが日本人のとるべき「反省」の唯一の方法である、と多くの日本人が信じてゐる。

大東亞戰爭の敗戰に對して日本人がなしつつある「反省」は、寧ろ從來の日本の風潮を助長するものでしかない。詰り、日本人は少しも反省などしてゐない。却つて事態は惡化の一途を辿つてゐる。

大東亞戰爭の敗戰は「夜郎自大」に陷つた日本人がアメリカと云ふ大國を見くびつた結果だが、にもかかはらず、戰後の日本人は「夜郎自大」の度を深めてゐるやうに、私には思はれる。「八紘一宇」を唱へた戰前の日本人と、「平和主義」を主張する戰後の日本人とを、私は區別しない。

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